第17話 小さな勝利
中国・都市郊外/アメリカ・民間探索者拠点
2020年1月中旬
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李宇航は、相変わらずひょうひょうと歩いていた。
空き地の表面には、朝の侵入の跡がうっすらと残る。乾いた泥の上に、錆びた靴跡と、小さな黒い粉の点々。彼は指先に残る跡を気にしながら、自分の手のひらを見た。
「……ちょろっとだな」
手のひらから、細い水の線が垂れる。水魔法Ⅰを手に入れた当初なら、そんな光景にさほどの意味は持たなかっただろう。手のひらを少し開くだけで、水が出る。飲める程度の――それだけの“魔法”だ。
使い方は簡単だった。渇きを癒やす。ぬかるみを流す。スライムが張り付いたときには、粘性を下げて剥がしやすくするだけ。
だが、それも昨日までの話だ。昨日は、手のひらから垂れるだけだった水が、今日は“狙って当てられる形”になっていた。
幾度となく手から水を出すことを繰り返すうち、李は「出るかどうか」を気にしなくなっていた。代わりに意識するのは、手首の角度と、指先の力の抜き方――水が、思った位置に“乗る”感覚だった。
――ファンタジー的表現をするなら“ウォーターボルもどき”が使えるようになった。
今日はその実践実験のため、2階層に足を進めている。奥の小さな窪みから、ゴブリンが一体、すり足でこちらへ近づくのが見えた。人型だが、動きは遅く、じわじわと間合いを詰めてくる。
李の手は、無意識に動いた。掌を開き、力を抜くだけ──彼が何度も確かめた動作だ。指先から、ほんの僅かだが水が流れ出る。透明で冷たい。それは少しずつ球状にまとまっていく。
「くらえ! ウォーターボールゥゥゥ!!」
掛け声とは裏腹に、李自身は分かっていた。これは攻撃ではない。相手を止めるための、時間稼ぎだ。
水はゴブリンの顔面に当たり、
べしゃっ――と、情けない音を立てて弾けた。
気合を入れた掛け声に反してお粗末な威力だ。
しかし、攻撃は通じているようで、ゴブリンは顔を押さえ、視界を失ったままよろめいた。
その「一瞬」を、小さな勝機とした。李は持ち込んだ金属バットをゴブリンに向かって振りぬいた。相手は倒れ、黒い塵になって消えた。
(……決め手にはならないけど、十分だ)
李は胸の内で笑った。水魔法Ⅰは攻撃力にはならない。だが、支援・補助としては使える。使い方を学べば、もっとできることがあるだろう──そう直感した。
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一方、太平洋の向こう、アメリカ南部の私有地では、“偶然”が起きていた。
仮拠点のなかで、民間探索者の一団が手早く傷の手当をしていた。彼らは銃器訓練に長け、装備も金をかけたものが揃っている。だが、戦場はいつも想定外だ。
探索者の一人、ローガンは先ほどの戦闘で肩に浅い切創を負っていた。弾丸が当たらずとも、金属の欠片に当たったらしい。洗浄して絆創膏で塞ぐのが通常の処置だが、薬箱の中が手薄だった。
「水をくれ、誰か」
彼が言うと、隣にいた女が笑いながら袋を差し出した。「これ、さっき拾ったやつ。たぶんただの水でしょ」と。
ローガンは面倒くさそうに小瓶を開け、傷を洗った。周囲は半ば冗談交じりに様子を見守る。
だが、洗い流した瞬間、彼の顔色が変わった。裂け目の肌が、ほんの数秒で滑らかになり、血が引いていく。驚きの沈黙が走る。
「なんだこれ……皮膚再生か?」
ローガンは指で傷口を探った。皮膚に違和感はなく、痛みも消えている。彼の仲間は騒ぎ立てた。誰かが声を上げ、すぐにそれが小さな喧騒へと膨らむ。
「見ろよ、商品になるぞ。ボトル一本で、医療キット一個分だ!」
リーダー格の男が小瓶を慎重に検査する。ラベルも製造者もない。たまにスライムが落とす小瓶水だと思っていた――だがそれは、ファンタジー世界のポーションだった。
「呼び名がないと困るな」
「じゃあ“HPポーション”でいいだろ。分かりやすい」
その程度の軽さで、名前は決まった。すぐさま歓声が上がる。金銭で評価するクセのある男たちも、これには素直に驚いた。
ローガンは動揺を隠せず、しかし笑う。傷が消えた。命が、確かに守られた。
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また、他のチームでも別の“偶然”が起きていた。
夜が更け、焚火を囲んでシェアされるのは勝利の物語だった。ゴブリンに遭遇し、うまく分断して撃退した話。スライムに絡まれたが、一発で踏みつぶした話。だが一番の自慢は、ゴブリンが落とした“歪貨束”だった。
それは、見た目は古銭を束ねたような、ねじれた金属片の集合体。首に下げると、首筋に小さな温かさが走り、指先に力が入りやすくなると感じる者がいた。デレクはそれを首にかけ、次の射撃で標的の小的を見事に撃ち抜いた。引き金を引く瞬間、ほんの一瞬だけ、照準が吸い付くように感じた。
「気のせいだろ」
仲間が言うと、別の仲間が肩を叩く。
「気のせいでもいい。命中が上がるなら万々歳だ! こりゃあ俺たちの幸運のお守りだな」
デレクは笑う。仲間たちは乾杯した。小さな財と小さな癒しが、彼らの恐怖を薄め、勇気を増した。
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李は、小さな水滴を指で弾きながら路地を歩く。デレクは首にぶら下がった歪貨束の感触を確かめながら、次の侵入に向けて装填を確認する。それぞれの現場で、小さな勝利が積み重なり始めた。
現場にいる者たちは、少しだけ自信を取り戻した。小さな勝利は、士気を上げる。装備と戦術、そして偶然のレアドロップが組み合わされば、まだ戦える──そう思わせるには十分だった。
李の小さな成功と、アメリカの探索者が手にしたHPポーションや歪貨束の発見は、噂となって広がる。だが情報は粗い。李は自分の水を人に見せなかった。水魔法Ⅰはまだ彼しか持っていない。
だが、遠くの国で瓶が回復薬として使われたという話が届けば、人々は飛びつくだろう。
成功例は増えていた。
だが、それがなぜ可能なのかを説明できる理屈は、ひとつも増えていなかった。




