第16話 準備の裏側
日本・自衛隊地方連絡所会議室
2020年1月中旬 午前
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会議室の空気は、首相官邸の張りつめた緊張とは違っていた。
壁際に並ぶホワイトボードには、印刷された地図や表が無造作に貼り付けられ、赤や青のマーカー、色とりどりの付箋が重なっている。整理されているようで、実際には何度も書き直され、貼り替えられた痕跡が残っていた。
窓の外に視線を向ければ、仮設テントがいくつも並び、その向こうに広がる演習地の一角には、地図上で何度も囲まれた“例の座標”が静かに横たわっている。
机上の資料が語る「整然」と、現場が孕む「生々しさ」。
この会議室は、その二つが否応なく同居する場所だった。
中央の席に座る伊藤時信二佐は、背もたれに深く寄りかかることなく、背筋を伸ばしたまま資料に目を落としていた。防寒具を脱いだ後の襟元には、まだ外気の名残がある。目の下には疲労の影が滲んでいたが、その視線は鈍っていない。
彼の隣には、小林氏義三曹が控えている。先日の第3階層突入に参加した当事者であり、現場の出来事を淡々と、余計な感情を挟まずに語れる人材だった。
研究側からは、有馬学華技官研究員。資料を抱え、必要なところだけを的確に切り出す準備はすでに整っている。さらに、省庁間調整を担当する若手職員が、慣れない手つきで分厚いファイルをめくっていた。
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「マッピング、完了報告から始めます」
若手の自衛官が、少し緊張した声で切り出す。
プロジェクターの画面が切り替わり、半径三キロ圏内に広がる洞窟群の推定分布図が映し出された。地表の地形データと地下構造の推測が重ねられ、点線で示された階層想定、これまでに確認された侵入口が、細かい注記とともにびっしりと書き込まれている。
「地上からのアクセス路と、緊急時の退避経路、補給ポイントについては、この段階で一応整理できます」
「危険度は階層別に色分けしました」
赤・黄・緑。
数字が並び、誰もが頷く。
伊藤は地図に視線を落とした。数字は安心をくれる。だが、数値化できないものが頭の中でちらつく。行方不明になった同僚の顔。無線が切れた48秒。戻らなかった一歩。
「数は整理されている。しかし、ここは“洞窟群”だ。円状に広がっているように見えても、亀裂同士が思わぬ形でつながっている可能性がある」
「マップは重要だが、実際の接触は予想外の方向から来ることを忘れるな」
伊藤の声は穏やかだが、重みを帯びていた。
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有馬が手袋をして、ケースに入った小さな標本をテーブルに置く。先日の回収物の一つだ。透明感のある結晶で、以前は「石」や「結晶」と呼ばれていたものだが、有馬は言葉を選び直す。
「ここからは、呼び方を統一しましょう。従来我々が『結晶』と呼んでいたものと区別して、『魔結晶』と呼びます」
「理由は単純です。構成が既存の鉱物学的知見と一致しない。結晶格子のような整列は確認できますが、その成分と内部構造は未知です」
彼女の言葉に、若手が慌ててメモを取る。
「化学分析は進行中ですが、今の段階で分かっているのは“既知の鉱物ではない”ということだけです。電気的特性が通常の鉱石と異なり、環境条件で微妙に反応する兆候がある。扱いは慎重に——」
伊藤は短く眉を寄せた。専門的な説明を遮ることはしないが、頭の中ではすでに次の議題に意識が移っている。
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議題は武装と戦術へ移った。
映像資料と前線からの報告が突き合わされ、従来の火器運用における問題点が改めて浮き彫りになる。フルオート射撃の有効性低下、弾道の不安定さ、閉所における視界不良。机上では整理された数値も、現場では簡単に裏切られる。
「火力に依存する戦法は、現状ではリスクが高いです」
小林が、感情を抑えた声で事実を述べる。
第3階層での出来事が、彼の脳裏をよぎっていた。撃ったはずの弾が効かなかった瞬間。影に紛れる敵影。
「弾薬消費が膨らむ上、誤射の危険があります。敵が視界から“消える”現象もあり、被覆効果を見落とす可能性が高い」
伊藤が頷き、口を開く。
「代替案として、近接装備の強化を検討する。ボウガンや大型弩の評価も進めたい」
「弾速が遅く、挙動が読みやすい。貫通よりも、狭所での有効性や、命中時の破砕・拘束を重視する」
若手自衛官が即座にコストと調達案を提示する。
「……中世に戻るみたいですね」
誰かが冗談めかして呟いた。
笑いは起きたが、長くは続かない。すぐに場は真剣さを取り戻す。
これは実験であり、試行錯誤であり、何より犠牲を出さないための工夫だった。
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有馬は、魔結晶の運用可能性についても釘を刺す。
「現段階で、魔結晶は研究対象です。軍がこれを使用した訓練を行うのは時期尚早です」
「中国のダンジョンで、手から水を出した男性の報告もありますが、関連性は不明で、研究所でも糸口は掴めていません」
彼女は一度、全員を見渡した。
「“中世に戻る”選択肢を検討するのは理解できます。しかし、自衛隊は科学の部隊です」
その一言で、会議室の空気が引き締まる。
資料に並ぶ数字と図表は、“魔法”を許容しない。
「ただし、保存・移送・封印の手順作成は必須です。保管箱には電磁シールドと温度制御を施し、解析チームのみが扱う体制を取ります」
若手は資料に新しい注記を書き足していく。
危険度表には、「魔結晶存在時の確保手順」「接触後の隔離推奨」が加えられ、表はさらに細密になった。
誰も異論を挟まなかった。
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会議が終盤に差しかかり、伊藤が静かに口を開く。
「数値で整理すること自体は必要だ」
「だが、数字の裏にいるのが人間であることを忘れるな。行方不明者の件は、引き続き最優先で解明する」
一拍。
「数字は、人を戻さない」
その言葉に、室内は一瞬静まり返った。
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会議室を出ると、空は驚くほど晴れていた。
管制灯の光が滲み、仮設テント群が地面に柔らかな影を落としている。準備は進み、資料も整い、市民向けの説明文書も完成に近づいていた。
それでも伊藤の胸に残る重さは消えない。
彼は地図の端を思い浮かべ、小さく呟いた。
「管理できていることと、間に合うことは別だ」
管理は進んでいる。
だが、地下の奥で待つものが、数値の枠を越えてくる可能性は、まだ消えていなかった。
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