第15話 想定内だったはずのこと
日本・首相官邸地下
2020年1月中旬 夜
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その報告書は、あまりにも整いすぎていた。
ページ番号は一切の乱れなく振られ、提出日時は分単位どころか秒単位で一致している。フォーマットは統一され、余白は規定値どおりに保たれ、使用されている文言もすべて官庁用語集に忠実だった。
読み手に余計な感情を抱かせないための、完璧な様式美。
そこから立ち上る無言の圧力は、「確認済み」「問題なし」という一言に集約されている。
角山健介は、椅子に深く身を沈めたまま、報告書の束を膝に置き、静かにページをめくっていった。指先の動きは落ち着いている。呼吸も一定だ。外見だけを見れば、いつもの官僚の夜と何一つ変わらない。
だが、ページをめくる速度は、確実に遅くなっていた。異常があったからではない。むしろ逆だ。異常が、どこにも記載されていなかった。
【事案概要】
第3階層における定例検証任務
目的:装備有効性・行動規範検証
人員:自衛官6名、観測要員2名
角山は、視線を走らせながら、わずかに眉を動かした。
数は合っている。文言も、定義どおりだ。誰かが意図的に隠した形跡はない。むしろ、あらゆる点で誠実だ。誠実すぎるほどに、規定をなぞっている。
ページをめくる。
【発生事象】
・ゴブリン複数体を確認
・交戦規定に従い警告後、威嚇射撃
・対象は散開・後退
・追跡行動を実施
・通信一時不安定(最大48秒)
・撤退判断、帰還
ここまで、すべてが「想定内」だった。
だが、次の項目で、彼の指は自然と止まった。
【人的被害】
・自衛官1名 行方不明
(撤退確認時点で所在未確認)
行方不明。
死亡ではない。生存確認とも書かれていない。 判断を保留するための言葉。責任の所在を宙に浮かせるための、官僚的に洗練された表現。
ページの端に、小さな付箋が貼られている。後から貼られたものだろう。几帳面な文字で、短く一文。
――規定違反なし。
角山は、その文字をじっと見つめた。
そこに悪意はない。
だが、救いもなかった。
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地下会議室に集まったのは、最低限の人数だけだった。深夜、しかも地下。壁に時計はなく、時間の感覚は薄い。
緊急招集ではあるが、誰も声を荒らげない。全員が、この案件の性質を理解していた。
防衛省の担当官が、報告書を机に置いたまま、補足説明を始める。声は淡々としており、感情の抑揚は意図的に削られていた。
「撤退判断は、すべて基準どおりです。追跡時間も、事前に設定した範囲を超えていません」
「通信断についても、規定上は許容誤差内です。バックアップ回線への切り替えも試行されています」
角山は、小さく頷いた。
「分かっている」
それは確認でも、突き放しでもない。本当に、理解していた。規定は守られた。制度は機能している。それなのに――結果だけが、きれいに収まっていない。
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「……現場は、どう言っていますか」
角山の問いに、担当官は一瞬だけ視線を落とした。言葉を選ぶための、ほんのわずかな間。
「“逃げたと思った”そうです。ゴブリンが、想定より深く引いた。誘導の意図については、現時点では確認されていません」
「確認されていない、ですか」
角山は、報告書を閉じた。紙が重なり合う音が、地下の静けさの中で不釣り合いに響いた。
「追いすぎた、という判断には?」
「いいえ。追いすぎたとは言えません。追跡は規定内です。撤退判断も適切でした。分断の可能性も、事前想定の範囲です」
誰も反論しなかった。反論できる材料が、どこにもない。規定は守られた。制度は正しく運用された。
それでも、人は戻らなかった。
角山の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。――制度と現実は、必ずしも重ならない。
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彼は、ゆっくりと机に両手を置いた。掌が冷たい。
「想定では、第3階層は管理可能でした」
危険度評価。被害想定。装備水準。投入人員。すべて、合理的に組み立てられている。想定外を排除するために、想定を重ねてきた。
「……それでも、人が消えた」
その言葉は、責任追及でも糾弾でもなかった。ただの事実確認だ。しかし、会議室の空気は、わずかに重くなった。
それは、日本という国家が無意識のうちに抱え続けてきた「死者ゼロ」という前提が、初めて揺らいだ瞬間だった。
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会議の終盤、進行役が形式的にまとめに入る。
「調査は継続します。情報は統制します」
正しい判断だ。角山は、それ以上何も言わなかった。言葉を重ねても、現実は戻らない。
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夜更け。
執務室に戻った角山は、机に積まれた資料をしばらく動かさなかった。階層別危険度表。色分けされたセル。第3階層は、警戒を示す黄色。彼は指で、その色の上をなぞった。
「……注意、か」
呟きは、ほとんど息に近い。言葉にしても、意味は変わらなかった。
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彼の頭に浮かぶのは、報告書に載らない断片だった。
48秒間の通信断。
散開して消えたゴブリンたち。
そして、戻らなかった一人。
どれも、分類上は「想定内」に収まっている。だが――想定内で、人が消える。その事実だけが、どうしても拭えなかった。
角山は資料を揃え、静かに閉じた。制度は必要だ。整理も不可欠だ。数字で示さなければ、混乱は制御できない。
それでも。
(分かったつもりでいることと、間に合うことは違う)
その違いを、今日、初めて突き付けられた気がした。
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同じ夜。
第3階層入口付近の通路には、人の気配も光も残っていない。冷たい空気だけが、ゆっくりと流れている。
記録には残らない。報告書にも書かれない。だが、数えられなかったものだけが――そこに、確かに在った。
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