第10話 市場原理
アメリカ・都市部ゲート周辺私有地
2020年1月上旬
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フェンスは、やけに新しかった。
白い金属製で、冬の薄い日差しを鈍く反射している。高さは二メートル少々。量産品のはずなのに、溶接の継ぎ目は丁寧で、指一本分の傷すら見当たらない。昨日まで更地だった場所に、今日はいきなり「境界線」が引かれている。そんな印象を与える造りだった。
だが、その向こう側に何があるのかを知っている者は、無闇に近づこうとはしない。
フェンスの内側の歪んだ空気。目の焦点が合わなくなるような、現実の継ぎ目。ここはもう、ただの空き地ではなかった。
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「――ゴブリン、だっけ」
男はコーヒーを片手に、思い出したように言った。
仮設管理棟の二階。急ごしらえの建物だが、内装は意外なほど整っている。金属製の床はきしまず、窓は防弾仕様。大きな一枚ガラスの向こうには、ゲートと、それを囲む私有地が一望できた。
マイケル・ハリス。四十代前半の民間投資家であり、プライベート・エクイティの創業者。 彼は「安全な分野」という言葉に、ほとんど条件反射で興味を失う男だった。
「人型で、棒切れを持つ」
「確かにスライムよりは厄介だな」
向かいに座る男が、タブレットを操作しながら答える。軍歴があるのか、姿勢に無駄がない。
「三層以降では、集団行動を確認しています」
「簡単な役割分担も見られました」
「へえ」
マイケルは眉をわずかに上げただけで、それ以上の感想は示さなかった。恐怖でも、興奮でもない。情報を“受け取った”だけの反応だ。
「でも、銃は?」
「通じます」
「少なくとも、映像上では」
「だろ」
マイケルは窓の外に視線を投げた。フェンスの内側には、待機している数人の民間人がいた。
装備は軽いが、無防備ではない。ボディアーマーにヘルメット。腰に拳銃、肩にはライフル。軍や警察の制式品ではないが、性能は十分だ。新品特有の黒い光沢が、逆に目立っていた。
「ここはアメリカだ」
「向こうが刃物なら、こっちは鉛だよ」
冗談めかした口調だった。だが、室内に笑いは起きなかった。誰もが、それが事実だと理解していたからだ。
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「政府が慎重になるのは、理解できる」
マイケルはコーヒーを一口飲み、苦味を確かめるように舌を動かした。
「交戦規則。責任の所在。死体の扱い。国際世論」
指を折っていく。
指を一本ずつ折っていく。その仕草は、どこかプレゼンテーションのようでもあり、同時に数式を書き並べるようでもあった。
「問題は多い。だから、動けない」
指を折るのをやめ、机の上に置かれた書類へと手を伸ばす。分厚い契約書の束には、免責条項、死亡補償、遺族対応について細かく記載されている。国家への責任転嫁は一切行わない旨にも、同意させる内容だ。
「だが、民間は違う」
紙の端を、軽く叩く。
「危険だとは、最初から書いてある。納得した上で、署名する」
それだけのことだ。
正確には――“問題は、こちらの問題にならない”。
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「人型の敵が出た、って聞いて怖がる連中もいました」
タブレットの男が言う。
「だが逆に、分かりやすいという声も多いです」
「だろうな」
マイケルは即答した。
「逃げる。近づく。振りかぶる。行動にパターンがあるなら、数値化できる。そして数字にできるなら、リスクは管理できる」
知性は、未知ではない。少なくとも彼にとって――知性とは、計算可能性だ。
「ゾンビよりは、ずっといい」
「交渉もしなくていい」
短い沈黙が落ちた。誰も、その言葉を否定しなかった。誰も、肯定もしなかった。
だが、この場にいる全員が、同じ結論に辿り着いていた。
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「政府は、しばらく様子を見るだろう」
マイケルは再び、窓の外を見る。
「だが市場は、待たない」
フェンスの外では、野次馬がスマートフォンを構え、数枚の写真を撮っては去っていく。SNSに上げる者もいるだろうが、話題はすぐに次へ移る。世界は忙しい。
一方、フェンスの内側。契約書に署名した者たちの顔は、妙に落ち着いていた。覚悟というより、納得。危険を理解した上で、それでも踏み込むという、静かな合意がそこにはあった。
「誰も止めない」
「ただし、誰も守らない」
それでいい。
それが、ここでのルールだった。
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下から声が上がる。
「次のグループ、準備完了!」
視線を落とすと、四人の民間人らしき影が見えた。
使い古したスニーカー。市販のリュック。そして、銃だけが異様に新しい。装備はちぐはぐだが、動きに迷いはない。
ゲートの前で、一瞬だけ立ち止まり、誰かが冗談を言いかけたようだったが、結局言葉にはならなかった。
そして、一歩。歪んだ空間が、音もなく彼らを飲み込んでいく。
マイケルはそれを見下ろしながら、静かに呟いた。
「スライムがいる? ゴブリンがいる?」
「だから何だ」
口元が、わずかに歪む。
「ここは安全だなんて」
「最初から、誰も言ってない」
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市場は、すでに答えを出していた。それが正しいかどうかは、まだ分からない。犠牲が出るかもしれない。後悔する者もいるだろう。だが――“進むかどうか”については、もう誰も迷っていなかった。
フェンスの外側で、世界はいつも通り回っている。フェンスの内側で、人は危険に値段を付けている。それが、この国のやり方だった。
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