第1話 欠けたフレーム
日本・神奈川県某所
2020年1月1日 午前9時
---
年明けの朝は、どこか現実感が薄い。昨日までと何一つ変わらないはずなのに、街の空気だけが一段、軽くなったような気がする。
祝日特有の緩み。それは人間の注意力を、ほんの数パーセントだけ鈍らせる。異常を異常として切り分ける、その初動を。
「……正月早々、これか」
鷹宮恒一は、警備服の上着の前を留めながら、半ば独り言のように呟いた。民間警備会社の契約で、工事予定地の巡回を任されている。元自衛官とはいえ、今はただの警備員だ。
本来なら、眠気と寒さをやり過ごすだけの仕事。人も来ない、事件も起きない。だからこそ割り振られる、年始の持ち回り当番。
──だが今日は違った。
規制線の向こうに、人だかりができている。数人ではない。ざっと見て二、三十人。スマートフォンを掲げ、何かを撮影しながら、落ち着きなくざわついている。
「……おいおい」
嫌な予感がした。経験上、こういう現場に「ろくな理由」はない。近づくにつれ、その理由はすぐに理解できた。
そこに――“何かがある”。
比喩ではない。見間違いでも、光の加減でもない。
コンクリートの地面の上に、ぽっかりと、黒い縦長の“欠け”が存在していた。幅は車道一車線分ほど、高さは二階建ての建物に届く。光を反射しない。影すら正しく落ちない。
表面の質感すら、判断できない。そこに「面」があるのかどうかすら、分からない。
まるで、空間そのものが削り取られたようだった。
「……アート、じゃねえな」
鷹宮は、顎をさすりながら距離を測る。一歩、また一歩。近づいても、輪郭は揺らがない。ピントが合わないわけでもない。
――だが、奥行きが分からない。まるで、“向こう側”という概念が、最初から存在しないかのようだ。
規制線の外では、スマートフォンを構えた民衆が騒いでいる。誰もが、近づいてはいけないと分かっていながら、目を離せずにいるのだ。
「CGじゃね?」
「いや、これ、マジでヤバくない?」
「ライブ回してるって!」
警察の姿は、まだない。正月の朝だ。通報が上がっても、初動は遅れる。
「……新年一発目から、面白いもん見せてくれるじゃねえか」
自分の口から出た言葉に、内心で苦笑した。普通なら、恐怖が先に立つはずだ。だが彼の思考は、すでに別の方向へ動いていた。
(で、これ……どう転がす気だ?)
仕事柄、危険物や不審物には慣れている。だが、これはそのどれにも当てはまらない。 分類できないものは、対応マニュアルも存在しない。つまり――現場判断だ。
規制線の隙間から、若い男が一歩、踏み出そうとした。
「おいおい、待て待て」
鷹宮は即座に声を張った。
「近づくな。何が起きるか分からねえぞ」
制止しながら、彼自身も――なぜか、一歩だけ前に出ていた。その瞬間、はっきりと感じた。
――拒まれていない。
理由は分からない。理屈も、経験則も、全部無視した直感だ。目の前の黒が、「来るなら来い」と言っている。そんな錯覚。
「……冗談だろ」
口ではそう言いながら、足は確かにそれへと向かっていた。
---
アメリカ・中西部
2019年12月31日 午後6時
「ハッピーニューイヤー! ……ってのは、まだちょい早いか?」
ダニエル・クーパーは、ブースのマイクに向かって満面の笑みで叫んだ。
ローカルFM局の年越し特番。いつも以上にテンションを上げろと、局から言われている。
防音ガラス越しに見える屋外では、イベント会場の設営が進んでいた。仮設ステージ、屋台、照明。寒さの中でも、人の動きはどこか浮き足立っていた。
「今年も一年お疲れさん! 外はどうだい?」
ヘッドセット越しに、スタッフの声が飛ぶ。
「最高だね!」
スタッフの声に、ダニエルは親指を立てた。
「寒いけど、みんな浮かれてる――っと?」
視界の端で、人の流れが変わった。会場の一角に、人が集まり始めている。
「なんだなんだ? トラブルか?」
考えるより早く、体が動いていた。マイクはオンのままだ。
「リスナーのみんな、どうやら外で何か起きてる。俺、ちょっと見てくるぜ」
ざわめく人垣の中心に、それはあった。
黒い。
異様なほどに、黒い。
「……おいおい、何だよこれ」
喉の奥がひくりと鳴る。恐怖が声に混じりそうになるのを、勢いで誤魔化す。
「えー、現地から実況をお届けします。目の前に……えー……説明しづらいんだが、巨大な黒い……壁?」
触れたらまずい。理屈より先に、身体がそう判断している。
それでも足は止まらない。
「これはヤバいな。絶対ヤバい。でも――」
ダニエルは、笑った。怖い時ほど、声を張る。昔からの癖だ。
「こんなの、黙ってられるかよ!」
---
中国・都市郊外
2020年1月1日 午前8時
李宇航は、最悪な気分で歩いていた。夜勤明け。バスは遅れ、財布は軽く、正月気分は皆無。
「ついてねえな……」
愚痴を零しながら、近道のつもりで路地裏に入る。その瞬間、足が止まった。
建物の壁に添うように、静かにたたずむ――黒。
「……なんだよ、あれ」
逃げるべきだ、と頭が言う。だが、目は離れなかった。工事用の幕か?いや、そんな安っぽいものじゃない。一歩近づくたび、理由の分からない寒気が背中を走った。本能は正確だ。これは“普通じゃない”。
それでも、李は一歩、踏み出した。
――ここで引き返したら、後悔する気がした。
英雄になりたいわけじゃない。
ただ、「知らないまま」は損だと思った。
周りには誰もいない。
今なら、誰にも止められない。
「……ちくしょう」
運がいいのか、悪いのか。
彼はいつも、境界線の上に立たされる。
---
ロシア・モスクワ
2020年1月1日 午前3時
セルゲイ・ミハイロヴィチ・ヴォロノフは、無言でモニターを見つめていた。衛星映像。監視ログ。都市部の定点カメラ。
「……ここだ」
部下が示した時刻は、世界標準時で零時ちょうど。複数の地点で、同時にデータが欠落している。数フレームだけ、意図的に切り取られたかのように。
「自然現象ではありません」
「当然だ」
セルゲイは即答した。
「自然は、こんな雑な真似をしない」
問題は、何が起きたかではない。“次に何が起きるか”だ。彼は、映像が復帰した直後のフレームを拡大する。そこには、黒い縦長の構造物が映っていた。
「……兵器ではない。だが、脅威だ」
セルゲイは、即座に報告書を作り始めた。感情は不要。これは、始まりにすぎない。
---
その日、世界はまだ、何も理解していなかった。
ただ、いくつかの映像が欠け、
いくつかの人間が、一歩踏み出した。
後になって振り返れば、
そこが境界線だったと分かる。
――引き返せた最後の地点。
だが、この瞬間、誰もそれを知らない。
黒い“何か”は、
世界に、口を開けていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも良いなと思っていただけましたら、
ブックマーク、評価、リアクションのほど、よろしくお願いします。




