第1話 欠けたフレーム
日本・神奈川県某所
2020年1月1日 午前9時
年明けの朝は、どこか現実感が薄い。
昨日までと何も変わらないはずなのに、街の空気だけが一段、軽くなったような気がする。
「……正月早々、これか」
鷹宮恒一は、警備服の上着の前を留めながら、半ば独り言のように呟いた。
民間警備会社の契約で、工事予定地の巡回を任されている。再開発が決まった一帯で、普段なら人影も少ない。だが今日は、規制線の向こうに人だかりができていた。
原因は、すぐに目に入った。
そこに、“何かがある”
比喩ではない。
見間違いでもない。
コンクリートの地面の上に、ぽっかりと、黒い縦長の“欠け”が存在していた。幅は車道一車線分ほど、高さは二階建ての建物くらい。光を反射しない。影すら落とさない。
ただ、そこだけが抜け落ちている。
「……アート、じゃねえな」
鷹宮は、顎をさすりながら距離を測った。近づいても、輪郭はぼやけない。だが、奥行きが分からない。まるで、空間そのものが塗りつぶされているようだった。
周囲では、スマートフォンを構えた一般人が騒いでいる。
警察はまだ来ていない。
「新年早々、面白いもん見たな」
自分の口から出た言葉に、内心で苦笑した。
普通なら、恐怖が先に立つはずだ。だが彼の中では、状況をどう転がすかという思考が、すでに動き始めていた。
規制線の隙間から、誰かが近づこうとする。
「おいおい、近づくなよ。……何が起きるか分からねえぞ」
声をかけながら、鷹宮自身も、一歩だけ前に出た。
――なぜか、「行ける」と思った。
理由はない。
勘ですらない。
ただ、目の前の黒が、「拒まない」ような気がした。
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アメリカ・中西部
2019年12月31日 午後6時
「ハッピーニューイヤー! ……ってのは、まだちょっと早いか?」
ダニエル・クーパーは、ブースのマイクに向かって満面の笑みで叫んだ。
ローカルFM局の年越し特番。いつも以上にテンションを上げろと、局から言われている。
窓の外では、イベント会場の設営が進んでいた。
「今年も一年、お疲れさん。どうだい、外は?」
スタッフの声に、ダニエルは親指を立てた。
「最高だね。寒いけど、みんな浮かれてる。……おっと?」
視界の端で、妙な動きがあった。
会場の一角。
人が集まり始めている。
「なんだなんだ? トラブルか?」
ダニエルは、半ば無意識にブースを飛び出していた。マイクはオンのままだ。
「リスナーのみんな、どうやら外で何か起きてる。俺、ちょっと見てくるぜ」
ざわめく人垣の中心に、それはあった。
黒い。
黒すぎる。
「……おいおい、何だよこれ」
声が震えそうになるのを、勢いで誤魔化す。
「えー、現地から実況をお届けします。目の前に……えー……説明しづらいんだが、巨大な黒い……壁?」
触れたらまずい、と直感が叫んでいる。
だが、足は止まらない。
背後で、誰かが動画を撮っている。
だが、後で確認すると、その映像には一瞬、妙なノイズが走っていた。
「これはヤバいな。絶対ヤバい。でも――」
ダニエルは、笑った。
「こんなの、黙ってられるかよ」
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中国・都市郊外
2020年1月1日 午前8時
李宇航は、最悪な気分で歩いていた。
夜勤明け。
バスは遅れ、雨は止み、財布は軽い。
「ついてねえな……」
近道のつもりで入った路地裏で足が止まる。
建物の壁に添うように静かにたたずむ――黒。
逃げるべきだ、と頭が言う。
だが、目は離れなかった。
「……なんだよ、あれ」
工事用の幕か?
いや、そんな安っぽいものじゃない。
近づくと、寒気がした。
理由は分からない。ただ、本能が警告を鳴らしている。
それでも、李は一歩、踏み出した。
――ここで引き返したら、後悔する気がした。
英雄になりたいわけじゃない。
ただ、「知らないまま」は損だ。
周りには誰もいない。
今なら、誰にも止められない。
「……ちくしょう」
運がいいのか、悪いのか。
彼はその境界に、いつも立たされる。
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ロシア・モスクワ
2020年1月1日 午前3時
セルゲイ・ミハイロヴィチ・ヴォロノフは、無言でモニターを見つめていた。
衛星映像。
監視ログ。
都市部の定点カメラ。
「……ここだ」
部下が示した時刻は、世界標準時で零時ちょうど。
複数の地点で、同時にデータが欠落している。
数フレームだけ、意図的に切り取られたかのように。
「自然現象ではありません」
セルゲイは頷いた。
「当然だ。自然は、こんな雑な真似をしない」
問題は、何が起きたかではない。
“次に何が起きるか”だ。
彼は、映像が復帰した直後のフレームを拡大した。
そこには、黒い縦長の構造物が映っている。
「……兵器ではない。だが、脅威だ」
セルゲイは、即座に報告書をまとめ始めた。
感情は不要だ。
これは始まりにすぎない。
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その日、世界はまだ、何も理解していなかった。
ただ、いくつかの映像が欠け、
いくつかの人間が、一歩踏み出した。
後になって振り返れば、
そこが境界線だったと分かる。
――引き返せた最後の地点。
だが、この瞬間、誰もそれを知らない。
黒い“何か”は、
世界に、口を開けていた。




