第八章 終章・風の残響
あれから、一週間が経った。
奥里坂の町は、何事もなかったようにいつも通りの夏を過ごしている。
蝉の声、打ち上げ花火の音、子どもたちの笑い声。
あの日まで止まっていた“音”が、嘘のように戻ってきた。
トンネルは、再び封鎖された。
町役場が調査をしたらしいが、報告には“落盤の危険あり”とだけ記されていた。
あの中で何があったのか、俺たちは誰にも話していない。
ハマヤンも琴音も、そしてミキ姉も──。
……ただ一つ、変わったことがある。
あの夜から、風の音が町中に絶えず流れるようになったのだ。
それは不思議と不快ではなく、耳をすませば懐かしい声のように聞こえる。
風が通るたびに、遠くで誰かが笑っている気がする。
まるで、あの掛水さんのテンション高い笑い声みたいに。
◇◇◇
昼下がり。
団地の屋上に出て、空を見上げる。
白い雲が、風に流されている。
この町に生まれて初めて、「風が吹く」ということを実感した気がした。
ミキ姉が、ペットボトルの麦茶を俺に放る。
「ほら、飲みなさいよ。まだ顔色悪いんだから。」
「姉貴こそ、昨日まで寝込んでたくせに。」
「……まあね。でも、もう平気。あの日のこと、夢みたい。」
彼女は目を細めて笑った。
その頬を撫でる風が、ふっと彼女の髪を揺らした。
その瞬間、風の中から──かすかに聞こえた。
『……レッツ、ライジ〜ング……』
俺と姉は、顔を見合わせて笑った。
誰かが、あの空の向こうで放送している。
今度はきっと、誰かを笑わせるためじゃなく、
風を繋ぐために。
◇◇◇
放課後。
ハマヤンと琴音が、河川敷の堤防の上で手を振っていた。
久しぶりに見る二人の顔には、どこか柔らかい光が宿っていた。
ハマヤンの背中には、新しい工具袋。
琴音の腕には、祖父のノート。表紙には風車の絵が描かれている。
「なぁ、タカ。」
ハマヤンが言った。
「親父が言ってた。“風が戻ったら、また工事再開できるかもな”って。」
「……トンネル?」
「いや、道路のほう。北の入口な。
あの道、ずっと“どこにも繋がらない”ままだったけど……
もしかしたら、今度こそ、繋がるかもしれん。」
俺は笑った。
風が吹き抜ける音が、まるでラジオのジングルみたいに聞こえた。
琴音が小さく言った。
「……風が繋がるって、そういうことなんだね。」
◇◇◇
その夜、久しぶりにラジオアプリを開いてみた。
もう《ドッとライジング!》の番組は存在しない。
でも、アプリの最下部──誰も気づかないような場所に、
一つだけファイルがあった。
「息継ぎ:Final」
迷わず再生した。
ノイズの向こうから、掛水さんの声が聞こえた。
『……お前ら、まだ起きとるか〜?
ほんま、ようやったなぁ。……風、戻ったで。
こっちは、えらい賑やかや。みんな笑うとる。
けどな、笑い声いうんは風みたいなもんや。
形はなくても、誰かに届いたら、それでええんや。
せやろ、坂田?』
少し間が空いて、もう一つの声が答えた。
『……せやな。けどお前、もう帰ってこられへんぞ。』
『知っとる。せやけど、それでええ。
風が通れば、どっかでまた、誰かが笑う。
それが“生きとる”ってことやろ。』
音がふっと消えた。
最後に残ったのは、風の音だけだった。
けれど、それは確かに、“生きている音”だった。
◇◇◇
夏の風が団地の廊下を抜け、屋上を渡っていく。
どこかの部屋のラジオが、微かに音を漏らしている。
誰かが笑っている。
その笑い声に混じって、俺は小さく呟いた。
「……おやすみ、掛水さん。
レッツ、ライジング。」
風が答えるように、カーテンを揺らした。
その音が、どこか懐かしい深夜ラジオのジングルに似ていた。
──ピピッピピッ……ピピッピピッ……。
夜が、また静かに始まっていく。




