第七章 黄泉口
風が止んだ夜。
街全体が、呼吸を忘れたように沈黙していた。
蝉の声も、車の音もない。
まるでこの町が、世界の“録音”を止められたみたいだった。
スマホの画面には、まだ《ドッとライジング!》のロゴが点滅している。
音声は途切れたまま、しかし波形だけが動いていた。
──放送は、まだ続いている。
「行くしかないな。」
ハマヤンの声は掠れていた。
顔には泥がつき、作業着の袖は破れている。
それでも手にはハンマードリルを握っていた。
琴音は祖父のノートを抱え、ミキ姉は震える手で懐中電灯を構えている。
俺たちは無言でうなずき、南トンネルへ向かった。
◇◇◇
トンネル前のフェンスは、昨日よりも大きく歪んでいた。
ハマヤンがドリルを当てるまでもなく、錆びたボルトが一つ外れて落ちる。
中から、湿った空気が漏れ出す。
──いや、空気じゃない。吐息だ。
誰かが、長い間息を止めていて、ようやく吐き出したような。
「……匂い、違うね。」
琴音が言った。
昨日の土の匂いとは違う。
焦げた紙のような、香のような、どこか懐かしい匂い。
「行くぞ。」
トンネルに入ると、壁の手形が増えていた。
赤茶けた掌の跡が、まるで蠢いているように並んでいる。
ライトを当てると、奥の鉄板が──なくなっていた。
「……開いてる……」
鉄板のあった場所には、ぽっかりと穴が口を開けている。
黒い穴。
その奥から、風が吹いてくる。
しかし、それは風の音ではなく──呼吸の音だった。
スゥ……、ハァ……。
まるで誰かがこのトンネル全体で息をしているみたいに。
「なぁ……聞こえるか、これ。」
「風……吸ってる。」
「いや、“吸われてる”んだ。」
ハマヤンが呟いた瞬間、スマホが震えた。
画面にはまた、掛水の名前が浮かぶ。
《KAKEMIZU(LIVE)》。
『……おお、来てくれたんか。……ええ夜やな。』
掛水の声が響いた。
それはスピーカーからじゃない。
トンネルの奥から直接、空気を震わせている。
「掛水さん! どこですか!」
『……こっちや。……風の下や……。』
ライトを照らす。
奥の闇に、何かが揺れている。
鉄骨の足場。
その下に、井戸のような縦穴があった。
そこから吹き上がる空気が、あの呼吸の正体だ。
「これ……下、どこまで続いてんの。」
「わからん。でも……音が下から上がってる。」
耳を澄ませると、遠くで何かが囁いている。
たくさんの声。
老いた声、幼い声、女のすすり泣き、男の笑い声──
それらがすべて、息を吸うたびに混じって聞こえる。
『……ここが……黄泉口や。』
掛水の声がまた響いた。
その声はもう人間のものではなかった。
笑いと泣きが混じり、低く反響している。
『……息を返しに来たんやろ……? せやけどな……
息は返すもんちゃう。繋ぐもんや。
お前ら、生きとる間ずっと、死者の息を吸うてんねん。
それが“風”や。』
琴音の目から涙がこぼれた。
彼女はノートを握りしめ、掠れた声で言った。
「おじいちゃんが言ってた……“風は血にして声”って……こういうことだったんだ。」
縦穴からの風が強くなる。
懐中電灯の光がぶれる。
足元の砂が舞い上がり、トンネルの壁に渦を描いた。
その渦の中に、白い影が見える。
──抱かれた赤子。
僧の腕の中で、眠るように丸まっている。
光が当たると、影はふっと揺れた。
掛水の声が重なる。
『……見たか。
ワイが持ち出した“息”は……あいつの片割れや。
ほんまは、ここでずっと寝てなあかんかったんや。
せやけど、ワイが引っこ抜いた。……笑いのネタにしてもうた。
その罪、償わなあかん。』
「なんで……? もう赤子は元の場所に戻ってるじゃない! なんでまだ風が戻らないの!?」
「掛水さん! 戻ってきてください!」
俺は叫んだ。
けれど、その声はすぐに吸い込まれた。
代わりに、低い声がトンネル全体に響く。
『……戻る? ……“風”は戻らん。
ただ息を……継ぐだけや。
せやから、新しい風を吹かせなあかん──お前らが、次の“風口”や。』
ハマヤンが目を見開いた。
「……まさか、封印を……?」
「……私たちで、息を繋げってこと……?」
琴音が震える声で言う。
ノートの最後のページを開く。
墨で書かれた文字が、まるで呼吸するように揺れている。
“封じを破りし者、声を継ぐべし。
息絶えし地を繋ぐは、四つの息なり。”
「四つの息……」
タカ、ミキ姉、ハマヤン、琴音。
四人。
『つき合わせてすまんな。声はわしが継ぐ。
せやけど足らんのや──息が。
黄泉から吹く風が強すぎる。
お前らの息を、いま少しでええ。貸してもらえるか。』
「そんな……。掛水さん…!!」
俺はいまもこのトンネルのどこかにいる掛水を探そうとした。
けど、ハマヤンが肩を掴んでそれを止める。
「タカ……諦めろ! 掛水さんの覚悟が無駄になる!」
「けど、息を継ぐってどういうこと!?」
『簡単や……。皆んなでゆっくり、落ち着いて呼吸をしてくれたらええ。』
「だめ……さっきから、呼吸が、乱れて……」
琴音がはっはと浅い呼吸を繰り返す。
「頑張って琴音ちゃん! タカ、ハマヤンも、呼吸を合わせて!」
ミキ姉が大声で叫んだ。
無意識に、俺たちは互いの手を握りしめていた。
四人の息が、不思議と自然にリズムを奏でる。
『そうや。ええ調子や。ゆっくり、そのまま──』
次第に風向きが変わる。
縦穴から吹き出ていた風が弱まった訳ではない。
渦だった──俺たちの周りを風の渦が巻いている。
徐々にそれは強くなり、足元の砂が舞い上がった。
『ようやったお前ら。仕上げや、こっち向け!』
四人が一斉に声の方を向く。
そこには、掛水の背中があった。そして、その隣にもう一人。
『『いや、坂田おったんかーーい!!』』
坂田が掛水の胸を叩き、二人が同時にツッコむ。
あまりのことに、一瞬息が止まる。
全く笑えない状況なのに、いや──“絶対に笑ってはいけない”状況だからこそ、俺たちは吹き出すように笑った。
その笑いが風を呼び戻す。
刹那──トンネルの奥から、光が漏れた。
それは炎のようでもあり、夜明けのようでもあった。
同時に、掛水の姿が遠のいていく。
『やーー。うけたうけた。
……笑いってな……ほんまは、死んだもんの声を
もう一回、生かすためのもんやねん。
おもろいやろ……?
ほな、頼んだで。
風、止めんようにな。』
声が途切れる。
風が一瞬止まった。
次の瞬間、井戸の底から爆ぜるような風が吹き上がった。
俺たちは一斉に倒れ込み、息を合わせるように呼吸をした。
トンネル全体が脈打つ。
壁に刻まれた手形が赤く光り、風の流れが戻っていく。
その風の中に、確かに──掛水の笑い声があった。
◇◇◇
気づけば、外にいた。
夜が明け始めている。
トンネルの入口から吹き出した風が、町の方へ抜けていく。
空の色が、少しずつ変わっていく。
風鈴の音が聞こえる。
「……戻った……のか?」
ハマヤンが呟く。
ミキ姉がゆっくり息を吸い、吐いた。
その吐息が風に混じって遠くへ流れていく。
琴音がノートを閉じ、静かに言った。
「掛水さん、たぶん……帰ったんだよ。風の中に。」
俺は頷き、スマホを見た。
《ドッとライジング!》のアイコンは消えていた。
けれど、代わりに一つの録音ファイルが残っている。
「息継ぎ:06:44」
再生すると、微かな笑い声が聞こえた。
チェケラ〜ンパサラ〜ン!
あの掛水のテンションだ。
でも、その後に続いたのは──柔らかな女の声。
『……ありがとう。……風、かえったよ。』
音が消える。
風が吹く。
それは、どこか懐かしい夏の匂いのする風だった。
封じの儀式がわかりづらかったので、少々展開をイジりました。前の方が好きだった方。すみません。
2025.10.22




