第六章 封印の果て
夜が明けて、世界はまるで何もなかったような顔をしていた。
蝉の声が戻り、子どもたちの笑い声が遠くの公園から聞こえてくる。
風もある。昨日までの無風が嘘みたいだ。
だけど、俺の耳の奥には、まだ“あの呼吸”が残っていた。
あのトンネルで、鉄板の隙間から伸びた腕。
あれが、まるで何かを抱こうとしていた形だったことを思い出すたび、
胃の底が冷たくなる。
ミキ姉は熱を出して寝込んでいた。
昨夜の帰り道からずっと震えていて、団地に戻るなり布団に潜り込んだ。
ハマヤンも琴音も、それぞれ家に帰ってから連絡が取れない。
ただ、ハマヤンから一度だけメッセージが届いていた。
【親父が供養塔の前のフェンス見に行った。
何かの手形が増えてた。】
読み返すたび、背中の皮膚がざわざわと逆立つ。
“増えた”という言葉が、あまりにも具体的すぎた。
◇◇◇
昼下がり。
いつものようにスマホを開き、ラジオアプリを起動する。
……番組一覧から《ドッとライジング!》の名前が消えていた。
「嘘だろ。」
検索欄に“ライジングドット”“掛水”“坂田”と入力しても、
該当なしの表示。
SNSを覗いても、リスナーの投稿が一件もない。
昨日まで、毎週トレンドに上がっていた番組なのに。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
そのとき、通知音が鳴った。
画面に見慣れないアイコン──
ラジオアプリの公式とは違う、不自然な波形のマーク。
発信元は、「KAKEMIZU」。
「……掛水さん……?」
手が勝手に動いた。
再生を押す。
雑音と共に、聞き覚えのある声が流れた。
『……おーい、坂田……? どこや……』
『……暗いなぁ……スタジオちゃうでこれ……トンネルみたいやな……』
『……あかん、風が……吸えん……』
心臓が縮む。
間違いない。掛水の声だ。
でも、録音に混じる音はスタジオじゃない。
石を叩くような反響。遠くで水が滴る音。
──あれは、トンネルの中だ。
『……さっきな、笑い声がしたんや。
坂田やと思て呼んだら……返事がなかった。
声が……逆から聞こえてきたんや……』
俺の喉が乾く。
スマホを握る指先に、汗が滲む。
『……俺な、わかった気ぃする。
“分け身”ってな、レプリカやないんや。
本体から……“息”を分けてもろた身代わりや……
それを離したら、風が止まるんや。
ワイが持ち出した赤子……あれが息の片割れやった。』
「……やっぱり……。」
昨日、琴音が言っていた言葉──
“赤子は息をつなぎ、僧は声を封ず”。
掛水は、封印の片割れを掘り起こしてしまった。
それが今、トンネルの中で声を呼び寄せている。
音声の奥で、何かが擦れる音がした。
靴が砂を踏むような音。
そして、低い声。
『……かえして……』
スマホの画面が一瞬、黒くなった。
ノイズが弾け、映像が流れ始める。
薄暗いトンネルの中、掛水の手がライトを持っている。
カメラが左右に揺れ、奥に鉄板が映る。
その隙間から、何かが覗いていた。
──白い、小さな手。
「……やめろ、掛水さん……!」
俺は叫んでいた。
でも、声は届かない。
映像の中の掛水が、ゆっくりその手を掴む。
『……ああ……あったかいなぁ……』
その瞬間、映像が途切れた。
スマホが真っ黒な画面のまま、音だけが続く。
赤子の泣き声──。
それは生々しく、何よりも現実的な音だった。
◇◇◇
その夜、町全体に風が吹かなかった。
木々の葉は動かず、電線も静止している。
空気が、死んだみたいに重い。
窓の外を見ると、
遠くの山の方向──南トンネルの方角に、ぼんやりと光が見えた。
地面の下から、誰かが懐中電灯を振っているみたいな光。
スマホが再び震えた。
画面には、こう表示されていた。
【ドッとライジング! 生放送中】
押すな、と頭のどこかが叫んだ。
でも、指はもう止まらなかった。
ノイズ。
そして、掛水の声。
『こんばんは〜ぉ。……ええ夜ですねぇ……。
今夜は特別回、“黄泉特集”や。』
笑い声が聞こえる。坂田のものではない。
複数の声。
子どもの笑い、女のすすり泣き、男の呟き。
それらが混ざって、番組のようなリズムを作っている。
『……聞こえるか、奥里坂の皆ぁ。
風が止まっとる間にな、息を返さなあかん。
そっちの風口、もう少し開けといてな……』
次の瞬間、団地の照明が一斉に消えた。
闇の中で、スマホの画面だけが淡く光る。
その画面の奥で、掛水が笑っていた。
『……息を返すんや。……風を、返すんや……』
画面の向こうの彼の口が、ゆっくりと開いていく。
そこから、吹き出した。
冷たい、湿った風が──。
スマホから、風が出ている。
その風に、声が混じっていた。
『……かえして……』
『……おまえの……息を……』
ミキ姉の寝室の方から、微かに笑い声が聞こえた。
次の瞬間、部屋のドアが “コン……” と叩かれた。
俺は振り返れなかった。
風が、部屋の中で渦を巻いている。
カーテンが開き、ベランダの外──
南の山の方角に、光の帯が走った。
それは、まるでトンネルの封鎖が開いたような閃光だった。
画面の中の掛水が、こちらを見て笑った。
『ほんなら──いこか。』




