第五章 封鎖地点の下で
夜が来るのが、やけに早かった。
夕立が過ぎた後の空は鉛色で、雲が山の稜線に張りついている。
アスファルトに溜まった雨の匂いが、湿った熱と混じって鼻を刺す。
「ほんとに、行くの?」
ミキ姉の声は、思っていたよりも落ち着いていた。
少し前まで“お化けなんて信じない”って笑ってたくせに、
いまはコンビニ袋に懐中電灯とタオルを詰め込みながら、
手つきが妙に慣れている。
「姉貴、怖いならやめとけよ。留守番してろ。」
「……誰が怖いって? あんたのほうが顔引きつってるじゃない。」
言われて頬を触ると、冷たくなっていた。
鏡を見なくてもわかる。──確かに、怖い。
だけど、あのまま何もせずにいられるほど、
俺の神経は鈍くなかった。
ハマヤンと琴音は、団地の駐車場で待っていた。
ハマヤンの軽トラの荷台には、懐中電灯と工事用ヘルメット、
そして見慣れない金属棒が積まれている。
「お前、それ……何?」
「ハンマードリル。うちの現場のやつ。フェンス外すのに使えるかと思って。」
手馴れた調子で工具を点検しながら、彼は肩を竦めた。
「親父の部屋からちょっと拝借してきた。明日の朝までに返せばバレねぇだろ。」
琴音はリュックを背負い、胸に祖父のノートを抱えていた。
その表紙には、雨粒が二、三滴落ちた跡が残っている。
「……準備、できたね。」
その言葉に、誰も冗談を言わなかった。
車のドアが閉まる音がやけに重い。
エンジンがかかると同時に、窓の外の景色が暗闇の中に沈んでいった。
◇◇◇
奥里坂の南端。
町の最後の信号を抜けると、未完の道路が始まる。
ガードレールの向こうに、黒い山肌が立ち上がる。
その奥に、フェンスで封鎖されたトンネルの口がある。
ヘッドライトの光が反射し、錆びた鉄板の隙間が浮かび上がる。
近づくにつれ、空気が変わった。
湿り気の中に、何か──風が“抜けない”ような、
息を吸っても、肺の奥に届かないような感覚。
「……ここだ。」
ハマヤンが車を止め、エンジンを切った。
音が消える。
その瞬間、まるで世界の音が全部止まったように思えた。
「……音、ないね。」
琴音の声が、やけに遠く聞こえる。
足音を立てても、反響しない。
空間そのものが音を吸っているみたいだった。
フェンスの隙間から覗くと、
トンネルの入口には古い木札が打ちつけられていた。
掠れた文字で、こう書かれている。
「風 ふうじ これより先 息 つぐべからず」
「……息、つぐべからず……?」
「なんか、ヤバそうだな。」
ハマヤンが口笛を鳴らそうとしたが、音が出なかった。
笛の形に唇をすぼめても、空気が流れないのだ。
「おかしい……。外は風、吹いてたのに。」
「……これ、ほんとに“死んでる空気”なのかも。」
琴音が小さく呟いた。
ハマヤンがハンマードリルを構え、フェンスのボルトに当てる。
金属の擦れる音が、異様に響いた。
その響き方は──まるで、どこか遠くの地下室で反響しているみたいだった。
「外れるぞ。……3、2、1ーー!」
ガンッという音と共に、フェンスの一部が開く。
生ぬるい空気が流れ出してきた。
いや、流れたというより“漏れ出した”。
どこかで誰かが息を吐いたような、そんな匂い。
「……入るぞ。」
◇◇◇
懐中電灯の光が、黒い壁を照らす。
壁面には無数の手形。
赤茶色に変色していて、年月を感じさせる。
奥に進むほど、光が吸い込まれるように薄れていった。
「なぁタカ、奥に……何か見えねぇか?」
「見える。あれ、鉄板……?」
トンネルの半ばで、通路を塞ぐように厚い鉄板が打ち付けられていた。
古い工事跡。
ところどころ溶接が剥がれ、隙間から黒い液体のような湿気が滲んでいる。
「ここが……封鎖地点。」
琴音がノートを開き、震える声で読む。
“声を封ずる壁は鉄を以てし、風を止め、息を眠らす。”
その直後──
トンッ。
内側から、何かが叩いた。
「今、音したよな。」
「中……からだ。」
皆の視線が、鉄板の一点に集中した。
もう一度。
トン、トンッ……トン。
まるで、ノック。
ゆっくり、一定のリズムで。
俺の指先が冷たくなった。
ミキ姉が、俺の袖を掴む。
「……ねぇ、誰か、いる。」
「まさか。」
ハマヤンが冗談めかして鉄板に手を当てた。
「おーい、掛水さーん! 聞こえますかー?」
……その瞬間。
冷たい風が足元を撫でた。
トンネルには風が吹かないはずなのに。
「やべぇ、下見ろ!」
ハマヤンの声で視線を落とすと、地面の砂利がふるふると震えている。
その下──鉄板とコンクリの隙間から、何かの指が覗いていた。
干からびて、黒く、細い。
けれどその形は、人間の指だ。
ゆっくりと動き、空を掴むように伸びる。
「や……やだ……!」
ミキ姉の悲鳴が反響し、俺の喉の奥に氷が詰まったようになる。
その腕はゆっくりと鉄板の間から出てくる。
何かを抱くように丸めた形のまま──。
まるで、赤子を抱いているように。
琴音が震える手でノートを落とした。
開かれたページに、黒いインクが滲み出すように浮かぶ。
“片割れを探す声、ここに眠る。”
その瞬間、トンネルの奥から、かすかな声が重なった。
『……ああ……風が……かえして……』
鉄板がミシリと鳴る。
ハマヤンが後ずさる。
ミキ姉が泣きそうな声で俺の名を呼んだ。
「タカ……! 戻ろう……!」
俺はうなずき、ライトを握りしめた。
光の円の中、腕はゆっくりと動きを止めた。
それでも、鉄板の向こうからの声は、まだ続いていた。
『……こえ……つながる……』
逃げ出すと同時に、トンネルの外の空気が一気に流れ込んだ。
風の音。
ようやく、“風”が吹いた。
けれどそれは、ただの風じゃなかった。
息をするたびに、誰かが呼吸を合わせているような、そんな風だった。




