第三章 異音
夜。
団地の外灯が、蛾の群れに包まれて明滅していた。
ベランダに出ると、遠くの川の音だけがかすかに聞こえる。
風は、相変わらず吹かない。
俺はイヤホンを耳に挿し、昨日のラジオをもう一度再生していた。
アプリに残っていた「自動録音ファイル」。
番組タイトルは《ドッとライジング! #103 真夏の心霊特集》。
……にもかかわらず、再生マークを押しても無音が続く。
「やっぱり、消えてる……。」
あの夜、確かに聴いた。
掛水がミイラを持ち込んで笑っていた声。
坂田のツッコミ。
途中から混じったあの「かえして」。
けれど今は、まるで“放送自体が存在しなかった”みたいに空白だ。
「なにやってんの、タカ。」
背後から声。
ミキ姉が、麦茶のコップを片手に覗き込んでいた。
浴衣の肩口が少しはだけて、そこに夜気が触れている。
「昨日のラジオ、録音聞いてた。でも……音が、消えてんだよ。」
「電波トラブルで録れなかっただけでしょ?」
「……でも、ほら。波形、ちゃんと残ってんだ。」
画面には確かに音の山が並んでいる。
だが再生すると、何も聴こえない。
──いや、“何かが聴こえないこと”が、逆に音として耳に残る。
沈黙が沈黙として存在していない。
音が吸い込まれている感じ。
「……気味悪いね。」
ミキ姉が腕を擦った。
その指先には、昨日の赤い痕がうっすらと残っている。
「ねぇタカ。昨日の“息の音”、覚えてる? あれ、なんか、あのトンネルの中の……風が止まってる感じに似てる。」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
風が止まる──それは、昨日ハマヤンが言っていた言葉と同じだ。
「……ミキ姉、それ、誰かから聞いた?」
「ううん。小さい頃、一回だけ行ったことあるの。南のトンネル。」
「えっ!? マジで!?」
「肝試し。まだ小学生の時。お父さんの古い地図に載ってたから、友達と行ったの。
……けど、入った瞬間に音が消えて、怖くなって逃げた。
空気がね、動かないの。吸っても、吐いても、何も返ってこない感じ。」
その言葉が、夜の静けさに溶けていく。
空気が薄くなるのを感じた。
俺たちは、しばらく黙っていた。
やがて、ミキ姉がぽつりと言った。
「……掛水さん、どうなったんだろうね。」
「ニュースにもSNSにも出てない。番組も“休止”ってだけ。」
「……なんか、変だよね。」
「うん。だから、明日──調べようと思う。」
ミキ姉はコップを置いて、真剣な顔でうなずいた。
その表情は、いつもの軽口を叩く姉ではなかった。
◇◇◇
同じ夜、ハマヤンは自宅の作業場にいた。
鉄と油の匂い。古い測量図面を引っ張り出して、父親の古いノートを照らしている。
“奥里坂南トンネル工区”。
そこには赤いペンで丸がつけられた印があった。
——供養塔。
——“封鎖地点”。
「……じいちゃん、これ、ほんとに“供養塔”なのかよ。」
ぼそりと呟いた瞬間、ラジオがノイズを立てた。
電源は切ってある。
にもかかわらず、スピーカーからくぐもった声が漏れる。
『……風が……ない……ここ、息が……できん……』
ハマヤンの喉が凍りつく。
机の上のコップが小さく震えた。
そのまま、声は途切れた。
◇◇◇
琴音は自室で祖父のノートを読み返していた。
蝋燭を灯しながら、指で文字をなぞる。
古びた筆跡が掠れた光の中で踊る。
“風は血にして声。息絶えし地を封ずるは、息を以てなす。”
そしてその下に、誰かの書き足した文字。
“風が死ぬとき、声が生まれる。”
琴音は、そっと顔を上げた。
カーテンが揺れている。
……風が吹いた?
でも、窓は閉じている。
蝋燭の炎がゆらりと歪み、壁に影が伸びる。
その影の形が──まるで、誰かが赤子を抱いているように見えた。
◇◇◇
夜半。
団地の部屋で、俺はもう一度スマホを見た。
“再生できません”の表示。
けれど、再生ボタンの右隣に新しいファイルが増えていた。
タイトルにはこう書かれていた。
「録音:未完の道路・午前0時12分」
「……は?」
そんな録音、した覚えはない。
けれど、再生ボタンを押した瞬間、
──“ザァァ……”というノイズとともにあの声が流れ出した。
『……ここ、出口……じゃない……』
『……風が、戻らない……』
『……かえして……』
耳の奥で、誰かがゆっくり息を吸い込む音がする。
それは、昨日の呼吸音よりもはっきりしていた。
“息”というより、“吸う”だけ。吐かない。
息を止めたまま、スマホを見つめた。
録音の時間表示は 0:12→0:13→0:14…… と動き続ける。
まるで“いまも録音している”みたいに。
「……ミキ姉……」
上段のベッドを見上げた。
ミキ姉は寝ている──はずだった。
だが、掛け布団の隙間から覗く顔は、目を開けていた。
「……聴こえた。」
その声は夢の中のように小さくて、
けれど確かに、耳の奥に残った。
風はまだ、吹いていなかった。




