第二章 未完のトンネル
翌日の放課後、蝉の鳴き声がまだ残る空の下を、俺は駅前まで早足で歩いていた。
昼の空気が蒸気みたいに張りついて、頭の奥がずっとぼんやりしている。
昨夜のラジオのことが、どうにも引っかかっていた。
あの息の音。
あれはいったい何だったんだ。
「よぉ、タカ!」
振り向くと、チャリを押しながら近づいてくる男がいた。
日焼けした腕、薄汚れた作業ズボン、胸ポケットに折り畳まれた手ぬぐい。
浜崎──ハマヤンだ。
「おまえまたバイト上がりかよ。暑そうだな。」
「うるせぇ。お前みたいな陰キャがエアコンの下でラジオ聴いてんのと違ってな、俺は外で稼ぐ男なんだよ。日当だぞ日当。汗かいてなんぼ。」
ハマヤンはこの町の土建屋“浜崎建設”の息子だ。
中学の頃から父親の手伝いで重機の操作を覚えてて、小型ユンボなら一人で動かせる。
この辺じゃ、珍しいぐらい“現場が似合う高校生”。
「んで? わざわざ呼び出して何だよ。なんか顔こわばってんな。」
「なあ、ハマヤン。昨日の《ドッとライジング》、聴いたか?」
「おう。途中で寝落ちたけど、オープニングの掛水、キンタマリモとか言われててクソ笑ったわ。あれ最高だな。」
「そのあとだよ。そのあと、心霊特集の……。」
俺は声を落として、昨夜の“あの音”のことを話した。
掛水の持ってきた“分け身”の話、ザリ……と鳴ったノイズ、そして最後に聞こえた“かえして”の声。
ハマヤンの顔から笑みが抜けていく。
「……タカ、お前、それマジで言ってんの?」
「冗談でこんな話するかよ。」
「まさか……掛水さんの“地元”って、奥里坂だったよな。」
俺はうなずいた。
掛水は奥里坂の出身。
しかもあの人、デビュー前に地元の祭りで何回かライブやってる。
町の広報誌にも出たことがあるし、実家が南側の山のふもとって話も有名だった。
つまり──あのトンネルの近く。
ハマヤンは首を傾げて言う。
「……昔な、うちのオヤジも南トンネルの工事に少し関わってたんだよ。測量手伝い。
事故で工事止まったとき、現場の連中が『坊主の像を埋めた』って噂してたらしい。供養のためだって。」
「坊主の像?」
「ああ。詳しくは知らねぇけど、“赤ん坊抱いた僧さんの像”だってよ。
でもよ、そんなもん本当に埋めたのか、誰も確かめちゃいねぇ。工事が止まってすぐ封鎖されたから。」
赤ん坊を抱いた僧。
その言葉を聞いた瞬間、昨夜イヤホンから聞こえたあの息を思い出した。
子どもみたいで、老人みたいで、年齢のわからない“息”。
「……その像、どこにあるんだろ。」
「たぶんトンネルの手前だ。封鎖のフェンスの内側、今は誰も近づかねぇ。
昼間でも風が吹かねぇ場所なんだよ、あそこ。」
「風が……吹かない?」
「そう。オヤジいわく、“風が入らねぇトンネルは死んでる”って。
普通は空気が流れるもんだろ。けど、あそこは違う。中が詰まってるみてぇに息が通らねぇ。」
息──。
俺はその言葉を胸の中で繰り返した。
あの夜、イヤホン越しに聴こえたもの。
それも“息”だった。
ちょうどその時、背後から声が飛んだ。
「ねぇ、二人とも、何の話?」
振り返ると、セミの声の合間からひょいと顔を出したのは “琴音” だった。
同じクラスの女子。黒髪を一つにまとめて、麦茶色の瞳が印象的な子。
俺より口数は少ないけど、芯が強いというか、いつもどこか観察してる目をしてる。
「おい琴音、お前また盗み聞きしてたろ。」
「聞こえちゃったんだもん。掛水さんの話でしょ? ……あの人、うちのじいちゃんの知り合いだったかも。」
「え、マジで?」
「うん。じいちゃん、昔この町の史談会で古文書の整理やってたんだ。
“封じの話”ってやつ、知ってる?」
琴音はゆっくりとカバンを下ろし、折り畳まれた古びたノートを取り出した。
ページをめくると、達筆でこう書かれていた。
“赤子は息をつなぎ、僧は声を封ず。二つが離れれば、風は死ぬ。”
その筆跡は掠れているが、意味は不気味なほどはっきりしていた。
「……なんだよこれ。」
「じいちゃんの話だとね、昔、この町の南の山に“黄泉口”があったんだって。
そこから穢れが出たから、僧たちが封じた。赤ん坊を抱いて、息を合わせたまま即身仏になったって。」
「嘘だろ……そんな昔話、聞いたことないぞ。」
「普通の人は知らない。
でもね、封印の上に“道を通そうとした”人たちはいた。
トンネルの事故は、それを壊そうとしたから起きた──ってじいちゃんが言ってた。」
俺とハマヤンは、言葉を失ったまま立ち尽くした。
蝉の声が急に遠くなる。
風が、ぴたりと止まった。
「……おい、やめろよ。夏の怪談ノリかよ。」
ハマヤンが苦笑いする。けれど笑いは続かない。
琴音の瞳が、俺たちの背後──南の山の方角を見ていたからだ。
「……ねぇ、今、風止んだの、感じた?」
俺たちは同時に振り向く。
住宅の屋根の向こう、遠くの山影の中に黒く沈む未完の道路。
夕暮れの光を吸い込むように、あのフェンスの向こうが、ただ静かに口を閉じていた。
川の流れる音だけが、町の底を掠めていく。
風の止んだ奥里坂。
まるで町全体が、息をしていないように感じた。




