第一章 ドッとライジング!
※本作の登場人物・用語については本話末をご覧ください。
ピピッピピッ……ピピッピピッ……。
明かりの消えた四畳半に、スマホのアラームがやけに大きく響く。
ふぁぁ、とあくび。半分寝た頭をぶんぶん振って、俺──山下孝は枕元を手探りし、不快な電子音を止めた。
「ん〜〜……くぁぁ、眠い……って、あれ!? やっべ、アラーム二つ目かよ。もうラジオ始まっちまう!」
画面の現在時刻は0時53分。お気に入りの深夜ラジオ《ドッとライジング!》が始まるまで残り七分。
慌てて布団を蹴り飛ばすと、頭上の二段ベッドのスノコがミシッと鳴った。
「おーい、ミキ姉ぇ! 俺のアラーム止めただろ!?」
天井板を足裏でこん、と軽く蹴る。すぐ上から半分怒り、半分呆れた声が降ってきた。
「ちょ、タカ! 蹴らないでってば! 起こそうとはしたのよ? でもアンタ、何回呼んでも起きないし! 私も勉強終わって寝ようと思ってたんだから、そりゃ止めるでしょ!」
シャッ、と仕切りカーテンが開く音。どうやらまだ起きていたらしい。
俺はこの春、市内の高校に入学したばかり。上段に寝てる三つ年上の姉──美希は浪人生だ。
東京の大学に出たいとハードルを上げて受験に失敗して、今はバイトと勉強の二足。もともと頭は良いのに、地元じゃダメだ、東京じゃなきゃ、って言い張ってる。
で、俺たち姉弟はいまだに古い団地の四畳半を二段ベッドで分け合っている。
両親は在宅のリモートワーカーで、各自の“仕事部屋兼寝室”を手放さないから。十六と十九の姉弟が同室というのは、正直、年齢的にきつい。
ベッドの天井にカーテンレールを打ち、せめてものプライベートを薄く引き伸ばしている。ああ、貧乏は敵だ。
(本当ならこの春から一人部屋だったのになぁ……。)
「で、またあのラジオ聴くわけ? えっと〜、なんだっけ、“そっとランニング”?」
「ドッとライジング! なんで毎回そこだけ上手く間違えんだよ!」
「ふふ、だってアンタの反応が面白いじゃない。そんなに面白いの? アイドル追っかけみたいに毎週さ〜」
プププ、と上から笑い声。わかっててわざとだ。
やられっぱなしも癪なので、俺は小賢しい仕返しをひとつ。
「そっかぁ。ミキ姉、勉強しすぎで世間に疎いんだな? あの二人、《ライジングドット》知らなきゃ東京出て恥かくぜ? “エモワン”は優勝逃してるけど、今めっちゃ人気だから。どこに出しても恥ずかしくない全国区よ?」
「え、そうなの!?」
「そうそう。……まあ、俺とクラスの連中の間では、だけどな。」
本当の東京事情は知らん。でも「東京」という単語は姉の大好物だ。案の定、布団の端がバサッとめくれて、逆さの顔が覗き込む。暗闇に目が爛々。
「ねぇ、タカ。」
「うわっ! 急に顔出すなよ!」
「片耳、貸しなさいよ。」
「やだよ。自分ので聴け。アプリ入れろって。」
「チャンネルもアプリも知らないの。可愛い姉がその、なんだっけ、“ドットダンシング?”を睡眠導入剤にしてあげてもいいって言ってるの。光栄に思いなさい。」
「ドッとライジング! ……ちぇ、どうせすぐ寝落ちすんだろ。はい、左耳な。」
「サンキュ。あ、でも音量急に上げたら怒るからね? 睡・眠・導・入・剤なんだから。」
(だったらモーツァルトでも聴けよ……脳に良いって言うし。俺は好きじゃないけど)
イヤホンを片耳ずつ分け合い、アプリを立ち上げる。CMが終わり、空気が一段下がる。
鳴り出すのは、いつものオープニング。
テレッテー テッテレテッテッテレー テッテレレテッテレー テッテッテレーレレー♪
「ミキ姉、始まる。“ドッと”はオープニングのギャグが毎回違うんだぞ。ここ大事。聴き逃すと浜崎がうるせぇんだ。」
「浜崎くんって、あの浜ちゃん? 小中高ずっと一緒の。」
「そう。あいつ、ハマヤンって呼ばれてるけど、翌日“出オチ”から全部復唱してくっからな。油断ならん。」
音楽がフェードアウト。スタジオの息が吸い込まれる。
『チェケラ〜ンパサラ〜〜ン! 幸運の天然パーママリモ!! イケメンバリトンボイスの、掛水でございまぁ〜す!! チェケラッ!!』
『どこがマリモやねん! スカスカの天パで偉そうに言うなや!!』
『誰がキ○タマリモや〜!』
『言うてないわハゲ!!(ベチン!!)』
ぶふぅっ、と上段から噴き出す音。ミキ姉、完全にツボってむせてる。
よし、まずは一本。出オチ下ネタ自己紹介、今日も絶好調。
『リスナーの皆さん今晩わ〜ぉ! さぁ、週に一度のお待ちかね、ドッとライジングのお時間ですよ!! お疲れの方も、そうでもない方も、この後じっくり行けるとこまでお付き合いくださいませ〜。それじゃ、今夜も朝まで――。』
『『レッツ、ライジ〜ング!!』』
定番の口上。
この瞬間、団地の湿った空気が少しだけ軽くなる。俺はいつもそう感じる。
俺は北関東の奥里坂っていう山間の町に住んでいる。
北と南を山に挟まれた谷で、東京に出るには大きく東に迂回しないといけない。
南の山に東京へ抜けるトンネルを掘っていた時期があったけど、工事中に事故が相次いで中断、封鎖。
その連動で北側の工区は着工すらせず、町の中央を南北に貫く“未完の道路”だけが取り残された。両端はフェンスで行き止まり。
川は北西から南東に斜めに町を突っ切って流れている。
日常の音は川にある。貨物もバスも、人の流れも──でも、その未完の道路には音がない。
夜の肝試しスポット。バイク練習。俺も何度か行った。だけどあそこは、風が止む。
(……風が止む、って、なんだよな。あれは音が止む、でもある。)
スタジオに戻る。
『さてさてぇ、今夜は真夏の心霊特集〜〜!』
『出たよ。お前、またしょうもないの持ってきてるんちゃうやろな?』
『ちゃうちゃう、今日はとっておきや。見てみぃ、これ。』
『うわっ、なんやコレ! おどろおどろしいの出してくんな!』
掛水が何かを広げ、坂田が全力で引く。
イヤホン越しにも、スタジオの空気がひと呼吸分、下がるのがわかる。
『ミイラや。カリカリに干上がっとる。言うとくけど、レプリカやで? 分け身言うてな。本体は地元のお寺さんで厳重に──』
「え、分け身って何」
上からミキ姉。
「本尊から霊験を分ける身代わりみたいなやつ、らしい。掛水、俺らの地元のヒーローなんだぜ。奥里坂出身。方言は練習だって噂だけど。」
「え、掛水さん、奥里坂なの?」
「そう。町の掲示板にも昔ポスター貼ってあったろ。商店街の八百屋のシャッターにも似顔絵描いてある。」
「へぇ……そんな人が、ミイラの“分け身”?」
ミキ姉が姿勢を変える。眠気が飛んだのがわかる。
『ほんまもんは公共の電波でよう言わんけどな、ワイの地元の──』
『はいストップ! お前それ以上はアウトや! 局ごと黄泉に流されるわ!』
『言うてへんがな! 魔除けや言うただけや!』
二人が笑いに戻そうとして、笑いが少し空回りする。
俺は気づく。さっきから、笑いの合間に微かなノイズが混ざる。
ザ……ザ……と、砂利を靴で踏むみたいな。スタジオの床にそんな音あるか?
「タカ、今の──」
「聞こえた。たぶん気のせい。ハマヤンが“ラジオのマイクって周波数拾うことあるんだぜ”とか適当言ってたし。」
と、そのとき。坂田の声がほんの少し掠れ、読まれる投稿が変わる。
『ラジオネーム:奥里のひよこさん。──“町外れの未完の道路にあるトンネルの口で、逆さに立つ人を見ました”』
心臓がひとつ、跳ねた。
未完の道路、トンネル。
この町にある、南の封鎖口のことだ。
『逆さまに立つて……どういうこっちゃ。』
『“天井からぶら下がるみたいに立ってて、白い歯が見えました”』
『いやいやいや、こわいこわいこわい! それはもう立ってへん!』
笑いが起きる。だが空気が乾く。
イヤホンの奥で、“スッ……スゥ……ハァ……”と、小さな呼吸音が混じった。
距離がわからない。耳のすぐ裏で誰かが息をしているみたいな、気味の悪い近さ。
「ねぇ、タカ。今の、アタシじゃないよ。」
「え?」
「息。アタシ、今、息止めてた。」
ミキ姉が俺の左耳のイヤホンを指でそっと押さえる。
呼吸音は、イヤホンの向こう側から、鼓膜の内側に入ってくる。
風じゃない。“息”だ。
『おーい、坂田? いま後ろ、誰か通った?』
『通るか! 二人しかおらんわ!』
『いま、“笑い声”みたいなん、せんかったか?』
掛水の声が、少しだけ震えていた。
スタジオのスタッフが慌ててる気配。笑いに戻そうとして戻りきらないときの、微妙な舌の回り方。
「ミキ姉、音量下げる?」
「……下げないで。今だけ。」
珍しく、ミキ姉の声が弱い。
俺はボリュームをそのままに、目を閉じて聴いた。
ノイズの奥に、何かが擦れる音。カサ……カサ……。紙袋を靴で踏むみたいな、生々しい音。
『かえして……』
──聞こえた。はっきりと。
子どもみたいな、老人みたいな、年齢のよくわからない声。
「かえして。」
「っ!」
俺とミキ姉、同時に息を呑む。
その瞬間、右手首がじんと熱くなった。反射的に掻く。
薄く赤い、指で押されたみたいな痕が皮膚の上に浮いて、消えない。
『おい、誰や今の。スタッフか?』
『やめろやめろ、ほんまに怖なってきたわ!』
パチン、と小さなノイズ。
オープニングと同じ進行で笑いに戻す気配──のはずなのに、スタジオの空気が戻らない。
イヤホンの向こうで、“ザリ……ザリ……”と砂利。“スゥ……ハァ……”と息。
そして、ごく近くで小さく。
『……ここ、出口……』
「タカ、止めて。」
「……もう少しだけ。」
ミキ姉が俺の袖を軽く引く。指先が小刻みに震えている。
俺は親指で止めるボタンを探し──躊躇う。
そのとき、何かが床に落ちる音がスタジオに入った。コトン。
『坂田?』
返事はない。
沈黙。
数秒、数十秒──時間の感覚がもつれていく。
『……かえして。』
今度は、耳元で囁いた。
俺は反射的にイヤホンを外す。
外したはずの耳殻の内側で、まだ小さく呼吸が続いている。
スマホの画面を見ると、再生タイマーは三分で止まっていた。
なのに、俺は一時間近く聴いていた気がする。
「タカ。……今、耳、熱い。」
見上げると、上段から伸びているミキ姉の手の甲が赤く腫れていた。
小さな指の形に、ほんのり焼印のような痕。
「大丈夫か。」
「……痛い。けど、大丈夫。ねぇ。」
「なに。」
「“未完の道路”、いつか……行ってみる?」
俺は喉の奥が乾くのを感じながら、ゆっくり頷いた。
部屋の外、団地の風の通路はいつもより静かで、川の音だけが遠くで続いている。
風の音なのに──なぜだろう、息の音に聞こえた。
画面の再生ボタンは、触っていないのにわずかに光っていた。
◇◇◇
《登場人物紹介(第一部)》
○ 山下孝:
本作の主人公。高校一年生。耳がよく、音の違和感に敏感。好奇心は強いが、家族や友人を思う気持ちが行動の芯にある。
○ 山下美希:
孝の姉。地元で進学準備中。冷静で聞き上手、いざという時に決断できるタイプ。弟と幼馴染たちの“ブレーキ役”になりがち。
○ 水島琴音:
孝の同級生。地誌や昔話が好きで、観察眼と記録癖がある。噂話を鵜呑みにせず、まず“理”を探すのが信条。
○ 浜崎真弓:
孝の幼馴染。通称ハマヤン。おおらかで面倒見がよく、度胸がある。からかわれがちな下の名前に複雑な顔をしつつ、仲間思いは本物。
○ 掛水慎太郎:
奥里坂出身のお笑い芸人。深夜ラジオ《ドッとライジング!》のMC。関西弁の柔らかいバリトンで、怪談より“笑いの力”を信じている。
○ 坂田亮介:
掛水の相方。軽妙なツッコミで番組を転がす“もう一つの声”。真面目と不真面目の境目で空気を和ませる。
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《用語ミニガイド(第一部・導入)》
・奥里坂:山と川に囲まれた町。風の噂と古い風習が今も残る。
・風:息と声のリズム=命の流れ。乱れると“音”が薄くなる。
・黄泉/黄泉口:現世の裏側と、その“口”。境界はトンネルなどに口を開くことがある。
・《ドッとライジング!》:深夜ラジオ番組。町の“音”と不思議に縁が深い。
※初見の方へ:本編は単独でもお読みいただけます。必要に応じて本後書きの一覧をご参照ください。




