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<最終章>IMAGIN


  雪の永い別れ<最終章>IMSGIN




 想像してみて、天国のない世界を




 和がこの世を去った。


 その現実を良介と雪は麗からの電話で知らされた。


「……和が……電車に……」


 もうそれ以上の言葉は必要なかった。その死が自らのものではないと、良介も雪も容易に確信した。だが同時に和の死がほんとだということも、ふたりは確信しなければならなかった。


 麗の声は弱々しかった。その声で麗は事の経緯を話した。




 和と麗が駅のホームで電車を待っていると、通貨電車のアナウンスが流れ、ふたりはそのアナウンスにしたがって黄色い点字ブロックの内側にさがった。するとその時、3,4歳くらいの幼児が和と雪の目の前でホームから線路に落下してしまった。母親が、


「ユイカーっ!」


 と叫んだが、その声をかき消すように通貨電車が接近してきた。




 正義感と義侠心の強い良介はなんのちゅうちょもなく少女を救うべくホームに飛び込んだ。間に合わなかった。幼女も良介も通貨電車でえじきとなってしまった。


それが、麗の、良介の死に関する説明だった。




 病院の霊安室で、和は永い眠りについていた。奇跡的にも和の顔はかすり傷程度で済んだ。シートの下の身体はぐちゃぐちゃなのを良介も雪も認めざるを得なかった。




「良ちゃん、わたし、和の顔、触りたい」


 良介は「ああ」と言って雪の手を取り、棺桶の中で冷たくなった、たった一人の我が子の顔のほうへ寄せた。


 雪は涙せず、愛する我が子の顔に触れた。


「良ちゃん、和、眠ってるだけなんんじゃないの?」


「ああ、ほんと、穏やかに眠っているように見えるよ」


「和、和、和、和!」


 何度も何度も、雪は息子の名を呼んだ。




 良介は、和は本当に眠っているだけで、声をかければ目を覚ますんじゃないかと思えるほど、雪の声にやさしさを見せているようだった。




「和は」麗のその表情とは正反対の力強くなった声。「いつも言ってくれたんです。おまえがしわくちゃのババアになっても、今と同じ、最上級に愛するよって……それが、何よりうれしかった……」




 和が亡くなって、通夜、葬儀がすみ、そうして誰もがみな、元の日常に戻った。 


 時間がどんなにすぎても、良介は、和の死の悲しみにひたることはできなかった。


 和が生きていたころと同じように、朝起き、朝食を食べ、雪に車椅子を押してもらってつくしんぼに通い、一生懸命働いて、昼食を食べ、午後の作業を必死にこなし、雪に迎えに来てもらって帰宅し、雪と一緒にシャワーを浴びて、セックスをして、小説を書いて、眠る。


 その当たり前の生活の中に、和というひとり息子を、大切な人間を、失ったという実感が、どうしてもわいてこない。




 四十九日法要を終えた夜、いつもは自分が訊くようなことを雪が良介に訊いてきた。


「ねえ、良ちゃん、良ちゃんの幸せって何? 今幸せ?」


「そうだなあ……和がいなくなって、そりゃ淋しいけど、幸せだよ。雪がいるから。前にも言ったけど……」




 会うべき糸に出会えること。それが仕合せ




 でもほんとにそうだろうか? だったら麗はどうなる? 和は会うべき糸じゃなかったのか?




 「良ちゃん、わたしたち、生きててもつらいことばっかりだね。何度も言うけど、良ちゃんはもうサッカーできないし、わたしは良ちゃんの顔見れないし、和は死んじゃうし……一生懸命生きてるのに、いいことなんて何もない」




 


 和の死後、麗は千恵と龍之介の家には戻らず、和と暮らしたアパートでの生活を続けることを希望した。その希望を、良介も雪も、千恵も龍之介も反対しなかった。


 そうして和を喪失した麗の人生に、予想をはるかに越える出来事が起きた。




 9月の、季節外れのひどく寒い日だった。信じられないことに粉雪が空を舞った。


 麗は雪に聞いたことがあった。


『わたしのお母さんは、流れ星じゃなくて雪に願い事をすると願いが叶うって』


 そうしていつも通り、電車で通学していた時、高校の最寄り駅で下車すると、これこそ、と思える黒山の人だかりの群衆が改札に向かった。


 その時、麗の目に和が映った。いや、正確に言えば〝数によく似た〟男が……。


「和……」


 雪は小さくつぶやいた。だが、和はもう死んだのだ。制服ではなく私服姿だったのできっと大学生だろう。




 その日、麗はたったひとりの親友である野田美子に、奇跡か、目の錯覚か、和によく似た大学生らしい(たしかに和より少し大人っぽく感じられた)男を見かけた、と打ち明けた。




「まあ、ただの他人の空似ってやつよ。和が亡くなってもう2ヶ月以上たったんだから。……麗、でももしもその和似の男と恋して麗が幸せになれるんだったら、応援するし協力もする」


「ありがとう美子」




 翌日から麗と美子は登校時、駅の改札の前で和似の男を待ち伏せた。


 奇跡は、当たり前のように起きた。


 待ち伏せ3日目の金曜の朝、その男は大学名のアルファベットの刺繍の入ったハーフコートを着てアディダスのドラムバッグを肩に改札から姿を現した。


 和がそうだったように、その男もサッカーをやってるんだと勝手に解釈して麗は心躍った。




「麗、行くよ」


 美子は麗の震える手をにぎって男のほうへ足早に進んだ。


「すいません」


 と美子の美子らしいにきっぱりした声。


「……」


 男は自分が声をかけられているとは露知らず、大学のキャンパスのある南口のほうへ歩いて行ってしまった。その反応をシカトととらえた美子は麗の手を強引にひっぱって男のほうへ走り、肩を、トントン、と叩いてもう1度「すいません」と声をかけた。




「え? 俺? 何か?」


「少しお話を聞いていただいてよろしいでしょうか?」


「どーゆーこと?」


 美子は麗の背を押し、彼女の恋人がつい2月ほど前亡くなったこと。そのことで彼女が落ち込んでいること。そうして3日前にあなたを見かけたこと。彼女の他界した恋人とあなたがよく似ていること。あなたに恋人がいるのか。いないなら彼女の恋人になってほしい。そこまで矢継ぎ早に語った。




「それで、あなたお名前は?」


 男は美子の剣幕に驚きながら、


「一番輝くと書いて『カズキ』です。名字は橋本。ちなみに恋人はいません」


「じゃあこの子と付き合ってくれますか?」


 麗が美子の手をぎゅっと握った。


「ほんとに、俺なんかでよければ……」


「ほんとですか⁉」


 麗の心からの言葉だった。うれしかった。


「いや、実は僕も恋人にフラれたばかりで、新しい彼女探してたから……」


 橋本一輝は頭をポリポリとかいた。


 麗の満面の笑みを見て、美子は安堵した。もしかしたら、和のあとを追ってしまうかもと思っていたから。


「はじめまして。為田麗と申します」


「わたしは川田美子です」




 一輝はいきなり麗にキスをした。和のくちびるとは違う味がした。きっとこの人はサクランボの枝を舌で結べるんだろう、と麗は感じていた。


 一輝の突発的な行為に美子は啞然としたが、でもこれで麗の元気がかいふくするなら「まあ、いいか」と思いながら見つめた。




「今日サッカー部の練習試合があるんだ。だから明日、明日デートしよう。俺も友達ひとり連れてくるから4人でダブルデート」


「はい!」麗ははしゃいだ。「それから、カズ、って呼んでいいですか?」


「カズでもカズさんでも好きに呼んで」一輝は腕時計を確認して、「やべ、遅れちまう。じゃあ、明日、また明日ここで」


 そう言い残して一輝はドラムバッグを背負いなおして階段を駆け下りて行った。行ってしまった。


 麗の心ときめく時間が終わった。




「美子、明日も一緒に来てくれるよね?」


「麗、幸せ?」


「まだわかんない」




 名前が一輝で「カズ」と呼んだところで一輝は和じゃない。いくら顔やスタイルが似ているからって、そんな代理のような恋人ができたところでほんとに幸せになれるのだろうか? 麗は自問自答した。




 その夜、麗と別れて帰宅した美子は「幸せとは何か?」考えていた。


 部屋のいちばん目立つところにワールド・ビジョン・ジャパンのチラシがはってある。




「生きるために働く子ども 1億6.000万人」




「学校に通えない子供 2億5840万人」




 美子はます電子辞書で「しあわせ」を探した。


『幸福。幸運。さいわい。また運が向くこと』


 なんか納得いかない説明だな、と美子には思えた。美子の頭に、相田みつをの短い詩が浮かんだ。




『しあわせはいつも自分の心が決める』




「なんか納得いかない。いいや、もう寝よ」


 美子は部屋の電気を消してベッドに入った。


 明日はダブルデートか。




 きのうと同じ場所に15分ほど早く到着した麗と美子。ふたりは期待より不安のほうが大きかった。


「ねえ、カズの友達ってどんなひとだろうね? イケメンだといいね」


「そんなこと、どうでもいいよ。あんたが幸せになってくれたらわたしもそれで幸せだから」


「ありがとう」




 約束の時間の5分前になった。


「やあ、麗ちゃん、美子ちゃん、ずいぶん早いね」


「いいえ、今来たところです」


 と答えたのは美子のほうだった。麗はなんとなく緊張して一輝の顔をまともに見ることさえできなかった。




 一輝は左手首に巻いた時計を見て、


「11時か……ちょっと早いけどメシにするか」


 さわやかな声。きのうは気がつかなかったけど一輝の声も和の声に似ていた。




「あの、きのう言ってたお友達の方は?」


「ああ、なんかわかんないけどちょっと急用だって」


「え? じゃあ、わたしは帰ります」


 と美子は常套句を駆使して麗を一輝とふたりきりにしてあげた。


「じゃあメシにしよう! ファミレスだよ。お金ないから」


「ありがとうございます。じゅうぶんです」






 良介はその日もまた、雪に車椅子を押してもらって家路をたどった。


「良ちゃん、仕事大変みたいだね」


「なんで? そんなことないよ」


「ううん、顔に書いてある」


 良介は少しイライラしていた。


「良ちゃん、最近小説を書いてる?」


「書いてない」


 トゲのある言い方。




 その日のつくしんぼでの昼休憩、花村が〝重大な失敗〟をしたと言い出した。


「なにがあったの?」


 良介は花村の恋バナに嫌気がさしていた。


「俺、きのう訪看の時、阿由葉さんに言ったんだよ『9月30日の午後3時、どこでなにしてましたか?』って」


「花村さんはその日のその時間どこでなにしてたんですか?」


「コロナワクチンの接種でグループホーム近くの病院にいました」花村の発する声には怒りからなのか悲しみからなのか微かな震えが混ざっていた。「そこの病院は古く、診察の順番は受付表に名前を書いて順番を待つんですけど、俺は13番だったんだけど12番に阿由葉宏美って。そんな珍しい名前日本にひとりしかいないのに待合室に彼女の姿はなかった。俺、避けられたんだ」


 花村は給食を残し、その日は早退してしまった。




 一輝を和の生まれ変わりだと信じてしまった麗はファミレスではなくホテルに連れていかれた。そうして簡単に身体を許した。そうしてそれから、会ってヤルだけの関係が続いた。




 セックスのあと、一輝は必ずタバコを吸った。


 麗はタバコが嫌いだったので、


「ねえ、タバコやめてくれない?」


 と懇願した。


 しかし一輝は、


「うるせーな!」 と麗を怒鳴りつけた。「俺はおめえみてえなガキ抱いてやってんだからそれだけで感謝しろよ‼」


 そう怒鳴るだけだった。


 それでも麗は一輝を愛していた。しかし一輝口から愛の言葉を聞くことはなかった。




 麗は一輝を好きだったが、それは和にいだいた感情とはまったく別のもののように思えた。


 一輝は和のように、やさしくはなかった。






 そのころ良介はつくしんぼの仕事に疲れを感じていた。そしてその疲れから発生するいらだちを雪にぶつけた。まるで一輝のたましいが良介に取り憑いたかのように、良介は雪に対して冷酷になった。


 食事もほとんど口にせず、


「マズイッ‼」


 と言って近所のコンビニでカップ麺を買ってきてそれで空腹を満たしていた。


 人生がうまく運ばないと、ひとは、もっとも愛するひとにイラ立ちをぶつけてしまう。ほんとは雪の料理は美味しかった。そして夫婦の会話はどんどん減っていった。雪はもう良介には自分は必要ないんじゃないかと思うほど良介の態度は不遜なものに変わってしまった。あんなにやさしかったのに……。




 何が原因か。良介自身がいちばんよく理解していた。


 仕事だ。


 まだ足が思うように動いていたころも、良介は何度も転職した。その理由もわかっていた。父の商店の経営破綻だ。




 時給150円。それでもつくしんぼの工賃と障害年金と雪の給料で生活が苦しくなることはなかった。




 つくしんぼに通所するようになる前の良介は、朝食をおいしそうに食べ、カフェオレを深く味わい、小説執筆に一心不乱に取り組んだ。そんな良介は、雪には楽しそうに見えた。


 ああ、良ちゃんは神さまからサッカーと引き換えに小説を与えてもらったんだと、雪には思えていた。


 しかし自分が提案したつくしんぼへの通所が良介を日に日に〝イヤなヤツ〟に変貌させてしまった。






 何がいけないのだろう。一輝に愛されない麗は悲嘆にくれた。でも、一輝もいつか和のようにやさしくなる。そう信じて一輝との交際に耐えた。


 交際に耐える。


 そんな恋愛の姿ってあり得るだろうか?


 


 ある日ホテルでセックスのあと、めんどくさそうにタバコを吸う一輝に、麗は勇気をふり絞って訊いてみた。


「ねえ、カズ、わたしがしわくちゃのおばあちゃんになってもだいてくれる?」


「おまえバカじゃねえのか? 俺みたいなイケメンがババアと付き合うわけねえだろが。そんなこともわかんねえのか、ガキが」


(自分だってジジイになるくせに!)


 雪は本心をかろうじてかみ殺した。


『おまえバカじゃねえのか?』


 そのひと言で、麗は一輝との短い交際を終わりにする決意をかためた。一輝は、いつまでまっても、和にはならない。


 麗はどこに住んでいるか教える前に覚醒してよかった、とその残された幸運を与えてくれた神に感謝した。




 結局、一輝は自分を、エドワードがプリティウーマン・ヴィヴィアンを愛したように愛してはくれなかった。


 でも、わたしはまだ若いから、これから何度もクラッシュし、運命の人と出会えるだろうと信じた。


「そうだよね、和」


 麗は空のっずーっと奥のほうを見つめながら心の中でそう言った。




 麗と同じように、雪も、良介がいつかエドワードに戻ることを信じた。ファーストであり、レイテストであり、ラストでもある良介という雪が人生で唯一愛した男なのだから……。






 翌日未明、良介のスマートフォンが着信した。


「誰だろう? こんな時間に」




<きょういちじからあいぽけっとだよ こられる>




「ああ」


 あいぽけっと、というのは良介のように身体や精神になにかしら障害をかかえているひとたちの集会だ。


「誰から?」


「貴子っていうガールフレンド。72歳の」


「なんだって?」


「あいぽけっと、っていう障碍者の集会にこられるか、っていう誘いのLINEだよ」


「行ってきたら」


 雪は久しぶりに良介と自然な会話ができたような気がしていた。


 場所は市営公民館。マンションから車いすでも楽に行ける場所だ。




 公民館の一室にはまだ開始30分前に着いてしまったが、もうボランティアのスタッフが数人、お菓子やお茶の準備をしていた。


「あのお、こんにちは……」


「ああ、永澤さん!」


 主催者の北見が良介のことを覚えていてくれた。


 良介はうれしかった。


「さ、すわってください」


 と北見が招いてくれた。貴子はまだ来ていなかった。


「こんにちは、永澤さん」


 そう言って初老の紳士が良介の隣にすわった。


「ええと……」


 良介はその紳士のことを覚えていなかった。


「富田です」


「すみません。僕、ひとの顔とか名前とか覚えるの苦手で」


「みんな、そうですよ」


 


 富田は笑顔を見せた。良介にはその笑顔がなんだかなつかしく思えた。そうしてその笑顔に惹かれ、良介は、何か人生の大先輩から究極の回答が聞けると思って問うた。


「あの、いきなりですが、富田さんにとって幸せって何ですか?」


 富田は笑顔のまま、


「こうして生きていることがなにより幸せです」


 


 良介にはない感情だった。だが世界が平和にならなければ自分は幸せになれない


と感じている良介は反感をいだいた。




 良介より上の世代のひとは、世界平和より自分の幸せを優先する。良介はその感情が戦争を経験してきたからこそいだく感情だと理解していた。だが、だからこそ自分より上の世代に、世界平和を、なにより優先してほしかった。




(自分さえよけりゃいいのかよ⁉)




 富田だけじゃない。戦争の悲惨さを知っている世代は、自分が幸せじゃないとひとを幸せにすることはできないと考えている。ひとを幸せにしないと自分は幸せにできないという良介とは正反対の理論。




「永澤さんは幸せじゃないんですか?」


 と今度は富田のほうが問うた。


「僕は世界が平和じゃないと幸せになれない性分なんで」


「……永澤さん」


 北見が話に加わった。


「はい」


「世界を平和にする方法、教えてあげましょうか」


 北見も戦前の生まれだ。


「はい、ぜひ教えてください」


「世界を平和にするためには、この世のすべてに感謝することですよ」


「そんなの当たり前じゃないですか、ひとっていろんなひとに支えられて生きてるんですよ、感謝するのが当然じゃないですか!」


「永澤さん、ほんとにすべてに感謝してますか?」


 良介は心臓を、グサリ! とえぐられた思いがした。


 


 確かに自分は〝世界平和〟なんておおげさなことを主張しているけど、最近は世界どころか最愛の妻にひどい態度で接している。その最愛の雪がいなければ、日常生活もままならない車椅子の自分なのに……。


 そんな男一匹に、世界平和を主張する資格などないのではないか?




 そこへ貴子がやって来た。


 貴子との出会いは社会福祉協議会がボランティアで運営している「くるりん」というカフェだった。貴子も文化人で、俳句を作っていた。




「あ、良ちゃん、もう来たんだね」


「うん」


 北見と富田が準備に戻った。


 良介は雪にも話していないことを貴子に打ち明けた。


「俺、つくしんぼ、やめようと思ってるんだ……仕事がつらくて」


「通所日数減らしってもらったら?」


「そんな中途半端なことはしたくない。貴子がそんなことないって言っても俺にはそう感じる!」


 つくしんぼの話になって、良介はイラ立った。


 当然だ。やりたくもない作業を週に4日もやっているんだから。




 ひとはご飯を食べていくためにやりたくもない仕事をする。そしてストレスをかかえ愛するひとにそのストレスをぶつけてしまう。だったら仕事なんかしないで食べていける世の中をつくればいい。


 それができれば、世界は平和になるのに……。




 そこへひとりの若者が入ってきた。黒いパーカーに黒いワイドパンツという黒ずくめのファッション。おそらくまだ20代だろう。良介のはす向かいの席にすわるとその若者は『占い』と印字されたぶ厚い本を黒のリュックから取り出した。


 スピリチュアルな現象に関心を持つ良介は一瞬でその若者に興味を持った。




「久しぶりね、本田くん」


 そう言って白い紙コップとビニール袋に入れられたお菓子を北見が差し出した。


「お久しぶりです」


 良介は本田のほうへ近寄り話しかけた。


「こんにちは、本田さん。俺、永澤。よろしくね」


「はい。よろしくお願いします」


 本田は良介の目をしっかりと見てあいさつをした。若いのに力強い視線だな、と良介は感じた。




「占い、できるの?」


「はい。まだ勉強中ですけど」


「じゃあ、俺のこと占ってよ。俺小説家になりたいんだ。目標はノーベル平和賞、文学賞じゃなくて。世界平和に貢献したって思われたいんだ。ちなみに今はB型の作業所で働いてる」


 本田は占いの本をぺらぺらめくりながら良介に、


「右の手の平を見せてください」


 と言った。


 良介は言われるがままに右手を差し出した。


 本田は良介の手の平と占いの本を交互に見ながら、


「どちらかと言えば芸術家タイプなのでサラリーマンになるよりは小説家のほうが転職のようです。でも今は情熱がわいてもすぐ冷めてしまう……いわゆる、熱しやすく冷めやすい傾向にあるので、今は作業所で働きながら小説家を志すのがよろしいかと」




 そばでふたりの会話を聞いていた貴子が、


「やっぱり良ちゃん、小説家に向いてるんだよ! だからつくしんぼの仕事がつらいんだよ。つくしんぼやめて、小説に専念しな」


(そうか、やっぱり俺には小説の才能があるのか!)


「じゃあ本田さん、新しいパソコン買ったほうがいいか占ってよ。いちおう今使ってるパソコンも機能してるんだけど」


 良介にしては珍しく、初対面の人に敬語を遣わずに話した。感謝の気持ちを持つのが当たり前=すべてのひとに敬意を示すのも当たり前、というのが良介の基本的な考え方だから。


「そうですね、今買っても、買っただけで満足してしまうと出てますので、新しいパソコンを買う必要はないと思います」




 良介の昨今の苦悩が解決した、と直感した。


 生き方も、まちがっていない……。




 今夜、執筆がんばるぞ!




 良介は帰宅するとすぐにノートパソコンを立ち上げた。意気揚々と情熱の炎が心に灯ったが、どうしてか筆が進まなかった。




 やっぱりもっといろいろな本を読んで勉強しなきゃ! そうしてもっと書くんだ!




 良介は最愛の、今は亡き両親のことを書こうと決めた。ふたりの生き方を書けば、世界平和を書くことになるはずだ。




 しかし最初の1行がどうしても思い浮かばない。行き詰った良介は、神さまからのプレゼントか、姉の千恵から朗読会に誘われた。その日はつくしんぼでインフルエンザの予防接種を打つことになっていた。時間は9時半から。朗読会は10時からだった。会場はつくしんぼから歩いて5分。ゆうゆう間に合う時間だ。しかし肝心のドクターが時間にルーズらしく、毎年、1時間も2時間も遅刻するらしかった。


 絶望的なドクターだ。




 しかし所長の平山の配慮で、良介は最初に注射してもらえることになった。




 天は自ら助くる者を助く




 ドクターは9時15分にやって来た。これなら間に合う。しかし準備に時間がかかってなかなか接種してもらえない。時刻は刻一刻とすぎていく。


「先生、早く!」


 9時55分。奇跡は良介に味方した。




 良介は平山に心の底から感謝した。なんだか、今までの自分が知らなかったほうとの感謝という感情を教えてもらった気がした。






 途中、トイレ休憩をはさんで1時間の朗読会は大盛況の幕をおろした。


 そして良介は入場時にわたされたアンケート用紙に評価5つ星の欄にチェックを入れ、帰りに知恵と寄った定食屋で、千恵の朗読の先生、田中陽子のメールアドレスを千恵から教わり、


「メールするなら明日にしなよ。今日は片付けとかで忙しいから」


 と忠告されたので、ひと晩がまんして、


<先生、質問です。幸せとはどんな感情だとお考えですか?>


 とメールした。良介はっワクワクして返信を待った。




 翌日、つくしんぼの仕事を続けていた良介のスマートフォンに着信があった。良介はそれを昼休憩の時に読んだ。




<永澤良介様


 


 いただいたアンケートに「幸せ」とはどんな感情ですか? という質問がありましたね。




 「自分の人生で理解し受け入れがたいことに出会う中で、明るい一筋の光を見出した時の喜びの感情」




 それが幸せという感情だと思います。




 文学から様々な人生を追体験し、それらを吸収できる柔らかい心を持つのは、この感情を得るのにとても役立ちますよ。


 朗読会の意義は、この追体験を感じていただくことです>




 良介は自分がなぜ小説をかかなければならないのか、教えられた気がした。




 若いこの歌


「すべて無駄で終わるつよがりでもいい……」




 そうだ、俺は小説を書くために産んでもらったんだ。






 和が死んで百か日がたち、その法要が寺でとり行われた。良介と雪は、麗だけを呼び、友人たちの参列を断った。そして法要のあと、雪と良介は、麗を和とふたりきりにしてあげた。






 和の高校のクラスメイト・神崎直矢(友人ではない)が放課後の職員室へおもむき、担任の滝沢英久のもとを訪れた。理由は単純明快。麗の長期欠席についてだ。




 神崎は、和と麗が交際していたことを和が死んでから知った。神崎は麗が好きだった。


 麗は高校2年生になった。




「滝沢先生」


「なんだ神崎?」


 滝沢は放課後の空腹を満たそうと、コンビニのチョコクロワッサンをほおばっていた。


「為田さん、いったいっどうしちゃったんですか? もう3ヶ月以上欠席してますよね?」




 和が他界してから、麗は学校の部活動ではなく地域のサークルでバスケットボールに熱中していた。和の死の悲しみをふり払うために。そしてしばらくすると高校も中退し、和とよく待ち合わせにつっかったマクドナルドで働き始めた。




「ああ、みんなが動揺するといけないと思って黙っていたが、為田、退学したんだ」


「え……?」


 神崎は自分の耳を疑った。


「で、今は駅前のマクドナルドで働いてるよ」




 その日の放課後、神崎は複雑な気持ちで麗が働いているというマクドナルドへ足を向けた。


「いらっしゃいませー」


 麗の業務用のスマイルが神崎の目に入った。その瞬間、神崎の胸がクラッシュした。




「為田……」


「神崎くん‼」


 麗の表情が学校ですごしていた時のすがすがしいものに戻った。




 マクドナルドの店内に入る前、神崎は緊張するだろう自分を想像して麗に話しかけるイメージトレーニングをした。


「為田さん、学校やめちゃったんだって? 滝沢に聞いたよ」


「うん」


「ちょっと心配になって……仕事終わったら少し話せないかな?」


「いいけど……でも……」


「大丈夫。終わるまで待ってるよ」




 時刻はまだ6時を少しすぎたころだ。麗のシフトは9時まで。マクドナルドの営業時間は11時までだ。




「遅くなるよ……」


「いいから、オーダー」


「あ、ごめん」


「コーラ。Lで。あとビッグマック」


 支払いはPayPayでした。




 注文の品ができあがると神崎は2階のフロアーへ上がった。




 8時をすぎると、客の数は少しずつ減ってきた。神崎はスマートフォンのSNSではく、文庫本を読んで時間を潰した。


 東野圭吾作の『秘密』だ。前日、古本屋で買ったばかりだ。数年前、姉の真理と一緒に映画は見たことがあったが、原作本を読むのは初めてだった。




 最初の1行をよんで神崎はストーリーにハマった。


 愛娘の肉体に他界した妻のたましいが宿る。


 


 よく思いついたなあ、と神崎は東野圭吾のひらめきに敬服するばかりっだった。そのおかげで、麗を待つ時間はとても短く感じられた。




 そうして時計の針が9時を示してからさらに20分後、麗は私服姿でやって来た。


「ごめんねえ」


 麗はごくふつうに謝った。


「大丈夫。小説に夢中になってたから。それより、腹、減ってない?」


「う~ん、どっちかと言えばすいてる」


「それじゃあ、ラーメン食べに行かない? 近くに新しいラーメン屋がオープンしたんだよね。俺、1度食べてみたくて」


「うん、行く……でも平気かな?」


「何が?」


「未成年者の23時以降の外出はNGなの」


 神崎は時計を見て、「ぜんぜん平気だよ」と笑った。




 ふたりは少し寒さを感じながら、夜の街を歩いた。


「為田、どうして学校やめちゃったの?」


 いきなり訊く質問ではないとわかっていながら神崎は問うた。


「学校には……和の思い出がいっぱいあるから……悲しみが消えない……」


「そう……どこが好きだった? 永澤の?」


「それが自分でもわかんないんだ」


 麗は視線を落とした。


「俺、どう?」


 神崎はそうは訊けなかった。






 恋愛は感嘆することから始まる、と何かの本で読んだことが神崎にはあった。


 神崎は麗に感嘆していた。あ、そうだスタンダールの『恋愛論』だったかな?


 神崎はもう何度も麗に感嘆していた。でも麗には永澤がいた。


 片想いでもいい。そんな物悲しい恋が、家族のいない神崎の生きるモチベーションだった。




 神崎がまだ小学生だったころ、両親と姉が家の火事が原因で他界した。それから神崎はずっと孤独だった。母方の祖父母に育てられた神崎は不遇の少年時代を送ったが、麗と出会い、やっと元気を取り戻した。が、しかし、為田麗には永澤良介がいた。神崎は、愛するひとの死がもたらす悲しみを、よく知っていた。




「為田、泣いた?」


 神崎はラーメンとギョウザをボックス席に立てかけてある注文用のタッチパネルでオーダーした。麗が何を食べたいか、緊張して確認しなかった。それくらい神崎は麗が好きだったのだ。


「ううん。実感わかなくて……」


「そっか」


 8分ほどでラーメンとギョウザができあがった。神崎はラーメンをいきおいよくすすった。「でも退学することなかったんじゃない? いくら永澤が好きだったからって」


「わたし嫌われてるから」


「川田がいるじゃん」


 「まあ、そうだけど……わたしの過敏すぎる感じる力が察したの『おまえは嫌われてる』って……それに神崎くんはわたしのことが好きだってことも、付き合いたいってことも、わかってるから、わたし」






 麗は、幼いころから両親である千恵と龍之介から嫌われていると感じて育った。だから和との仮結婚生活に反対しなかったのだと、麗は感じていた。そうしてその両親から愛されていないという感情を和も感じていると思っていた。




 しかし、神さまは自分から最愛の人を奪った。


 麗はラーメンにもギョウザにも、まったく手をつけなかあった。そうして泣いた。泣くことができた。でもそれは和を忘れ神崎を好きになることを意味していた。そんなの、イヤだ。


 和との交際はまだ終わっていない。麗はそう思っていた。


 自分は和以外の男は愛さない。この、最初で最後の恋を生涯ただ1度の恋にする。そう決意していた。まだ、高校生なのに……。






 寒くなってきた。


 週末の土曜、麗は決まって赤いジャージの上にボアコートを着て市民体育館にでかけた。そうして元オリンピックの日本代表だったというバスケットボールサークルの主催者の峰岸優と他のメンバーが来るまでカロリーメイトを食べながらおしゃべりをした。


「あなた……ああ」


「為田です」


「あ、そうだ。下の名前は、麗、だったわよね?」


「はい」


「自己紹介の時、みんなに笑われて……」


「麗なんて、変わった名前だから」


「わたしは峰岸優。ユウって呼んでね。峰岸さんとか、コーチとかはぜったいダメ」




「優っていい名前ですね」


「100回愛するって意味があるらしいの。ダンナとは離婚しちゃったけどね。だから〝名は体をなす〟ってことにはならなかったけど……ところで麗、歳はいくつ? 彼氏はいるの?」


 麗にとっていちばん訊いてほしくなく、いちばん答えづらい質問を優は容赦なくぶつけてきた。


「17になったばかりです。で、彼氏は3ヶ月に亡くなりました。駅のホームから転落した子どもを助けようとして線路に飛び込んだんです。わたしの目の前で……」


「そう、それはつらいいね」優は親友とはこうゆう存在かと思えるほどやさしかった。やっぱり名は体をなすのだ。「よかったら、彼の名前、教えてくれる?」


「平和の和と書いて和です」


「それで和がバスケやってたから自分も、ってこと?」


「いえ、和はサッカーをやってました」


「でも女子高生でしょう? 学校にバスケ部ないの?」


「わたし、高校中退しちゃったんです。今はマックで働いています」


「じゃあどうしてバスケを?」


「両親の寝室に『スラムダンク』が並んでて……桜木花道……」


「そーゆ―ことか‼」


「でもまだ読破してないんですけどね」


 麗はちょっと笑った。それにつられるように優も笑った。


「バスケはいいわよ!」


 そんな会話をしていると、40歳前後の主婦と思われる女たちが続々と体育館の入り口から入ってきて更衣室に向かった。




 和が死んで、自分も死のうと思ったこともあった。けど、やっぱり生きなければ……。




「父や母がバスケをやっていたとは聞いてないんですけど。でも何十年も前にはやったスラムダンクのコミック本を本棚にきれいになあらべているんだから、よっぽどバスケに夢中になってたんだと勝手に想像してるんですけどね」




 体育館の中がザワついてきた。


「わたしたちも行くわよ、麗!」


 ふたりも体育館へ向かった。




 サークル活動はまずジョギングとラジオ体操で身体をほぐし、それからふたりひとくみでのパス練習、それからドリブル、シュート、といった基礎練習のあと、休憩をはさんでゲームを行う。




 バスケは楽しかったけど、人間関係はやはり人間十人十色、麗に慈悲同情するやさしい大人、誹謗中傷する嫌な大人もいた。




 麗が年齢をいつわって風俗で働いているとか、電車の階段で子どもを突き飛ばしたとか、そんなウワサもあった。


 そのため、サークルが終わると、優が


「気にしなくていいよ」


 と気づかってくれた。


「あれくらいんの年齢だと、どうこう言うのクセみたいなものだから……それに、わたしだって感謝でいびられてるし」


「会社?」働いてるんですか?」


 麗は自分でもバカだと思えるような奇声をあげた。


「当然でしょ。バスケのサークルだけじゃ食べていかれないもん。独り身だと。働かないと、ね」


「わたし、優が同い年だったらぜったい親友になれたと思います」




「何言ってるの! わたしだってまだ34よ。親友になれるわよ!」


「優、17のころモテたでしょ?」


「フフフ、まあね」


 優は自信満々に答えた。確かに高校生で日本代表に選ばれたころはファンレターがたくさん届いた。中には顔写真と捺印された婚姻届が同封されていることもあった。




 それを聞いた麗は、


「うわー、ストーカーだ!」


 ろ仰天した。




「実際ストーカーされたこともあるよ」金色に染めた髪をかき上げながら優は話した。「でもスポーツ選手はいつダメになるかわからない職業だから、市役所に努めている友達に公務員の仕事紹介してもらって、で、試験もパスして、結婚もした」


 麗の口から、自分の言葉とは思えない問いが発せられた。


「優、世の中になんか不満ない?」


 優の答えに麗は驚愕した。


「世界が平和にならないこと……かな」


 いったいこのひとはどんな34年間を生きてきたのだろう? 和の父である良介と同じことを感じ、考えている人が」ほかにもいたなんて……。




「どうしてそんなこと考えるようになったの?」麗の言葉はタメゴ語になった。「和のお父さんも同じこと言ってたから……」


「話、長くなるよ」


 優の瞳は赤く染まっていた。


 麗は訊いてはいけなかったかなと、思って、


「ごめんなさい」


 と謝った。




 優は、実はさ、と言って話し始めた。


「わたしのお父さん、スポーツ用品店やったたんんだけど、東京オリンピックの時、それでオリンピックの影響もあったんだろうね、スポーツ用品が飛ぶように売れて、ずっと平屋住まいだったんだけど、新築もしてお父さん、お母さん、お兄ちゃん、わたし、家族4人ほんとに幸せに暮らしてた。だけど4年後のパリオリンピックが開催される前に駅周辺が開拓されて、そこに大手のデパートができてその中に大手のスポーツショップが開店して、薄利多売っていうの? お父さんの店にはぜんぜんお客さんが来なくなって、もちろんなじみのお客さんは残ってくれたんだけど、お父さん首吊っちゃったんだ。でもわたし、お父さんが死んじゃったって実感ぜんぜんわかなくて、そのころちょうど、実業団のチームメイトのお父さんが交通事故で亡くなって、それでわたしも、やっとお父さんの死を理解できて、泣いたわ。すごく」




 なんでだろう? お母さんのお父さんは中華料理店、和のお父さんはガソリンスタンド、それに優のお父さんはスポーツ用品店、みんな一生懸命働いてるのに、近くに大きな強豪店ができて、潰れてしまう。




 和のお父さんは『ひとは世界を平和にするために生まれてくるんだ』って言ってたけど、自分の家族の平和も守れないと世界を平和になんてできないの?


 


「優? 逆じゃない?」と麗は言った。世界を平和にできれば、自分の家庭も平和にできる」わたしはそう思う。


「なんで、そうならないと思う?」優の口調が鋭くなった。「それはね、世の中が競争社会だからなの。違う、っていうひともいると思うけど、わたしはそう思う……人類みな平等、なんて大ウソ。資本主義の自由競争の中で、小さな商店はどんどんつぶれていくの。わたしのお父さんも、和のお父さんも……」




「じゃあどうしたら小さなお店が潰れない世の中になるんですか?」


「それはわたしにもわかんないけど、『資本主義は個人主義で社会全体のことは考えていない』って世界でいちばん貧しい大統領と呼ばれた、ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領の本に書いてあったわ。わかる?」


「……はい、少しですけど」


 でもバスケも競争なのよ。矛盾してるでしょ? わたし?」




 


 そのころ良介は孤独と苦悩にあえいでいた。


 食事もまともにとらず、ほとんどの時間を書斎でひとりすごすようになった。


 そんな日が続いたある夜、良介は車椅子で両親の墓へ向かった。途中、コンビニで煙草とジッポライターのオイルを買った。




 もう死のう。


 墓石の前で、良介はマルボロのメンソールのセロハンをはがして1本抜き取り「YUTAKA OZAKI」と刻印されたジッポライターで火を点け、20年以上の禁煙を終了させた。


 そして、


「お父さん、お母さん、ごめんなさい。線香ねえからさ、これで勘弁してくな」


 と言って先祖代々の墓の石造りの線香置きにタバコを置いた。灰色の細い煙が弱々しく立ち揺れていた。




 そうして良介はリーバイスの水色のジーンズをジッポライターのオイルで濡らして、タバコと同じように火をつけた。


 激烈な炎の熱が一瞬で全身に行きわたり、良介はノドからあふれそうな絶叫を必死で耐えた。




 誰もいるはずのない真っ暗闇の墓地で奇声を上げてしまったら、和尚が何事かと駆けつけて、あらゆる手段を駆使して炎を消すだろう。それだけはぜったいに許されない禁忌だった。




 永澤家の固定電話が鳴った。時刻は未明。雪はスマートフォンを持っていたが、視覚障害者になって、もう使えなくなりただの猫に小判状態になっていた。




 雪は良介の死を覚悟した。


 母も、父も失い、ひとり息子を亡くした。そして自分は車椅子。


 雪は1度目のコールですぐ電話に出た。電話の前で、すっと良介からの電話を待っていたのだ。




「はい、永澤です」


 と雪はやや早口に応答した。


 電話はやはり、良介の死を告げる和尚からのものだった。そして和尚から、警察のひとから、身元の確認に病院に来てほしいと伝言を頼まれたと和尚は言った。だが自分が視覚障害者であることを話すと、直接警察に電話してみてください、と言われ、雪は、


「ちょっと待ってください」と言って点字機を用意し、「はい」と言って和尚の告げる電話番号を点字で打った。




「はい、伊勢原警察です」


「あの、わたくし永澤ともうしますが……」


 電話に出たおそらく事務担当の女性警官が、


「はい、お待ちください」


 と、大きな声をあげた。




「課長、課長、永澤さんの奥さんらしき方から電話です」


 ズウタイのでかい刑事が電話に出た。


「永澤良介さんの奥さまですね?」


「はい」


「大変残念ですが……」


 その電話で、身元の確認に来てほしいが、刑事は雪が視覚障害者であることを知らされていたのだろう、誰か身元を確認できるひとはいないかと訊いた。




 次の瞬間、雪の頭に麗の顔が、ひらめくように浮かんだ


「おまわりさん、義姉の娘ならわかると思います」


 雪は叫んだ。




 すると、


「じゃあその方のお名前を!」


「為田です。為田麗」


「それから連絡先を!」




 仕事中だった麗に店長が事情を話し、麗は早退することとなった。店長が気を利かせて、タクシーを呼んでくれた。


 和を失って、まだ1年もたっていないのに。




 麗は生れて始まて病院の遺体安置所に入った。霊安室ではないんだと少しとまどった。そうして、


「どうです?」


 刑事の短い問い……。




 良介の顔は焼けただれていたが、麗にははっきり良介だと確認できた。


「そうです」 


 麗は小鳥のさえずりのよな声で答えた。たぶんこの現実を知ったら、和の母も死んでしまうだろう。そう麗は直感した。だからスマートフォンを握る手が震えた。ガクガクと……。


「ここで電話してもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」




 コール音が何事もなかったかのように続いた。そうしてようやく雪につながった。雪は絶望した声で麗の説明を聞いた。


「そう……」


「悲しいけど……」


「おばさん、変なこと考えないでね」


「わかってる……」


 雪のその声に、もう生きる力は残されていない。そう雪には感じられた。




「あの、送ってもらえますか?」


「わかりました。一緒に来てください」


 刑事は100回は同じ状況を経験したような、慣れた態度で麗をうながした。だが警察官の仕事はそこまでだった。


 そこからは制服を着た警察官にれいはひきわたされた。




 パトカーの中で何もわるいことはしていないのに、麗は自分が犯罪者になったように感じられた。そうして署を出、アパートではなく、雪がひとりきりででいるであろうマンションに送ってもらった。




 マンションのカードキーを持たされていたので、麗はそれを使ってマンションのエントランスを開け、506号室までエレベーターで行き、同じようにカードキーで玄関を開けようとしたが、玄関のカギはあいていた。




「麗ちゃん?」


 リビングの灯りはついていた。


 麗は心から安堵した。つい先日、たったひとりの愛する息子を失ったばかりなのに、今度は人生のパートナーまで亡くしたのだから。


「うん」


 麗の返事にも生命力はなかった。すると雪は涙声で、


「わたし、これからなんのためにいきていけばいいの? ずっと良ちゃんと和のために、目が見えなくなったも、生きて、生きてきたのに、もうふたりともいない……いったい何を支えに、何を理由に、生きていけばいいの? いったい神さまが与えたわたしの試練て何?」




 その時、麗のスマートフォンに千恵からの着信があった。


「はい」


「もしもし、麗? 良が自殺したってほんと?」


「うん。お墓の前で焼身自殺……」


「あんた今夜はそこで雪ちゃんと一緒にいな」


「うん、わかった……お母さん」


「何?」


「わたし……大丈夫だから」




 その夜、雪が眠ってから麗はダイニングテーブルで手紙を書いた。






 お父さん、お母さん、17年間育ててくれてありがとう。こんなありきたりなことしか言えないくてごめんなさい。


 わたしは突発的に死を選んだんじゃないことはわかってね。和を失った時から、ずーっとこの日を思い描いていたの。わたしには〝為田麗〟を生きるのはつらすぎる。


 わたしの17年の人生は悲しいことばかりでした。和のご両親、和の死、それから優(お父さんとお母さんはしらないひとだけど)のお父さんの死。みんなに対して、わたしはあまりにも非力でした。無力でした。いったいこんな世の中をつくったのは誰なんでしょうか?


 この世界は戦争を競争と言いかえただけの戦場です。すべてが、勝ちと負けとで成り立っています。そうしえ強いものが弱いものをいじめ、弱いものは自殺する。


 わたしはバカだから難しいことはわかんないけど、アメリカで1ドルで買えるものがどうしてアフリカの貧しい国では1ドルで買えないのでしょか? メジャーリーグのスター選手が何億ドルという契約金を手に入れるのに東南アジアの国では1日1ドル以下で生活しなければならないひとがおおぜえいるのはどうしてでしょうか?


 まちがってる。


 わたしはそう思います。


 わたしを愛してくれた和の字は平和の〝和〟です


 どうか最大多数の最大幸福ではなく、誰もがみな平等に幸せになれる世界をつくってください。




 ああ、もう一度この世に生まれてくるとしたなら完璧に平和な世界に生まれてきたい。


 さようなら。




 天国なんてない。




 人間は、生きるためには、やはり理由が必要だ。愛すること。




 どうか、次に生まれてくる時も、和とめぐり会えますように。




 為田麗






 翌日、麗の遺体が町の中央を流れる川の河口で見つかった。


 葬儀の喪主は雪がつとめた。そして決意した。




 わたしは生きる。そして世界を平和にするたの小説を書く。良ちゃんの代わりに。それが、わたしの生きいる理由だ。






  あとがき




 みなさん、僕、長嶋優のくだらない小説に長いこと付き合ってくれてありがとうございました。僕ひとりのチカラで世界を平和にすることはできないでしょう。だからみなさん、僕の願いを託したこの『雪の永い別れを』をひとりでも多くの人に伝えてください。そうしていただければ、もしかしたら世界は平和になるかもしれません。


 僕は、多額の印税が欲しいとか、誰もが知る有名な小説家になりたいとか、そうした理由で小説を書いているのではありません。すべては世界平和のためです。


 それではみなさん、矛盾しますが、世界平和のために戦いましょう! 一緒に‼

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