表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

<第6章>ファーストクラッシュ


 初恋のことを英語では「ファーストクラッシュ」というらしい。和は今、まさにその中にいた。


 その日も駅前のマクドナルドでガールフレンドの到着を待っていた。約束の時間の5分前にマックに来た良介。それから20分ほどが経った。


(大丈夫だろうか? 何かあったのだろうか?)


 良介はガールフレンドの遅れに心配をいだいた。


「ごめん、待ったでしょう。……」


 良介のガールフレンドは千恵と竜之介のひとり娘の麗だ。麗は45分遅れてようやく姿を見せた。きっと全力疾走してきたのだろう、肩を大きく上下させ、息を切らせていた。




「いや、俺もバスが渋滞にハマって遅れてさ、麗、待ちぼうけしてるんじゃないかと思ってたからちょうどよかったよ。お互い不幸中の幸い」


「そう? ならよかった」そう言って例は良介の向かいにすわった。4人がけのボックス席だ。「あー、おなかすいた。何も食べないの、和?」


 和の前にはドリンクのLサイズのカップが置いたあるだけだった。


「もちろん食べるけど、麗と一緒にたべたかったから」


 和のそのセリフに麗の胸がおどった。


「ほんとごめん。おごるから」


「いいよ、割り勘で」




 そうしてあいているもう一つの席に荷物を置いてふたりはレジカウンターに向かった。階段を下りる。列にならぶ。


「足元気をつけろよ」


「うん、ありがとう」


 午後4時半。客はほとんどが和や麗と同年代の学生だ。特に目立つのは、耳にスマートフォンからつなげたイヤホンを当てて受験勉強に励むまだあか抜けきらない高校生だ。和たちはまだ高校1年生だから受験や進路のことはまだ他人事だけど、その時はあっという間にやってくるだろうことはひたりもよく実感していた。


 やっぱり、不安、だ。




「和、勉強してる?」


 麗は困ったように和に訊いた。


「ぜんぜん……でも、俺、たぶん大学行くと思う」


 そう言って3年生を見ると和は恐怖を覚えた。


「そうなんだ」


「親父がよく『4年生の大学卒の資格がないと就職できない職業って意外に多い』って言ってるから……」




 そこまで話して自分たちの番が来た。


「和、何たべるの?」


「ビッグマックセット。ドリンクコーラで」


「じゃあわたしも」


 麗は細身の女子にしては大食いだ。




 和と麗は同じ高校に入学するすっと


以前から交際していた。


 和の父と麗の母が姉弟で、子どものころからお互いをよく知っていたので、意気投合するのも、恋心をいだきあうようになるにも、さして時間はかからなかった。ファーストキスは小学4年生のころだった。


 例は紅玉で顔も美しく、男子からよくモテた。しかし和に恋していたから、ずっと和だけを見つめていた。中学生のころ、今は学校が別々だけど、同じ高校に入学したら思いを告白しようと、少女だった麗は恋いこがれていた。




 麗は中学1年の時から和の進学する高校を知っていた。良介の影響でサッカーを始めた和は中学のころ、県の選抜選手に選ばれ、私立のサッカー名門校にスポーツ推薦で入学すると、和本人から聞かされていた。しかしその高校は偏差値がとても高く、一般受験で入学するのは極めて困難だった。




 麗は勉強が苦手だった。だが麗の〝恋のパワー〟は素晴らしく、劣等生の麗がテストの時には常に学年で10番以内に入るまでに成長した。そうして和の入学する高校に、見事、合格した。




 これで胸を張って和に告白できる。


 しかし麗の知らない和がいた。和にはガールフレンドがいたのだ。


 麗の初恋は初失恋に終わった。


 まさに、ファーストクラッシュ。


 しかしその彼女が交通事故で死んでしまう。




 人の死を喜ぶなんて人間失格だ。そんなことわかりきっている。それでも麗は「ラッキー」という言葉を口にせずにはいられなかった。


 長い間、ずっと、和以外の男に、その男がどんなにイケメンであっても、麗は、自分は和だけの女、そう信じて生きてきた。他に恋人がいたとしても……。だから彼女の死を受け継いで、和のために生きていく。神さまからのプレゼント。雪はそう思っていた。




 後になってわかったことだが、その女(たしか美咲って名前だったかな)は恋人ではなくサッカー部のマネージャーだったということが判明した。




 だが人生非行には必ず天罰がくだる。


 和が登校しなくなってしまったのだ。


 和の父親は良介だ。そして麗の母親は千恵だ。簡単に交際することなんてできない。




 しかし人生何が起こるかわからない。だから、人生は面白い。


 和が、麗の家に来たのだ。


 


 ある日曜日の夕方、為田家の3人が夕食を食べていると、インターホンが鳴った。


「誰だろう、こんな時間に?……」


 龍之介のありふれたセリフ。そうして千恵が玄関を開けると、和が立っていた。


「こんばんは……」


 良介の目には、精神一到何事か成らざらん、という意志的な力をおびていた。その反面、炭酸の抜けたジンジャーエールのような脆弱な声。




「あら、良!」


 千恵は弟の訪問を喜んだ。


「良、おなかへってない? 食べる? オムライス?」


 そう姉に問われ、ダイニングに通された良介は、突然土下座した。


「お父さま、お母さま、麗さんと結婚させてください!」


 


 良介は初めて姉のことを「お母さま」と呼んだ。そうして、


「え……?」と千恵は反応し、


「は……?」と龍之介は反応した。


 そうしていちばん驚いたのは他ならぬ、麗。


「何? どうしての? 和? わたしにプロポーズもしてないのに」


「だから俺と結婚してくれ、麗」


「和、なにかあったの?」


 聖母のようにやさしく問うた麗。だから、いつでも自分を誰よりも愛してくれる男が泣いているのに気がついた。


「俺、淋しいんだよ! だから、麗、頼む、俺と結婚してくれ!」




 しばらく静かな時間が沈みゆく斜陽のように流れた。


「パパ、ママ、わたし、和のプロポーズ、断れない……!」


「ちょっとお、ふたりとも落ち着きなさい」


 


 千恵には和の心境が痛みをともなうほどよく理解できた。


 姉の自分が不登校になり、兄の広志は警察のご厄介に何度もなる不良になり、両親からの愛情をまったくと言っていいほど得られなかった十六年間。その穴は何をどうしても埋まらない。和の心の穴を埋められるのは、もう、麗しかいない……。




 千恵と龍之介は、娘が人の愛し方、人からの愛され方をちゃんと学んで成長していることが誇らしく感じられた。


 だから麗は、こんな突発的なプロポーズを断れないのだ。それに和はスポーツ推薦で入学した高校のサッカー部のレギュラー争いに敗れ、部活に参加しなくなった。和にとって、もはやの残された唯一の希望は〝麗〟だけになっていた。




 千恵は席を立ち、対面式のキッチン上に置いたスマートフォンを手にし、良介の妻・雪に電話した。7回目のコールで電話はつながった。


「雪ちゃん? 今、和がうちに来てる。大事な話があるからすぐにこっちに来てほしいの。良にもそう伝えて」


 と告げた。




 和は今まで何人の女と付き合ってきただろう? 麗に恋するまで、いったい、何人の女と……。


 しかし和は誰と付き合ってもうまく恋愛できなかった。そうして孤立した心根で父が好きだったサッカーに感情をぶつけた。でも自分が活躍すればするほど、良介は和と距離を置くようになっていった。そうして孤独から逃避するために偽りの恋愛をくり返した。




 千恵からの電話を受け」、良介と雪は車で為田家に向かった。


「姉ちゃんもいったいなんなんだってこんな時間に。しかも大事な話って!」


「まあまあ、落ち着きましょう。和はしっかりしたやさしい子だから」




 雪の運転する車が為田家についた。良介は車椅子を雪にセットしてもらって移動した。


「姉ちゃん、大事な話って、何?」


 千恵と龍之介の目の前で和と麗が土下座していた。




「姉ちゃん……?」


「良、このバカふたり、結婚したいんだって!」


「はあ⁉」


 良介の大きなクエスチョンマークの声。その一方で雪は数秒ですべてを理解した。そうして良介を見つめテレパシーを送った。




「和、おまえは幸せ者だな」


 そう言ったのは良介ではなく竜之介だった。


「でも結婚は18歳以上でないと法律上できない。だから『仮結婚』ってことになるけど、それでもいいか?」


 良介は笑いそうになるのを必死でかみ殺した。


「え、そうなの?」


 麗も確認した。




 和と麗の仮結婚生活のために永澤・為田両家でアパートを借りてあげることになった。提案したのは良介だった。その思いは若いころ見たドラマに起因していた。


 ある女子大生が、次第に身体が自分の意志では動かせなくなる病にかかり、記憶も喪失され、最後は死んでしまう……。その女子大生と同い年の男子大学生が、女子大生の母親がダンナと男子大学生のい両親を説得して、ふたりの若者は女子大生が入院するまで同棲する……という物語だ。


 良介は、ふっ、と一笑した。そうしてその隣で雪は泣いた。






「おねえさん、時間あいますか?」


 雪はそのセリフが自分に向けられているものだとは思わなかったが、2度、3度、同じセリフを耳にして、なんだろうと思いながら声のほうをふり返ると、そこには、若い、眉目秀麗な青年が今にも泣き出しそうな顔で立ちすくんでいた。




 それから毎週土曜日、良介をつくしんぼに送りとどけたあと(つくしんんぼは土曜日も開所していた)雪は映画館に行くのが新しいライフスタイルになった。雪が良介と暮らす町には映画館がなかったので、電車で隣町の映画館に訪れた。




 その日はイタリアのラブストーリーを見た。映画はまるで雪の未来を予言するかのように、半身不随になった夫と若い男とヘルパーの三角関係を描いた物語だった。


 物語の中、夫が自分を求めてくれなくなった47歳の女が、ずっと年下の若者に映画館の前で声をかけられ、食事をして、そのままホテルに直行する。




「え……、わたし?」


 雪はすっとんきょうな声で反応した。声の主は濃紺のブレザーを着たおそらくまだ十代であろう若者だった。


 この映画館に来るのは何度目だろう……ヘルパーの仕事は週休二日制で雪は水曜と土曜が非番だった。


「そうです! 僕のこと覚えてないですか?」


「さあ……初対面だと思うけど……」


 長身で痩身でサラサラした髪を茶色に染めた〝さわやか〟と形容するのがピッタリな好青年。


「僕、高校の映画部に入ってて、週末はいつもこの映画館でバイトしてるんです。僕が受付を担当していた時、毎週あなたを見かけて、きれいな人だなあ、すてきなおねえさんだなあ、ってずっと憧れてたんです。で、いつもあなたが映画を見て帰る時、何度も声をかけようと思ったんですけど、なかなか勇気がでなくて……でも今日は思い切って読んだんです。あなたを……」




 雪には信じられない人生の展開だった。もう50を目前にした自分を「おねえさん」と呼び、恋いこがれる十代の若者が存在するなんて。


 正直に、心の底からうれしかった。


 良介とのセックスは毎晩続いていたけど、雪は良介の身体に飽きてきていた。たぶん良介も……雪にはそう感じられていた。


 近頃、良介は自分のことを「愛してる」と言ってくれなくなった。




 高山一太。青年は自らをそう名乗った。


 今日は祝日で良介がマンションにいる日だ。雪は腕時計をしていない。なんか、ミミズに手首を縛られているようで気持ちが悪い、というのが理由だった。そのため時刻を確認する時はいつもハンドバッグの中のスマートフォンだった。




 時刻は12時を少しすぎたころだった。良介が空腹をかかえて昼食を魔あっている時間だ。


「ちょっと、ここで待ってて……」


 雪は時刻を確認したおあとすぐスマートフォンを良介につないだ。


 良介はすぐ電話に出た。


「雪ー、どこにいるんだよ? 何してんだよ? 俺もう腹ペコだよぉ」


「あー、ごめんねぇ、買い物してたら偶然中学の時のクラスメイトに会ってね、悪いけどお昼、おすしとかピザとかデリバリーして適当にすませてくれる。ほんとごめん。あ、もうスマホの充電切れる。じゃあね」


 そう言って雪はスマートフォンの電源をoffにした。雪は初めて良介に噓をついた。


「だんなさんですか? それじゃあデート出来ないっすね。残念……」


「ううん。大丈夫。それよりお腹すいてない? 一緒に食事しましょう」




 良介は雪が高校生と浮気しているなどとは夢にも思っていなかった。


「まあ、仕方ない」 


 とつぶやいて、良介はピザのデリバリーをとり、ひとり昼食をすませた。




 そうして父親が他界する前から書き始めた〝世界平和〟を希求する小説の続きを書こうとした、が、しかし、いいアイディアが浮かばなかったので、誰かと会話をしてヒントを得ようと思いたち、近所の、行きつけの美容院に車椅子で訪れた。




 その美容院「kinomi」はバリアフリー対応のカットスペースも洗髪台もあり、料金も2800円と破格の値段で、経営している夫婦も人当たりがよく、良介にとっては小説の構想をねるのに持ってつけの場所だった。




 そしてその日。オーナーも例の質問をしてみた。


「ご主人、世の中に何か不満ありませんか?」


「もちろんあります」


「例えば?」


「そうですねえ……それより今日もいつもどおりのカットでよろしいでしょうか?」


「はい」




 良介のヘアスタイルはここ10年変わっていない。


 横と後ろをツーブロックにして借り上げ、あとはご主人のセンスにおまかせだ。




「で、不満というのは?」


「そうですねえ」美容師は、なんでそんな質問をするのだろう、と一瞬不思議に思ったが、小説のネタにするつもりなのだろうと思って、ウソをついた。「やはり税金が高いのと政府がちゃんと動いてくれないことですかねえ」


「それを解決するためには何をどうすればいいとお考えですか?」


 美容師は良介の質問には答えず、逆に訊いてきた。


「永澤さんは何が不満ですか?」


 時はちょうど中東が戦火の真っただ中にあった。


「僕は世界が平和にならないのが不満です」


 美容師は間髪入れずに突っ込んできた。


「それなら今すぐ戦地にいかないと! 世界平和のために!」


「…………」


 良介は言うべき言葉を失った。


 それから何を話したかは、良介にとってどうでもいいものだった。ただ美容師に、




『しょせんオメエには何もできやしない』




 と宣告された気がした。そうして同じkimoniniに通う千恵にKINEを送った。




<キノミさん行ってきた>


<つくしんぼは?>


<行ったけど>


<なんかあったの?>


<しょせん俺には何もできない>


<そう>


<キノミさんのご主人さんに、本当に世界を平和にしたいなら、今すぐ戦地に行けって>


<そう言われたんだ?>


<俺には何もできない>


<良は良のやり方で世界平和を実現すればいい>


<包括に電話したら〝募金してください〟って>


<そう。結局お金なの>


ボランティアできる人はお金に余裕があるの。良は小説という形で世界平和を訴えればいい>


<それを信じて小説書いてる>


<良の発案をお金に余裕のあるボランティアに実現してもらえばいい。人にはそれぞれ向き不向きがあって役目も違う発案者が必ず実行しなければいけないわけじゃない>


<経済力がなければ、世界平和なんてエラそうなこと口にするなって?>


<違う。お金に余裕がなくても発案はできる。そしてそれに賛同してくれるお金持ちと手を組めばいい。まずは人の心を動かす小説を書くんだ。シンガーソングライターと販売会社が違うのと同じだ>


<そんな才能、俺にはない>


<まず発案という土台をつくるんだ。才能は能力のありなしではなく書くことが好きか嫌いか>


<小説の他に俺にできることある?>


<ない。小説を書く。しれしかできない>


<才能ある?>


<発案という武器がある>


<頭おかしいいと思われるだけだよ>


<エジソンもゴッホもそうだった>


<そか>


<つくしんぼで実績つくれ! がんばれ! 大丈夫だから>




 そうか……やっぱり今はつくしんぼの仕事をがんばって続け、そうしてそれから小説を書く。それしかできない。でも書いても、俺の手書きの原稿がパソコンの明朝体の文字が全盛の〝今〟という時代に、果たして受け入れてもらえるだろうか? いや、待て、そうか、俺の手書きの原稿を雪に文字起こししてもらえばいいんだ! 今晩、夕食の時に相談しよう。




 良介は書きかけの小説をいったん中止して新しい小説を書きはじめた。


 まずは最初の1行だ。1行で人の心をつかむ。そして世界を平和にするために考え出したイデオロギー『世界完全慈善主義』すなわち、あらゆる仕事をすべての人がボランティアで行う世界観を世界中の人々に伝えるんだ。






 その日も、雪は高山一太と食事をすませると、そのままホテルに直行した。そうして一太との新鮮な快楽に酔いしれた。


 夕食は鶏のから揚げ、目玉焼き、マカロニサラダ、そしておふの味噌汁だった。どれもとても美味しかった。


「なあ雪」


「なあに?」


「俺の原稿、パソコンで文字起こししてくれないかな?」


「……自分の小説じゃん。自分でやりなよ」


 雪の態度は冷たく、不機嫌そうだった。




 その日をさかいに、雪と良介の身体の関係はなくなった。




 翌週の土曜、雪は例の映画館に行った。だがお目当ての高校生はいなかった。思えばどうして連絡先を交換しなかったのだろう。


 そうして彼を待ち伏せた5回目の土曜のい晩、良介に訊かれた。


「なあ雪」


「なあに?」


「最近、土曜の昼頃どこにでかけてるんだよ?」


「いや、この前京子と映画館で会って、それで、高校の友達たちに連絡したら、週に1度は昔みたいに集まろうって話になって、それで、でかけてるのよ」


「もう俺のことなんてどうでもいいってことか? 飯もつくらないで。しかも電話してもつながらないし」


 良介はきわめて冷静さを保とうと努力していた。


「いいでしょ! わたしだってまだ人生楽しみたいもん!」


「なにを怒ってるんだよ」


「別に怒ってなんか……」




 今の雪は良介の愛した雪ではなくなっていた。そのことで良介の全細胞は寂寥感でいっぱいだった。


 数秒後、雪は、


「ごめん」


 と謝った。




 自分が浮気していることを知ったら、良介は、死のうするだろう。頸椎損傷の下半身不随の良介を支えられるのはやはり自分しかいない。




 でも週末になると映画館に足が向いてしまう。


 そうしてまた、雪は一太と会って、sexをくり返した。




 そんな日曜日が半年ほど続いたある日、良介は仮結婚中の和に電話した。


 和は「もしもし」ではなく「はい」と言って電話に出た。その声はやはり複雑な年齢で麗との結婚生活の資金を出してもらっているうしろめたさが感じられた。




「和、頼みがある。お前にしか頼めないことだ」良介はこんなことを実の息子に、しかもひとりっ子の和に頼むなんてふがいないと思いながら続けた。「母さんが浮気してるかもしれないんだ」


「そんなはずないって。あの気弱なお母さんに浮気する度胸なんてないよ」


 和はちゃんちゃらおかしいといったふうに笑った。


「俺もそう思いたいのはやまやまなんだが、母さん、ここ何ヶ月か毎週土曜に学生たちの友達たちと食事するって出かけるんだが妙におしゃれしてはしゃいで行くからほんとに友達と食事してるだけか確かめてほしいんだ。もちろん報酬は払う」


「ホーシュー⁈」


「ああ、金だ」


「いくら?」


「2万でどうだ?」


「3万でやる」


「……わかった……じゃあ今週末の土曜、よろしく頼むな」


「はいよ」


 和はラッキーな仕事だと思って浮かれた。




「麗、今週の土曜ひまか?」


「一応部活あるけどなんで?」


 麗は高校の陸上部に所属している。専門は1500メートル。中学の時は全国大会で4位になったことのあるツワモノだ。まだ高校1年生だが大学は日体大への推薦入学が決まっている。ようするにエリート、だ。




 そのいっぽうで、和は中学でサッカーをやめてしまった。


 自分が活躍すると、父の虫の居所が悪くなる。それに和(麗)の高校のサッカー部はとても弱い。インターハイ予選でも、先輩たちは1回戦で0対5で大敗をきっしている。




 そんなチームでがんばってもJリーガーにもまして日本代表選手になどなれるわけがない。


 というわけで和はサッカーをあきらめた。


 だから週末はヒマなのだ。


「実はさ、おやじに探偵の仕事頼まれちゃってさ、めんどくせえったらありゃしねえ」


「探偵? そんなのプロの探偵雇えばいいじゃん」


「いや、俺もちょっと心配でさ……」


「どういうこと?」


「ま、ひとことで言えば浮気調査だ。おふくろの」


「そんなことあるわけないよ。和のお父さんとお母さん、すごく愛しあってるじゃん」


「だから俺が引き受けたんだ」




 麗の背中に緊張の冷たい汗が1滴流れた。


 自分たちの仮結婚を応援してくれているほどやさしさに満ちた良介の両親の仲がうまくいっていないなんて信じられなかった。麗には。




 そしてその週末の土曜、和と麗は永澤家のマンションの出入り口から死角になっている住宅の壁のかげに身をかくし、雪が姿を現すのを、ふたり、大きく緊張しながら、刻一刻、1秒1秒、覚悟を決めて待った。




「来たわ」


 小さな声で麗が言った。麗のこのミッションに対する本気度の高さが和には意外だった。




 雪は水色のジーンズに黒いジャケットというかっこうで、40代という年齢にしては若々しすぎるファッションね、とその姿を見て麗は言った。




 ふたりは、ゆっくりと、そして慎重に、雪あとを追った。雪は電車で隣町まで行き、映画館の前で足を止めた。雪がキョロキョロとあたりを見まわしたので、和と麗は一瞬、見つかったか⁈ と焦ったが、自分が尾行されてることなどまったく思っていない雪がふたりに気づくことはなかった。




「あ!」


 和は思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。


「え? マジで?」


 麗も間の抜けた声を発した。




 雪は若い男に近づき、手をにぎり、そうして微笑んだ。


 男はまだ十代の学生だろう、と和も麗も直感した。




 雪と男は映画館には入らず、すぐにどこかへ向かって歩き出した。


「どこ行くのかな?」


 麗は小さな声で言った。


「……」


 和は黙ってふたりを追った。


 数分後、和の母は、和の知らない男とホテルに入った。しかもラブホテルではない、大きく立派なホテル……。




「お父さん、大丈夫かな?……」和は父に真実を伝えるべきか悩んだ。苦悩した、と言ってもいい。「麗、どおうしようか?」


 麗は責任感の強い女だ。いい加減なことは口にしない。そうして麗を100パーセント信頼する和にとって、麗の返事がベストだった。


「今日、わたし和ん家行ってもいい?」




 和と麗は、雪が帰宅する目に永澤家のマンションに行き、自分たちが見た雪の行為についてできるだけわかりやすく良介に伝えた。




「お父さんの予感、当たってたよ。お母さん、すごくうれしそうな顔で、たぶんまだ高校生だろうなあ、すごく若い男とホテルに入っていったよ。それが真実……。お父さん、今晩夕飯の時、俺と麗で訊いてみるから、お父さんもどうすりゃいいか、考えといて」




「ただいまあ。ごめんねえ、今すぐごはんのしたくするから」


 そう言って雪は冷凍食品のチャーハンを電子レンジで温め始めた。


「こんばんは」


「あら、麗ちゃん、いらっしゃい」


「わたしの分もありますか?」


「もちろん」




 20分ほどで4人分のチャーハンができあがった。明らかな手抜きだ、と良介は少しカチンときていた。


 そうして麗が雪に問うた。


「ねえ、おばさん、もし十代の若い男にナンパされたらどうなさいますか?」


「なに言ってるのよ。そんなことあるわけないじゃない」


 雪は麗の質問に恐怖を感じ、これ以上追求されたらどうすればいいか考えあぐねた。だが……、


「お母さん、俺たち見たんだよ。今日お母さんが映画館の前で若い男と会ってそのまんまホテルに入って行くの」


 良介は高揚する感情を必死でこらえていた。食事もいっさい手をつけず、母が自分の浮気を否定しなかったらどうすればいいか? そんな思いにとらわれていた。




 雪も感情を殺し、思いをめぐらせていた。もうすべて知られていることなのだ。でも良介と離婚はしたくない。


「浮気を認めるんだね?」


 良介は問うた。


「良ちゃん、ごめん……」


「いつから……」


「半年ほど前に映画見たあと、声をかけられて、わたしは食事だけのつもりだったんだけど……」


 雪はそれ以上言葉を続けることができなかった。そうして良介に、


「良ちゃん、わたしたち、もう終わり、よね?」


 と確認した。


 和と麗は次に良介が発する言葉を信じた。


「週末、その男を家に呼んでくれないか?」


 と良介は懇願した。


 雪は泣いた。




 その週末、雪は一太に会いに映画館の受付カウンターに行った。


「すみません、高山一太さんいらっしゃいますか?」


「はい?」


 雪と同い年くらいのクラークが不思議そうな顔をした。


「ですからこちらで働いている高校生の……」


「もうしわけありませんが、当シアターにはそういった名前の者はおりませんが……」


「そんな……」






「ハハハ、ちょろいもんさ、ばばあなんて」


 高山一太・本名中村志郎は私立の男子校の高校生だ。年増オンナを口説き落とせるか、仲間と賭けをしていた。そして雪を標的に、賭けに勝ったのだ。志郎は得意満面で仲間から金を受け取った。




「で、カラダのほうはどうよ?」


 と志郎の悪友が訊いた。その悪友の名は、小田正人。まだ童貞だ。


「それがけっこういいカラダしてんの。メシもタダで食えるし」




 その時、志郎のスマートフォンが鳴った。


 志郎はスマートフォンのスクリーンを見た。「雪子」という文字が目に入る。


「ばばあからか?」


「ちげぇよ。雪は雪でも雪子のほうからだよ。めんどくせえなあ、女って」




 雪子というのは志郎の彼女で女子高に通っている。志郎は雪子にやさしかった。だからまさか、志郎が友人たちと、女を口説けるかどうか賭けて女遊びをしているとはまったく想像していなかった。




 ふつう純情な女子高生なら、そんな男、あっさり切り捨てるだろう。だが雪子は志郎のセックスのとりこになっていた。だから別れを切り出せない……。




 志郎が雪と浮気していた約半年の間、雪子は自分を抱かなくなった志郎の浮気に勘付いていた。そうしてある日の放課後、駅前のファミリーレストランで、最近の志郎のことを親友の森下小径に相談していた。


「ねえ小径、お願いがあるんだけど……聞いてくれる?」


「もちろん。親友だもん。何でも聞くよ」


「志郎が浮気してるかもしれない。だから手伝って……」


 そこで小径はバニラシェークを、雪子はダージリンティを飲んだ。




 まだ中学生だったころ、雪子はひとつ年上の志郎に告白され交際をスタートさせた。交際は順風満帆だった。


 そのころテレビのバラエティー番組で、日本人初のシンガーソングライターといわれる人が、


「浮気をしない男っていうのは天然記念物ですよ」


 と語っていた。雪子は志郎だけは違うと信じていた。




 志郎はサウンド研究部という、ひとことで言えばミュージックバンドの部活動もしいて、ボーカル、作詞、作曲、アレンジ、すべてを担当していた。声がMr.childrenの桜井和寿に少し似ていた。




 秋の文化祭が目前にひかえたいたころ。多忙な時期に志郎が浮気のナンパなんかに成功するかどうかの賭けなんかに興じているなんて、雪には到底至極信じられなかった。




 そうしてその週末の土曜、雪子と小径は、志郎の自宅の近くの住宅の角の壁に隠れて、志郎が出てくるのを待った。


「雪子!」


「うん」




 志郎は雪子とむかしよく行った映画館の前で40代くらいの女と会った。


 女は水色のジーンズに黒のジャケットを着ていた。美人だった。そうして雪子に尾行されているとは知らず、映画館には入らず、ホテルに向かい、とても自然に中へ入っていった。




 30分後、ふたりは満足した顔でっホテルから出てきた。


 元来やさしく温厚な性格の雪子だったが、憎悪に満ちた怒り顔を見せた。そうして雪子のいだく感情は、まるで角砂糖がコーヒーに溶けるように、小径の心の中にも伝わっていった。




「雪子!」ぶ厚い壁のような小径の声。「あの女、許さない!」


 小径はそう言うと、ここへ来る時に見かけたコンビニの中に入り、ピッケルを盗み、ホテルの前まで戻り、そうして志郎とババアが仲むつまじく出てきたところへ走り寄り、強く握りしめたピッケルで雪の右目を刺した。


「キャーッ、痛いー」


 という雪の悲鳴。雪の目から血が噴射した。


「おい、お、お、おまえ……」


 志郎の、文字どおり恐怖が突き刺さった声。


 雪はアスファルトに倒れ「痛い、痛いー」とわめいた。


 志郎は110番通報しようとしたが「自分の恋人が自分の浮気相手の目を刺した」などとは言うことはできず、そうして全速力逃げた。


 


 小径は自ら110番通報し「女の人の目を刺しました」と、この世の果てで自ら死を選ぶような声で言った。


「雪子、あんたも逃げな」


「そんな……」


「早く! 警察が来る前に! 早くッ‼」


 そうして雪子も、右目を刺され、気を失った雪を一瞬見つめ、一太とは逆方向に逃げた。




 数分後、サイレンを鳴らしたパトカーが救急車と一緒に事件現場に到着し、雪は救急車に乗せられ、小径はパトカーに乗せられてしょっぴかれた。




 警察の取調室に小径はいた。そして被害者の目を刺した動機を訊かれ、すべて正直に話した。


 親友の彼氏が浮気してるらしいから一緒に確認してほしいと頼まれたこと。その親友の彼氏が40代半ばくらいの女とホテルに入り、親友を裏切った男子高校生を誘惑したであろう女を刺すためにコンビニでピッケルを盗んだこと。そして女の目を刺したこと。ただひとつ、親友のためではなく、自分の怒りをおさえることができなかったので〝やった〟のだと……。


 そう言って雪子をかばった。




 雪が永い眠りについているころ、森下小径の刑事裁判が開かれた。結果、雪に危害を加えたの動悸は親友への思いやりとやさしさからであり、また、まだ十代の未成年であること、そして犯行が初犯であることから、刑はつかず、保護観察処分となった。被害者側の良介は何も主張しなかった。少女を責めたところでもう雪の右目は機能しないのだから……。




 しかし小径の事件は週刊誌のかっこうのゴシップになり、小径の自宅に記者が毎日のようにやって来た。


 小径は「友達とカラオケに行ってくる」と言い残して家を出、行方不明になった。






「良ちゃん」


 目を覚ました雪が最初に発した言葉がそれだ。カーテンを通過して入ってくる陽のまぶしさから日中の時間であることは容易に想像できた。雪には自分がどこかの病院に搬送されたこともまた簡単に理解できた。




 意識を失う前の記憶を雪は限りなく透明に近く覚えていた。自分は一太という偽名を使った高校生と映画館の前で待ち合わせ、そのままホテルに直行したこと。そうしてシャワーも浴びず、発情期の猿のように互いに激烈に求めた行為に及んだこと。そしてホテルを出たところで若い女に、グサリ! と右目を何かキリのような先端のとがった刃物でぶっ刺されたこと。


 そこまで思い出して、自分の右目はもう2度の機能してはくれないことを悟った。そうしてそばにいるはずのない、自分のあやまちのために裏切ってしまった最愛の人の名を、もう1度、ひとりごとのように発した。


「良ちゃん」




 その微かな声に気づいたのか、白衣の天使と呼ばれなくなった看護師と若い医者がドアをノックして、病室に入ってきた。


「永澤さん、大変でしたね」


 そう極めて冷静に、ありふれたことのように言った。




 そうして雪はさらに追いつめられる。


「永澤さん、実は左目も緑内障を患っております。最近何か変わったことはありませんでしたか? 自覚症状と言うか……」


「特にないんですけど、あえて言うなら、ここのところ涙がよく出ることくらいでしょか? でもそれは感情の動きがある時だけでしたから……」


「そうですか……おそらく左目も少しずつ見えなくなると思います。ですので、今のうちに点字を習得することをおすすめします」


 と、看護師が言った。




 そこへ、良介、和、麗、月,花、の5人が駆けつけた。


「どうしたの? みんなそろって?」


「どうしたのじゃないわよ! 雪、あんた浮気してたんだって?」


 花が怒って言った。そうして月も続いて、


「相手はまだ学生らしいじゃない。どうしてあんた……」


 とあきれた調子で言った。




 そこへ森下小径が女性警官とともに雪の病室に入ってきた。そうして事の顛末を説明させらえた。


 自分の彼氏が、と小径はウソをついた。彼氏が浮気していることを知って悔しくて雪の目を刺したのだと。




 雪は憤怒に燃えていた。その顔つきを見て、女性警官が言った。


「奥さまはこの子を殺したいと思っていらっしゃるでしょう。でも考えてください。この子もある意味被害者なんです」


「はあ? 人の目をピッケルで刺して被害者って……」


 と良介が言った。


「そうです。この子も奥さまと同じように彼氏を奪われたんです。あなたに……」


 雪は、何言ってんだ、こいつ、と思っていった。




「すみませんでした」


 小径は、小さな声でそう謝罪するるのでいっぱいいっぱいだった。




「妻は、もう、全盲になるんですね」


「今すぐではありませんが……」


 看護師が言った。


「ごめんよ雪、すべて俺がいけないんだ。最近俺、おまえに対して愛情が足りてなかった」


「ちょっと待ってください、、みなさん」と今度は若い医者が言った。「手術をすれば失明しなくてもすむかもしれません。


 そうなんですか、と麗が言った。


「可能性はゼロではありません」


 そうしてそれから車いすの良介に向かって、


「今から奥さまの入院の手続きをしてきてください」


 と続けた。




 翌日から、雪の入院生活と良介のひとり暮らし兼雪の見舞い生活が始まった。


 7日間、雪と良介の間に会話はなかった。


 8日後、雪が独り言のようにつぶやいた。


「……良ちゃん」


「どうした……?」


 雪には良介の愛情が悲しかった。うれしかったのではなく。


 なぜ浮気をした自分を、失明するかもしれない妻を、責めず、やさしくするのか。




 良介は言った。


「雪は、俺と出会ってからずっと俺を支えてくれたじゃないか。俺の足になってくれたじゃないか。そこまで愛してくれた雪を、浮気くらいで俺が変わると男だと思う? 俺のこと?」


「ありがとう」


「お礼なんていらないよ。もう一回言うよ。今までずっと、俺の足になってくれたじゃないか。もし雪が失明したら、今度は俺が雪の目になるようがんばるよ。だからこれからも一緒に行きていこうよ!」




 雪は後悔していた。


 どうして自分は浮気なんてしたのだろう? これほど愛してくれる人との生活になんの不満があったというのか? 


 良ちゃんありがとう。そう心の中で雪はささやいた。


 


 雪の左目の手術の日が来た。土曜日ということもあり、和、麗、月、花、が来院してくれた。


「お母さん、がんばってね」


 と和。その声は弱々しかった。他の4人も、


「信じてるから!」


「きっと大丈夫だよ!」


「奇跡が起こるって!」


 思い思いの言葉で雪にエールを送った。


「うん、みんなありがとう」


 それでは、というドクターの案内で、ストレッチャーに乗せられて両目を閉じて、雪は手術室へはこばれていった。




 2時間がたった。


 麗が気をつかって「何か飲むもの買ってくるね」と言って売店へ向かった。和がそのあとを追った。そして麗が和をしかった。


「和がそんな弱気な態度見せちゃダメ!」


「でも、お母さんがかわいそうで……」


「俺は弱気になんてなってない!」






 そのころ、雪子は学校を休んでいた。そして学校が終わる時間になると、小径から電話が毎日来た。LINEではなくて。


「小径、わたしやっぱり自首するよ」


「ダメッ! ゼッタイ! わたしは保護観察ですんだけど、あんたはどうなるかわかんないよ!」


「でも、なんだか心苦しくて……」


 雪子にも小径にもこの1件を相談できる大人はいない。




 そうして、雪の目の手術の結果が出る日がきた。右目はもう潰れているので眼帯もしていない。左目には手術後の包帯がまかれている。看護師がその包帯をゆっくりとはずしていく。そしてドクターが、


「ゆっくり目を開けて」


 と言った。


 雪がまぶたをあげる。ドクターが雪の左目にペンライトを当てる。


「見えますか?」


 雪は首を横にふった。そうしてそれから、


「夫に電話してもらえますか」


 とお願いした。


 事の顛末をいちばん最初に最愛の人に伝えたい。しかしもう自分の目は両方とも機能してくれない。スマートフォンは自分にはもう猫に小判だ。




「あ、このスマートフォンですね」看護師が雪の赤いスマートフォンを手に取り「電話番号は……?」


「はい、良介で登録してあります」


 雪はできるだけ丁寧にお願いした。




 基本的に雪は「感謝」という言葉は使わない。なぜなら、それは当たり前のことだと学んできたからだ。


 人は多くの人に支えられて生きている。自分に関わる人、直接的に、間接的に、を問わず、支えになってくれる人々の存在。ゆえに「感謝」は当たり前なのだ。でも感謝の気持ちを伝えるのは難しい。だからこそ、今を、精いっぱい生きなければならない。それが感謝の思いを表す唯一の恩返しになる。いや、それしかできない。




 だから雪は良介と結婚した。母親の死を理由に飛び降り自殺はかったひとりの男。その男に、愛するとはどういう感情なのか教えてもらった。それなのに自分はその男を裏切った。




 良介は介護タクシーで雪の病院に向かった。30分後、良介の車椅子が雪の病室に着いた。


 良介はノックもせずにドアを開けた。


「雪?」


 そう最愛の人の名を呼んだ。


「良ちゃん?」


「ああ、手術、大変だったね。雪はもう俺の顔、見れないんだね。こんなにイケメンなのに」




 1ヶ月後、雪は退院し、良介とのふたりの生活に戻った。


 目の見えない生活はそれほど困難ではなかった。食材も、調味料も、包丁もフライパンもどこにるか覚えていた。買い物も、良介と一緒なら必要なものは問題なくそろった。雪はそんな良介を裏切ったなんて、と自分を責めた。


『愛する』とはつまりそういうことだ。


 見た目なんかどうでもいい。中身なんかどうだっていい。ただ存在して、一緒に生きていてくれれば、それでいい。


 そうして『しあわせ』も自分が喜んでるときじゃなく、愛する人を喜ばせることができた時、ほんとのしあわせな感情に達する。




 雪の人生で交際した男は良介だけだ。


 中学でも高校でも、月や花には彼氏ができ、その何人かは両親である哲郎と夏枝に紹介された。その光景を雪は悔しいともうらやましいとも思わなかった。だが雪は良介と出会って、恋のステキさを知った。そして結婚した。ふたりの妹が手にいれられなかったモノを雪は手にした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ