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<第4章>時給150円

 

「良ちゃん、ふつうに働いてみない?」


 良介にとってこの上なく切なく続いたある日、雪が言った。


「働く?」


「うん。わたしの友達お父さんが働いてて、時給は安いんだけど、社会復帰を目標にいろんな人たちが働いてるんだって。良ちゃん先生辞めちゃってからあんまり外出しなくなったから、なんて言うか、気分転換にもなるしさ、もしかしたら良ちゃんの小説の題材になるかもしれないしさ。ここから近いっていうし。どう? 行ってみない?」




 サッカーをふたたびあきらめた良介は、世界平和の実現の夢は捨てられず、執筆活動だけは続けてきた。そんな良介に、雪はわくわくした気持ちで提案した。きっと、いい答えが返ってくると信じて。


「安いって、時給いくらだよ?」


「150円……って確か」


「ふざけんなよ! そんな金の仕事なんてばかばかしくてやってられっかよ!」




 良介は雪の期待を容赦なく切り捨てた。


 それでも雪はあきらめなかった。このままじゃ、良ちゃんは、ダメになってしまう。


「とりあえずさ、話聞くだけでもいいから行ってみようよう」


 雪は祈るような思いだった。




 3日後、良介は雪に車椅子を押してもらって『相談室つくしんぼ』を渋々訪れた。約束の時刻は10時だったが、ふたりは9時半にはつくしんぼに到着してしまった。それほど雪も良介も興奮していたということだ。


「ちょっと早すぎるかなあ……ま、いいか」


 そう言って雪はガラス扉の脇にあるインターホンを押した。数秒後、


「はーい」


 と、返事がインターホンから響いた。


「あ、すみません。ちょっと早いんですけど、今日10時に予約してある永澤です」


「ようこそ。すぐ行きます。数十秒後、ガラス扉の奥から階段を小走りに降りてくる足音が微かに聞こえた。そうしてガラス扉が解錠され、姿を見せたのは背の低い、長髪の男が笑顔で、


「こんにちは」とあいさつをし「どうぞ」と言って茶色のビニール地のスリッパを一足揃えて並べてくれた。雪の分だけだ。良介は車椅子のタイヤを回して中に入った。


 良介は、〝土禁〟なのにオーケーなのかな、と思いながら、というか、気づかいをしながら雪とともに男のあとについて行った。


 ふたりは入り口の上に「面談室」と記されたプレートの貼られた部屋に通された。




「わたくし、精神障碍者支援員の米田健二と申します。お茶は温かいのと冷たいのどちらがよろしいでしょうか?」


「それでは冷たいほうで」


 と良介。


「それではわたくしも」


そして、少しお待ちください、と言って米田は面談室から出ていった。


「なんか緊張するね」


 雪が良介に同意を求めるように言った。


「だな」




 1、2分して、若い女がグラスに入った麦茶を運んできて木製のコースターの上に、ひとつは良介の前、もうひとつは雪の前に置いた。そうして、


「少しお待ちください」


 と言って、あっという間に面談室をあとにした。




 そのまた1、2分後、なにやら資料らしきものとノートパソコンを抱えて米田が戻ってきて、まずこちらをご記入ください、と言って、一枚のアンケート用紙のようなものを良介の前に差し出した。




 名前、住所、学歴、職歴……。まるで履歴書みたいだな、と良介はなんだかやるせない気持ちになった。


「ええと、ナガサワリョウスケさんですね」


「はい」


「B型の作業所での仕事をしたいと電話で奥様からうかがっておりますが」


「はい」と今度は雪が答えた。そして「この人、最近ぜんぜん元気がなくて、大好きなサッカー部の監督もやめちゃって、で、教員の仕事もやめて家に引きこもるようになってしまって、ですから、ふつうに働いてみたら、って提案したんですけど、本人はあまり乗り気じゃないんですけど、わたくしとしましてはぜひ働いてもらいたくて……それに、主人の友人が言うように、本気で小説を書いたほうがいいんじゃないかと思って、その題材探しでもかまわないから働いて、それに、家にいるより外でいろんな人と接したほうが心身ともに快活になると思って……そんな時ここの話を友人から聞いて……」。


「ご主人は、どうお考えですか?」


 米田はパソコンのスクリーンではなく、良介のほうを真摯な目で直視しながら訊いた。眼鏡の奥の瞳はやさしかった。




「ぼくは、ぼくには、正直わかりません。大好きなサッカーが苦痛の原因になってるなんて信じられないし、それに妻が言うように、小説を書くのは楽しいんですが、自分には小説家として大成するような才能はありません。ですから妻のアドバイスを受け入れてもう一度、ふつうに、教員だったころと同じように、働いてみようと。で、ここへ……でも時給150円って本当ですか?」良介の声が少しだけ大きくなった「そんな低賃金でみなさん真面目に働いているんですか? ぼくには信じられません」


続けて良介はまくしたてるように、そうして怒りでもぶつけるように、言った。


「B 型の作業所ですから」


米田はそれしか言わなかった。


「…………」


 良介の沈黙。


「とりあえず、見学だけでしてみませんか?」


 米田は良介の心境を察し、反抗はしなかった。むしろやさしかった。そして、


「あなたのような方のためにB型の作業所はあるんです。わたしたち相談員も支援員もそうです」


 と言った。


 そうして、スマートフォンを取り出しどこかへ電話をかけた。


 そして数分後。


「申し訳ありませんが、つくしんぼの作業所の施設長が本日出張でして、確定ではないんですが、明日、1時ごろ、ご都合はいかがでしょうか?」


「大丈夫です」


 間髪入れずにそう答えたのは、やはり、良介ではなく、雪のほうだった。強い答え方だった。




 帰路、良介は雪に感謝の気持ちを述べた。


「ありがとう、雪」


 


 そうして翌日10時50分、良介と雪はふたたび相談室つくしんぼを訪れ、米田の案内で案内で、相談室つくしんぼから5分もかからない場所にある『B型作業所つくしんぼ』まで来た。


 米田はインターホンは押さず、どうぞと言ってまたスリッパを一足用意し、そうしてまた、良介と雪を八畳ほどの部屋に通した。良介と雪は何も言わず何もせず、次の展開を待った。




 するとすぐ、米田と一緒に真面目そうな男が黒いポロシャツを着て姿を見せた。


「はじめまして、わたくし、B型作業所つくしんぼの理事長をしております平山ともうします」次に平田はまるで歌舞伎町の客引きみたいに、良介と雪をいざなった。




「それでは、永澤さん、現場を身にまいりましょう」


 平山は笑顔を見せた。


 少し進んで、


「ええとですね」と言いながら、利用者のいじくっているなんだかよくわからない金属やプラスチック製の部品を手に取って「これはトイレの水を流すときに用いられる部品です」とか「これは建築現場で使うベニヤ板です」とか、いろいろ言いながら作業の説明をし、15分ほど見学をしたあと、良介と雪を応接室に案内した。




「いかがでしたか? 作業はいたって簡単ですし、ずっと自宅にいるよりは健康的ですし、気分転換にもなると思いますし、週に2日から、ぜひ、ご一緒に働いてみませんか?」




 平山は良介のポテンシャルを悟っていた。その悟りは期待にも似ていた。




 この人なら、きっと大丈夫……。




「それでは週2日からお願いします」


 良介は自信なさげだった。しかし平山の顔は、ぱっ、と明るくなった。


「そうですか!」平山は立ち上がった「よかった! 実はうちも人手不足でして」


 気持ちのいい笑顔だ。




 この人について行けば、きっと大丈夫……。




 その横で米田が笑みを浮かべていた。


「でも、わたしなんかが本当に働けるんでしょうか?」


「まったく問題ありません。うちは身体より精神の障害を抱えた方のほうが多いので、仕事はがんばりすぎずに、ぼちぼち、やっていただければ結構ですから。とりあえず1カ月、ちょっと長いですが〝体験〟という形で働いてみませんか?」


「はあ……」


 良介の声はまるで精彩を欠いていた。




 平山は話を米田にふった。


「米田さん、明日、オーケーですか?」


「ええ、大丈夫です」


「それではまた明日おこしください。心よりお待ちしておりますので」




 翌日。良介はひとりで作業室つくしんぼのまで来た。ほんの少しだけ、緊張、していた。


 入口の前で、米田と平山が立って、良介を出迎えた。もしかしたら良介は来ないかもしれない。そう思っていたふたりは心底ほっとした。いや心底、喜んだ、と言ったほうが適切だ。




「それでは永澤さん、今日は『連結管のリングはめ』の作業をお願いします」


 その声は、中田、という作業責任者のものだった。




『連結管のリングはめ』はいたって簡単な作業だった。


 初日、という理由からだろうか、自己紹介はしたものの、良介に話しかける利用者はいなかった。それでも良介は1日でつくしんぼが気に入った。いや、他の利用者もメンタルの障害を抱えているからか、変に同情されなかったことがかえって良介をリラックスさせた。


 午前中には10分、午後には15分の休憩があり、昼食も美味しかった。初日のメニューは焼肉定食だった。


 そのころ雪は夕食のビーフシチューの食材を買いに近所のスーパーマーケットを訪れていた。ビーフシチューは良介の大好物だ。良介は雪に、「おまえのビーフシチューさえあれば俺は他には何もいらない」とまで言ってくれている。




「ただいまあ」


 玄関の扉が自動で開き、そのほうから雪の耳に良介の声が雪の耳に届き、雪も、


「おかえりなさーい」


 と出迎えた。


「どうだった? B型作業所初日の感想は?」


「うん。まあまあかな」 良介は素直に答えた「こうばしい匂いだ。ビーフシチューだね?」


「良ちゃんの新しい人生のスタートだもん。がんばっちゃった」


 そうして雪は笑顔を見せた。そんな雪に、


「雪、お願いがある」


「なあに?」


「キス、してくれ」


 雪は何も言わず良介の唇に自分の唇を寄せ、そうしてキスした。舌をからめない長いキス。雪は車椅子に座る良介を抱きしめた。そのキスと抱擁が良介の疲労をいやし、明日の仕事へのカンフル剤となった。


 週2日のつくしんぼでの仕事と人生を描く小説執筆。


 しばらくはこの生活を続けよう。


 良介は雪と結婚して本当によかったと思いながら、雪とのキスに酔いしれた。




 そんな良介と同じように、千恵と龍之介も幸せな結婚生活を送っていた。


 長女には「麗」と名付け、大切に育てた。




 が、しかし、広志と順子は結婚生活をうまくはこぶことができなかった。理由は広志の浮気だ。


 広志にとって「妻」とはいつでもセックスさせてもらえる都合のいい女でしかなかった。




 広志は父親から金をせびり、定職にも就かず、女遊びに明け暮れていた。


 よく考えてみれば、広志の人間性と正確が、結婚に向いていないことは火を見るよりも明らかだった。




 順子の職業は美容師だった。良介は無料で髪をカットしてもらっていた。良介だけでなく、雪も月も花も、千恵も龍之介も、和も、最先端のおしゃれなカットをしてもらっていた。しかしその幸運は広志の女ぐせの悪さゆえに消滅してしまった。




 広志は「逆三下り半」と言えばいいのだろうか、離婚届を突きつけられ苛立ち、そうしてバイクを乱暴に乗り回し、天罰か、交通事故を起こしてしまう。


 その連絡を受けた両親は、広志が搬送された市立病院に駆けつけた。


 広志は、ベッドの上で、


「痛え、痛え」


 とうなり通しだった。




 診察室ではない部屋に通された両親はドクターから、


「息子さんの足の状態は、残念ながら、非常に悪いです。左足首から甲にかけてかなり重度な複雑骨折をしていて、切断も、やむおえません。どうなさいますか?」


「それは、本人に訊いてみないと……」


 哲郎はすぐ横で芝居のように涙する妻を見ながら、自分も芝居の台詞のようにそう言うしかなかった。




 広志の病室に戻り、父はドクターの説明をそのまま伝えた。


「イヤだ! なんとか切断しなくてもいい方法を考えてくれって先生に言ってくれよ‼」


 そう騒いだ。きっと良介のようになるのが怖かったのだろう。




 結局、広志の脚は切断せずに済んだが、手術に限界があり、もう普通に歩くことは困難になり、びっこを引くのを余儀なくされた。左足首から先は奇形になり、厚手のサポーターが痛め度目のために必要になった。


 その手術には多額の費用がかかった。




 永澤家の貯金は広志の愚行のせいで見る見る減少していった。しかも哲郎は商売のために借金をしていた。そうして広志は離婚した。良介も、千恵も、幸せになったが、広志だけが不幸になった。幸せとは、自分の喜びではなく、相手の喜びを追求することで生まれる感情だ。千恵、広志、そして良介は、両親から等しく愛されて育ったが、広志だけは、幸せとは何か? その意味を学ばずに大人になってしまった。


 


 足の不自由になった兄を良介は、自業自得、だと思っていた。アルコールを呑み、煙草を吸い、女遊びをする。ろくに働きもせず……。良介はそんな兄貴が嫌いで嫌いで仕方なかった。




 一方、良介のB型作業所つくしんぼですごす日々は順風満帆と言っていいほど順調だった。しかし人間やはり十人十色。「おなよう」も「お疲れさま」ともあいさつをしてくれない人も、いた。しかし永い歴史のあるつくしんぼの人間関係は自由で、プライベートの制限はなかった。




 村井治。


 良介と同い年で、すぐにLINEでつながり、翌週の食事会に誘われた。良介は、自分の身体のせいで、参加者が恥をかくと思って、一瞬躊躇したが、参加することにした。




 だが、食事会は楽しいものではなかった。その理由はやはり良介が車椅子に乗っているということだ。それと同時に、みな、時給150円という仕事で、皆が悲しい思いを背負っていたからだ。アルバイトの高校生やパートタイマーの主婦が時給1000円以上かせげる時代に……。

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