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<第2章>こころ、なんだか


 高校を退学処分になった広志は父のつてで自動車整備工場に正社員として採用された。しかし1週間もたたずに辞めてしまった。そうして父の経営するガソリンスタンドを手伝うようになり、今度は人が変わったように真面目に働いた。


 


 そのころ時を同じくして永澤家は4LDKの家を新築した。誰もが口にするように、父にとって、人生でいちばん高い買い物だったが、それまで自室の部屋のなかった子どもたちはおおいに喜んだが、哲郎は決して若いほうではない。不安だった。いつまで働けるのか。




 ここで問題がひとつ、広志が父の経営する小さな商店で働くということは、店の売り上げから広志の給料が発生するということだ。そんな状態で一軒家のローンなど返済できるわけがない。広志はバカだ。そうして永澤家の茨の道が始まる。




 良介は居酒屋でアルバイトをしながら受験費用を捻出し、両親の力を借りずに大学に合格し、越谷で一人暮らしを始めた。プロサッカー選手になるために選んだ道。圭子との遠距離恋愛……。良介は大学を中退し、就職することを決断した。誰にも相談せず。


 しかし就職に必要な知識もなく特別なスキルもない良介。就職はアルバイトとは似て非なるものだ。




 電車に揺られることおよそ1時間。スーツというものを持っていなかった良介は黒いチノパンに白いポロシャツという出で立ちで、面接場所の三ノ輪に向かった。




 もうプロサッカー選手にはなれない……。




 どうせ採用されねえよ!


 良介の心の中に絶望という名の嵐が渦巻く。そして怒りにも似た感情を必死に押し殺しながら、片山会計事務所へたどり着いた。


 無数に存在する職業の中から良介が会計事務所を選んだのは、せこい理由からだ。




『面接交通費も支給』




 要するに〝金〟だ。


 いざ、面接。




「はじめまして、永澤良介と申します」


「はい」


「いいえ」


「ありがとうございました」


 30分ほどで終わった面接の間、良介が発した言葉は、それだけだ。




 生まれて初めての面接の帰りの電車の中,良介は、


「ああ、俺はもう本当にサッカーをあきらめなきゃなんねえんだな」


 と、悲嘆にくれた。そうして電車を降りると、サッカーと決別するために、自販機で煙草を買って、その場で吸った。


 不味かった。




 ふてくされてアパートに帰った良介だったが、信じられないことに片山会計事務所からの電話が来た。


 採用。




 いったいオレなんかのどこに魅力を感じたんだ? スーツも変えない貧乏学生に同情してくれたのだろうか?


 仕事は事務とは名ばかりで〝猫の手も借りたいくらい〟とはこのことか、と言わんばかりのハードスケジュールだった。そうだようするに誰でもいいから人手が欲しかったんだ。そうとしか考えられない。




 それでも良介はよかった。大学は中退してしまったけれど、これで、親に迷惑をかけず、すねを齧らず、なんとか一人で食べていける。


 だが会計事務所の仕事は良介の性に合わず、1年もしないうちに辞めてしまった。




 それから良介は職を転々とする。看板屋、ドラッグストア、コンビニ、ファミリーレストラン、「男女7人」の今井良介も5回転職していた。永澤良介も似たようなもんんだ。




 そんな絶望的な日々が続いても自殺せずに済んだのは、やはり圭子がいてくれたからだ。良介は携帯電話を買った。そして電話番号を圭子にだけ教えた。実家には教えなかった。




 携帯電話を買ったばかりの頃は毎日のように圭子からがあった。しかし電話の頻度は徐々に少なくなっていった。二日、一週間、十日、二週間、一月。すると圭子からの電話はぴたりとかかってこなくなった。「良介は『フラれたんだ』と理解した。せざるを得なかった。




 煙草を吸ってコーヒーを飲みながら、小説を読むことが多くなった良介。読書は久しぶりだった、そして人生の支えだった。特に伊坂悦子の「日本語表現法」の文章では、論文を書いてくるようにという課題に、当時はまっていた女流エッセイストの文体をマネして文章を書き、伊坂を驚かせた。それが、サッカーとの関係を引き裂かれてふてくされそうなった良介の生となった。




 しかし就職のほうはてんでうまくいかなかった。


 痩身で身体の小さい良介には肉体労働は、はなっから採用されなかった。それに大学中退という学歴は、大手企業での午前9時から午後5時の通常勤務だけの、すなわちNO残業で帰宅が許される企業に雇ってもらうには、あまりにも中途半端な実績だった。




「人間はメシを食べなければ死ぬから、そのために働いて、メシを食べていかなければならないという言葉ほど、わたしにとって難解で晦渋でそうして脅迫めいた響きを持った言葉はなかったのです」




 誰かの小説に出てきた一文だ。




 明くる日、良介は大学のサッカー部で唯一仲のよかった小野泰彦のアパートを訪れた。


 インターホンを鳴らすと小野がすぐに顔を出した。


「よお、永ちゃん、なんかあったの?」


「実は……」 そう言って良介はことの顛末を打ちあけた「……俺、仕事辞めたんだ」


「そうなんだ」


「うん」


「それで、これからどうすんの?」


「どうおすればいいと思う?」


「永ちゃん、貯金ぶっちゃけいくらある?」


 小野の声が急に激化した。


 少しビビりながら良介は正直に答えた。


「……100万ちょい」


「その金があるうちに新しい仕事探しな。それしか方法ないよ」


「そうか、また働くのか……メシを食べていかなければ、死ぬ、からか」




 翌日から良介はハローワークに通うようになった。だがなんのスキルもない良介。再就職は一足飛びには決まらず、その一方で貯金はどんどん減っていった。良介は自殺を考えた。が、 そのころ、サッカーのワールドカップが日本と韓国で共催された。




 この大会が終わってから死ぬのも悪くないな。


 そうして1カ月後、ワールドカップはカナリア軍団・ブラジル代表のものとなった。




「永ちゃん、親に相談したほうがいいよ。俺なんかよりずっと力になってくれるはずだから」


 そのころ小野は小学校の教師となって、安定した暮らしをしていた。もしかしたら恋人もいたかもしれない。


「そっかあ、でも……」


 良介は幼かったころの姉兄の愚行を思い出すと、それを選択肢に入れるのは、どうしても、嫌だった。




『人生は茨の道だ。だが一生懸命生きていれば、努力は必ず報われる』


 激動の昭和を生きてきた大人たちはそういうけれど、現実そんなにあまくない。努力では越えられない壁はいくらでもある。


「そっかあ、やっぱり家に帰るしかないか」


 良介はプライドを捨て、実家宛の手紙を書いた。






  お父さん、お母さん、千恵ちゃん


  もうぼくは限界です。


  生きているのがつらいんです。


  サッカーも、もうあきらめました。


  いままでどうもありがとうございました。






 そのころ 父、哲郎は市立図書館の深夜の警備の仕事を、母、夏枝は転職して隣町の総合病院で看護助手の仕事に、千恵はピエモンテで販売と接客の仕事を、広志はトラックドライバーのを。家族4人つつましく暮らしていた。広志は高給取りだったが、家にお金を入れるようなことをする人間ではなかった。もし広志に人間的な思いやりがあれば、良介は大学でサッカーを続けられたかもしれない。




 そんなとき届いた良介からの遺書めいた手紙。その手紙が届いた日、千恵は非番で、すぐに母の携帯電話に連絡した。夏枝の病院では仕事中に携帯電話を持つことを許可されていた。なにか緊急事態が起こった時のために。その緊急事態が、良介からの手紙だ。




 母は看護主任に訳を話し、午後3時で仕事をあがらせてもらって、千恵と待ち合わせをして越谷に向かった。


 夏枝と千恵は家族の中でも取り分け仲が良くお互い仕事が休みの時は一日中話しをしていたが、越谷に向かう電車の中では、ひと言も話さなかった。そして3時間半、ふたりは越谷の良介が一人暮らしをするアパートにたどり着いた。




 コンコン。


 千恵が良介の家賃月3万の風呂なしアパートの部屋をノックした。その乾いた音が母姉の来訪を告げるものだと万年床にもぐっていた良介には予想がついたが、良介は無視した。




「良ー?」


 と千恵が弟を呼んだ。そうして千恵がドアノブを回した。施錠はされていなかった。


「良ちゃあん?」


 母の声に良介は反応し、布団から顔をのぞかせた。母の目に映った息子の顔はかつて一度も見たことのない、疲弊しきった顔だっただろう。


 だが良介は生きていた。その現実に夏枝は心から安堵した。




「何よ、良ちゃん、死んじまったかと思ったよ」


 良介は服薬自殺をはかったが、未遂に終わっていた。


 もはや〝死ぬこと〟も叶わない。


「姉ちゃん、煙草買ってきてくれる? ここに来るときコンビニがあったでしょう? そこで」


 といって良介は布団からはい出て、座卓の上に無造作に置かれた黒いアーノルド・パーマーの財布から千円札を1枚取り出して千恵のほうへ差し出した。


「これと同じの」


 自殺を決意して吸い切ったマルボロのメンソールのそれはぐちゃぐちゃにされていたをわたした。


「うん、わかった」




 部屋は母と末っ子ふたり切りになった。


「お母さん、ごめんね。迷惑かけて」自分んも姉兄と同じだ。いや、もっとひどい「俺だけは親孝行しようと思ってたけど、やっぱりダメだったね、俺も」


「良ちゃん、家に戻ってきなよ」


「俺の部屋、ないだろ?」


 千恵がマルメン手に戻ってきた。


「はい、良」


 といって千恵は煙草の箱を良介に渡した。それを受け取ると、良介は乱雑にセロハンをはがし、あわてるように一本引き抜いては火をつけ、そうして、ふー、と細長く煙を吐いて、


「ごめん」


 と呟いた。




「なあ千恵ちゃん、良ちゃん、どうしたらいい?」


 母の問いは娘の耳をすり抜けていった。


 このままでは、良介はダメになってしまう。そう直感し、自宅にもどるよう説得する言葉をさがした。




「良、大塚さんとはどう?」


「だいぶ前にフラれた。自然消滅って言えばいいのかな。電話もつながらなくなった」


 良介はウソをついていた。良介のほうから圭子に電話したことは一度もない。


「良、帰ってきな」


「いいの?」


 その質問には姉ではなく母が答えた。


「もちろん」






 母と姉が「とりあえず」いったん帰宅した日の夜、良介は中学時代サッカー部のゴールキーパーをしていた武井修の自宅に電話をかけた。3年間一緒に戦った、まさに刎頸の友だ。声で、電話に出たのが修だとすぐにわかった。


「もしもし、タケ?」


「違うって答えたらどうするの?」


 武井らしいジョークだ。


「どうもできない」


「俺、今『サッカーライター養成講座』ってのに通ってんだ」


「おっ! いいねえ」


 良介の心に激震が走った。プロサッカー選手なれなかったけれど、サッカーに携れる仕事に就けるかもしれない。良介はそう直感した。


「おまえは? 今なにしてんの?」


今度は武井のほうが訊いた。良介は素直に答えた。友達には、ウソはつきたくない。


「いや、その……なにもしてない」


「そか」武井は平然んと答えた「実はな、俺、おまえに頼みがあって電話したんだ」


「頼み? なに?」


 良介の素っ頓狂な声。


「あのさ、またサッカーやんねえか?」


『また』。武井は良介がサッカーから遠ざかっているのを知っていた。きっと、大学を中退したことがうわさになってサッカーもプレーしていないと予測したのだろう。


「やりたいけど……どういうこと?」


「いや、話すと長くなるんだけど、さっき話した『サッカーライター養成』で仲良くなった人が草サッカーチームを作ったんだけどメンバーが足りなくて、誰かいないかって、で、おまえの顔が浮かんでな、それで連絡したんだ。どう、やる?」


「もちろん!」良介の声に生気がよみがえっていた「でも走れるかなあ……?」


「それで、いきなりで悪いんだけど、今度の土曜、2時から試合だから。」


 それから試合会場のグラウンドがある場所と電車でのアクセスの仕方を告げ武井は電話を切った。




 良介の心は少年時代や高校生だったころと同じようにワクワクしていた。良介は押入れの中のフィッツケースの中から川高サッカー部の青いユニホームを取り出して両手でひろげた。背番号20。チームメイトがみんなより倍の練習をする良介にエースナンバーの10の2倍の期待を込めて選んでくれた背番号。


 またサッカーができる。まだ人生をやり直せる。良介はそう感じていた。




 武井からの連絡があったのは水曜日。良介は土曜日までの3日間をまさに一日千秋の思いですごした。


 金曜日の夜、夕食を近所の吉野家で牛丼の特盛で済ませ、いったん帰宅して、銭湯へとおもむき、それから準備に取り掛かった。スパイク、ソックス、スパッツ、イタリアのユニホーム、ジャージ、それからバスタオル。


「明日が来るのが楽しみだ」


 良介はひとり笑った。それは久しぶりのことだったが、良介はそのことに気づかなかった。その微笑みと同じような久々のプレー。自分はどれだけやれるだろう。胸の高鳴り、ワクワク、ドキドキ、ゾクゾク、どれもあるようでどれもないような不思議な感情がそこにはあった。




 土曜日、いつも通りトーストにバターをぬって甘く作ったコーヒーで朝食を済ませると、もう一度アディダスのスポーツバッグの中のサッカーツールを確認して良介はアパートを出た。北越谷駅から南砂町駅まで電車で1時間半。土曜日だったからか、幸運だったからか、北越谷から南砂町まですっと座って行けた。




 良介は交通系ICカードを持っていなかった。北越谷で最安の切符を買って電車に乗り、南砂町で乗り越し精算して武井が指定した待ち合わせ場所に到着した。そこには7,8人のい見知らぬ人がいた。だが彼らが自分と同じ『サッカーライター養成講座』でつながった仲間であることは容易に想像できた。彼らはみな〝ぼく、サッカー好きなんです〟といったオーラを放っていた。




「もしかしてナガサワ君?」


 ベンチに座っていたおそらく良介より少し年上と思われる坊主頭の男が」立ちあがって訊いてきた。


「はい」


 良介は甲子園球場で選手宣誓をする高校球児のようにハツラツと答えた。


「君のこと、武井君から聞いてるよ。あ、武井君なら買い物に行ってる、そこのコンビニまで。それより今日はありがとう。うちも一応三ツ輪電気っていう会社のサッカー部があるんだけど、メンバーが足りなくて、それで市川君、あ、サッカーライター養成で武井君と友達になったライター志望の人ね、で、なんだっけ、あ、そうだ、三ツ輪電気のサッカー部も市川君と縁あってつながって、合同チームをつくろうってことになって、それで武井君が、サッカー好きの友達ががいるってことで君に白羽の矢が立ったんだ。あ、おくれてごめん、俺、東山義彦、よろしく」




 そこへ武井がかわいい女の子と一緒にコンビニから戻ってきた。


 「よ! 久しぶり」


 と武井。変わってないな、と良介は思った。


「え、彼女?」


 と良介は意味深に訊いた。


「ああ」


「かわいいじゃん」


 何だか官能小説のしおりに描かれているきれいな女の子だな、と良介は思い、感じた。


「ウソ。マネージャーさん。三ツ輪電気の事務の人」


 マネージャー、というワードが良介の中で奇妙に引っかかった。




 マネージャー、マネージャー、マネージャー……。




 そこへ電車で来た良介たちとは別の車組がやって来て、良介たちを、区が運営する利用料の安価な総合スポーツ施設に送ってくれた。


 テニスコートが2面、サッカーグラウンドが2面、野球所が2面、そして事務所のある施設の中にはプールと柔剣道場、そしてトレーニングルーム。シャワールームもあった。


 今日はそのサッカーグラウンドのひとつを東山が予約してくれていた。




 良介は、休憩を4回はさんだ2時間ののゲームで、8ゴール11アシストの大活躍だった。みんなが良介のプレーに驚嘆し、称賛もしてくれた。特にチーム最年長のキャプテン・東山は、


「永澤君、選抜とかに選ばれていたでしょう?」


 と大絶賛んしてくれた。




 しかし最も安心したのは武井だった。


 良介自身話したかどうか記憶していなかったが、圭子にフラれたことを知っていた武井は、良介を励ますためにこのチームに誘ったのだ。




 プレーのあと、メンバー全員で(マネージャーも一緒に)日本食のファミリーレストランに行った。みんなワールドカップ日韓大会の話で大盛り上がりだった。




 良介と武井は4人掛けのボックス席にふたりで座った。午後2時、レストランは空席が目立った。


「きのう電話で『何もしてない』って言ってたよな?」


「ああ、会社辞めたばっか」


 良介がオーダーしたかつ丼と武井がオーダーした生姜焼き定食が運ばれてきた。


 良介武井との間に嫌な空気を感じて席を立った。


「ちょっとドリンクバー行ってっくる」


「じゃあ、俺の分も頼む」


 武井は良介の心中を理解できないでいた。


「なに飲む?」


「ジンジャーエールでいいや、本当はアルコールがほしいけど」


「ビールでも頼めば?」


「いや、ジンジャーエールでいいや」


「了解」




 1、2分後、良介は自分のオレンジジュースと武井のジンジャーエールを両手に席に戻った。武井が「遅いよ」悪びれたので良介は「ちょっとこんでて」と言ってグラスを武井の前に置いて、自分も席に着いた。


「帰ってこいよ、ホームなんだから」武井はそれだけ言ってジンジャーエールを口にした「仕事ならうちのペンキ屋で働けばいい。俺が親父にたのんでやる」


「…………」


「良介は答えに窮した。それはすなわち武井のアドバイスに従う、ということを意味していた。武井だけじゃない。良介の父も母も姉も、良介の帰郷を望んでいることは確かだった。




 北越谷への帰りの電車の中、良介は苦悶していた。


 仕事は武井のツテがある。孤独からも解放される。父と母と姉がいる。


 家に帰る。チョイスはそれしか残されていない。そう思えた。だけど、帰りたくない気持ちもあった。




 朝6時に起きて、朝食を食べ、武井の親父が経営する武井塗装店で働き夜は本を読むかテレビを見るかして10時に寝る。


 そんな生活が2か月続いた。しかし、その生活はまたしても長くは続かなかった。武井塗装店の仕事に行かないようになってしまった。今の良介は真冬の獣のようだ。冬眠が、つまり休息がひつようだったのだ。




 それまでに永澤家は持ち家を売って3LDKアパートにひっこしていた。両親の部屋、千恵の部屋、広志の部屋、そしてダイニングキッチン。千恵が、


「わたしの部屋でいいじゃん。一緒に暮らそうよ」


 と提案してきたが、家に金を入れない兄貴と暮らすのはどうしても、どうしても、嫌だった。しかし兄貴の家にいそうろうする以外に道はない。苦しいけど、飲み込まなければならない選択肢だった。




 そうして、アパートの契約者である広志から出された同居の条件は良介の貯金を家賃に当てるということだった。


 良介はその条件をのんだ。


 そうして月に一度武井と南砂町まで行く。他の日はの千恵の部屋に閉じこもってすごした。だが、奇跡は起きた『サッカーライター養成講座』の第2回が募集された。武井も良介もすぐに申し込みのメールを送った。




 そして代々木のビルのでの講義。初めての課題は『2002年のワールドカップ日韓大会について』というテーマで論文を書いて来るように、というものだった。




 家路の小田急線の中、良介は武井に訊いた。


「おまえ、イメージできるか?」


「まあ少しはな、ベルギー戦はスタジアムで見たし」


「そっかあ……俺は全然だ」




 駅に着いた。良介は北口、武井は南口、ふたり、


「じゃあな」


 と言って別れた。




 3日考えても良介は論文の案が浮かばなかった。そうして日本代表の最後の試合となったトルコ戦を中村俊輔が代表に選ばれていると仮定して小説を書いてみた。原稿用紙8枚。


(これじゃ、短すぎだよな)


 と胸の中で感じつつ、でも今の自分にはこれで精一杯ベストを尽くしたとあきらめにも似た感情をいだいて、まず武井に読んでもらうことにした。




 武井は天才だ。中学2年の時、因数分解の宿題を忘れた良介と武井。授業前の数分の時間、良介がクラス委員長の友達のノートを借りて宿題をまる写ししているより早く自分で問題を解きながら良介より先に宿題を終わらせた。


 そんな武井が、良介の『幻のフリーキック』原稿用紙8枚を読んで、


「おまえすげえ文才だ! 小説家を志せ!」


 ろ絶賛した。


「小説家ー?」


「お目の文章はサッカーを書くより人生を表現したほうがモノになると思う」


 天才が認めた良介の才能。中退した大学で伊坂悦子教授の「日本語表現法」の講義で、伊坂教授が称賛した短い文章の数々。そして今は天才からの賛辞。




 確かに2002年のワールドカップ日韓大会の日本代表の最後の試合となったトルコ戦を小説のように書いていた時は素直に楽しいと思えた。だが


その作品は「サッカーライター養成」プロのジャーナリストの目に止まるものではなかった。だから自信が持てなかった。でも1日原稿用紙1枚のを最低限のノルマにして、自分の高校時代のことを小説に書いてみようという思いに至った。そう、サッカーではなく「人生」を。タイトルは、


『こころ、なんだか』




 その小説を脱稿すると、また武井に読んでもらった。


「やっぱり俺の勘に間違いはない。おまえ、いい小説家になるよ」


 と武井は感嘆し、同時にため息をついた。 


 そうして、小さな出版社が募集している新人省に応募してみた。


 


 3週間後『こころ、なんだか』が一次選考を通過した、という通知が送られてきた。


(ウソ? マジで?)




 伊坂教授や武井のいうことは間違っていなかったということだ。だが良介は、うれしくなかった。


 そして思った。やはり自分は小説より、そうしてまた、他のなによりサッカーが好きだ。高校生だった時、がんばって、がんばって、レギュラーになれて喜び、小説には、それがない。




 良介は、プロサッカー選手以外にサッカーに携れる何かないか考えるようになった。




 翌日、良介は武井にドライブに連れて行ってくれるよう懇願した。武井の答えはOK だった。そうしてカラオケに行った。




 良介の帰郷。机、ベッド、本棚、千恵の部屋にいそうろうさせてもらうことになった良介の家財道具はほぼほぼ処分された。


 


 千恵の部屋にはたくさんの本があった。その本を読むことと月1のサッカーが良介の生きるモチベーションになった。そんな中『こころ、なんだか』が第2選考を通過した通過し、最終選考まで残った、という通知が良介のもとに届いた。


 もしかしたら、自分には、武井の言うように、小説を書く才能があるのかもしれない。




 本気で小説家を目指そう!




 そんな決意にも似た感情をいだき人生を前向きに生きようと思うようになったころ、悲劇は起きた。


 母の夏枝が脳幹破裂で死んでしまったのだ。


 良介を誰よりもどんな時も愛してくれた母。その母の死が良介から生きるエネルギーを略奪した。




(お母さんのいない人生なんて、生きてる意味ない)。




 良介は自殺を決意した。


 住宅街の中に不自然に建設された超高層マンション。その外階段をのぼって屋上にたどり着くと、スニーカーと携帯電話を揃えて、ギリシャ神話のイカロスのように飛び立った。




 覚醒した良介は絶望した。何の喜びもない人生を終わりにすることさえできない。


 病院の無機質な天井。それを良介はよく記憶していた。子どものころ、良介は入院したことがあった。診断名は、起立性調節障害、というものだった。




 誰かが病室に入ってきた。


「看護師さん?」


「はい」


「あのお……」


「あ、お目覚めになったんですね。先生を呼んできます」




 かっぷくののいい50代くらいの医師によると、良介の診断は頸椎損傷で、もう胸から下は動かせない、ということだった。


「とりあえず1週間入院してもらいます」




 その日の昼食を良介は覚醒して絶望した時の看護師の介助で食べた。以外に美味しかった。


「ねえ、看護師さん?」


「何ですか?」


「名前、何ていうの?」


 良介は敬語を遣わなかった。そのほうがコミュニケーションが円滑に進むと思えたから、だ。


「中島です」


「ナカジマ?」


「下の名前は?」


「ユキ」


 とナースは力強くはっきりした声で答えた。


「ユキ?」


「ええ」


「どんな字、書くの」


「雨冠の普通の雪です」


「冬にふる白い雪の『雪』?」


「はい」


 変な名前だな、と良介は思った。人生で初めて聞く名前だ。


「雪子とか美雪じゃなくて、雪だけ?」


「変な名前でしょう?」


「うん。……いや、ステキな名前だよ」


「母がつけてくれた大切な名前なんです」


「どんな願いが込められてるか訊いた?」


「うん」雪も敬語を遣わなくなった「お母さん、小さいころから雪が積もると願いが叶ったんだって。みんな普通は流れ星でしょう。でも、お母さんは雪だったんだって」


「だから『雪』か!」


「でも、わたし、お母さんの思い出って何もないの、わたしの名前決めた日に死んじゃったから。〝雪の願い〟はおばあちゃんから聞いたの」


 良介も自分も母親を亡くしたばかりだからか、雪に、何て言うか、運命的なものを感じた。


 だが、雪との関係は良介の退院と同時に終わった。




退院後、良介の『こころ、なんだか』が短編小説賞の佳作に選ばれた。賞金30万円。印税も入った。その金と障害者年金で、良介はマンションを借りた。不幸中の幸い。これで広志の世話になることはない。買い物も炊事も、洗濯も、掃除も、全て自分でやった。移動には介護タクシーを使ったが、間もなくして身体障碍者特別運転免許証を取得し、車も改造車を特注で、腕だけで運転できる車を作ってもらった。




 しかし頸椎損傷の一人暮らしには限界があった。食事は美味しく作れないし、洗濯も思い道理にできなかった。


 良介は市役所の障害福祉課と社会福祉協議会に電話をして、今の自分の状況と、何かいい方法がないか問うた。


 すると、訪問看護のサービスがあることを知った。そうしてすぐに依頼した。が、その日は金曜だったので、週明けに、市の職員と社協のケースワーカーと、病院の訪問看護課のヘルパーが良介のマンションを訪れることになった。




 週明け、3人の女性が良介のマンションを訪問してきた。


 良介は一番背の低い桃色の服に身を包んだ女性を見た瞬間、鳩が豆鉄砲を食ったように驚愕した。


「雪ちゃん‼」




 良介は3人の女のひとりを見て驚愕した。


「え?」


 雪は唖然とした。そうして良介はこれこそ「運命の再開」だと感動した。


「永澤さん? でしたっけ?」


「そう


「永澤良介。覚えてない?」


「あ! EDの?」


 ふたりは赤面した。




 頸椎損傷になった時、良介は医師に、まず自分の性能力について尋ねた。「頸椎損傷になると勃起しなくなる」という話を良介は知っていた。


そして入院中何度もマスターベーションを試みたが、できなっかった。




 その絶望を良介は医師に尋ねた。


「先生、ぼくセックスできるんんでしょうか?」


「正直、わかりません」


 その会話を雪が聞いていたのだ。




 退院後、良介はAVを見ながらしごいた。そして二ヶ月後、雪によく似たAV女優が男優とセックスするところを見ながらしごいて、成功した。


 良介の肉体機能は復活した。良介は歓喜した。そうしてそれから毎日のように、AV無しで、雪を想像じながらマスターベーションをくり返した。


 


 やった!




 これで雪を幸せにできる。


 良介と雪は法律を犯してよくデートした。


 本当は障碍者の経済活動にヘルパーはつけられない。




 偶然にも良介のマンションと雪のアパートは直線距離で100メートルも離れていなかった。『男女7人』の良介と桃子みたいだ。ふたりは頻繁にお互いの部屋から近い「けやき公園」という小さな公園で一緒の時間をすごした。そこは良介にとって思い出の公園だ。


 まだプロサッカー選手を目指した時代、ちっちゃな子どもが母親とともに帰宅すると、良介は、薄暗い公園の中で、ジャングルジムをサッカーのゴールに見立てて、フリーキックの練習をした。そうして雪とファーストキスをしたのもその、けやき公園だった。




 それから間もなくしてふたりはい少し大きい目のマンションを借りて一緒に暮らすようになった。


 新しいふたりでの生活。収入は十分にあった。




 人生は茨の道だ。一筋縄ではいかない。それでもベストを尽くして最大限の努力をしていれば、必ず結果はよきものとなる。生きるのがつらけえればつらいほど、神さまからのプレゼントは大きくなる。雪の存在が良介をポジティブにしていた。つらいことばかりの人生。でもそんな人生にも時折訪れる平穏な日々。そんな時、良介はけやき公園に行く。




 それは快晴の日曜だった。良介がけやき公園へ行くと、中学生くらいの若者が、かつての自分と同じようにジャングルジムをゴールにフリーキックの練習をしていた。その勇姿を見つめていると、良介は「ああ、やっぱり俺はサッカーが好きなんだ、と心が揺れた。そうしてやっぱりサッカーに携れる仕事がしたい、そうして真っ当な人生を生きたい。でもっ車椅子の自分に何ができよう? 良介は小野にLINEを送った。


「小野、今からでも俺がサッカーに携れる仕事って何?」


 


 その夜、返信があった。


<ウェブのサッカーらあいたーとか、どう? あとは指導者になるとか>


 良介は強く惹かれた。大学時代、伊坂教授から絶賛慣れそうして武井にも認められた文才。そして前日目撃したフリーキックを練習する若人ともう一度、国立競技場を目指す。どちらも良介の生きるエネルギーになった。




 俺はたださっかーが好きなだけの男だ。


 サッカーバカだ。


 それだけの男だ。




 もうピッチの上をゴールを目指して全力疾走することはできないけれど、もう一度青春したいなら指導者になるしかない。そうしてそれをウェブに投稿するんだ。


 良介のこころは、なんだか、空が晴れわたるように澄みきっていった。だが自分には大学中退の学歴しかない。どうすれば高校教師になれるか? 皆目見当がつかない。


 良介はその夜再び小野に連絡した。今度はLINEではなく通話で。


 8回目のコールで電話はつながった。




「もしもし、小野? この前のサッカーに携れる仕事のことなんだけど、やっぱり俺、高校教師になってまた、国立の夢、追い求めたいんだよね。無職で大学中退の男一匹が高校のサッカー部の顧問になるには何をどうすればいい?」


「うん」と小野は静かに話し始めた「まず教育学部の大学を卒業……、あ、その前に2週間の教育実習が必要なんだけど、それから教員免許を取得して、さらに教員採用試験にうからあなくちゃならない」


「う~ん、結構大変だね」


「でも、永ちゃん、向いてると思うよ」


「それって、通信教育でもオーケーなの?」


「うん。大丈夫。永ちゃん、応援するから、がんばって」


「ありがとう」




 電話を切った次の瞬間から良介は、身体の中から大きな炎が燃え上がってくるような情熱を感じた。


 高校教師になって全国制覇を目指す。


 良介の、新しい人生の物語が始まろうとしていた。




 そして、キッチンんで夕食の支度をしている雪に、あんたバカじゃないの言われるだろうと覚悟しながら宣言した。


「雪、俺、高校教師になる」


「なりたいんだったら、なれば」


 雪の素っ頓狂な反応に、良介は肩すかしを食らわされたような心境になり、それ以上何も言えなかった。




 そうして1週間後、明星大学から通信教育学部の受験案内が届いた。結構な量だった。良介はまるで世界チャンピオンを目指すプロボクサーのような気概をいだいた。


 新しい夢。こころが、なんだか、震えた。


 今度こそ、夢、叶いますように。


 良介は手の平を合わせて、神に祈った。

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