<第1章>サンタモニカ
もう死のう……。
墓石の前に座り、永澤良介はマルボロのメンソールのセロハンを剥がし、一本引き抜いて「YUTAKA OZAKI」と刻印されたジッポライターで火を点け、二十年以上続けた禁煙に終止符を打った。そうして良介は頭の天辺から両足の爪先まで、全身をライターのオイルで濡らし煙草と同じように火を点けた。激烈な炎の熱が一瞬で全身を駆け抜け、良介は喉の奥から溢れそうな絶叫を必死に堪えた。誰もいないはずの深夜の墓地。奇声が轟けば、和尚が、何事か、と駆けつけ、炎に染まった人間を目撃しようものなら、あらゆる手段を駆使して炎の鎮火に尽力することだろう。それだけは、絶対に避けなければならない禁忌だった。
永澤家は五人家族。
父は哲郎、母は夏枝、長の千恵、長男の広志、そして良介。幸せな家族だった。
一家の大黒柱である哲郎が営む小さなガソリンスタンドは魅力溢れる哲郎の人柄が客を引き寄せとても繁盛し、夏枝はスーパーの精肉課で働きながら家族を守る哲郎を支え、そうして三人の子どもたちもすくすくと健康に育っていった。
だが誰もがそうだとは言わないが、永澤家の幸せはたいして長くは続かなかった。
千恵が中学に入って間もなく、五人の幸福な家庭に亀裂が生じ、その亀裂はあっという間に永澤家の幸福を爆音を立てずとも、崩壊させた。
千恵は中一の一学期の中間・期末テスト、連続して満点を取り、中学卒業後は県で最も頭脳明晰な生徒が集まる川野高校に進学できると担任のまだ若い女教師に太鼓判を捺されるほど優秀だった。
しかし千恵に、苦悩という言葉では生易しいほどの問題が生じた。
屁、だ。
いつからだろうか、 朝、いつも通り起床し、朝食を食べ、自転車で通学し、いつもの教室の自分の席にいつも通り座る。するとなぜか驚異的な腹痛に襲われ、無性に屁が出そうになる。朝礼前の十分間だけ、それぐらいの苦痛であったなら知恵も耐えられたかもしれない。しかし現実その屁意は一日中、断続的にではなく、持続的に、知恵を苦しめた。
女の子と屁。そこにはいじめの理由としてまったく疑問の余地はない。千恵は「プー子」とあだ名をつけられ、そうして千恵は登校に恐怖を感じるようになり、登校拒否児となった。不登校や引きこもりではない、登校拒否だ。そんな姉の登校を拒否する中学に広志が入学したのが翌々年だ。広志もまたいじめらた。「プーの弟」として……。
そんな状況の中、良介は、自分だけは親に迷惑をかけまいと胸に誓った。幸運にも良介は運動神経がよかった。だから、クラスメイトの男子から容易にリスペクトを得た。ドッジボール、野球、サッカー、バレー、バスケット、球技だけでなく良介は駿足の持ち主で、運動会や陸上競技大会で大活躍した。
そして、高校は千恵が行くはずだった川野高校に入学した。そしてサッカー部に入り、一年生にしてレギュラーポジションを獲得した。しかも攻撃の中心である、司令塔として。そんな良介に初恋が訪れる。
大塚圭子。絵の得意だった彼女は画家を夢見て優れた美術教師がいることでその名を世間に馳せていた川野高校に入学してきた。しかし圭子の絵は評価されなかった。そうして学業成績も坂を転がるように転落していった。そんなとき、圭子は良介と出逢った。
ふたりが恋に落ちるのに時間は必要なかった。圭子は美術部を退部しサッカー部のマネージャーになって良介を応援した。しかし、良介も同級生が身体的に成長していく中、良介の身長は161センチで止まり、あっというまにレギュラーからもサブのメンバーからも外され、圭子同様、勉強にもついていけず、圭子との恋だけが、そして圭子にとっても良介との恋だけが、生きる支えとなった。
「ごめんね、圭ちゃん」
ある日の対外試合の帰り道でのこと、
「なにが?」
手もつながず、ふたりは家路を辿った。
「マネージャーにまでなってくれたのに、試合にも出られないダサいオレで……」
「ううん。良ちゃんが毎日一生懸命サッカーやってるの見てるだけでわたし幸せだよ」
「本当かなあ?」
「ところで、武井くんとはどう?」
武井修。良介の幼なじみで、親友だ。
「高校が別々になっちまってから、ぜんぜん連絡とってない」
「そう……」
良介と圭子が別れの場所に着いた。古い神社の裏口だ。
「じゃあ、良ちゃん、また明日」
「ああ、それじゃあ」
ふたりはまた明朝にはここで待ち合わせて登校する。
圭子はブスだ。良介は正直そう思っていた。
肌は浅黒く、ガリガリに痩せて、胸はほとんどなく、足も大根足で、女子高生らしいところがまったくない。それでも良介は圭子のことがすごく好きだった。
圭子と別れ、国道沿いにある父のガソリンスタンドの事務所の脇にある濃紺のドアを開けたところに平屋建ての古く小さい永澤家の引き戸の玄関がある。引き戸を開けると、クリームシチューを煮込む芳香が良介の鼻孔を喜ばせた。
「ただいまー」
「おかえりー、良」
居間のほうから千恵の声が聞こえてきた。良介が川高に入学した年、千恵は千恵は父の少年時代からの友人で現在商店街の会長を務める花田真人が経営する「ピエモンテ」というどこの国の言葉かもなんという意味かもわからない洋菓子店で働いていた。屁のせいで高校進学を諦めたが、良介にとって千恵は決して恥じるべき存在ではなかった。むしろ自慢の、誇るべき存在だった。それに比べて兄貴のほうは……。
広志は勉強がまったくできず、いじめから逃れるために、つっぱり、不良になった。広志はもともとガタイがよかった。スピードはともかくパワーは人並外れて尋常ではなかった。そうして偏差値の極めて低い私立戸塚高校に進学すると間もなく、高校入学後すぐに親しくなった悪友の前田徹とともに、暴行事件を起こして停学処分を喰らった。
前田徹もまた、家庭が貧しいが故にバカにされ不良となった。広志と徹は瞬く間に絆を結んだ。ふたりの関係を表すのに「友達」というワードは適切ではない。そして意気投合したふたりの貧乏人は、それが原因でいじめられるのを恐れ、心とは裏腹に凶暴になった。
そうして停学があけると、またすぐ事件を起こした。
ある日の放課後、校門を出る二人の前に、数人の明らかなヤンキーがふたり行く道を塞いだ。
「おめえらだなあ、ナガサワとマエダって?」
目と目が極端に離れた魚顔のお頭らしき男が、ふたりに問うた。
「それがどうした?」
魚顔のお頭ヤンキーのありふれた質問に答えたのは広志だった。徹は膝の震えを誤魔化すことで精一杯だった。
「おれはなあ、今度番長になった、タツナミってもんだ。一年をシメるにはまずおまえらからだと思ってな。ちいとツラかせや」
広志と徹は面倒なことになったと思いながらも、ここで引っ込んでしまったら今後の高校生活に支障をきたすと思い、渋々タツナミとザコのあとをついて行った。
広志と徹はプール脇の更衣室に連れていかれた。ヤンキーたちは皆煙草を吸い始めた。
「それにしても俺にはなんでおめえらがつるむのか不思議でな、この、デブとチビが」
デブは広志、チビは徹のことだ。広志は筋金入りの不良だが徹は見かけ倒しの小心者だ。
「フフフ、フフフフ」
広志は視線を地に落として不気味に笑った。
次の瞬間!
広志の頭が立浪の顎を打ち砕いた。その一撃で魚目は釣り針にかかったように不自然に震えそうして間もなく気を失った。それを見て、立浪と共に戸塚に入学してきた魚目の舎弟たち(ひとりはリーゼント、ひとりはパンチパー、そしてザコ)は逃走した。それはまるで野良猫と視線が合った野ネズミのようだった。その一連の出来事を目の当たりにしていた徹は、広志、すげえ、すげえ、と踊りながら感心た。
「おれにはとてもじゃねえけどマネできねえよ」
と感動さえしていた。
そこへ、リーゼントとパンチパーマが戻ってきた。
「せんせー、こっちです、早く、早く来てください」
駆けつけた体育教師の川口は、
「永澤ー、前田ー、おまえら、絶対やらかすと思ってたぞ!」
「やべえ、逃げろ、こっちだ、徹‼」
ふたりは全力で逃げ出した。
この一件で広志と徹は退学処分となった。
そんな兄貴に対して良介は同情したりせず、むしろただのバカだと思っていた。そして無性に腹が立ち苛立った。
千恵に対してもそうだ。たかが屁なんかで学校に行かなくなるなんて。どうしてそんなに臆病になってい待ったんだ。クソをもらしたわけではない。どうってことないじゃないか。
だから小学5年生になった良介は自分だけは姉や兄のようにはならない。一流の大学を卒業して、大企業に就職する。だがその思考が良介の夢ではなくなる時が来た。
Jリーグの開幕だ。
開幕戦のヴェルディ川崎対横浜マリノスの一戦。その一戦をテレビで見た良介は、自分もきれいに整備されたあの緑の芝の上でプレーしてみたい。夢は大企業のサラリーマンからプロサッカー選手に方向転換した。
大好きなサッカーをして、それが仕事になり収入が得られる。しかもばく大な。お父さんのガソリンスタンドじゃあ逆立ちしたってかせげないような大金だ。
自分にはサッカーのプロになれるほどの才能はない。わかっていた。県大会の1回戦で負けてしまうようなチームの補欠選手。でも、良介はあきらめなかった。
その一方で高3になり、大塚圭子と出逢い恋に落ちる。
良介はそれまで以上に奮起し、努力の鬼となって練習に取り込んだ。そうして最後の全国選手権の三か月前、チームの中心だった岡村が練習中肋骨を骨折し、良介はポジションを獲得する。夢がかすかだが現実味を帯びた。このまま全国選手権で優勝すれば、プロサッカー選手になれる。そう確信した。
そうして県予選、初戦の試合開始2分、相手ゴール前で良介にチャンスが訪れる。シュートを打てば、間違いなくゴールが決まる。だが良介はパスを選択した。
人生に「もしも」はないけれど、もしもあの時、パスではなくシュートを選択していたら、国立競技場まで勝ち進み、全国制覇して、本当にプロサッカー選手になれたのかもしれない。
だが良介はあきらめなかった。
そして3年生のチームメイトが、部活を引退し、本格的な受験勉強に集中し始めからも、良介は、1,2年生と一緒にサッカーボールを追いかけた。まるでサッカーボールそれ自体が夢そのものかのように。
そのころ、全国のすべての高校とまではいかないが、ほとんどの高校で3年生は学校に登校しなくなる。それは教師たちの間でも、目をつぶるというか、暗黙の了解だった。生徒たちにはもう教師から教わることはない。あとは大学入試に備えるだけだ。
プロサッカー選手を夢見る良介は体育系の大学を四つ受験したが、全滅だった。
いつもの帰り道ーー圭子はただ一人の3年生マネージャーとして良介を支えた。
「良ちゃん、残念だったね」
「ああ」
「それでどうするの? サッカーあきらめちゃうの?」
「いや……」良介は首を横にふった。
圭子のほうはイラストライターになることを夢に、専門学校への進学が決まっていた。だからマネージャーも続けられたのだ。
「まだ親にも話してないんだけど」
「うん……」
圭子は静かにうなずいた」
「浪人しようと思って」
自分だけは親に苦労はさせない。そう自分自身に誓ったけれど、やっぱり人生一筋縄なわではいかない茨の道だ。
そのころ、千恵に人生初の恋人ができていた。
為田龍之介。俳優を志して沖縄から上京したがオーディションに落ちまくり、今は「サンタモニカ」というバーでバーテンダーとして働いている。
千恵は十代の頃からお酒が好きだった。ビール、日本酒、ウォッカ、ワイン、サワー、カクテル、なんでもイケる口だった。
サンタモニカは足立区の竹ノ塚に店を構えていた。
竹ノ塚に最高級のお酒をつくるバーテンダーがいる。
そのウワサを聞くようになったころ、千恵はピエモンテの正社員として働かせてもられるようになっていた。もうそのころには中1の特苦しんだ屁の問題からは完全に解放されていた。そうして千恵が25歳になったころ、ピエモンテにアルバイトの高校生が来た。
上田一枝。高校生とは名ばかりで、実際は、いじめられっ子で、知恵と同じようにピエモンテのオーナーに救われた。千恵は「自分も同じ」だと告白できなかった。
そうして、ピエモンテの休業日である木曜日に「馳せ参ずる」とはこのことか、と言わんばかりに知恵と一枝はサンタモニカに向かった。
小田急線の伊勢原から代々木上原へ、そうして千代田線に乗り換え中目黒、さらに日比谷線、伊勢崎線に乗り換えて竹ノ塚へ。
サンタモニカは駅から5分のところにあるとサンタモニカを紹介してくれた先輩社員に聞いていたが、千恵と一枝は道に迷った。
そして三十分ほど歩き回ったが結局竹ノ塚の駅に戻ってそこからタクシーを使った。
サンタモニカは駅ビルの地下1階にあった。
「ここじゃあ、わたしたちにはみつからないわよね」
と千恵は肩を落として言った。
「うん、看板もないし」
「でも見つかったんだからいいじゃん。入ろ」
千恵の気持ちは晴れていた。
二人は小走りで階段を下りた。サンタモニカは千恵と一枝が想像していたバ―というより、和風の居酒屋といった感じで、店は狭く、椅子の数も少なかった。
「いらっしゃいませ」
白髪で、白いあごひげを細くたくわえたオーナーらしき初老の男性が声をかけてきた。やさしい微笑みと紳士的な口調。初老のオーナーは千恵と一枝を店の一番奥の席に案内した。
「あのお」と言って話し始めたのは千恵ではなく一枝のほうだった。
「はい」
初老のオーナーは短く応えてまたやさしく微笑んだ。そのオーナーに対して、一枝は、
「あそこにいる方がこちらのお店の自慢のバーテンダーさんですか」
問うて、高身長でがっしりした体格の若い男を指で示した。若い男がワイングラスを布巾で丁寧に磨いている。ツーブロックのさわやかな髪型、顔も俳優になってもおかしくないほど端正だ。日本中から彼の作るお酒を飲みに、というより彼を一目見ようと女たちが足を運ぶのが当たり前のように一枝には思えた。
「はい、彼のおかげで、わたくしでは相手にしてもらえないような美貌の女性が来店してくださるようになりました。お客様たちのような……」
「お名前はなんとおっしゃるのどすか?」
「為田、と申します」
為田を目にした二人の田舎娘は、真夏の暑さでコーンから滴り落ちるソフトクリームのように溶けた。そうして「おまかせで」とオーダーしたオレンジ色のカクテルも二人の喉と舌を溶かした。
為田のつくる魔法のようなお酒に酔いしれ、終電に乗り遅れてしまった二人は、仕方なく交番でどこか一泊できるところはないか尋ね、一泊3,500円のカプセルホテルに泊まった。
一枝は、シャワーを浴びるとすぐ眠ってしまったが、千恵はずっと為田のことを想い、眠れなかった。会話はなかったけど、〝彼がわたしの運命の人〟だということは間違いない。そう思えた。
良介は1年間の宅浪生活をへて、ふたたび大学受験に挑んだ。しかし今度は体育学部ではなく人間科学部を2校だけ受験した。
志望学部変更の理由は、体育学部は自分身体能力は必要としていないということを悟ったからだ。しかし矛盾するが、プロサッカー選手になる夢はあきらめてはいなかった。
そうして、早稲田と文教の両方に合格し、文教に進学することにした。理由は明白、早稲田のサッカー部(ア式蹴球部というらしいが)には全国からプロサッカー選手を目指す有能な学生が集まる。文教とは比べ物にならない。
で、良介は文教のある埼玉の越谷で一人暮らし始める。
しかし入学して半年、良介は大きな壁にぶち当たる。
父のガソリンスタンドが廃業したのだ。良介はその厳しい現実を母からの、短い、あまりにも短い手紙で知らされた。
良介へ
残念なお知らせです。
お父さんのお店が潰れました。
家族のためにあんなに一生懸命働いてくれたのに
だからもう大学の学費も払えなし仕送りもできません。
ごめんね、良介。
あなたは強い子だから自分の力で大学を卒業して、立派な社会人になり、いい人とめぐり会って幸せになれるはずです
がんばれ 良介
母より
(マジかよ……)
母からのあまりにも悲惨な手紙に良介の手は震えていた。
(これから本気でプロサッカー選手になるためのトレーニングに集中できると思ったのに……)
良介は自分の夢を両親に話すような青年ではなかった。
プロサッカー選手。
そんな大きすぎる夢なら、なおさらだ。
少年のころからいままで両親に迷惑などかけたことはなかったが、大学進学と一人暮らしの開始は、この上なく迷惑に思えた。
(どうしよう……)
時給の高いバイトをすれば、生活費はなんとかなるかもしれない。でも学費までは……不可能だ。
しかし良介は歯を食いしばった。
早朝、大学と自宅アパートのある北越谷駅でバイト、そのあとスーパーの青果で陳列の仕事を夕方まで、そうして大学のサッカー部の練習に参加し、クラブハウスの浴室で身体を洗い、一度帰宅して短い仮眠をとり、深夜の居酒屋、そうして北越谷駅。
もう大学に通うために越谷で一人暮らしを始めたのか、一人暮らしをするために越谷に引っ越したのか、わからなくなった良介生活。
もしかしたら、これが神さまから与えられた試練なのかもしれない。良介はそう思った。
文教大学は敷地面積が狭く、体育の講義で使用する小さなグランドしかなかったので、サッカー部、アメリカンフットボール部、女子ラクロス部が使う第2グラウンドをキャンバスとは別の場所に設けていた。
ちなみに文教大学には野球部や陸上部はなかった。
大学の入学式に、良介は、スーツを持っていないという理由で出席しなかった。そして入学一週間後、良介は濃紺のジーンズと黒い長そでのT-シャツといったいでたちで第二グラウンドを訪れた。そらはまだ明るかったがグラウンドをを照らす照明には火が灯されていた。良介がグラウンドの脇で中を覗き込んでいると、後ろから、
「ねえ」と声をかけられた。ふり返ると明らかにサッカー部のマネージャーらしいプーマの赤いユニホームを着た女がいた。
「え、いや、その」
「あなた、サッカー部、入部希望?」
その女を見て数秒、良介は、胸の奥からムラムラする動悸を覚えた。女に対してそんな感情をいだいたのは初めてだった。圭子に対してもいだいたことのない感情だった。良介は〝性〟に対して知恵遅れで、まだマスターベーションも覚えておらず、無性もしたことがなかった。
良介は動揺していた。緊張もしていた。そして同時に、
「この女どっかでみたことあるきがするなあ」
と思いを巡らせていた。
良介は、右手で左耳のうしろをポリポリ搔きながら、
「ええ、はい……」
と答えた。
「それなら練習参加してみない? 必要なものは全部そろってるから」
そう言われて彼女のあとについてクラブハウスの中に入った。サッカー部の部室はハウスの一番奥にあった。そうして、
「好きなものをどれでも使っていいから」
と女は笑顔で言って、グラウンドのほうへ戻っていた。
「それにしても、どっかで見たことある女だなあ……」
良介は、そうひとりごとを呟いてから、洗濯ロープにハンガーでかけられているイタリアリーグ・セリエAのペルージャのユニホームとミズノのハーフパンツに着替え、そうしてシューズボックスの中から自分の足に合うサイズのスパイクを選んで紐意をしばった。
クラブハウスの外に出て、グランドに足を踏み入れると、さっきのマネージャーが、
「さあ、こっち来て」
と両手を振って良介をいざなった。
良介の恋人・大塚圭子は地元の専門学校に進学した。本当は武蔵野美術大学に入部したかったが、受験の結果、不合格だったので、渋々専門学校への進学を選択した。
圭子は、哲学の講義の時、いつも隣に座るイケメンに、ひそかに、恋心をいだいていた。良介には申し訳ないと思いつつ……。でもしかたない。その男は良介よりずっとかっこよかったのだから。圭子は良介のことをかっこいいと思ったことはなかった。でもやさしく尊敬できる生き方に惹かれていた。しかし自分を抱こうととはしない。キスをすることもほとんどない。
良介は自分のことを大切にしてくれている。秘密にも気づいている。
わかっていた。
でも不満だった。
圭子の秘密。
それは圭子の肺に後天的に針でつついたような小さな穴が二つある、といいうこと。異性と関係を持つということは、イコールで、死、を意味していた。
圭子のその病気が見つかったのは小学6年生の体育の時間。圭子は左胸に微かな痛みを覚えた。一ヶ月後には秋の大運動会がひかえていた。圭子それから幾度となくその左胸の痛みを感じた。圭子は不安だった。たかだか胸が少し痛いだけ。大したことはないだろう。圭子はその痛みという名の真実を誰にも打ち明けられずにいた。
なぜなら圭子は足が速く、秋の大運動会の花形種目・学年別クラス対抗リレーに、当然のことのように選ばれていた。日々、刻々と、圭子の不安は恐怖へと変化していった。しかし圭子は、リレーの選手を辞退したいとは言い出せなかった。クラスメイト全員が自分の駿足に期待している。
月日は矢のようにすぎた。そうして秋の大運動会。クラス対抗リレー。バトンを受けた圭子は左胸の痛みをこらえて走り出した。数秒、数メートル、圭子は醜態を演じてしまう。トラックの途中で座り込んでしまったのだ。グラウンド中、いや、その場にいたすべての人間が、、老若男女を問わず、ざわついた。しかし6年生のリレーは続いていた。圭子は担任教師の田口に背負われ救護場所へとはこばれた。圭子たちのクラスは「棄権」という不名誉な記録だけが結果として残っただけになってしまった。
一度教室に戻って、圭子は私服姿で再び姿を見せた。実に元気そうだった。いったい何があったのか。それは誰にもわからなかった。もちろん圭子自身にも。
そうして圭子はJAが運営する病院へ、救急車ではこばれた。
救急車の中で横たわり、酸素マスクを装着されると左胸の痛みも激しい鼓動も落ち着いた。そうして病院に到着すると、圭子はストレッチャーに乗せられ、採血、心電図、MRI、と様々な検査を受け左胸に小さな穴がふたつ空いていることが判明した。
圭子の本当の夢は、マラソンランナーになってオリンピックで金メダリストになることだった。
胸の苦しみを感じるようになるまでは、毎朝、食事前に、10キロ走ることを自らに課していた。しかしどんなに努力しても夢は絶対に叶わないものになってしまった。圭子はその現実を、わずか12歳のこの時に宣告されたのだ。
「わたしは、もう、走れない……」
だから〝絵〟の道に妥協した。
浪人の1年で体力も落ち、深夜、早朝、日中、そしてまた深夜。良介は、学生の身分で私立大学の学費と一人暮らしの生活費を自ら捻出していた。もう消耗しきっていた。大学の講義はもちろん、部活にも参加できなくなっていた。50メートル6秒2の駿足も意味のないものになってしまっていた。しかしここでも友人に恵まれた。
小野泰彦。
身長も同じくらいで、がっちりした体格をしていた。
まだ良介の父・哲郎の経営するガソリンスタンドの経営が安定していたころ、良介はケガの先輩フォワードに代わって試合に出場した。その時、良介は自慢の駿足で、スルーパスを絶妙なタイミングで受け2ゴールをゲットした。でも、まだ1年生、レギュラーポジションを獲得することはできなかった。しかも文教大学のサッカー部には監督はおらず、趣味の延長のようなチームだった。
そんなチームでも通用しない良介のパフォーマンス。試合に起用されれば必ずゴールを決めた良介。足も速く、シュートもうまい。それでも、レギュラーにはなれなかった。
早稲田ではなく文教ならレギュラーになれる。しかしそれは大きな誤算だった。
良介はサッカーをあきらめた。そう決意した夜は眠れず、一晩中泣いた。サッカーをプレーしないのなら大学に籍を置く必要はない。だが神はいつも姿を変えて良介の前に現れる。
伊坂悦子。
彼女は、映画や舞台の脚本を執筆するのが本業だったが、それだけでは生活できず、副業として、文教大学で講師の仕事をしていた。
少年時代の良介は決して本を読むのが好きな少年ではなかった。友達と、野球やサッカーをする。そのほうが良介にとってずっと楽しい時間だった。しかし川野高校に進学して校長をしていた紳士とここでも奇跡的に出会った。
河野洋平。彼は高校の始業式や終業式の時、非常に含蓄のあるメッセージを青春時代の良介に与えてくれた。
その最たるものが、
「今のうちにできるだけたくさん恋愛小説を読みなさい」
という言葉だった。
良介の自宅には恋愛小説が山ほどあった。千恵が読書好きだったから。そうして千恵から運命的な恋愛小説をわたされる。
『男女7人夏物語』
その恋物語は良介が小学4年の時、テレビドラマで千恵と一緒に見ていたので、初めて恋愛小説を読む良介にも、とても読みやすかった。
しかも主人公の名前も「今井良介」だ。それはまるで良介の将来を予告するような物語だった。
明石家さんまの演じる今井良介と大竹しのぶ扮する神崎桃子の二人はとても素敵なカップルだった。
しかしそのころ良介は自分のルックスに自信がなかった。だからきれいともかわいいとも思わない圭子と交際していたわけではない。本当に、心の底から圭子を愛しく想っていた。古い言い方をすれば〝惚れていた〟。だからこそ、大事にしていた。大切にしていた。
付き合い始めた高校3年の夏、良介は圭子の自宅に招待された。
「ママ、今日の晩ごはんなんだけど」
圭子は嬉々とした態度で母に話しかけた。
「どうしたの? 大きな声で」
「かつ丼にして」
「え、ダイエットしてたんじゃなかったっけ?」
母は怪訝な表情を見せる。
「今日、ビッグサプライズがあるの!」
午後6時45分。大塚家の夕食。テーブルに座る4人。圭子、圭子の父、母、そしてお呼ばれされた良介。テーブルのすぐ脇の棚の上の小さめのテレビからバラエティー番組のさくらの笑い声が不自然にダイニングに響いている。
「パパ、ママ、彼、ナガサワリョウスケくん。高校のクラスメイト」
圭子は、良介のことを恋人とかボーイフレンドとは表現しなかった。それが良介の心境を複雑にした。
「はじめまして。永澤良介と申します」
良介は、将来圭子と結婚することになあったとしたら同じようなシチュエーションがてんかいされるのかな? なんてことを想像しながら、やや、緊張して、ステレオタイプの自己紹介をした。
4人の前に圭子の母が娘のリクエストに応えて料理したかつ丼とポテトサラダと大根とわかめの味噌汁が丁寧に並べられていた。圭子の両親の表情は、これから楽しいディナーを食するというものとは言えないものだった。
沈黙の時間が続いた。それを圭子が粉砕した。圭子はかつ丼を一口食べ、
「あー、やっぱりママのかつ丼、すごくおいしい。良ちゃんも遠慮しないでじゃんじゃん食べてね。お代わりの分もあるから」
「じゃあ、いただきます」
圭子の両親は圭子のハイテンションとは真逆の態度をとっていた。
「ん、おいしいですね。こんなにおいしいかつ丼生まれて初めてです」
圭子の母の頬がほころんだ。だがそれは一瞬のことだった。父のほうはあいかわらず憮然と身構えてかつ丼も食べよとしない。
(やっぱり、来てはいけなかったのだろうか?)
かつ丼を食べながら、良介は圭子の誘いに乗ったことを後悔しはじめていた。どうせこんな不細工な男、気に入られるわけがない。良介は少し失望した。
食事中、会話はなく、圭子が一人学校の友達のことをまくしたてていた。そうして、
「ごちそうさま。わたし、お風呂入ってくるから。パパ、ママ、良ちゃんをよろしくね」
圭子がいなくなって、再び空気は沈黙に支配された。それを今度は圭子の父親が引き裂いた。
「リョウスケくん、といったね?」
「あ、はい」
「知っているのか? 君は?」
良介は困惑した。きっと、誰もが同じ状況ならそう感じるように……。
「圭子のヤツ、何を考えてんだか」
圭子の父はダイニングチェアーから立ち上がると、換気扇のところまで移動し、ズボンのポケットから煙草を取り出した。母親のほうは自分でこしらえたかつ丼にはまったく箸をつけず、ダイニングチェアーに浅く座って、ずっと、視線を落としていた。肩が小さく震えていた。
圭子の父親が煙草を吸い終え席に戻った。そしてまた沈黙がまるでセリにかけられた巨大なマグロのように横たわった。
「やっぱり、何かあるんですね」
良介は、小学校の秋の大運動会のリレーの時、救急車で病院にはこばれた圭子のことをよく覚えていた。肉体的にか、精神的にか、それは良介にはわからなかったが、圭子が何か病に侵されていることを悟っていた。
「実はだねリョウスケくん。圭子の左の肺に針で刺したような穴がふたつも空いていてね、まあ、医者が言うには、無理をしなければ日常生活は普通におくれるらしいが、激しい運動をするのは不可能だそうだ。つまり」圭子の父は一度咳をしてから「セックスなどしようもいのなら即死にいたるということなんだ。君も若い年頃の男の子だから圭子を抱きたいだろうが、それはできないんだ。君はそれでも圭子と付き合いたいかね? もし将来一緒になったとしても君は父親にはなれない。それでもいいのかね?」
土砂降りの雨のようにまくしたてると、圭子の父親は再び席を立ち煙草を吸った。
「ぼくは本気です!」良介は激しく席を立った「ぼくは本当に、心の底から圭子さんのことが好きなんです! セックスなんてどうでもいいです!」
良介の目から涙が溢れていた。