現世「早朝の腕立て、報われぬ日常」
午前4時。
外はまだ夜が支配する時刻、住宅街の一角に佇む築年数不明のボロアパート、3階の一室で安物の目覚まし時計が鳴り響く。
健達樹は目を開けるのに時間を要した。全身が重い。まぶたが鉛のようで、何度も意識が遠のきかける。ここ数ヶ月、ろくな睡眠を取れた記憶がない。
彼は22歳。大学を出て就職したのは、そこそこ名の知れた企業の下請け、下請けのまた下請けのような実態のブラック会社。
給料は安く、残業代は満額出ない。終電帰りは当たり前、休日出勤も習慣化。なぜ辞めないのか?奨学金の返済があるからだ。親も貧しく、実家に帰る選択肢もない。辞めれば路上生活も見える。結果、地獄と分かっていてもズルズルと続けるほかない。
「……起きろ……」
自分に呟く。時間は4時過ぎ。出社は9時だが、7時前には家を出ないと満員電車で地獄を見る。その前に朝食、最低限の身支度、何より“筋トレ”がある。
昔、学生時代、タツキは筋トレが好きだった。毎朝腕立て伏せ100回を目標に、最初は50回もきつかったが徐々に増やし、大学3年頃には楽に100回こなせる日もあった。努力は裏切らないと思えた瞬間がそこにはあった。
だが今は?
社会人になり、ブラック勤務で睡眠不足が常態化した今、100回など遠い夢だ。ここ数ヶ月、100回どころか半分以下でギブアップの日も多い。1回1回が重い。筋肉は正直だが、超回復するには十分な睡眠と栄養が必要。
今の生活では、睡眠を削る以外に筋トレ時間を捻出できない。栄養バランスなど夢のまた夢、コンビニの半額惣菜パンやインスタント食品が主食。結果、体力はじりじりと削られ、腕立ての回数も右肩下がりだ。
「1回…2回…3回…」
床に手をつき、腕立てを始める。かつては胸筋の張りを感じ心地よかった動作が、今は肩や肘が軋むだけ。
呼吸が浅い。夜中まで起きていたせいか、頭が重く、血が巡らない。
「……10回、11回……」
既に腕が震える。まだ10回前後で苦しい。かつては100回が目標で70回、80回までいった日もあった。それが今はこれだ。
努力しても後退する世界。筋肉でさえ、睡眠と栄養がなければ維持できない当たり前の原理が、彼には残酷だった。
なぜ続ける?
理由は単純。筋トレは最後の拠り所だった。学生時代、少しずつ腕立て回数が増えた時、「コツコツ積み上げれば必ず報われる」という感覚を得た。それは彼にとって人生の小さな成功体験だった。
今、その成功体験が色褪せている。だが諦めたくない。たとえ0.5%でもいい、微妙な筋力維持、もしくは回数増加の可能性にすがりたい。
「……20回、21回……もうダメか……」
腕がプルプルと震え、胸が焼けつくように痛む。呼吸が浅く、頭がクラクラする。
仕事で帰宅が終電過ぎ、就寝は深夜2時。起床は4時。2時間しか眠れていない。超回復どころではない。筋繊維は回復しないばかりか消耗しているだろう。
それでも止めるわけにはいかない。「やめたら何も残らない」と思うからだ。
結局、24回で腕が限界を超え、崩れ落ちた。
悔しい。目標の100回なんて雲の上。昨日は25回できたが今日は1回減った。むしろ逆方向に行っている。
努力は裏切らない?嘘だ。今の生活は努力そのものが無意味に思える。筋肉すら裏切っているような感覚。
シャワーを浴びる時間すら惜しい。朝食は抜きで、スーツに着替える。
髪は寝癖がついているが直す余力がない。電車での人混みを考えると、それどころじゃない。
外へ出るとまだ空気は冷たく、道路は薄暗い街灯に照らされている。誰も救ってくれない現実世界。努力を積み上げても成果が減るこの矛盾した世界に、彼は苛立ちと虚無を抱く。
満員電車は地獄。
体幹が鍛えられていれば立ち続けるのは得意だったが、今は疲労で踏ん張りが効かない。グラつく度に周りから舌打ちされる。
痩せ細った乗客たちの顔は死んだ魚の目のよう。誰も助け合わない。ここでも努力は報われない。鍛えてても疲労が上回り、バランスすら保つのが辛い。
会社に着けば上司の怒号。
「達樹!昨日の資料ミス多すぎ!お前、寝てんじゃねぇのか?」
反論の余地はない。寝ているどころか寝不足過ぎる。修正が終わらなければ残業、また終電、もしくはタクシー代自腹帰り確定。
同期も皆疲弊し、互いを助ける余裕などない。全員自分の残業で手いっぱい。
昼休みなんて存在しないに等しい。ほんの5分間で急いで水を飲む程度。ストレッチして血行改善?無理だ。上司が「サボる気か」と睨んでくる。
午後、朦朧とした頭でキーを打つ。
もう何やってるか分からない。資料を作っても上司は「こんなんじゃ100%満足できない」と突っ返す。
努力が報われないことに慣れるなどできないが、抗う余力もない。心は摩耗する。微々たる向上どころか、毎日がマイナス成長だ。
夜、退社はまた深夜。
コンビニで半額の惣菜パンをかじり、終電に滑り込む。眠気で何度か駅を乗り過ごしそうになるが、必死にこらえる。この世界には余裕も休息も与えられない。
部屋に戻れば1時過ぎ。シャワーも浴びる元気がない。膝をつくように倒れこみ、でも「明日こそ腕立て25回に戻す、いや30回を目標に…」と考えるが、心の中で笑ってしまう。
30回どころか20回すら怪しいのに、100回なんて夢のまた夢だ。
なぜ続ける?
それは学生時代、コツコツ筋トレすれば確実に回数が増えたという成功体験を捨てたくないからだ。あの頃は徐々に回数が伸び、目標100回に手が届きかけた。努力が形になった喜びがあった。
今は真逆。努力が減点されるような世界だ。それでも0.5%、いや0.1%でもいい、何かを積み重ねたい。本能的にそう思う。ここで諦めたら本当に何も残らない。
布団に倒れ込む。頭痛がする。
「違う世界があったら、筋トレがちゃんと報われる場所があったら……」
馬鹿げた妄想を口に出さず、心にしまう。そんな世界があるわけない。
だが限界は近い。心臓が不規則に跳ね、呼吸が浅くなる。過労でこのまま死ぬかもしれない、そう思うが医者に行く時間も金もない。
瞼が重い。
もし、この先別の世界で、努力が本当に積み上がるならば、どんなにか救われるだろう。0.5%の改善でも必ず前進する世界があれば、コツコツ続けて魔王でも何でも倒せるかもしれない――妄想に過ぎないが、そんな夢を見た。
そして心臓がギュッと縮こまる。痛い。
呼吸が止まる。
頭が真っ白だ。意識が遠ざかる。この部屋で孤独に死んでも、誰も気づかないだろう。筋トレ100回目標は幻、努力の結末はこれか。
涙が滲む。最後に、報われる努力が存在する世界があればと願いながら、達樹は静かに息を引き取った。
闇に沈むワンルーム。終電後の街は冷たく無関心。
地味で報われない日常、その果てに彼は散った。
だがその願いは虚空に消えたわけではない。
この先、彼の知らぬ異世界で、非常識な鍛錬を通じて、微々たる成長を積み重ねる物語が始まろうとしている。