半端者の怪
脚をもつれさせながら改札を抜け、階段を駆け上がる。まだ。まだ間に合うはず。そんな根拠のない希望を抱きながらホームに出たが、目的の電車は影も形もなかった。
十数年ぶりの運動に悲鳴を上げた肺が、ホームの埃臭い空気を吸い、盛大にむせる。夜空の下で、えづくような咳が響いた。
「……っ、はぁ……まじかよ」
自販機の傍に力なくへたり込む。
連絡手段はない。帰る場所もない。ここにへたり込んでいても現実逃避にしかならないが、他に出来ることもない。
「やっぱ実家行くんじゃなかったなぁ……」
帰郷ついでに遠くからチラリと見るだけのつもりだったのが、郷愁の念というやつに駆られてか、気付けば丸々一晩泊まり込んでしまっていた。結果、他の場所へ顔を出す余裕も無くなり、挙句の果てに帰りの電車にすら乗りそびれる始末なのだから、笑うしかない。否、笑えない。
いや本当に笑えない。どうしろというのだ、これから。
頭を抱えるも、答えなど出るはずがない。
もういい。とりあえずもうここで寝てしまおう。どうせ何も変わりはしない。
内ポケットからライターを取り出すが、反対側のポケットに入れていた箱は空だった。携帯灰皿を開けてみると、半分くらいしか吸っていない吸い殻が二本、まだ残っていた。一本を取り出し、火をつける。
そうとも。考えてみれば、終電を終えたホームで夜を過ごすなんて、まず出来ない体験だ。ひとまずはそれだけを考えよう。
そう思い、とりあえず寝っ転がれそうな場所がないかとホームを見回したところで、
「ん」
隣で俺に向かって手を突き出している、不機嫌を隠そうともしていないアンナに気が付いた。
「……なんだよ」
「罰金。私の前でタバコ吸うなって言ったでしょ」
「そんなこと言われた覚えは……」
否、あった。お腹の赤ん坊に悪いから、もう私の前では吸うなと、もし吸ったら都度罰金だと言われていた。
「いや、お前それ何年前の話だよ」
「だから? 何年前とか、関係ないし」
溜息をつき、ポケットから引っ張り出したくしゃくしゃの千円札を彼女の足元に叩きつけてやる。アンナはフン、と満足げに息を吐いたので、俺もこれ見よがしにふかす。罰金を払ったから吸っても問題はないのだ。アンナも今度は何も言わずに、俺の隣に座り込んだ。
「……あー、なんだ。いい天気だな」
「いやめちゃめちゃ曇ってんじゃん。月も見えないし。つーかさ、真っ先に言うことそれ? 他にあるでしょ」
「いきなり罰金とか言い出したお前に言われたくねぇよ」
「そう、それも! なにあんた平然とタバコふかしてんの? お金払ったからもういいだろうって? スグルってば、そうやって一個間違えたら開き直って全部投げ出すところ、ほんと変わんないよね」
「他にやることねぇんだから仕方ねぇだろ。変わらないっつったら……お前だって変わらねぇじゃん。変わらな過ぎて一瞬ビビったぞ」
「当たり前じゃん、一五年前で止まってるんだから」
十五年前。そんなになるのか。
改めてまじまじとアンナを見る。
「……なによ」
「いや、お前そんな小さかったんだ、って思って……!」
言ってから身構えたが、アンナは睨みつけてくるだけで、殴り掛かっては来なかった。
虫の鳴き声が聞こえる。秋でなくとも、夜に虫は鳴くらしい。
ホームに座り込んだ俺の横で、アンナは退屈そうに夜空を見ている。
「……なんで帰って来たの?」
「盆に帰って来ちゃ悪いかよ」
「もっとさっさとくればよかったのよ。そうすれば、きっと小母さん喜んだのに」
「……」
久々に戻った実家は、無人だった。玄関の扉には南京錠が掛けられていて、庭は荒れ放題。家屋の中には、家具や小物なんかが放られたままになっていた。
「来ないまでも、せめて電話か手紙の一つでもよこしてればさ」
「悪かった、悪かったって。……ほんとに、悪かったって思ってるんだよ」
今更ながら。
本当に、今更だ。母から届いた、父の死亡通知がポストの奥にへばりついていたのに気付いたのが、投函された一年後で。
それで何もかもどうでも良くなって、連絡の一つもよこさずに、完全に縁が切れて。
母が死んでからの相続権も面倒で放置してて。
その癖この盆になって、なにを思ったか里帰りなんかしてる。
あぁ、アンナの言う通りだ。俺はいつも、何もかも投げ出して、あとになってグダグダと文句を付けている。
「……ひょっとしたら、いるんじゃないかって思ったんだ。盆だから」
「うっわ、都合よすぎ。小母さんも小父さんも、絶対帰ってこないよ。あんたが来るなんて思ってないもの」
「だよなぁ……っつーか、お前はなんでいるんだよ」
「は? 関係ある? 私にだって用事はあるの。スグルには教えないけど」
「んだよそれ、人には散々訊いといて」
「とーぜんの権利。あんたがいなくなってから、代わりに小父さん達のこと、ちょこちょこ様子見に行ってやってたんだから」
アンナの顔を見る。憮然とした、幼さを残した18歳の顔。
「……親父達、どうし」
「教えない。絶対」
「……」
「あんたはどうなの? 家飛び出してから、何してたの。スーツ着てるってことは、就職はしたんだ」
目を逸らす。「……は?」と、アンナが呆れる声が聞こえた。
「……ちょっとまって、あんたまさか、まだ就職してないの? は? それ就活スーツ? ばっかじゃないの!? あんたいまいくつよ! 十五年もブラブラなにしてたわけ!?」
「うるっせぇな! こっちにだって色々あんだよ!」
「色々ってなによ! なんの夢追っかけてたのか知らないけど、どーせそっちも捨てきれずに押し入れの奥にでも道具押し込んでるんでしょ? それで毎晩毎晩酒飲んで帰っては、未練がましく引っ張り出して、碌に弄りもせずまた戻して布団にもぐるんでしょ! あんた昔からそうだもんね。バンドやるって言って譲ってもらったギター、何回諦めて何回引っ張り出した? 結局弾けないまま終わったじゃない!」
「未練がましくしてるわけじゃねぇよ!」
「え、まじでやってんの……? それはそれで引くわ……」
「ぐぎぎぎ……」
あぁ、そうだ。こいつはこういうやつだ。
偏見と思い込みで、中途半端にこっちを見抜いたようなことを言って勝ち誇る。
地元でも顔の良さより、その性格の悪評が目立っていた。
だから行方不明になった時も、両親が既に死別してるのもあって、彼女を心配する声はほとんどなかったのだ。
「おまえ、結局どこにいたんだよ。ずっと探してたんだぞ」
「知らない男の家の床下。ほんとに知らない人だよ。突然車に乗せられたの」
そりゃあ、見つかるわけもない。
「夜中に出歩いたりするからだ」
「うっさい。で、あんた今までなにしてたの?」
「なにもしてねぇよ」
勢いで家を飛び出してからの十五年間。俺は何一つ成せなかった。
「あちこち彷徨い歩いて、途中飯屋とかのバイトで食い繋いで……」
「そうそう、裕作覚えてる? あいつ中華料理店継いだよ」
「聞けよ人の話……いやまて。裕作? あの裕作?」
「そう。実家なんて誰が継ぐかー、って言ってあんたみたいに飛び出して行った、あの裕作。五年くらい前に帰って来てたよ」
「マジかよ……何があったんだ」
「夢破れたーって顔してたから、まぁ、そういうことでしょ。スグルよりは潔いよねー」
「うるせぇ」
自分も、そうすべきだったのだろうか。どこかで頭を冷やして、踏ん切りをつけるべきだったのか。
「ま、あんたもやっと戻って来たみたいだし? 裕作見習って、地に足つけて生き直したら? ……私のことも、今夜限りの夢と思ってさ。来年からは、もう来ないから。ここで待ってたりしても無駄だからね」
アンナを見ると、「さっむ……」なんて、肩を擦って見せている。真夏の夜に。ネグリジェ姿を利用したジョークのつもりか。ジョークのつもりなのだろう。こっちを見て笑ってやがる。面白くねぇよ。
立ち上がって上着を脱ぎ、アンナの肩にそれを掛けてやると、彼女はビシリ、と固まった。それこそ、凍りついたように。
ゆっくりと振り向いた顔は、今まで見たことのないものだった。絶望と驚きが混ざったような。
「…………いつ?」
「一ヶ月くらい前。後ろから首絞められてさ……」
言い終わる前に、顔に衝撃が走った。アンナから平手打ちをもらうのは初めてかもしれない。彼女を見ると、泣きそうになっていた。
「バカじゃないの⁈ あんた…っ、なんでそんな……っ!」
言葉に詰まり、アンナは嗚咽を抑えるようにしながら、俺の胸に拳を何度も叩きつける。何度も、何度も。
こういう諍いも、結局碌にしてなかったなぁ。
「お前が行方不明になったって聞いた時に、見覚えのない車が通ってたって話も聞いてさ。それ追っかけて、飛び出したんだ。で、十五年探してた」
「……ほんとバカ。考えなしなのも、それで半端に投げ出すのも、本当に変わらない」
「自分でも思ってるよ。結局騒ぎ立てただけで、俺は何にも出来なかったんだ」
無人のホームの中。俺の口から吐く煙が、曇り空へと登っていく。アンナは隣で俯いている。覗き込んではいないが、目は赤くなっているのだろう。
「いい所まで行ってたんだよ」
「……見つけたんだ」
「犯人まではな。証拠見つけてやろうと思って、そいつの家に忍び込んで家探ししてたら、見つかってそのまんま殺された」
自分で言ってて情けなくなる。冷静に動けば、もっとやりようはあったかもしれないのに。
「せめてお前の死体くらい見つけられれば、って思ったんだけどな」
「十五年だよ?見つかっても、私だって分からないでしょ」
「わかるよ。多分わかる」
ゴツン、と、肩を殴られた。触れると分かった途端遠慮なしかこいつ。
「……お互い、半端に終わっちまったな」
「……そだね。 ……ねぇ、タバコ頂戴」
「赤ん坊は?」
「一本くらい平気でしょ」
さっきと言ってること違うじゃねーか。とは言わずに、残った一本を渡す。そのまま火も御所望だったが、ライターのオイルが切れていたので、こちらのタバコの火種を押し当ててやった。
宙を見ながら煙を吸うアンナの姿は、見慣れたものだった。
「……うまいか?」
「微妙。 ……じゃあ、あんたも乗り遅れたんだ」
「そういうこと。まさか電車だとは思わなかったよ。迎え火だとかナスだのきゅうりだのとか、なんだったんだろうな」
「時代が変わったんでしょ」
「というか、俺は分かるけど、お前はなんで乗り遅れたんだよ」
「あんたが来たからよ。一回顔見れたら充分かなって思ってたのに、いざ見たら、もうちょっと、もうちょっと、って思っちゃったの」
「へー……いや、ずっと見てたんなら気付けよ」
「幽霊の癖に中入らずに庭で野宿始めるような馬鹿だなんて思わなかったもん。……乗り遅れたら、どうしたらいいんだろうね」
「そりゃあ、来年まで持ち越しだろ」
「ふーん……じゃあ、それまでどこ行く?」
「行きたいとこあるのか?」
「別に。どこでもいいよ。パパと一緒なら、この子も喜ぶんじゃない?」
「そっか」
「うん」
そこまで話して、お互い言葉が途切れる。
示し合わせるでもなく、その場に座り込み、二人で曇り空を見上げた。
行きたい場所も、やりたいことも、もう思いつかない。
ひとまずは二人して、最後のタバコを吸いきるまで、ここで曇り空を眺めていようか。
半端者の二人には、お似合いの景色だろうから。
「……ところで、あんたそれ目的で上京したんなら、押し入れの奥って何入れてたの?未練がましく何見てたのよ」
「だから未練がましくねぇって。お前の写真」
「うわきっも」