スキップを教える
少年は僕を木立の影、崖のふちにある岩のくぼみに案内した。
腰掛けると、すぐ足の下に波が打ち寄せてくるのが見えるような崖っぷちだが、風はそこそこ避けられるようだ。彼は岩のくぼみにすっぽりとはまるように座り、僕は少し離れた松の木に寄りかかった。
聞くと、小学校一年の二学期が終わるまでに、クラス全員がスキップをできるようになる、というのが彼のクラスの目標なのだそうだ。
しかしなぜ? そう問い直す僕に、
「わかんないよ!」
語気荒く答える少年の目にはまた、新しい涙の球が盛り上がっていた。
「先生は、となりのクラスにまけないようにね! できない三人、あと三人できればかんぺきだから、それで、三回できた人はつぎ、一〇回だから、って言うんだ。ひる休みもかえりの会のあともテスト、ずっとやらされるんだ!」
彼はついに、クラス最後の「できない人」になってしまったのだそうだ。
聞いているうちに、僕も切なくなってきた。スキップがこの世の価値のすべてを決める世界、そんなものがあるなんていまの今まで、まったく知らなかったから。
「おうちの人は、何か言わないの?」
のろのろと彼は首を横にふる。
そんなもの、いつかできるようになるよ、と笑っただけだったらしい。
そう、『そんなもの』なのだ。
「さえみだって、もうできるのに……」
ふたつ下の妹すら、得意げにやってみせるらしい。
しばらくは、海鳴りだけがどこか遠く響いているだけだった。
それから時折、すん、と洟をすする音と、僕が足を踏み替えるたびに乾いた松葉の鳴る音だけ。
考えもなく、口に出していた。
「練習に、つき合おうか?」
彼が素早く振り返った。声が弾んでいる。
「ゾンビなのに、スキップとくいなの?」
「スキップくらい、できるさ」
言ってしまってから、あっ、ごめんと小さな声で謝った。
幸いなことに聞こえていなかったようだ。彼は跳ねるように飛び上がると、さっきの空き地に弾丸のごとく駆け出していった。
まず、学校で教わった方法を試してみた。しかし、なぜかジャンプした後にわざわざ気をつけの姿勢になるのだった。
そしてまたジャンプ、気をつけ……
ギクシャクとした動きに、噴き出さないようにするのがやっとだった。
何十回目かの気をつけで、ついに勢い余って彼は前のめりに倒れ伏した。
駆け寄ったが、すぐ近くに寄ることもできず、僕はただ、
「大丈夫?」と聞いただけだった。
頭を囲うように両腕を丸め、その囲みの中で彼は何かをひっしに耐えていた。
腕の下から笛の鳴るようなうめき声が徐々に高くなり、やがて、空き地に少年の泣き声が長くか細く響きわたった。
つい僕は駆け寄って、彼の肩に手をかけた。細かく震えるからだをそっと撫でる。
絞り出すような声が僕の手の下から聞こえる。
「ゾンビ、うつらないの?」
だいじょうぶだよ、と僕はしばらく彼の背中を静かに撫で続けていた。
起きた少年を草地に座らせ、軽く咳払いしてから少し離れて草の上にまっすぐ立った。
耳をすませる。海鳴りしか聞こえない。迎えはまだのようだ。
息を整え、足を踏み出した。
離れたところで少年が息を呑むのが聴こえた。
まず、一歩。それから、ゆっくりと次の一歩。そしてまたゆっくりと、次。
自然にメロディを思い出して、僕は歩みに合わせ、低くハミングで歌い出す。
ねえそれ、とついに少年が声に出す。しびれを切らしたようだ。
「あるいてるだけだよ、それになに? そのうた」
うんこれはね、と僕は足を止める。
「ユーモレスク、っていう曲、聴いたことない?」
「……わかんない」
「でもいい歌だろう?」
彼は細い顎を上げて反論する。
「で、それが?」
まあ立ってごらん、と彼に手を貸した。服についた枯れ草を払ってやってから、彼を脇に立たせ、まずは鼻歌でユーモレスクを歌う。
覚えた? と聞くと、しぶしぶうなずいたので、次に、歌に合わせて歩くように言ってみた。
少年は、おそるおそる歩き始めた。僕は脇で歌う。先ほどより更に遅く。
ゾウになったみたい、と彼はのっしのっしとあちこちを歩き回っている。
「次はね」
歌いながら今度は、手拍子を加えてみせる。軽いスタッカートで。
少年も顔を輝かせて、歩きながらすぐに手拍子を始めた。
次は? という目が輝いている。
今度は僕が、鼻歌に合わせて歩いてみせる。手拍子をしながら、始めはゆったりと、そして……
「あっ」
彼も気づいたようだ。「足も、てびょうしみたいになってる!」
すぐに彼は真似して、歌いながら行進を始めた。「たった、たった、たったたった」
足で二度ずつステップをふめるようになっていた。ゆっくり、ゆっくり、そしてだんだんと速く、はやく……
いつの間にか、彼はスキップで駆け回っていた。
何の変哲もない、ただの空き地に彼の描くスキップの軌跡だけがキラキラと煌めいているように見えて、僕は歌いながら何度も目をしばたかせた。
唐突に少年が立ち止まり、頭を上げて叫んだ。
「ふねがきた!」
そして、さっきまで二人で話していた岩場にまっすぐ走っていった。
あわてて追いつくと、彼の指さす遠い海の鈍色のかなたに、輝く金色の点が見えた。
みるみるうちにそれは近づいてくる。確かに、それは船だった。思ったよりずいぶん小さな手漕ぎボートのようだ。
荒れた海なのに、それは滑るようにこちらに近づいてきた。舳先に立つ人影もついには認めることができた。
少年は力いっぱい手を振っている。
「おーい、もう行けるよお、スキップできるようになったから」
いつの間にか少年は、宙を歩いていた。
歩みはだんだんと速く、最後にはスキップになっている。
船に上がる間際、少年は振り向いた。
「のらないの? ゾンビさんも、これをまってたんでしょ?」
うん、でもまだやることがあるんだ、と僕は答え、船に乗り込んだ少年に大きく手を振った。