指輪の灯火
それは、連日続く夕立がぱったり途切れたある夏の夜のこと。
気温が下がらず蒸し暑く、それでも熱気がこもるよりはとすべての窓を開け放って風を通していた。
王都に構えられた酒場。
切り盛りするのは気前のいい夫婦で、馴染みのお客達もみんな豪快で人がいい。
年頃の娘である私が勤めるには、とても居心地のいいアットホームな職場だった。
「風が強くなってきたな。フラン、看板をしまってくれ」
「はーい」
私は店の外に出ると、立て看板を両腕で抱えた。
ふわりと風が前髪をかきあげる。生ぬるかった空気はいくらか冷たくなっており、鼻を掠めるのは湿った匂いだった。
「店主。雨が降りそうです」
抱えた立て看板を店の中に置くと、店主は苦い顔をした。
「今日は夕立がなかったもんなぁ。通り雨だとしても、ひどくなりそうだ」
店主は店の奥、厨房のほうへと行ってしまった。
そこに常連客が私に追加のお酒を注文し、私は慣れた手つきで提供した。
他愛もないやりとりをして笑っていると、店主が戻ってきた。
「フラン、今日はもう上がっていいぞ。降り始める前に帰んな」
「え、ですが……お客さんもまだたくさんいますし」
夕立がなかったために夜は特に蒸し暑くなっていたせいで、今日の客の入りは普段より多いくらいだった。
まだまだ盛り上がるテーブルがいくつもある中で、私だけが先に上がるのは気が引ける。
「気にするな。……おーい、雨が降るぞ! 濡れたくないやつはとっとと帰んな!」
よく通る店主の掛け声。
客達はそれぞれに外の様子を伺うと、まばらに席を立ち始めた。
「ほら、半分以下にもなった」
「豪快すぎます……」
「いいんだよ、ここは俺の店だ。だから、フランも帰んな」
「わかりました。では、お先に失礼します」
頭を下げると、その頭の上に大きな手のひらが置かれた。髪が乱れることなど気にせずに、わっしわっしと撫でられた。
「ただ、悪いな。今日は送ってやれん」
「大丈夫ですよ」
「使えそうな常連も酔っ払っちまってる。十分に気をつけてな」
「ふふ、大丈夫です。いつもありがとうございます」
店主の手がどけられると、くしゃくしゃにされた髪がぱらぱらと落ちてきた。
適当に直していると、今度は厨房から出てきた店主の奥さんが私の髪を触った。
「年頃の子の頭をぐしゃぐしゃとなでるんじゃないよ!」
「いやぁ、愛情表現だって」
奥さんはたじたじになってしまった店主を押し退けると、私の髪を手早く結い直してくれた。
「はい、今日の賄い。持って帰って食べてね」
「わぁ、嬉しい! いい匂い!」
「お母さんの分もあるからね。たまには一緒に夕飯も食べてやんなさい」
「はい、ありがとうございます!」
奥さんから出来立ての賄いが入った籠を受け取ると、私は店を出た。
「気をつけてねー!」と声を張ってくれる奥さん。店主も、顔馴染みのお客さんも、みんな手を振ってくれた。
冷えてしまった風を頰に受けながら、私は小走りで家を目指した。
だけど、雨が降り始めるのは思ったよりも早かった。ぽつぽつと雨粒の気配を感じると、瞬く間に雨脚は強くなった。
王都の賑わう通りを抜けて、家まではまだ少し距離がある。
私は籠を庇って走りながら、雨避けできる所を探した。
すると突然、背後に人の気配を感じた。
「――失礼」
ばさり、と頭から大きな布を被せられた。
そのまま手を引かれ、声の主は私の前を迷いなく走った。
見覚えのある隊服から、恐怖や不安は感じなかった。
そうして少し走ると、ようやく大きな木の下で足を止めた。
被せてくれた布のおかげで私はそれ以上濡れず、籠の中身も無事だった。足元は致し方ないが、隣で髪をかきあげて雨水を滴らせている隊服姿の騎士には及ばなかった。
「あの、ありがとうございます」
暗がりでよく見えないが、暖色らしい髪が束で揺れる。
「いえ……いきなり失礼しました。土砂降りの中を走っていたのでつい引っ張ってしまいましたが、怖がらせてしまったでしょうか」
「騎士様だとすぐにわかったので、大丈夫でした」
「それはよかった」
ふ、と空気が柔らかくなる。
優しい声色は、私と同じ年頃のように思えた。
「でも、ごめんなさい。騎士様が濡れてしまいましたね」
被せられた布は、どうやら外套らしかった。
私に被せてくれたせいで、騎士は打ちつける雨をその身にすべて受けてしまっていた。
「あぁ、問題ありません」
騎士はそう言うと、右腕を持ち上げたようだった。
すると、暗がりの中に小さな光源が現れた。赤みがかった光は騎士の小指にあり、その光がふわりと風を起こす。
騎士の身体を覆うと途端に雨水を吹き飛ばした。次いで、私の濡れた衣服と、足元の泥水まで。
――それは、魔法だった。
「騎士様は魔法を使えるんですね」
「ほんの少しです。この程度でも、魔法石の力を借りています」
魔法石とは、元々魔力のこもった石のことだ。
持ち主の魔力を込めることで、魔法を使った際にその力を増幅させることができるという。
赤みがかった光を放っていた魔法石は、今度は橙色に変わった。
まるでランプのように広範囲を照らし出す。
魔法石が取り付けられた指輪も、騎士の顔も。
「……綺麗ですね」
「魔法石を見るのは初めて?」
「はい。でも、そうじゃなくて……騎士様の髪色が。瞳も、綺麗な赤銅色」
この国にはさまざまな髪色の人がいるので赤銅色はさしてめずらしくない。
けれど、騎士の赤銅色は赤が強く、濁りのない色だった。瞳も見れば見るほどに赤が深い。
「そんなことは初めて言われました」
あまりに私が見すぎていたせいか、騎士は指輪とは逆の手の甲で口元を隠し、顔を背けてしまった。
「す、すみません。不躾にじろじろと見てしまって」
「いえ……」
騎士は落ち着かないといった様子で目を泳がせていたが、ふと見上げた空に動きを止めた。
雨は少しずつ上がり始め、風に雨雲が流されている。垣間見える濃藍の夜空に、騎士は小さくこぼした。
「同じ色だ」
言葉の意味が理解できずに首を傾げると、騎士は私を見た。
「あなたの瞳と同じ色です」
はにかんだその顔は、やっぱり私と同じ年頃のものだった。
「僕はレイです。騎士様ではなく、そう呼んでください」
「私はフランチェスカです。フランとお呼びください、レイ」
橙色のあたたかな光の中で微笑み合うと、雨の上がりきらない夜空を二人で見上げた。
❇︎❇︎❇︎
レイとはその後もたびたび出会い、そのたびに会話を交わして気兼ねない仲になっていった。
私が酒場で働いているため顔を合わせるのは夜に限られ、都度「女性のひとり歩きは危険だ」と苦言を言うレイが私の送迎を始めるまでそう時間はかからなかった。
それまでは店主や帰り時間のかぶった常連客が送ってくれたりしていたが、それもなくなってしまった。
「では騎士様、フランをよろしく頼みます」
「この身に代えてもお守り致します」
「も〜。二人ともやめて下さい〜」
私とレイの仲をおもしろがる店主はいつもこの調子で、レイは本気なのか冗談なのかわからない返しをする。
毎日繰り返されるこのやりとりが、私はただ気恥ずかしくて仕方がない。
「私は貧乏な庶民です。ご令嬢と違って守っていただくほど危険な目には遭いませんよ」
そう言うと、店主とレイは急にまなじりを吊り上げて私に詰め寄った。
「何を言ってるんだバカ野郎! 人を襲うやつは庶民も貴族も関係なく襲うんだぞ!」
「そうですよフラン。僕ら騎士は庶民を守るのも仕事なんです。だいたい君は、自分の魅力を――」
男二人に押されて私が逃げ場なく受け身になっていると、パンパン! と手を打ち鳴らした音が響いた。
店主とレイの後ろで、店主の奥さんがため息をついていた。
「はいはい、あんた達。その守るべき年頃のお嬢さんを早く帰してやんなさい」
奥さんは私に料理の入った籠を持たせてくれる。
「お母さんの分ね。明日もよろしくね、フラン」
「はい! よろしくお願いします」
奥さんの登場に背筋をぴんと伸ばしていた店主は、私の頭を無造作にかき混ぜて仕事へと戻っていった。
レイはそんな私の髪をさらさらと直してから、私の持つ籠をさりげなく持っていってしまう。
髪に触れた優しい感触に、わずかに鼓動が早くなる。
「行きましょう」
「う、うん」
先を歩くレイは賑やかな王都の通りを堂々と歩く。
時間が時間なために出歩いている者は酔っ払いが多いが、皆レイの隊服を見て道を空けた。
私は自分より少し高いレイの背中を見つめて、騒ぎ出す胸の鼓動に恥ずかしくなり、目をそらした。
「……フラン、常々思っていたんですが」
唐突にレイは、私を振り返ることなく口を開いた。
「日中だけの仕事には変えられないんですか? ここはまだ明かりのある通りですが、この時間はこんなにも酔っ払いが多い」
「そうですね」
「フランがこの時間まで働かなくてはいけない理由はなんです? いつも料理を持たされているということは、家には母君がいるのでしょう?」
「……うん、いるよ」
――母は、たしかに家にいる。
けれど、私が生まれる前から病弱な体質で、外で働くにはあまりにもその日の体調に左右された。
父がいるうちはもちろん父が稼いできていたが、そんな父も数年前に不慮の事故で死んでしまった。
残された母は私を育てるために働き出し、さらに体調を崩す毎日。父が亡くなって間もないこともあった。
そんな母を見ていられず、今の酒場で働かせてもらうようになったのだ。
店主も奥さんも私の家の事情は知っているので、ずいぶんと優遇してもらっている。
「あ、言いたくなければそれで……フラン、大丈夫です」
黙り込んでしまった私に、レイは焦ったように振り返った。
その困り顔がなんだか可愛らしく、私は小さく笑った。
「母は病弱なの。だから私が働かなくちゃいけないの」
「そうでしたか……。無礼にもフランの事情に踏み込んでしまい、申し訳ありませんでした」
レイは律儀に頭を下げた。
騎士に頭を下げさせるという構図に今度は私が焦ってしまい、レイの顔を上げさせるのと同時に手を引っ張った。
見ているのは酔っ払いだけれど、噂はどこから広まるかわからない。
人の目のないところまでレイの手を引いて二人で走った。
王都の通りを抜けると途端に明かりが少なくなり、人気もなくなる。
私は足を止めると空気をたくさん吸い込み、切れ切れの息を整えた。
レイはさすが騎士なだけあり、肩が少しも揺れていなかった。
「フランは足が速いですね」
「息も切らさず、平然とついてくるレイに言われたくないわ……!」
「僕は鍛えてますから」
ふぅーっと大きく息を吐く。
少しずつ私の呼吸が整うのを確認して、レイはまた歩き出した。
私もその後に続こうとするが、足元がぬるりと滑った。
「きゃあっ!」
「おっ……と」
咄嗟にレイが手を掴んでくれ、私は転ばずに済んだ。
「今日は夕立が長く続いていましたから、整備されていないこの道はぬかるんでいますね」
「びっくりした……。レイ、ありがとう」
「いいえ。……――」
レイは掴んだ私の手を見つめていた。
まるで貴族のエスコートのように、レイの手が私の手の下にあった。大きな手にすっぽりと包まれている。
レイは髪色が綺麗なだけでなく、顔立ちも騎士にしてはもったいないくらいに整っていた。
私は向かい合う近さにそれ以上耐えられず、手を引っ込めようとした。
「待って」
レイの手が私の手を掴み直した。
今度はエスコートとは違う、手のひらと手のひらを重ねた普通の繋ぎ方。
前を歩いていたレイが私の横に立った。
「ぬかるんでいますから。念のために」
歩き出すと、わずかに肩が触れる。
私は意識せずにはいられず、一歩離れた。それからは何もしゃべることができなかった。
レイも何か思うのか、言葉数がとても少なくなった。
繋がった手のひらは熱を持ち、夏の暑さの中だというのに、それでも離したくないと思った。
恥ずかしくてどうしようもないのに、私よりも大きなその手に、いつしか安心感を覚えていた。
❇︎❇︎❇︎
その日を境に、レイは私を送ってくれるたびに「念のため」と言いながら手のひらを重ねてくるようになった。
場所は必ず王都を抜けた人気のない道から。明かりも少なく、たしかに日によってはぬかるんでいる日もあったけれど、ぬかるんでいない日もレイは必ず私の手を取った。
それが当たり前の毎日になっていた。
繋がる手のひらはいつまでも慣れず、熱を持ち続ける。
触れる肩は次第に遠慮がなくなり、レイとの近さを実感させた。
以前までは気兼ねなく会話できていたのに、今ではぎこちない。顔を見るのも、目が合うのも。
私は頬が赤くなるのを感じて、つい避けてしまうようになった。
それでもレイは優しく笑顔を向けてくれた。素っ気なくなってしまった私に、日に日に近づいてくるようになった。
そうして、素直になれない自分にもどかしさを感じているうちに、夏は終わりを迎えようとしていた。
朝晩はずいぶんと涼しくなったある日の帰り道。
王都の通りを抜けた先で、いつになく乱暴に、レイは私の手を引っ張った。
「しっ。声を出してはダメですよ」
ほんの一瞬の間に、私の目の前にはレイの大きな背中があった。
一体どうしたのかと困惑していると、明かりの少ない暗がりから人影が二人出てきた。背格好から男。
その手には剣を持っていた。
「フラン。僕が合図をしたら、そこの建物の影に隠れてください」
レイは私に聞こえるように囁いた。
カチ、と鍔鳴りの音が聞こえた。レイが腰に佩いた剣に手をかけていた。
男二人はどんどん近づいてくる。
一人が剣を振り上げ、レイ目掛けて突進してきた。
「行きなさい!」
レイに背を押され、私は示された建物まで無我夢中で足を動かした。
ほんの少しの距離なのに、震えてちっとも前に進まない。息も驚くほどすぐに上がってしまった。
背後で剣同士のぶつかり合う音がする。
その音が激しさを増していく中で、私はようやく身を潜めることができた。
レイのことが心配で身を引き裂かれるほどなのに、恐ろしくて遠巻きに見守ることしかできない。
男は剣を大きく振り下ろす。レイはそれを受け止めると、すぐに弾き返した。
体勢を崩した男はがむしゃらに剣を薙ぐが、さらにその剣は弾かれる。男の手を離れ、地面に突き刺さった。
レイは容赦なく、剣の柄頭を男の腹に突き立てた。男は地面に崩れ落ちた。
間髪入れずに、もう一人の男がレイに挑む。
剣先を自身の目線に合わせて水平に構え、振り下ろすのではなく突き立てようと突進した。
レイは剣を構えたまま微動だにせず、切っ先が触れる直前でひらりと身をかわした。
そして素人目では追いつけない一瞬の隙に、男の胸ぐらを片手で掴んで手繰り寄せた。
下に引っ張られた男はぐらりと傾き、その顔にレイの膝蹴りが見事に入った。
圧倒的な強さだった。
レイは男達の顔を確認すると、私に向けたことのない低い声を放った。
「いるんだろう? 出てこい」
それに反応してさらにもう一人、暗がりから姿を現した。
けれど先の二人とは違い隊服姿で、レイの前までやってくると胸に手を当ててかしこまった。
「お見事でした」
「殺してない。連れてって尋問しろ」
「御意。レインズフォード様は?」
「私はあの娘を送り届ける」
レインズフォード……?
少し離れているために確かではないが、聞き間違えでなければ覚えのある名前だった。
騎士はレイより年上に見えるが、相対する関係性は一目瞭然でレイが上だ。
一言二言、さらにやりとりをして、レイはこちらに歩いてきた。
へたり込んでしまっていた私に、いつも通りの柔らかな眼差しを向けてくれた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫です」
「レイ、怪我は……っ」
「かすり傷ひとつありませんよ。――失礼しますね」
レイが目の前に迫ってきたかと思うと、私の体はふわりと宙に浮いた。
ごく至近距離にあるレイの顔を見上げる形になり、あまりの密着具合に、私は固まってしまった。
「いい子です。そのまま大人しくしていてください」
「じ、自分で歩けるよ……」
「今日はこのまま送らせてください」
私を横抱きにしたまま、レイは軽々と歩き出した。
流れる景色に、歩調がいつもより早いのだと感じる。歩くペースを私に合わせてくれていたことに、今になって気がついた。
こっそり見上げたレイの瞳は真っ直ぐ前を向いていて、赤みの強い赤銅色の髪がさらさらと揺れていた。
――濃藍の夜空に、なんて映えるんだろう。
あまりに見つめすぎていたため、レイに気づかれてしまった。
「どうしました?」
「ううん。レイが綺麗だなと思って」
「男に対する褒め言葉ではないですね」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることではないですが。……綺麗と言うのは、女性に向ける言葉です」
レイは足を止めた。
揺れがなくなり、視線がぶれることなくぶつかり合った。
「僕の色なんかより、フランの深い夜空のような瞳の方が美しいですよ」
「そんなこと……」
「奥深くを暴いてみたくて、吸い込まれそうになってしまう」
レイは私の瞳を覗き込み、どんどん顔を近づけてくる。
抱き抱えられて逃げることのできない私はただ体を硬直させた。さらりと、レイの前髪が私のおでこに触れるまではあっという間だった。
鼻と鼻が……――唇が、触れそうなほどの距離。
私はぎゅっと目をつむると、レイはふっ、と笑った。唇にかかった吐息に酔いしれそうになる。
「…………でも、吸い込まれてはダメなんです」
いきなりレイの腕の力が緩み、私の体は支えなくずり落ちそうになった。
私は慌ててレイの首に抱きついた。
「レ、レイっ?」
「フラン、巻き込んですみませんでした」
レイは力強く私を抱きしめた。
その力は少し痛いほどで、私を持ち上げながらまだそんなに力があるのかと驚いた。
「……遠方に、頼れる縁者はいますか」
「縁者?」
唐突な質問に、私は考える。
「北の田舎に、亡くなった父方の祖父母がいるけれど」
「北か……王都よりは安全か」
私の答えにレイはぽつりと呟いて、顔を上げた。
「僕はあなたに近づきすぎた。己の立場を軽んじてしまった」
「どういうこと……?」
混乱する私に、レイは眉を下げた。
向けられた悲しげな笑みに胸がざわつく。
「もう、会わない方がいい」
突きつけられた言葉に凍りつく。
問い詰めることもできず、縋ることもできず。
呆然とその言葉を反芻しては意味を考え、とっくに理解しているのに、受け入れられずにまた考える。
最後に見たレイの表情が、瞼の裏に焼き付いて離れることはなかった。
それから、隣国が攻め込もうとしているという噂が出始めたのは、まもなくのことだった。
あの日からレイは私の前に現れず、代わりの護衛だという騎士がやってきた。
たしかに「レインズフォード様」の代理だと言った。
私は名前をはっきりと耳にしたことで、ようやく抱いていた疑念を確信に変えることができた。
❇︎❇︎❇︎
国は着々と隣国を迎え撃つ準備をしていた。
以前の王都と比べると変化は歴然としていて、ピリピリと嫌な空気が漂い始めた。
いつ隣国との戦争が始まってもおかしくない。
誰しもが計り知れない恐怖に身を震わせ、徐々に王都から逃げ出していった。
やがて国からも正式な避難勧告が出され、私も王都を出ざるを得なくなってしまった。
「用意した馬車はこちらに」
代理の騎士が私の母を支えてくれ、まとめた荷物もすべて馬車に積んでくれた。
レイが用意したという馬車は庶民から見ると気後れするほど豪奢なもので、北の地までさらに護衛もつけるという。
やりすぎだと思う反面、レイの「近づきすぎた」という言葉を思い出せば、私はかなり危うい立場にいることを思い知る。
「そろそろ出発します」
御者の合図で、馬車は緩やかに動き出した。
けれど、代理騎士がすぐに「待て」と声を大きくしたことで御者はすぐに馬を止め、私は窓からその理由を知った。
「……――!! レイ!」
扉を開くのももどかしく、代理騎士の差し出してくれた手を素通りして馬車を飛び降りた。
外套のフードをまぶかく被って顔まで隠していたレイは、駆け寄る私にフードを外した。
その出立ちが、今までの騎士のレイとは違っていた。
私はその威厳に冷静さを取り戻して、レイの前で最大限の礼儀をわきまえた。
「……馬車や、必要なものを見繕っていただき感謝致します。レインズフォード殿下」
「構わない。顔を上げて、フラン」
差し出された手は私の頰に触れる。
ほとんど外套に隠れて見えないが、唯一出された腕はいつもの隊服ではなくなっていた。
金糸の刺繍が入った袖口は白いジャケットで、中のシャツはレイの髪色に寄せたワインレッド色。
刺繍の緻密さから、それがどれだけ質の良いものかがわかる。
「僕が王子だって、聞いたの?」
レイがちらりと見やるのは代理騎士だ。
普通は王族にそんな視線を向けられたらすくみ上がりそうなものだが、代理騎士は怯むことなく胸を張っていた。
「いえ、お名前だけです。騎士様からは何も聞いていません」
名前と、その髪色だけで十分だった。
レイには二人の兄王子がいるが、そのどちらも国王と同じ金の髪色だ。対してレイの赤銅色は国王妃の遺伝となっている。
第三王子であるレイはあまり社交界に顔を出さないようで、外見的特徴として知れ渡っていたのはその髪色だけだった。
名前も「レイ」と名乗られ、騎士として出会ってしまったので、私が気づくはずもなかった。
「僕が王子でがっかりした?」
レイは不思議な質問をする。
質問をしておいて、私の答えを聞く前に「いや……」と自ら否定した。
胸に手を当てた敬礼の姿勢を、私に向けた。
「僕がフランの騎士でいたかったんだ。何よりも、僕が……」
私はあの日のレイの悲しげな笑顔を思い出した。
たまらず、胸がぎゅっと締め付けられた。
「殿下、今だけ無礼をお許しいただけますか……?」
私の言葉に、レイは片手を上げた。
代理騎士や護衛達が皆、会話が聞こえないだろうほどに距離を取った。
「無礼って、何?」
「レイって呼んでいいですか?」
「僕は最初から、そう呼んでほしいと伝えていたよ」
私は溢れんばかりの気持ちでレイに抱きついた。
レイは優しく抱きとめ、以前とは違う力強さで私を引き寄せた。
「レイ、会いたかった」
「僕も会いたかった。危険に巻き込むかもしれないからと遠ざけたのに、君のことを忘れる日は一日もなかった」
「私もだよ。私もレイのことを考えない日はなかった」
レイが私を抱きしめる腕に力を入れると、体がぴったりと密着する。足が浮きそうになり、つま先立ちになるほどに。
レイは私の肩に顔を埋めると、震える声で言った。
「僕はこれから、兵隊長と共に隊を率いて国境へ赴かなければならない」
「国境へ……? 前線に出るの!?」
「そう。だから、その前にフランに会えてよかった」
「なぜレイが前線に? あなたは王子なのに!」
「王子だからだよ。士気を高めるためにも僕が行かなきゃ。最悪、僕がいなくなっても……兄上達がいるから」
レイの最後の言葉に血の気が引いた。
けれどそれはすぐに怒りに変わり、私を抱きすくめるレイの肩を力いっぱい押してその腕から逃れた。
正面からレイの頰を両手で掴むと、ぐっと引き寄せた。
「レイはレイなの。たとえ『王子』の代わりが他にいても、あなたはあなたしかいないの!」
ぽかん、と口を開けたレイは見たことないほどに間抜けな顔をしていて、騎士や王子とも違っていた。初めて、私と同じ年相応な少年に見えた。
レイは頬を掴む私の手に自身の手を重ねると、愛おしそうに頬擦りをした。
「フランがそう言ってくれるだけで、僕は十分なんだ」
「そんなことで満足しちゃダメ!」
「じゃあ、祈っててほしい」
レイは私の手を名残惜しそうに頬から外すと、指先に軽い口づけをした。
「僕が死なないように。どんなことがあっても、帰ってこられるように」
「もちろん、毎日祈るわ」
「ありがとう。――……僕は、自惚れてもいいんだよね」
伏せられていたレイの瞳が静かに私に向いた。
見据える赤銅色は赤が深く、見つめれば見つめるほどに奥深く澄んでいる。やっぱり、私の瞳を綺麗だと言ったレイの色こそ、私は綺麗だと思った。
レイも、私の瞳を深く覗き込んでいた。
「離れていても、近くにいても。僕のことを想ってくれる? ずっと、この戦争が終わっても、ずっと――」
言い終わらぬうちに、私の頬にはいくつもの涙が伝っていた。
締め付けられる胸がとにかく苦しくて、簡単に声を出させてはくれなかった。
「……私はレイのことを、誰よりも想い続けるよ」
振り絞って出した言葉はあまりにもか細い。
レイに伝わるだろうかと心配したが、ちゃんと伝わったようだった。
レイは自らの右手の小指にあった指輪を外した。魔法石の指輪だ。
それを、私の薬指にはめこんだ。
「僕も君を想う。何よりも愛しい、僕のフランチェスカ――……」
レイは私の手の甲に涙の粒を落とし、そして誓いの口づけをした。
「必ず迎えにいく。北の地で会おう」
指輪の魔法石の中で、赤銅の炎が力強く揺らめいていた。
❇︎❇︎❇︎
戦争の火蓋が切られたのは、私が北の地に着いたちょうど冬目前の頃だった。
なぜ環境の悪い冬に開戦するのかと国民は首を傾げたが、その理由は隣国の勢いによってすぐに判明した。
作物の実り、物資の運搬、戦争を長く続けるには不向きな冬。それはもちろん隣国も同じ条件。
だからこそ裏をかいたのだ。長丁場に持ちこむ条件を最初から奪い、数で制圧し一気に方をつけようと目論んだようだった。
国境の前線で防衛していた部隊は倍の兵力により瞬く間に崩され、隣国の勢いは王都まで流れた。
攻め込まれた王都では防衛が続き、次第にこう着状態となった。その傍で、隣国の兵士の数は徐々に減っていった。
というのも、前線で生き残った部隊が王都の部隊と挟み撃ちで囲い込んだからだ。隣国の兵は数だけは多かったが、それを補ったのはなんの訓練も受けていない国民だった。
勢いに乗って攻め込むのは数が圧勝しても、囲い込まれてしまえば、鍛錬を積んだ兵士達に軍配が上がる。
そうして少しずつ盛り返していき、ようやく終戦したのは冬をとっくに越えた夏の合間だった。
王都より涼しい北の地でも夕立はある。
この日はめずらしく夕方に降る気配がなく、風が冷たい空気を運んできたのは日が暮れてからだった。
瞬く間に成長した雨雲は途端に雨を降らせ、広大な乾いた土地に恵みを与えた。
私は肩掛けを羽織ると、家人に気づかれないようにこっそりと家を出た。
雨雲はすでに風に流されつつあり、肌に感じる雨粒は少なくなっていた。
見上げれば王都より澄んだ夜空がそこに広がっていて、星のひとつひとつの輝きがはっきりと見えた。
――濃藍の夜空に、レイを思い出す。
私を見つめる深い赤銅色の瞳。濁りなく赤みの強い赤銅色の髪。
柔らかな笑顔は人柄がよく表れ、反面でとても強かった。広い背中に守られ、力強い腕に抱かれ。
優しく手を繋がれた、あの日々を。
「私には、大きな手だったけれど……」
騎士として、王子として。のし掛かる責、そして背負う命は、どれほど重いものだろうか。
隊を率いて前線に立つレイの、指揮を取るその手は、どれほど幼いのかと。
私には計り知れなく、ただ胸が締めつけられた。
「レイ……」
夜空に手を掲げる。
薬指にはレイにはめられたまま、一度も外すことのなかった指輪がある。
私には魔法は使えないけれど、魔法石の中で赤銅の炎がちらちらと揺れていた。
「――……会いたいよ、レイ」
背後で草木がざわざわと騒ぎ始め、一際大きな追い風が吹いた。
まとめることなく下ろしていた私の髪を巻き上げ、風は流れていく。
私はとっさに振り返った。
魔法石の炎が強く燃え上がり、赤みがかった光を放った。
「レイっ――……」
――――けれど。
私はその場に崩れ落ちて、声を上げずに泣いた。
明かりなく広がる夜闇には誰一人としておらず、草木がわずかに風で揺れるだけだった。
魔法石の炎も小さく萎み、放った光を失った。
ちらちらと小さく、消え入りそうなほど小さく。
王都の建て直しはとっくに終わり、いくつ季節が巡って私を置き去りにしていっただろうか。
第三王子、レインズフォードの生死は、いまだ私の耳に届かない。