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トウトウトゲドロボウ  作者: 染必至(そめぴつじ)
本編
5/18

白雪姫



「ぐわああああぁぁぁ、ごごごごぉぉぐわあああぁぁぁぁ、ごごごごぉぉ!」

 時刻は朝の8時を過ぎていた。

 怪獣のようなイビキを立て大の字になっているのは、友人のベッドを占領している武仁だった。

 お風呂を出て、梅吉の着替えを借り、着替えるやいなや、床に魂が抜けたように倒れ、寝入ってしまった。

 梅吉は深い眠りについてしまった武仁をお姫様抱っこすると、自分のベットに横たわらせた。

 その後そのまま梅吉はベットの横にもたれかかりながら、ずっとスマホをいじくりまわしていた。

 自分も寝たかったが、それどころでは無かった。

 梅吉は一人検索エンジンと格闘し、今朝のニュースについて調べていた。

 どうやら、武仁の母親は、元アイドルだったらしい。

 梅吉には武仁の母がニュースで言われているように、枕営業をやっていたかどうかや、愛人が5人いただとかいう話が実際のところは本当かどうなのかは分からない。

 が、ニュースで映った若かりし武仁の母の姿を見ると、自分が比較的に他者より可愛がられる事を、早いうちに自覚していたように見受けられた。

 天然ぶって手をふる昔のアイドル姿も、男受けが良さそうだ。

 計算してそういうことも出来そうだが、嫉妬されてそういうことを言いふらされそうにも見える。

 梅吉は人の嘘を見抜けるので、ニュースはいささか、尾ひれがついたものだというのを感じ取っていた。

 問題なのはニュース事態がどうこうでなく、このニュースで今後、武仁がどんなふうに扱われるんだろうかという事だ。

 梅吉としてはどうもこうもなってほしくない。

 そしてまた、気になる事がもう一つあった。

 ニュースの情報を芋づる式に引き出し調べていくと、武清の母親のいた音楽事務所は『プリンセス事務所』という名前なのが分かった。

 確か結女子の亡くなった友人の恵も同じ事務所だったハズだ。

 『プリンセス事務所』は所属の歌手やアイドルに”〇〇姫”という呼称を付けている事が特徴だ。

 梅吉は昨日別れてから、まだ一言も言葉を交わしていない結女子を思い起こした。

 妙に好青年面の刑事に連れてかれた結女子の、不安げな顔が目に浮かぶ。

 その顔を思い出すと、何日も会えていないような錯覚を梅吉は覚える。

 梅吉は数回スマホ画面の前で指先を迷わせてから、SNSでメッセージを送った。

 数分立たないうちにスマホが鳴り出す。

 梅吉はかかってきたビデオ通話の画面を開いた。

「梅吉君?今何してる?何処にいるの?ご飯食べた?」

 スマホ越しに見える結女子の顔と声は、明るかった。

 質問攻めにされると何時もは煩わしく思うのに、何故だか今は、自然に瞼が下がり、噛みしめてしまう。

「梅吉君?」

「今、家だよ。」

「そっか」

「何で、いきなりビデオ通話?」

「梅吉君の顔が、見たかったから。」

 何の含みも無くそういう結女子が苦笑いしている。

 まるで、お年頃の息子を扱う母親だ。

 梅吉は真顔でスマホに映る結女子の顔を、見つめ返していた。

 手短なやり取りだけで、酷く安心してる自分の胸ぐらを自分で掴む。

 大きく息を吐いてから、本題を切り出した。

「『プリンセス事務所』ってさ、結女子の友達の恵さんがいたとこだよね?」

 結女子が咽喉を鳴らした。

「今朝のニュース見たの?」

「うん、そりゃーね。」

 何だか小さな男の子が母親に向って強がってるような喋り方だ。

 結女子はくしゃりと眉を歪めて、先程とは違う部類の苦笑を浮かべた。

「そっか、でも恵とは関係ないよ。」

「まだ、俺、一言も今回の事件と、結女子の友達の事件がっ関係してるかなんて聞いて無いんだけど?」

「あっ」

 結女子はしまった。と、いう顔をしていた。

 白を切る事も出来ないのに、嘘を見抜ける梅吉に自分から嘘をついて、しかも嘘を嘘と認めてしまった。

 結女子は自分のふがいなさに肩を落とす。

 そんな結女子を画面越しに、してやったり、と梅吉は眉を上げた。

「結女子ってさ、自分で自分の墓穴掘るタイプ?」

「うう、だって、クマさんと、梅吉君をもう危ない事に巻き込まないって約束したの…。」

「つまり、結女子は今、危ない事に突っ込もうとしてんの?」

「ああああああああ…」

 再度同じ様に自分で墓穴を掘ってしまう自分に、結女子は絨毯に両腕をついて嘆いた。

 梅吉のスマホに結女子のいる部屋の天井が映る。

「結女子、何か知って、」

 梅吉が再度質問を重ねようとした時、上半身裸の男が画面に映り微笑んだ。

 突然の事に梅吉は硬直する。

「結女子さぁん、何やってんのぉ?」

 上半身裸の男は濡れた髪をバスタオルで拭きながら結女子に話しかけている。

「ちょっと、何て格好してんですか?あっち行ってくださいよ!」

 結女子は床から起き上ると、腕でしっしと男を追い払った。

「え、男といるの?とまりだったの?」

「いや、これにはわけがあって…。」

「わけって何だよ?昨日の刑事だよな?」

 畳みかけて質問してくる梅吉に、結女子はしどろもどろだ。

 後ろめたい事は無いものの、梅吉が何時もより何だか権幕なので結女子は尻込みして何も言えなくなる。

 ちゃんと説明をしたいのだが、上手く言葉が見当たらない。

 刑事の事件調査を手伝う事になった。何て梅吉に教えたら、また事件に巻き込んでしまうかも知れない。

『プリンセス事務所』の事が知られたりすれば、梅吉なら自分から首を突っ込みにくる可能性がある。

「ううぅん、別にやましい事はないのよ?」

 結女子は絨毯に置いたスマホを丁寧に両手で掴み上げ、激しく左右に首をふった。

 画面越しの梅吉は、あからさまに呆れている。

「それ言っちゃうと、逆に怪しいから。」

(梅吉君を事件に巻き込みたくないダケなのに、何だか浮気の言い訳をしているみたいだわ。)

 どんどん冷や汗が出てくる結女子。

「人の嘘が見抜ける梅吉君なら、私が何にも無かったって言うのが、本当だってわかるでしょ?」

「に、してもだよ。何か誤魔化してるし、微妙な気持ちになる。」

 梅吉を傷つけたくなくて、結女子の頭の中は試行錯誤、右往左往、四苦八苦しているというのに、今もう既に傷つけてしまっているんじゃないかと、どうしようもなさに結女子は切なくなった。

「…お昼にはピザ持ってそっちに行くからさ、取り合えずクマさんには黙っといてくれる?」

(結局、食べ物で買収した上に、浮気の口封じみたいになってしまった…。)

 結女子は幾つになっても器用に立ち回れない自分を、自分で怨む。

「まぁ、本当に何にも無いんなら来ても良いけどさ。」

 梅吉のぶっきらぼうな言葉に、結女子はほっと胸を撫で下した。

「ピザはLサイズ三枚でお願いします。」

 結女子は画面越しに梅吉の笑顔を恨めし気に見つめ返しながら、通話を切った。

「ホント、損する立ち回りが上手すぎるよな結女子は。」

 梅吉はぼやいて床に寝そべった。

 結女子は何にもなかったと言っていた。

 嘘の見抜ける梅吉は、それが嘘でないと分かった。

(みんながそうなら疑心暗鬼何て生まれないのに。)

 普通の人間なら、あんなシャワー上がりの男がいきなり通話画面に出てきたら、何かあったと思っても仕方あるまい。

「取り合えず、クマには黙っとこう。」

 梅吉はそう心に止めといた。

 取り合えず、今日のお昼は豪華なピザだ。

 梅吉は財布とスマホだけポケットへ入れ、クマに一声かけてから家を出た。

「武仁の奴、昨日から寝て無いんだ。五時間は寝かせてやりてぇ。」

 そういう説明だけして、行ってきますと言った。

 一方その頃、結女子は六本歩の高層ビルの16階で、スマホに向って大きく溜息を付いていた。

「はぁ」

「お風呂入ってきたら?」

 バスローブ姿でバスタオルを結女子に渡す九条刑事。

「…覗かないで下さいね。」

 虚ろな顔でバスタオルを受け取ると、結女子はお風呂場に向った。

 脱衣場で、クマにお昼ピザを持ってお宅にお邪魔する旨を、メッセージで送る。

 1、2分待ったが既読は付かなかった。

 結女子の顔が曇る。

 まだ、クマと知り合って間もないのに、随分甘えてしまっていると結女子は感じた。

 強制的に事件の口留めを強要された時は、魂が身体から浮き上がりそうに成程恐かったが、その後も自分の身を変わらず案じてくれ、必要以上に言動を管理しようとはしない。

 梅吉にも同様にそうしている。

 それは、自分達の人間性を信じてくれているからだ。

 実際クマ本人に確認したわけでは無いが、少なくとも、結女子や梅吉はそう信じている。

 だからクマの側は、厳しくても居心地がいい。

 まだ会って間も無いのに、居心地が良く懐かしい気さえする。

 それは、クマがもともと持っているであろう父性がそうさせていた。

 そんなクマに秘密を持たないといけない事が、殊更結女子の胸を痛めた。

 結女子が服を脱いで3分経っても、やはり既読は付かなかった。

 浴室に入ると、黒いテカテカの内装だった。

 鏡の前に、テレビでは見た事のないシャンプーリンスが置いてある。

 容器の見た目から、何となく高級である事が分かった。

 本当は身内でも友人でも無い人間の物を借りるのは抵抗があるが、直ぐに出かけないと行けないので、仕方あるまい。


 結女子はバスタブにお湯を溜め入浴した。

 バスタブ横の窓に敷かれたシャッターの隙間からそっと外を覗く。

 昨日、自分の自宅付近では悲惨な事件があったというのに、ここではそれが嘘のように、晴れた朝が来ていて、人々が歩道を歩き、車が行きかっている。

 タクシーが多いのは土地柄だろう。

 自転車配達もちらほら見える。

 結女子は浴槽に背を預け、瞼を深く閉じた。

 昨晩、結女子は余り良くは眠れなかった。

 知合ってばかりの男の部屋に泊ったのだから、当然だろう。

(ダレてはいられない。)

 結女子は九条刑事に見せられたファイルの顔と名前を思い起こし、反芻した。

 

 三十分くらいして結女子がお風呂から出ると、九条刑事が朝食を用意してくれていた。

「至れり、つくせりですね。」

 そういうわりに、余り嬉しそうで無い結女子である。

「面倒臭い役を引き受けてもらうからね。」

 九条刑事は爽やかに笑った。

 結女子はやはりどうしてもその笑顔を好意的には受け取れない。

 結女子はやり辛いまま、九条刑事の向かい側に座って朝食を食べた。

「あなたは何時からアイドル系音楽事務所の『プリンセス事務所』とアダルト産業が結託してると、疑っていたんですか?」

 結女子は昨日渡されたファイルの内容を九条刑事とすり合わせようとした。

「まぁ、取り合えず警察になる前からだよね。」

「え?そんなに前から!?」

 九条刑事が何の抑揚も無く答えた。

「もし、本当に『プリンセス事務所』が日の目を見ないアイドルにアダルト作品の出演や、薬の受け渡しをさせる事でお金儲けをしているとすれば、それはどういった刑が課されるんでしょうか?」

「さぁ、どうだろうね?ちょっとそこんとこはまだ分かんないよ。何処まで本当の事を吐かせられるかも分かんないし。今までもあそこの内情に踏み込んだ奴はいたんだ。でも「直接の関係はない」って、言い切られたり、足になった個人を捉まえても「個人がした事で、事務所との直接の関係は無い」って押し切られちゃったし。みんな尻尾のその先を掴めた事が無いからさ。僕の前に、直接事務所の人間と知合って、侵入を心見た人もいるんだけど、ハニートラップにかかって、結局警察辞める事になっちゃったよ。」

『辞めた』と言う単語が出て、九条刑事の顔から何時もの愛想笑いが消えた。


『プリンセス事務所』は、十数年前からアイドル・ミュージシャン育成をしている。

 この日和の国では良く知られた芸能プロダクションだ。

 この『プリンセス事務所』は『若い才能を育てる』を名目に、駆け出しアイドル・ミュージシャンの衣食住・レッスン費の全てをタダにしている。

 それを目当てに上京してくる若者は後を絶たない。


 それが、九条刑事の調査と推理では、それらの費用は7割りが、デビューの出来なかった者たち、または売れなくなった者たちが、アダルト産業に出演する事や、密売の足になる事で賄っているという事だった。

「最近、益々あの事務所羽振りが良くなってさ。表向きの方で、売れっ子が出てきたせいかな。『白雪』って歌手、知ってるだろ?デビューして一年でヒットチャート入り。彼女に憧れて、また更に世間知らずな子が、プリンセスの門を叩くんだ。」

「事務所の売り上げ以上の出費が見つかれば、副業の尻尾も掴めそうですが…。」

「そこはやっぱ、調度良い裏帳簿を付けられる、優秀な会計士を雇っているんだよ。」

 結女子は九条刑事の目を見たまま、ティーカップに口を付けた。

「嫌な話しですね。」

 九条刑事は何も答えなかった。

 結女子はこの事件の為に警察になったであろう、九条刑事の心中を鑑みた。

(警察だし仕方ないとは思うけど)

 何処かの誰かは気が付いているハズの違和感に、小さな世間が蓋をして上手く見えなくしてるような、そんなどうしようもない現実と常に向き合っている。

 そんな九条刑事の顔を見ると、最初薄ら寒く感じた愛想笑いにさえ尊敬を示したくなった。

 辛い現実があっても、笑顔でいると決めた彼の心意気が、そこにあるように感じたからだ。

「僕自身は別に正義の味方じゃ無いですよ?」

 また愛想笑いを浮かべ直し、九条刑事が言った。

 自分の顔を見返した結女子の心中を察したのだろうか。

「別に構いません、私も知りたいだけです。死んだ恵が、恵なりに頑張っていたんだって事。私なりに認めてあげられるように。」

 九条刑事は眉を上げてから、ふふふと微笑んだ。

「偉そうですか?」

「いいや、一人でも理解者がいれば、その魂は救われると思います。」


『ぺん』

 結女子のスマホから既読通知の音がした。

「クマさんだ!」

 急いでジーパンのポケットからスマホをだした結女子の顔が、ぱっと明るくなる。

 九条刑事はその笑顔を見て、顔を歪め、口の端だけ上げていた。



★★★ ★★★ ★★★



 結女子が九条刑事の自宅で朝食を取っている頃。

 梅吉は『鍼灸整骨多貫院』に訪れていた。

 そこは、末恵の自宅でもある。

 梅吉が足を運ぶと、塀と院の間の庭で、末恵が土いじりをしていた。

 白太が無心になってはぁはぁいいながら、前足で土を掘り返している。

 穴に新しい肥料を混ぜるのか、末恵の横に、大きな茶色い袋があった。

 白太は無我夢中で穴を掘っており、今なら梅吉に飛び掛かる事も無さそうだ。


「今、空いてるか?」

 白太を横目で見ながら、梅吉は末恵に聞いた。

 しゃがんでいた末恵は首だけ振り返り、梅吉に気が付くと、にっこり微笑んで答えた。


 二人は白太に気付かれないように、一言も声を出さず、こっそり身体を寄せ合い、足早に歩いた。

 そして院の裏の勝手口に周る。

 「今、院のベットは埋まってるから、私の部屋に行こう。」

 末恵は勝手口の前でそう言うと、ドアを開き、台所で麦茶の入った透明な瓶とコップを二つ盆に乗せ、それを梅吉に持たせて壁際の階段を上った。

 梅吉は末恵に続く。


 末恵が自分の部屋のドアを閉める。

 その音に梅吉が顔をしかめた。

「じゃあ、ここに寝て」

 末恵が自分のベットに横になるように促した。

「何で分かったんだ?」

 しかめっ面のまま梅吉が聞く。

「だって、ウメちゃん、唇が青くなってるよ。」

 言われて咄嗟に自分の唇に触れる梅吉。

 末恵は盆を机に置くと、置いてあった鏡を手に取り、梅吉に渡した。


 渡された鏡の中の自分の顔を見ながら、梅吉は指先でリップを塗るように唇を撫でた。

「胃が弱ると、唇が青くなるんだよ。女の人はよく口紅で隠しちゃうけどね。」


 梅吉は鏡を持ったまま突っ立っていた。

「床で良い。」

 そう言って、猫柄の敷物が敷かれたフローリングに寝そべろうとした。

「駄目だよ。やりにくい。」

 はっきり、きっぱりそう言われると断わる気を削がれてしまう。

 梅吉はその末恵の顔を見ないまま、ぐっと身体に力を入れた。

 しかし次には諦め、目を閉じたまま末恵のベットに手を付き、仰向けになった。

 その一部始終を仁王立ちで見ていた末恵は、梅吉がベットの上で大人しくなったのを見ると、勝ち誇って口端を上げた。

「よしよし!」

 そう嬉し気に言うと、ベットの横に膝立ちになり、梅吉の腹の上に自分の手を添えた。

「今回は何で、トゲを飲み込んじゃったの?」

 数十秒梅吉の腹に手を当ててから、末恵が聞いた。

 末恵を変な事件に巻き込みたくない梅吉は、言葉に詰まる。

 (ああ、そうかさっきの結女子もこんな気持ちだったのか)

 そう思うと同時に腹の中の絡まりが一つほぐれたように感じた。

 末恵の手は服越しでも温かい。

「う~ん…。」

 梅吉が答えにくそうに唸るので、末恵は(かざ)した手に向い、頭を垂れ目を閉じ、梅吉の抱えている腹の痛みの形を読み取ろうとした。

「何か、びりびりしてる…」

 末恵の言葉に梅吉が、びくりと身を震わした。

「もっと、力抜きなよ。」

 また末恵が言った。

 しかし梅吉は素直にそうは出来なかった。

 あんまり力を抜くと、本音が零れそうになるので、そうは出来ない。

 あんなこと、こんなことがあって大変だったと愚痴を垂れるだけ垂れ、かっこ悪く泣き出したくは無かった。

 末恵に優しく、痛んだ腹を撫でられながら、強情に歯を食いしばり、梅吉は目を瞑った。

 

 末恵の手には、痛みを和らがせる力がある。

 そして末恵にも梅吉と同じ様に『言霊のトゲ』等の邪気が視覚できた。

 生まれながらにして鍼灸整骨院で育ち”気” と言うものを東洋医学から身近に見知って感じていた為らしい。


 結局何も答えそうにない梅吉に末恵は溜息を付く。

 膝立ちが辛くなり、ベットの端に腰かた。

 その姿勢のまま梅吉のお腹を撫で続ける。

 梅吉は目を閉じたまま、自分の真上に同い年の女子の身体がある事を感じ、一瞬身構えた。

 それでも自分の腹部にお日様が差し込んで来るような暖かさに、また口許以外の身体の力を抜いて行く。

 最初しかめていた梅吉の眉が緩むのを、末恵は穏やかに見下ろしていた。



 梅吉は同い年の女子のベットの上で目を閉じたまま、一番最初ここへ連れて来られた日の事を思い起こしていた。


 ★★★ ★★★ ★★★


 田中家に引き取られ、数日経った頃、梅吉は腹痛を覚えた。

 なれない環境に置かれ、ストレスを感じ為の神経痛胃炎だ。

 施設でも、その以前でも同じ様な事があり、経験から梅吉はほっとけばそのうち治ると思っていた。

 しかし、何故だか今回に限って腹痛はどんどん日に増し、酷くなった。

 ある日そんな梅吉にクマが気が付いた。

 昼食時、唸り声を自分の喉奥に抑え込んでいた梅吉に、無表情で近づいてきて、声をかけて来た。

「お前、どっか悪いのか?」

 梅吉は元々痛みに強く、それを顔に出さないのも得意だった。

 こういう時は母ですら自分の不調に気が付かなかったと言うのに、クマは梅吉の異変に気が付いた。

 近づいて来られた時は「何で何時もそんなに不機嫌そうなんだ」と、他の人間のように文句を言うだろうと思っていたのに。クマはそうでは無かった。

 自分の身を案じてくれた。

 梅吉が顔を上げ、目を見開いて驚いたのを、クマは無言で肩を掴み、そのままソファーに身体を横にされた。

 クマは、自分の手を梅吉のおでこや、お腹に当てた。

 じっと、成すがままになりながら、気恥ずかしく感じる自分自身に梅吉は苛立った。


「嫌だったか?」

 すまない。と言う顔で梅吉の顔を見るクマから梅吉は何も言わず、顔を背けた。

「近くに良い先生がいるから、行こう。」

 クマはそう言い立ち上がった。

「俺、薬苦手だ…。」

「大丈夫だ、行くのは内科じゃなくて、針医者だから。」

「ハリイシャ?」

 梅吉は聞き慣れない単語に幼子が言葉を聞き返すように、その単語を繰り返した。


 そして梅吉はクマに連れられ気だるい身体を引きずって、多貫院に来た。

 着た直後の事は余り覚えていない。

 既に腹部の痛みで意識が朦朧としていたからだ。

 院の先生は、施術室で二、三梅吉に質問をすると、さっさと施術台に横にし、手足と腹部に鍼灸針を打った。

 すると、不思議な事に、梅吉は半分意識が眠ったようになった。

「暫くこのままで置いておくからね?」

 施術台に横たわる梅吉にそういうと、院の先生は施術室を出た。 


 それから、数分か、もしかしたら数十分か時が立ったところで、施術室のドアを開く音がした。

 ドアを開いたのは末恵だった。

「ねぇ。入ってもいい?」

 梅吉は答えなかった。答えられなかったのかも知れない。

 末恵は何も答えが無いので、ドアノブを摘まみ、隙間から中を覗いた。

 すると、首を少しこちらに向けた、仰向けになったままの梅吉と目が合った。

 梅吉は反射的に目を逸らし、天井を向いた。

 

 末恵は施術台の端に立った。

「どうして、そんなにお腹に邪気が溜まってるの?」

「ジャキって何だ?」

 梅吉が顔を上げ、自分の横に立つ末恵の顔を見た。

 しっかり目が合う。

 末恵の目はまんまるで、柔らかい茶色のくせ毛の先が、照明に照らされ、遠慮がちに発光していた。

(天使みたいだ)

 梅吉は思った。

 そして自分がらしくない事を思ってしまった事に気が付き、顔を(しか)めた。

 末恵はづかづかと診察室に入ってきておきながら、梅吉が不服そうな顔をすると、途端に不安げに顔を歪め、胸に手を当てた。


「…あのね、邪気っていうのは、ストレスや、ストレスの元になるようなモノだよ。それがあると、身体や心が(とどこお)っちゃうんだ。」

 末恵の説明に梅吉は眉を上げた。

 そして、後ろ手を付き、上半身を少しだけ起き上らせながら、末恵に向き合った。

 そして、施術室の壁隣の向こうに聞えないように、小さな声で尋ねた。

「お前、そういうの見えんの?」

 梅吉の声が余りに小さいので、末恵は屈んで自分の耳を梅吉の顔へ近づけた。

「見えるよ。小さい頃から。あなたも見えるの?」

 末恵は屈んだまま、梅吉の耳元に唇を寄せて答えた。

 

 梅吉が間々あって、口端を上げ笑った。

 末恵は梅吉が外に聞えないように声を殺して笑った事で、くぐもった音が彼の咽喉から響くのを、傾けた耳元から聞いていた。

「見えるだけじゃなくて、他人のそれを喰う事だって出来るんだぜ?」

 得意気な梅吉の真顔に末恵は、自分の瞳孔が開くのを感じた。


 末恵は手をもじもじさせてから、先程まで迷っていた事を実行する事にした。

 そっと、自分の手を梅吉の腹部に添える。

「なっ」

 梅吉は上半身を上げ、末恵の手を退かそうとしたが、上半身にも腕にも針が刺さっているせいか、上手く身体が瞬時に起こせなかった。

 末恵が腹部に手を置いたまま目を閉じる。

 すると、梅吉の腹部でとげとげと動き回っていたモノが、途端に和らぎ、その形を小さくし始めた。

 分厚いカーテンが開かれて、いきなり春の日差しが入って来たみたいに、末恵の手は驚くほど温かく、そして優しかった。


「お前、正義の味方のつもりかよ?」

 下手をすると気が緩んで泣いてしまいそうで、梅吉はまた顰めっ面をして末恵を睨んだ。

 強がっているわりに、身体に力が入らず、施術台にまた仰向っているのに。


「んんん~。そういうつもりは無いんだけどね…。」

 末恵は困った顔で笑うだけだった。


 そしてまたそのまま、自分の手を梅吉の腹部に置いたまま、そっと目を閉じた。

 

 梅吉も、もうそれ以上何かを言葉にするのを止めた。

 

 ずっと辛かったと、ずっと慰めて欲しかったと、どうしようもなくかっこ悪い気持ちが、自分の腹の底から浮き彫りになって、口を開いてしまえば何かしらの新しい因果が形になりそうで、とても恐かったから。

 ただただ、下唇を噛んで、末恵のされるがままになった。

 長いようで凄く短いような一時だった。

 実際その二人のやり取りは十五分だった。


 施術室の壁向こうで、電話の音がし、その会話が途切れると、末恵はささっとその場から退出した。


 末恵が急いで立ち去った後、直ぐに先生が来た。


「じゃあ、針を抜いていきますね?」

 施術室に戻って来た先生がそう言って仰向けになっている梅吉から針を抜き始めた。

「お腹はよく、痛めるのかな?」

「…はい、小さい頃からちょくちょく。」

 梅吉は素直に答えた。

「そっか、君は我慢強いんだろうね。」

 梅吉は答えなかった。

「「腹が立つ」というように、お腹は感情を受け止めるところだから、お腹の声をちゃんと聞いてあげてね?」


 先生はそう言うと、針を抜いた梅吉の腹部にそっと手を当てた。

 (ああ、アイツはこの人の娘なのか。)

 その動作一つでそうわかるほど、先生とさっきの女の子の笑顔はよく似ていた。

 娘の方がもっとぎこちなく笑い、動作がおどおどしていたが、どちらも根が朗らかな雰囲気を醸し出している。


 梅吉が針の施術を受けている間、クマはずっと受付で待っていた。

 外に出るでもなく、待合室でただただ待っていたらしい。

 クマは表情筋がほぼ機能していないので、一歩下がったとこからその姿を見ると置物と変わらない。


「ファーストフード店の前の置物かと思った。」

「ファーストフード店の前の置物はもっとにこやかだろう。」

 クマが梅吉の冗談に、真顔のまま言葉を返すので、梅吉は肘を上げて驚いた。

 (コイツ、こういうのに乗ってくるタイプなのか)

 一緒に過ごして数日。

 クマをただただ真面目で堅苦しい男だと思っていた梅吉は、豆鉄砲を食らわされた気分だった。

「先生にお礼は言ったか?」

 やはり、基本的には真面目な人間らしい。

 その基本から外れなければ、多分必要以上に厳しくされる事はないのだろう。

 そのように感じて梅吉は、何だか今日まで必要以上にクマを嫌煙していた自分が、恰好悪く思えた。

「先生、ありがとうございました。」

 梅吉は受付に身体ごと真っ直ぐ向き合うと、少し照れ臭そうに頭を下げた。

「いえいえ、お大事にどうぞ。」

 先生はやはり朗らかな笑顔で立っていた。


 ★★★ ★★★ ★★★


 梅吉が目を開けると、あの日あの時と同じように、瞼を閉じた穏やかな末恵の顔が側にあった。


 目を閉じたまま、自分の腹を撫で続けるその顔をそのまま見ていた。

 視線に気が付き、末恵も目を開けて、目だけで「なぁに?」と聞いて来た。


「お腹は大事にしないと。食べ物を吸収して、身体を作る事が出来なくちゃ、何時までも身長が伸びないよ?」

 梅吉が視線だけで訴えかけてくるのに、何も言葉にしようとしないので、末恵は自分から口を開いた。

 末恵のもっともな言葉に、梅吉は苦虫を噛んだような顔になる。


 梅吉は片腕で自分の顔を隠したまま、空いた手を末恵の手に重ねた。

 末恵の手が梅吉のお腹を撫でるのを止める。

 ただ、暫くそのまま梅吉はそうしていたかった。

 しかし、そうしておいてずっと沈黙が続くと、そのうち梅吉自身が焦り出してしまう。


「身長も、そのゴットハンドでどうにかしてもらえませんか?」

 片言のような口調で梅吉が冗談交じりにそう言うと、末恵は楽し気に微笑んで、梅吉の腹部にのせていた手を、頭の上に置き換えた。

「大きくなあれ、大きくなあれ」

 そう唱えながら、梅吉の頭を撫でた。

 まるで、実の姉と弟のようだった。

 梅吉もそのあほらしさに、口端から、笑いが込み上げてしまう。

「ふふふ」


 梅吉は目元を隠していた腕で、髪をかきあげた。

そして、自分の頭を撫でていた末恵の手を掴む。

「…今日さ、昼ピザとるんだ。結女子の奢りで、…だからうち来いよ。」

「え、あの綺麗なお姉さん来るの?」

「あと、俺の友達も一人いるんだけど良いかな?」

「良いよ、良いよ。タダピザ食べたいし。」

 梅吉は屈託無く笑う末恵を見上げ、そっと重ねた手を引き、ベットから身を起こした。


「あん、あん、あん!」

 その時、窓の外から、白太が吠える声がした。

 窓を開け庭を見ると、真っ黒になった白太と、3メートル程深く掘られた穴があった。

「「うっわぁ…」」

 梅吉と末恵の声が重なる。

 一方白太は真っ黒な姿で、嬉しそうに穴の周りを駆けまわっていた。

 その姿を、塀に上った黒、白、茶色の猫が並んで眺めている。

「…白太を洗ってから行くね。」

 がっくり肩を落とした末恵が言った。

 そんな末恵を見ながら、梅吉は何時の間にか離れていた互いの手の感触を名残惜しく思った。

「わかった。ありがとうな。」

 梅吉は末恵の顔を見ずに礼を言うと、さっさと部屋から出て、階段を降りた。

「あれ?梅吉君。」

 階段下で末恵の母親の、先生に会った。

「オ、オジャマシマシタ。」

「顔真赤よ?大丈夫?」

「大丈夫です!!さようなら!!」

 梅吉は慌てながら、頭をさげ、足早に勝手口から出て行った。


★★★ ★★★ ★★★


結女子は、清掃員の服を九条刑事に渡され、それを来て彼の車に乗り、プリンセス事務所の本社ビル前に出向いていた。

 車の中は少し息苦しい空気が漂う。

 目的地へ着くと、報道陣らしき人々が数名、ビルの前で首を長くして立っているのが見えた。

「今回の目的は薬やアダルト産業との取引に関わる証拠品の『手がかり』を探すことにある。もし何かすんごい物を見つけても、または何にも見つからなくて焦っても、深入りしちゃいけないよ。不法侵入で捕まっちゃうからね?」

 重かった空気を割るように、わざとらしく明るい口調で言う九条刑事。

「まぁ、それも多少は覚悟していますけど。警察が不法侵入は出来ませんもんね。」

 この日和の国は、『疑わしきは罰せず。』と言う仕来りがある。

 証拠もなくただ『怪しい』と言うだけでは、強制捜査や無理強いは出来ない。

 それを逆手に取られ、数多の事件の尻尾を掴み損ねる事も多々あるが、不必要に疑われ、傷つく人もある世の中だ。

 そういった常識は今回の件には悪く働いているものの、人々の生活を守るのには必要な決まり事だと、結女子にも分かっていた。

 その決まり事を分かった上で、結女子は自分の責任で、この中に侵入する。

「前にも、警察が入ったんだけど、何でか何時も気付かれてしまってね。アイツら人の嘘が分かるみたいなんだ。」

「人の嘘が分かる?」

 オウム返しで言い、結女子は拳を口元に当て、くすりと笑った。

「何か、面白かったかい?」

 困った顔で笑い、眉間にしわを寄せる九条刑事に、結女子は両掌を振って否定した。

「いえいえ、何だか今仲良くしている男の子の事を思い出しちゃって。その子も「俺は人の嘘が分かるんだ。『言霊のトゲ』が見えるんだ。」何て言うんですよ。可愛いでしょ?」

 まるで、自分の息子自慢をするような結女子。

 その結女子の様子に苦情は口を曲げた。

「…それって、この前一緒にいた子?」

「ええ」

「ふぅん…。」

 (しまった。)

 結女子はさっと顔を青くした。

 九条刑事が左手でハンドルを握ったまま、顎を掴んで何か思案している。

 それを見て、自分が梅吉の事を口にしたのを即座に後悔したが手遅れだった。

「巻き込みたくないんで、今回の事は絶対に言わないって決めてるんですけどね?」

 何かをごり押しするように、結女子は九条刑事の横顔に言った。

 その声は決して大きくは無かったが、確かに何かを訴えていた。


 九条刑事は顎から指を外し、運転席に膝を着くのを止めた。

 前屈を止め、上半身を正す。

 そして結女子の顔を見て、涼し気に微笑む。 

 ただそれだけだった。

 結女子は綺麗な美青年の微笑みを目の前に、口をあんぐり開けていた。

 そして間々あってその不思議な睨み合いに勝つことを諦めると、肩をがくっり落としながら、しょんぼり車を降りた。

 九条刑事はその様子を、車窓越しに横目で見ていた。

 清掃員の姿をした結女子が、ビルの裏の従業員用出口に向うのを視線で追う。

 プラカードも従業員の制服も、九条刑事が用意したものだ。

 プラカードには、従業員用の写真が入っている。

 勿論映っているのは結女子の顔だ。

 今朝、急いで通りがかりの駅で取った証明写真を使っているので、映りがいまいちだが、今はそんな事を気にしている場合ではない。

 真剣に、慎重に潜入せねばならないのだ。

 結女子は握り拳を胸の前で作り、一人頷いた。

 従業員出入口に入る前に、壁に大きな姿見があった。

 結女子は再度、自分の格好が可笑しく無いか、確認した。

 清掃員の制服が結女子の身体より、やや大きい。

 ズボンは裾を巻き上げている。

 多分この大きさなら、九条刑事も着れるハズだ。

 彼はさほど幅のある体躯はしていない。

 きっと大き目のサイズなら女性のワンピースも着れるだろう。

 美青年なので違和感無く着こなせそうだ。

(自分がいなければ、九条刑事自身が自らこれらを使って、自分で乗り込んでいたのかな?)

 姿見の前で、自分の前後ろを確認する結女子の脳内ではあれこれ取り留めもない推測が浮かんでいた。

 自分の装いに、不自然さが無い事を確認すると、結女子は廊下を歩き、従業員出入口の受付の前で、自分の従業員用プラカードを、係員に見せると、会釈をして中へ入っていった。

 結女子は色々な妄想や緊張を押し殺しながらも、ビル内への侵入に成功したのだ。

 しかしほっとしたのも束の間、また結女子の脳内に、もしもの妄想が浮かび上がってきた。

(もし、九条刑事が、私に会う前は、自分で潜入するつもりだったのだとすれば、それは警察の誰かに、同業の誰かに、相談した上での事だろうか?)

 初めての場所に、しかも身を装って来てるというのに、結女子はずっと、まとまらない思考に気を取られながら顰め面で動いていた。

 そうこう結女子が思案しながら管理室に入ると、スーツの男が立ち上がり、結女子に歩み寄って来る。

(バレるかも知れない。)

 緊張で胸が高鳴る結女子。

 結女子が事務所に所属していた一人と、知り合いだったからと言って、それだけでバレるハズなんか無いだろう。

 無いのに、結女子の脳内では、自分の行為がバレる事の裏付けを、幾つも幾つも、思い起こしていた。

「せせせ、清掃するので、で、しゃ、社長室の鍵を貸して下さい。」

 途切れそうな小声で結女子が言う。

 顔は、やっぱり顰め面だ。

 間々あって、管理室の人間が結女子の顔を覗き込んだ。

 (わぁあ、ばれる…!)

 結女子は思わず目を強く閉じた。

 しかし、コツコツという足音がすると「はいっ」っと言って管理室の男は、鍵を渡してくれた。

 結女子は鍵を受け取り、勢いよく頭を下げると、取り急ぎ最上階の社長室に向った。

 バタン。と、ドアが閉まると同時に、管理室の人間たちが喋り出す。

「何か、可哀想な子なのかな?」

「上の連中に薬盛られたんじゃないか?」

「如何にも、気の弱そうな、幸薄な美人だったなぁ。」

 実は新顔の結女子が入って来た時から、管理室にいた数名の人間は背中を向けながらも、結女子の存在に興味を示し、ひそひそ話しをしていたのだが、結女子の気の弱そうな見た目から気を使い、挙動不審な彼女に下手に声をかける事を誰もしなかったのだ。

 その事で自分が運よく、社長室の鍵を難無く受け取れた事を、結女子は知らない。

 清掃用具は管理室のすぐ横の部屋に置いてあったので、苦もなく清掃カートが手に入った結女子。

 何事にも巻き込まれやすい幸薄い印象の彼女だが、こういう運の良さもあるようだ。

 良いも、悪いも引きが強い。

 しかし、結女子が清掃用具のカートを押しながら、最上階の社長室に辿り着くと、先客がいらした。

 他に何の部屋も無い最上階ロビーに、社長室から響く声がわんわんと駄々洩れであった。

 声は、結女子の乗って来たエレベーター付近まで届いている。

「だから、あんたが先に出てけって言ってんのよ!」

「先輩だからって、そうやって指図すんの止めてもらえます?」

 熱の籠った、衝撃波のように良く響く声と、青く沈んだ、冷たいほど冷静で凛とした声が交互に響く。 

(九条刑事が、「今日は報道陣が来るから、社長は出勤しないだろう」って言ってたのに、他の人がいるみたい。どうしようかな?)

 そう考えあぐねながらも、結女子は一応清掃カートを社長室の出入口前まで押して行き、中を確認してみる事にした。

 しゃがみ込んで、ドアの隙間から、中を凝視する。

 屈みこんで覗き見た部屋は、天井が高く、シャンデリアが飾られ、目の前には結女子が二人分隠れられそうな、大きな黒のレザーソファが置かれていた。

 如何にも高そうなレザーソファアに、誰かが腰かけているのが見えた。

 向かい側の白のレザーソファにも、人が座っているようだ。

 向い側の人間の顔も確認したいが、頭を上げたら、こちらの結女子が見つかってしまう。

 細い指先で煙草を挟み、背をソファに預けている、目の前の人物の後頭部を、結女子は、じっと観察した。

 茶色く染めた、ちりちりウェーブする髪が強気な印象を作っている。

 そのちりちり茶髪の女性が、煙を天井に思い切り吐いてから、また喋り出した。

「あんたは、もう十分ここで懐を肥やしただろうが!さっさと自立しなさいよ!」

「先輩こそ、どうして何時までもこの事務所に居座っているんですか?古参として出しゃばるのがお好きなんでしょ?今は殆どステージに何て立ってないのに、講師気取りで、出しゃばって、若い子手懐けようとすんの何なんですか?気が強くて男に相手にされないから、寂しいんですか?」

 (声も冷たいけど、言ってる事はもっと冷たい!)

 アラフォーの結女子は思わずしゃがみ込んだまま、両腕で自分を抱きしめた。

「男に相手にされないのは、あんたの方でしょ!?美人な癖に、そんな前髪で目元隠しちゃって!気位高すぎて、誰も近づいて来ない癖に!」

「この前髪は私のキャラづくりであり、恥じらいの表れ何です。先輩みたいに、厚顔無恥じゃ無いだけですぅ。先輩何か、姉御肌気取って、ガキ大将なだけの癖に。」

「うっさい!うっさい!うっさいわぁ!」

 チリチリ茶髪の女性が、勢いよく立ち上がった。

 距離があっても分かる程背が高い。170センチはあるだろう。

 向かい側の白髪短髪の女性も、大きく息を吸って、大げさに吐くと、鼻で呼吸を整えてから、勢いよく立ち上り、そして叫んだ。

「若年性更年期障害!」

「洗脳犯のお前らよりは健康だ!」

「さっさと引退しちまえ!」

「しないわよ!まだこの会社に貰うもの貰って無いんだから!」

「人で無し!業突張り!うちの事務所が無くなって生活に困ってる子がどんだけいると思ってんだ!」

「こんな会社が無いと壊れてちまうような生活、もともと問題あんのよ!私が全部壊してやる!」

 怒鳴り合う二人の威勢の良さに、結女子は社長室の外で膝を抱えてしゃがみ込み、震え、両手で両耳を塞いでいた。

「そんな酷い事、簡単に言うなんて、本当にあなたはどうしようもない馬鹿野郎ですね。」

「はぁ、野郎じゃ無いんですけどぉ、れっきとした女だけどぉ!」

 ちりちり茶髪の女性がふざけた口調で言い返すのに、むっと顔を顰める白髪短髪の女性。

 口をへの字に曲げ、ちりちり茶髪の女性に掴みかかった。

「痛い!痛い!」

 結女子は痛いという言葉に反応し、顔を上げ、社長室の中を再度覗き見た。

 すると、白髪短髪の女性が、ちりちり茶髪の女性をソファのヘリに押し付け、前髪を引っ張っていた。

 相手は上半身を仰け反らせ必死に抵抗している。

 抵抗するちりちり茶髪の女性の爪先が、相手の手を掴む。

 ピンクブラウンにネイルされた指が、白髪短髪の女性の肉に食い込んでいた。

 すると、ドアの隙間から覗いていた結女子から白髪短髪の女性の顔が見える。

 (歌手の白雪だ!)

 結女子が見聞きした白雪は、白雪というより、白氷を思わせる、痛みを伴う寒々しさを感じさせた。

 彼女が言葉を放つほどに、空気が凍てつくようで、涼しさや柔らかさを思わす、愛らしい雪よりも、触れたら痛いほど手を傷つけ、身体の芯まで体温を奪ってしまいそうな、氷のような冷たさだ。

 その寒々しい空気感を纏ったまま、白雪は更に叫ぶ相手の咽喉を掴もうとした。

「やっ、止めてください!」

 結女子は思わず声を上げ勢いよくドアを開け、中に入った。

「誰なの?」

 白雪が抑揚の無い声で結女子に尋ねた。

 思わず相手を抑え込んでいた手を放す。

「あ、あの清掃のモノです。」

 結女子は思わず姿勢を正し、素早く頭を下げた。

「すっすいません。」

 何も悪くない筈なのに、相手の凍てつくような空気感に気負いする結女子。

 きっと相手は年下のハズなのに、震えてしまう自分が酷く情けなかった。

「…あんたは、謝んなくていい。」

 ちりちり茶髪の女性が姿勢を正し、咽喉を自分で押さえながら言った。

 上半身を少し持ち上げ、彼女の顔を見る結女子。

 エラの張った輪郭と、薄い唇。

 大きな瞳の釣り目に、意思の強そうな真っ直ぐな眉。

 チリチリ茶髪の女性は、がたいの良い、大きな身体と、白く艶のある女性らしい肌をしていた。

「あ、」

 結女子はファイルでその女性の事を知っていた。

 名前は黒井 華倫。

 今は、殆ど歌手活動はしていない。たまにドラマの脇役でちらほらテレビに出る程度だ。

 しかし、その存在感は抜群で男負けしない、強気でエネルギッシュな印象を活用し、悪の黒幕のラスボスのような役回りに起用されやすい。

 言い換えると使いどころの難しい女優だと言える。

 現在通常は事務所で若手の育成に回っていると言う話しだ。

 現役アイドルの頃は、武仁の母と同じ七色アイドルのレッド担当だった人でもある。

「そっか、今日は社長がいないから、清掃するのね?」

 黒井は何事も無かったように、結女子に向って普通に話し出した。

「はっはい!」

「今出るわ、調度そろそろ出ようと思ってたから。」

「すっすいません!」

「良いの、私が勝手にここを開けてもらっていたの。」

 ラスボス感オーラの半端ない黒井を目の前に、声が上擦ってしまう結女子。

 先程まで、急激に冷や汗をかき、肝を冷やしていたと言うのに、今度は胸が高鳴り、体温が、急激に上昇して来た。

 ドラマでは悪役になる事が多く通称『怖姫』と称される黒井。

 だが、実際結女子が目にした彼女は、男勝りな強気な面と、女性的なシャープさを兼ね備えた、洗練された粋な風情を感じさせる人物だった。

 彼女をまじかにし、動悸、息切れ、眩暈を起しそうな勢いで、胸が高鳴る結女子。

 (もしかして、私レズの気があったのか?)

 と、どうでもいい妄想が膨らむほど、胸が高鳴る。

 別にファンだったというわけでもなかった結女子。突然のトキメキに戸惑ってしまう。

「すいません!良かったら、サインもらえませんか?」

 結女子は気が付いたらそう叫んでいた。

「良いわよ」

 楽し気に笑う黒井は爽やかだった。

「私みたいな若い頃に一時期しか売れなかった人間、知ってる何て、あなた相当オタクなの?」

「先輩”オタク”は余り良い言葉ではありません。」

「はいはい」

 さっきまで、取っ組み合いをしていたというのに、今はもう淡々としている二人のやり取りに、結女子はただ身をすぼめる他なかった。

「あ、でも書くものが…」

 もじもじする結女子。

「いいわ、この紙で良い?」

 黒井はソファの前のテーブルに置いてあった紙を取り、さっさとサインをし、結女子に渡した。

「あっ、ありがとうございます!!」

 サインを受け取るものの、緊張で目を合わせられず、結女子は顔を赤らめたまま、目を閉じてそれを受け取った。

「じゃあ、ありがとうね。」

 彼女はそう言うと、ばんばん大げさに結女子の背中を叩いてから、颯爽と立ち去っていった。

 白雪も大人しくその後を歩き、すれ違いざま結女子に軽く会釈した。

 白雪の長い前髪が目元から離れ、ちらりと大きな瞳が、一瞬だけ見える。

 ひんやりした印象で、目上にも喰ってかかる白雪だが、本来礼儀は忘れない人間のようだ。

 小刻み良いヒールの音が、最上階ロビーを快活に奏でた。

「こわいけど、かっかっこいい…」

 縮こまっていた癖に、ちゃっかり貰うものは貰う結女子だった。

 結女子は暫くその背中を目で追ったまま、自分の目的をすっかり忘れていた。


 その後黒井と白雪は、報道陣が来たために、会社から出られなくなっていた若手アイドル達を向へに行き、そのまま引きつれ、ビルの正面玄関に向った。

 正面玄関が開くと同時に、報道陣たちが詰め寄った。

 正面ロビーで報道陣たちの様子を見ていた九条刑事が、木の陰から、遠巻きにその様子を観察していた。

 結女子を見送り、三十分程立ったところだった。

 正面ロビーから現れた黒井と白雪と、若手アイドル達。

 先頭を黒いサングラスをかけた黒井が、ヒールの音を高らかに奏でながら、颯爽と歩いて前に出た。

 そして待ちぼうけしていたであろう、報道陣達の前まで自ら歩み出る。

 その後ろで若手アイドル達が、黒井の背中に身を隠すように、身を寄せ合っていた。

 訝し気な顔隠しながら俯いている。

 白雪はその怯える後輩たちの背中側に立っていた。

 自動ドアの目の前に集まった報道陣を、黒井は仁王立ちで眺めた。

 サングラス越しに、集まった群衆を右から左へ眺める。

「黒井さん!今回の事どう思われますか?」

「どう思うってどういうこと?仕事に行かなきゃいけないから、どいて頂戴。」

 ああですか?こうですか?どうですか?

 黒井の言葉は無視された。

 質問の声とフラッシュが、ビル正面で乱射される。

 若手アイドル達は、それらが何時自分に向けられるだろうと恐怖し、黒井の後ろで只々震えを堪えていた。

「やめてください。」

 黒井の前を塞ぐように歩み出て、白雪がはっきりとした活舌で言い放った。

 ただ淡々と、平静に、白雪が言い放った。

 ただそれだけだった。

 しかし、言い放たれた言葉に、報道陣達は氷結したように硬直する。

「道を開けてください。」

 淡々と、しかし礼儀正しく、白雪がまた言葉を言い放った。

 すると、報道陣は一言も喋らず、揃ってその場から、左右の群れに別れ始めた。

「苦しゅうない。苦しゅうない。」

 報道陣が引き始めたのを見ると、黒井は大仰に首をたてにふり、白雪を通り越し、また先頭を歩き始めた。

 白雪は何も言わず、身を翻し、後輩達の背中側に戻る。

 純白のレギンスを履いた黒井の長い脚が、紅いヒールの音を掻き立てながら、コンクリートロードを颯爽と歩いて行く。

 その様子は、はた目から見ると、まるで黒井が報道陣たちをヒールの音で威嚇し、その群れを蹴散らしているようだ。

 白雪と他のアイドル達はただ後に続いた。

 ずんずん進む黒井と、その後ろの子羊達。

 すると突如、ビル前に大きなバスが現れた。 

 黒井はアイドル達をそのバスに乗るように促した。

「いそがず、あわてず」

 大型車の乗車口で、不安げなアイドルの1人に黒井が声をかけた。

 声をかけられた女の子は、まだきっと十代。

 表情の読み取れないサングラスの奥に、少しまだ不安げな顔のまま、微笑み頷いた。

 そうして、黒井は全員が大型車に乗ったのを確認すると、振り向いて、報道陣に向って大げさに腕を振った。

「じゃっあねぇーーー。」

 ふざけた調子で押し切られてしまい、報道陣は面食らう。

「ありがとうございました。」

 白々しいほど淡々と礼を言う白雪。

 報道陣達に向って声をかけると、バスに足早に乗り込んだ。

 すると、ぼんやり事の成り行きを見ていた報道陣達が、我に帰りった。

 慌てながら、我先にとバスに詰め寄る。

 黒井はその何とも珍妙な報道陣の様子を見て、大きな口でにかっと笑った。

 そしてその珍妙な輩どもに背中を向ける。

 大げさな腕ふりをし、大きく膝上げジャンプで自分もバスの中に乗り込んでいった。

「やっふー!」

 バスは走り去って行ってしまった。

 後に残された報道陣はただただ、あわあわするだけであった。


 一方結女子はその時、そういう事が起こっているとはいざ知らず、従業員出入口の検問を、息が止まりそうな思いで潜り抜け、急ぎ足で九条刑事の車に戻って来ている途中だった。

「何か成果はあった?」

 九条刑事が瞳孔が開きっぱなしになっている結女子に聞いた。

 声を掛けられ、はっと我に帰り、九条に顔を向ける結女子。

「はい!サインをもらいました!」

 結女子は真面目な顔で正直に答えた。

「そういう事じゃ無いだろう!」

 九条刑事は叫んだ。

「でも、見てくださいよ。ほらほら。」

「え~俺はサイン何か興味ない…」

 結女子が黒井にサインを貰った紙。

 サインを書いてくれたその紙の裏側に、何かをやりとりする為の、地図と住所が書かれていた。

「これで、日時が分かればばっちりですね。」

「…ご都合主義にも程があるな。」

 九条刑事は結女子から紙を摘み上げて取ると、その書かれている内容をじっくり凝視した。

「そのサインは私に下さいね?」

「はいはい」

 九条刑事はスマホで写真だけ取ると、さっさとその紙を結女子に返した。

 

★★★ ★★★ ★★★


 その後結女子は着替えてから、東七奈の駅でピザを三枚買うと、真っ直ぐ茶柱宅に向った。

「こんにちわ~」

「いらっしゃーい。おおお!やったーー!」

 玄関に結女子を出迎えに来た梅吉が、特大用のピザの箱がビニールの袋に入ってるのを見て、ガッツポーズを取る。

 梅吉が無邪気に喜ぶ姿に結女子も顔をほころばせた。

 クマが梅吉に続いて、手の水分をふき取りながら、台所から顔を出した。

 三人が玄関先で騒いでいるのを聞きつけ、武仁も目を覚まし、階段を降りる。

 武仁は階段の途中で身を屈めその三人の様子をみながら、苦い顔をしてから一人影の中で微笑んでいた。

「ごめんくださ~い」

 今度は末恵が来た。

「えへへ、ケーキ買ってきちゃった。」

 微笑んで白い箱を掲げる末恵。

「あれ?唱川さん?」

 階段から降りて来た武仁が、末恵の苗字を呼んだ。

「あれ!?加藤君がいる!」

 階段から表れた武仁に末恵は、表情筋を縦に広げて驚いた。

「お前ら、知り合いなの?」

「学校が同じ何だよ。」

「クラス違うけどね。」

 梅吉が尋ねると、末恵と武仁が交互に答えた。

 二人の間合いの良い返答に、梅吉は居心地の悪さを感じ、口を窄めた。

 自分だけ学校に行っていない。という疎外感を感じる。

 行き成りむくれっ面になる梅吉に、意味が分からず、二人は困惑し、おどおど身体を左右に揺らした。

「二人は何処高校なの?」

「逸物高校です。」

 結女子がピザの箱を抱えたまま質問すると、武仁が遠慮がちに答えた。

「ああ、じゃあ梅吉君と同じ高校だ!」

 梅吉の顔を覗き込む結女子。

 持っている、ピザの箱が傾いた。

 クマが、無言でその箱に手を差し伸べ、結女子がその手に渡す。

「良かったね梅吉君。」

「…うん。」

 梅吉は眉を顰めたまま、ほころびそうになる口元の下唇を噛んだ。

 その場にほっとした空気が広がる。

「おじゃましまーーーーーす。」

 結女子は梅吉のご機嫌を確認すると、さっさと茶柱宅の中へ入っていった。

 クマもピザの箱を持ってその後に続く。

「ウメちゃん、ケーキ切り分けたの、一番に選んで良いからね?」

 楽し気に末恵がそう言ったのを、梅吉は恥ずかしそうに、上目遣いで睨み付けた。

 その梅吉の何とも言えない顔を、武仁も階段の壁に手を付きながら、歯をだして直視していた。

 梅吉は酷く自分が幼稚に思えるのに、それをみんなが受け止めてくれている、その感覚が何だか酷く自然でそれがとても切なかった。

 (始めて会うのに、兄弟みたいだな。)

 通路向こうから、三人を眺めながら、結女子は思った。

 居間にお皿に乗せ換えたピザを乗せ、用意したサラダを人数分並べる。

 末恵のケーキは厳重に冷蔵庫に保管済みだ。

 準備し終わり、五人がテーブルに着く頃には、午後一時になっていた。

 ピザを食べ終わった後クマが、ケーキを切り分けていると、武仁がその顔を座ったまま見上げ、遠慮がちに尋ねた。

「テレビでニュースを見て良いですか?」

 一瞬、みんなが武仁に無言で注目した。

「良いよ。」

 クマが動きを停止させながら答えた。

「みんなどれにする?」

 結女子が停止したクマの手から、ナイフを受け取り、切り分けられたケーキを梅吉達に選ばせ、お皿に分けた。

「僕はどれでも、良いです。」

 武仁は言いながら、ニュース番組にチャンネルを合わせた。

 武仁がチャンネルをニュース番組に合わせると、今朝結女子がいたプリンセス事務所での出来事が、編集され流れていた。

 ニュース映像の見出しには『怖姫降臨!!』と、黒と赤の見出しで大げさに演出されている。

 テレビに映ったのは今朝方、結女子がいたビルでの映像。

 元プリンセス事務所所属の元アイドルの不倫騒動と、過去の枕営業の疑惑について。

 疑問符を投げかける報道陣と、ビルと若手アイドル達を背中に仁王立ちする黒井華倫が映った。

『やめてください。』

 と、言う声とほぼ同時に、黒井華倫が歩き出し、報道陣をかき分けて歩いて行く。

 その映像には、けたたましい笑い声が入っていた。

「あれ?あんな人だっけ?」

 何だか不自然な違和感を捉えた結女子、つい言葉に出てしまう。

 実は笑い声は後から報道陣が、黒井と似た声を後から編集で足したものだ。

 勿論、結女子にとって黒井は、今日初めて会っただけの人間。

 なので、捉えた違和感の意味も、違和感の理由も、何も具体的に説明出来たりはしない。

 だがしかし、結女子の顔を曇らせるのには十分な要素だった。

「え?結女子、この恐いおばさん知ってるの?」

 梅吉が結女子に聞いた。

「え?ええとね…。」

 結女子が下手な愛想笑いをしながら、椅子の上で身を縮めた。

 皆の視線が自分に注がれている事に焦る結女子。

 俯き、髪をいじる結女子を、クマが呆れた顔で見ていた。

 (何かあったってバレバレ何だよ。)

 梅吉もフォークを咥えたまま呆れていた。

 つられて他と揃って、戸惑う結女子を見つめていた武仁が、思いついたようにテレビのチャンネルを変えた。

 また違うチャンネルで、また同じ内容の映像がテレビに映し出された。

 その映像では、黒井とその後ろで怯えるように身を潜める若手アイドル達と、それに詰め寄る報道陣達が映っていた。

 無言で仁王立ちのまま、報道陣の質問攻めに立ち往生する黒井の前に、さっと白髪短髪の女性が立つ。

 言わずもがな、歌手の白雪だ。

『やめてください。』

 その声と共に、報道陣の動きが止まった。

「「わ!」」

 何の意識もせず、テレビを眺めていた梅吉と末恵が同時に声を上げた。

「どうしたの!?」

 思わず、聞く武仁。

 しかし、二人は答えなかった。

 答えなかったと言うより、答えられなかった。

 突然目の前で、流れた映像の驚きが、二人には思いのほか強かったのだ。

「ねぇ、クマ。俺の部屋で三人でケーキ喰って良い?」

 間々あって梅吉がクマに尋ねた。

 喋り方が何となく何時もより慕ったらづだ。

「何で?」

 ここで食べれば良いじゃないかと言いたげな、無言のクマに変わり、結女子が聞いた。

「ちょっと、ティーンだけで話したい事があるからさ。」

 梅吉は視線を、クマから結女子に移した。

「まぁ、私達を中年扱いしてるの?」

 結女子がふざけた調子で聞き返す。

「違うよ、人生の先輩を尊んでるんだ。」

 歯をむき出して梅吉が返した。

 笑って見せようとしてるのに、目が笑っていないのを、本人は気が付いているだろうか。

 結女子が自分の横に座っていたクマの顔を見た。

「いいぞ。」

 クマが結女子を一瞥してから言った。

「よっし!行くぞ!」

 梅吉は自分のケーキと紅茶を手に取ると、武仁と末恵を引きつれて、さっさと居間を出て階段を上がっていった。

 その背中を愛想笑いで見送る結女子。

 まさか、「今朝は清掃員に化けて、本社のビルに乗り込んでいました。」何て言えるはずが無かった結女子は、自分が問いただされそうになった事が有耶無耶になり、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 点けたままのテレビを眺めながら、結女子とクマは、のんびり二人で自分達のケーキを食べ始めた。

 

 ★★★ ★★★ ★★★


 梅吉の部屋で簡易テーブルを囲み、三人はケーキを食べた。

 狭いわけでも無いが、広いわけでも無いので、肘を突き合いながら、フォークを持つことになる。

 その度に、口にケーキを含んだまま、三人は互いに目を合わせ、クスクス笑い合った。

 ケーキを食べ終わると、お皿とカップを重ね除け、梅吉のノートパソコンを開き、三人で白雪のPVを見出した。

 二人より数センチ背が低い梅吉を、真ん中に挟んで、末恵と武仁がパソコンの画面を覗いた。

 両側から肩を肩で押され、身を縮める梅吉。

 白雪はPVの中で、白いエレキギターを片手に一人で歌っていた。

 歌っているが、歌声の音量は小さく編集されていた。

 白雪が画面の中で立ち止まる。

 すると、解説が渋めの男性の声で流れた。


 ―白雪は一年前ほどからブレイクしている、十代二十代の若者に人気のアーティストだ。

「俺は知らなかったけどな。」

 解説にちゃちゃを入れる梅吉の腕を、静かにしてと、末恵が肘で突いた。


 ―その透き通るような歌声と、切なくもクールで凛とした、孤高の狼を思わせる歌声が、個々の心に響く。

 彼女の声は『ホワイトボイス』と言う、特殊な”ゆらぎ”を持っている。

 その歌声のゆらぎは、特殊なリラックス効果を放つ。

 繊細で柔らかな彼女の歌声に、聞いた人間は無抵抗なほどリラックスした状態になるのだ。


「報道陣の人たちは、本当に無抵抗になっていたけどね。」

 今度は梅吉が自分の肘で、喋り出した末恵の腕を突いた。

 間々あって、肘で突き合う二人。

 武仁は二人のじゃれ合いを横目で見ながら、目を窄めた。

 解説が終ると、白雪の歌声とメロディーの音量が、徐々に上がって来た。

 それに気が付いた、梅吉も末恵も突き合うのを止め、両膝に両手をついて、画面の中を凝視した。

 深い雪の森の中を、白雪がギター片手に彷徨っていた。

「寒そう」

「今時期見ると、涼しくて調度いいね。」

 梅吉の端的な意見に、結女子がフォローを入れた。

 白雪の声は、景色の白さに連動し、透き通るような、凛とした声だった。


 しかたないとか、そういうものとか

 繰り返される物語に

 何時も違和感を感じてる

 語られないその中に

 何だか何かを感じるから


 破り捨てたページみたいに

 決して消してはしまえない

 そこにあったハズの何か


 どんなに丁寧に破ったとして

 どんなに知らぬ存ぜぬを通しても

 決して消してはしまえない

 確かに残る違和感を


 ねぇ、私だけなの?

 違和感を感じたままじゃ

 そのままじゃいられない

 そんな我儘は私だけなの?


 誰かのために生きてみたいけど

 自分のためにしか生きられない


 だけども人のためと書いて

 偽と読むと豪語する学者を

 擁護したいわけでもないの


 私が自由に話せるのは歌の中でだけ

 だからずっと一人歌い続けてる

 誰の共感も得られずに

 その寒さに凍え、呼吸すら出来ずに

 耐えきれず、朽ち果てるまで


 PVの映像は、最後に白雪が歩いた雪の上の足跡に、更に雪が積り、残像さへ消えていくという、何とも物悲しいものだった。

「何かクールって言うより、寂しいな。」

「そう綺麗じゃない?」

 梅吉の言葉に、また末恵が意見を被せた。

「おれは何か変な感じだ。」

 梅吉はまた端的に言う。

「どうして?」

「どうしても。」

「んん~。」

 二人のやり取りを聞いていた武仁が、急に声を上げた。

 こめかみに手を当て、目を閉じている。

 二人の視線に顔を上げ喋り出した。

「梅吉は多分きっと、PVの解説と、自分の感じた白雪さんの印象が違っていて、ちぐはぐな違和感を受けたんじゃないかな?歌の中の寂しさや切なさが、本人の本質と、少し異なっていて、いびつに美化されてるようで、違和感をきっと、感じたんじゃかな?」

「加藤君は哲学者見たいな話し方をするんだね。」

 末恵が率直に驚いた。

「よくわかん無いけど、タケの言った感じだと思う。」

「いや、分かんないのに、思うんかい。」

 末恵は梅吉の頭にチョップした。

「それで、どうしてテレビに彼女が映っていて、二人は驚いたの?」

 話しが脇道にそれても、しっかり本題に戻る事を忘れない、しっかりものの武仁。

「正確には映っていたからじゃないんだ。白雪さんがね、「どいてください」って言った、直後に報道陣の人たち、本当にどいたでしょ?」

 武仁は首を縦に振った。

 しかし、末恵はそこまで説明して、急に恥ずかしがって唇を窄めてしまう。

「その時、”気”がおれと末恵には見えたんだ。青白い霧みたいなヤツだった。普通の人には見えないよ。あれは、実像の無い、霊的なものだから。」

 二人に挟まれていた梅吉が、末恵に代わって口を開いた。

 末恵が梅吉の横でおろおろしていた。

 末恵は霊的なモノが、分かる人、分からない人の予測を立てることが出来、その予測は、ほぼほぼ9割当たっている。

 頑固に隠しでもしない限り、末恵が霊的に特異なものを見逃す事は無い。

 その末恵から見て、武仁は霊的な面では、ごく一般的な人間だった。

「加藤君に話しちゃって良いの?」

 両拳を胸にあてがいながら、ぼそぼそと小さな声で、末恵が梅吉の耳元で言った。

 (そんな小声だしたって、この距離じゃ何言ってるか分かんだろうが。)

 梅吉は末恵の阿保な行動に、眉毛と瞼が下がる。

「大丈夫だよ。コイツ、そういう力は無いけど、変な化け物と関わっちゃったから。」

 梅吉が右側に振り向いて武仁の顔を見ると、武仁は苦笑いし、首を縦に振った。

「ふーーん…。」

 末恵は何処から突っ込んだら良いか分からず、ただ目を点にしたいた。

 武仁が床に後ろ手をつき、距離を取ってから、二人に質問を投げかけた。

「ねぇさっき言ってた”気”って何?二人には、どんな力があるの?」

 梅吉と末恵は押し黙った。

 正直それを知らない人に向って、自分の力が何かと問われれば、自分達も何となく分かっているつもりになっているだけで、『これこれこうです』と説明するのは難しい気がした。

「「う~ん…。う~ん…。」」

 梅吉と末恵が腕をくみながら、唸った。

 ある程度考えあぐねてから、末恵が口を開く。

「私のお母さんの受け売りだけどそもそも”気”って言うのはね、私達の身体に流れている、実体のないエネルギー何だ。それは主に身体に宿っている”霊魂”から流れている霊気を意味するの。例えば”元気”も”衛気”も眼には見えないけど、確かに存在しているモノでしょ?見えないけど、確かに存在している、生命に関わる力を”気”っていうんじゃ無いかな?」

 末恵の説明を武仁は頷きながら聞いた。

 梅吉は聞いていて、途中で頭がこんがらがって来ていた。

 立ち上がり、自分のベットに突っ伏した。

「じゃあ、幽霊も生命に関わる存在なの?」

 武仁が思いついたように聞いた。

「悪霊は生者を脅かす事で、生命に関わっているよね。それは生に対して、まだ執着があるからじゃない?」

「末恵は、物心ついた頃からそういうのが見えたんだと。」

 梅吉が自分のベットで伸びをしながら言った。

 硬い話しになると、身体が硬くなってしまうのだ。

「何でなの?」

 武仁が末恵の顔を見た。

「うーーん。親が整骨院をやっていて、色んな人を、昔から見ていたせいだと思うよ。凄く酷い疲れ方してるお客様には、淀んだ、靄みたいな気が、纏わりついてるんだ。」

「へぇそれが末恵さんの言う”邪気”何だね。」

 武仁が頷いて納得するので、末恵は微笑んだ。

「…学校では言わないでね?」

「言わないよ。オカルト集団に勧誘されちゃう。」

「あははっ」

 軽やかに笑う末恵に、武仁が口をあけたまま顔を緩ませた。

 その肩を梅吉が無言でベットの上から、足先で突いた。

「質問ばっかで悪いけどさ、じゃあ”邪気”って何なのかな?」

 武仁は梅吉が自分に伸ばして来た片足を、両腕で引っ張りながら聞いた。

 梅吉はベットの上でじたばたしている。

 不自然な方向に足を曲げられていた。

「う~ん。これは私なりの答えになっちゃうんだけどね…。」

 しっかり前置きしてから説明したいという、困った顔の末恵に、武仁は真顔でいた。

 一方梅吉は、両足先を武仁の両手に取られ、足の裏を親指でくすぐられ、げらげら笑っていた。

「梅吉、唱川さんが話してくれてるんだろ?」

「いや、お前がその手を離せや!」

 末恵はその二人の阿保なやり取りを見てから、また説明し始めた。

「”気”って言う実体のない力の『老廃物』かな?」

 末恵はそう言い切ってから、また照れ臭そうに笑い、首を傾げた。

「「へぇぇ」」

 梅吉と武仁の声が重なった。

 梅吉と武仁は目を合わせてから、間々あって無言で頷き合った。

 PVを見ていたパソコンに、”邪気”と入力し、調べた。

 邪気と検索すると、次なような検索結果が出て来た。


 一、素直でない、ねじけた気持・性質。わるぎ。他者を害そうとする気持ち。

 二、人の身に病気を起こすと信じられた悪い気。

 三、物の怪。


 と、いうように書いてあった。

「悪い気も、最初はただの”気”だったの。でも気を使った後、ちゃんと気を休めない事で、自分の中に、邪魔な老廃物として溜まっちゃうんだって。それで、古くなって腐っちゃうの。」

「「ふぅうううん。」」

 末恵の説明に梅吉と武仁の声が重なった。

「タケ何か、全く素直じゃないから、邪気だらけじゃん。」

 梅吉が武仁に言った。

「お前もな。」

 武仁が梅吉に言った。

「老廃物が、全く身体に溜まっていない人がいないように、全く邪気の無い人間もいないよ。」

 梅吉と武仁のやり取りに、末恵が手をふりながらフォローを入れた。

「なぁ、どうすれば、邪気は消えるんだ?」

 今度は梅吉が末恵に質問した。

「ちゃんと感謝して労って、手放す事かな?」

 それを聞くと、途端に梅吉は、今朝自分が末恵のベットで、お腹を撫でて貰っていた事を思い出した。

 思わずその場に立ち上がる梅吉。

 そして真顔のまま部屋を速足で飛び回り、自分のベットに勢いよくダイブし、仰向けになってから、顔に枕を押し付け、叫び声を抑え込んだ。

 枕の下の顔は赤くなっていた。

「「…。」」

 梅吉の奇行の一部始終を見てから、末恵と武仁は再度会話を始めた。

「ウメちゃんはね、邪気の一種『言霊のトゲ』が、昔から視覚化して見えたんだって。それは言霊が邪気を含んで結晶化したもの、何だ。」

「へぇ」

 武仁が肘をついたまま声を上げた。

「ウメちゃんは見えるだけじゃなくて、その『言霊のトゲ』を、吸い取って消化する事も出来るんだよ。」

 武仁はそれを聞くと、梅吉のベットに片肘をついた。

「出来るからって、あんまりやらないでね」

 武仁がベットの上の梅吉に釘を射した。

 昨日、梅吉が呉服屋の亭主の背中に刺さったトゲを、自分の唇で吸い取るのを、武仁は見ていた。

「うぉ!今何か胸に刺された。」

 梅吉がふざけて、手で胸を押さえる。

「言霊のトゲは実体の無いものだし、ある程度は皮膚や胃腸で吸収できるから、大丈夫何だけど、梅ちゃんは自分から拾ってきちゃうからな。」

 今度は結女子がベットに片肘をついて、梅吉に言葉を投げかけた。

 梅吉は両耳を押さえ、ベットの上でごろんごろんと左右に身体を揺らす。

「それって、昨日呉服屋の亭主から、吸い取っていたやつか?あれは僕にも見えていたよね?」

 武仁がベットの端に腰かけ、梅吉の顔から枕を取り上げた。

「そうそう、おかしいんだ、何か味もずっと不味かったし、食べたらずっと、腹がびりびりするし、鋭い小骨が腹で踊ってるみたいだった。」

「何よそれ。」

 梅吉が斜め下に、顔を下げると、末恵の怒った顔があった。

 末恵の目尻と眉尻が、外側に向ってつり上がっている。

 梅吉は昨晩、両厳の呉服屋であった事を、末恵に包み隠さず、話さざるおえなくなった。

「全く今朝急にうちに来たかと思えば、そんな事があったの?ちゃんと私にも話してよね。」

 末恵は腰に手を当て顔を顰めていた。

「唱川さん、ごめんね。彼氏を変な事件にまきこんじゃって。」

 ぴりぴりした空気に耐えられず、すまなそうな顔で末恵の機嫌を取ろうとする、しっかり者の武仁。

「大丈夫、ウメちゃんは彼氏じゃなくて、弟分に大分近い、子分だから。」

「何じゃそりゃ!」

「ウメちゃんお座り。」

 ベットの上でまた立ち上がった梅吉を、末恵が一言で諫めた。

 ベットの上に正座する梅吉。

 そのベットの下で末恵はふと、何かを思いだし、天井を見上げた。

「そっか、じゃあ、この前ニュースに流れていた、青い光の玉みたいなのは、本当の悪霊なんだね。」

「しかも、胎児の遺体を使ってるから、実体もある。ニュースではパソコンの画面を行き交いしてた。それに俺が食べたトゲも、電気みたいにぴりぴりしてた。」

「そうだったね。」

 末恵も梅吉のお腹に手をあてながら、普段の邪気にはない、違和感を感じていたようだ。

「そう言えば、結女子にも見えてたな。」

「え、昨日は結女子さんもいたの?」

「…いや、その昨晩の事件の現場に居合わせた人間は、現場の呉服屋の亭主と俺と、梅吉だけだよ。」

 行き成り一人称が俺になる武仁。

 顔が真顔である。

「いや、そうじゃ無くて…。あっ。」

 やばい。と、思った頃には、ベットの上で座り込む梅吉に対し、口を一文字にした末恵と武仁が、無言の圧を発していた。

 二人の全身から発せられる重力は、互いに相乗効果を引き起こし、やんちゃで逃げ足の早い梅吉さえも拘束しえたのだった。

(くっ、これが”気”ってやつか!)

 梅吉は生きた人間二人から、金縛りに合っていた。

「…ねぇ、そう言えばさ、この前白太が突然吠えて、犬が沢山集まって来た事あったよねよね。それで偶然誘拐殺人犯の人が見つかって…。」

「ああ、その犬の映像ネットに上がってバズってたよな。」

 二人は言い終わると、また無言で梅吉の顔を凝視した。

「そんなに見つめちゃ嫌!」

 梅吉は結女子と捜索した事件の事を、二人に話さざるおえなくなった。

 かくかくしかじか、まるさんかくしかく、これこれこういうわけで、どういうことが、こういうふうにございましたと、梅吉が包み隠さず説明し終わる頃には、とうに夕方になっていた。

 夏はまだ日が高く空はまだ明るいが、夕焼けチャイムが聞えた。

「そっか、結女子さんも、加藤君も大変だったんだね。」

 つい先日、結女子と一緒に田中宅で素麺を食べた末恵は、しょんぼり肩を落とした。

「その恵さんのお友達だった人には、透明なトゲが刺さっていたんだんね。」

「それは、確かに結女子にも見えていたんだ。」

 梅吉は自分の手の中を見た。

 梅吉が遺体からトゲの一本を抜いた時の傷後が、小さく残っている。

 血は派手に出たが、傷自体は小さかったようだ。

 トゲを遺体から梅吉が抜いた瞬間、確かに結女子は、血の滴る自分の手と、手に掴まれた透明なトゲを凝視していた。

「実体のある『言霊のトゲ』だったんだね。」

 武仁が遠い目で、確信的な言い方をした。

 三人が同時に顔を伏せ、考え込んだ。

『ぴろぴろりん、ぴろぴろりん』

 突然、携帯の着信音が、三人の沈黙を破った。

 武仁が自分の携帯をぽけっとから取り出す。

 病院から武仁の母が目覚めたと、連絡が入ったのだ。

「母さんが意識を戻したんだ。俺、病院に行かないと。」

 そういってから武仁は、勢いよく大きく息を吸い込んで、声を出さないようにそれを吐き出した。

 それには確かな邪気が籠っていた。

 そのまま、梅吉の部屋を出て階段を降りる武仁。

 その背中を、梅吉と末恵は無言で追った。

「帰るのかい?」

 クマと結女子が居間から顔を出した。

「はい、御馳走様でした。」

 武仁は丁寧に頭を下げた。

「タケ、病院に行くんだって。」

 頭の後ろで手を組んだ梅吉が言った。

 武仁がその顔を頭を下げたまま、振り向いて覗いた。

「どこの病院だい?」

 クマが武仁に尋ねた。

「…海原病院です。」

「車を出そうか?」

 武仁は目を見開いた。

 クマは相変らず、抑揚の無い表情を浮かべている。

「えっと…」

 武仁は言葉に詰まった。

「海原病院でしょ?あそこ、駅から離れてるのよ?言った事ある?」

 今度は結女子が武仁に尋ねた。

「無いです。」

「調度、ホームセンターにも、行きたかったし、一緒に行こう。」

(嘘だ。)

 と、梅吉には分かった。

 今ホームセンターに、わざわざ買いに行くようなモノなんてない。

「俺も、ホームセンター行きたい!」

「私も!」

 梅吉と末恵は笑顔で言った。

「…じゃあ、お願いします。」

 武仁は煮え切らない顔のまま、頭をかきながら、クマに会釈した。



 海原病院は、百年前から並々区に残る古い病院だ。

 最寄り駅の賀屋ヶ谷駅から、徒歩二十分以上かかるのは、その駅が出来る前から、街道沿いにこの病院があったためだ。

 なので、車の方が辿り着き安い。

 着いた病院は、百年の歴史を感じさせる、趣深い木造建築だった。

 木造の為、横に長く、コの字型になっており、大きな囲われた空間になっていた。

 病院の中に入ると、天井が低いためか、中は薄暗く、湿った感じがした。

 古い建築のせいか、照明が限られている。

 末恵は思わず梅吉と武仁の服の裾を後ろから掴んだ。

「あれ?結女子じゃない?」

「千歳先輩!?」

 結女子の名前を呼んだのは、結女子の前の会社の先輩だった。

 以前、ビュッフェ形式のレストランで、女装した梅吉が結女子にはち会ってしまった際、結女子が一緒にいた人物だ。

「どうしたの、こんなとこで?」

「あっちょっと、お見舞いの、付き添いで…、先輩は?」

「私はお腹の子の検査で。」

「え?妊娠されたんですか?おめでとうございます。」

 結女子は胸の前でガッツポーズをし、心底嬉しそうに微笑んだ。

「…うん、何か問題が合ったら下さなきゃいけないけどね。今日は妊娠の確認だけ。」

 結女子の顔が青ざめた。

 その場の空気も、一瞬で白く凍てついた。

 (公共の場で、しかも梅吉君たちの前で、何ていう事言うんだこの人は。)

 結女子の先輩は結女子の気持ちを知ってか、知らずか、そのままその場に立ち続け、去る気配が無かった。

 結女子はその様子を見て、溜息をついてから、クマに振り返った。

「クマさん、私ちょっと先輩とお話してきますね。」

「…わかった。」

 クマは結女子と結女子の先輩に軽く会釈すると、三人を連れて武仁母が居るであろう、病室に向った。


 武仁の母のいる病室は、病院の正面玄関から一番離れた場所だった。

 報道の事もあり、病院側が配慮してくれたのかも知れない。

 名前を出すのは控えられ、病室の外の壁には、偽名が張り出されていた。

 流石に武仁の母の病室には、武仁1人で入った良いと言う事で、クマと、梅吉と末恵は外の廊下で待機する事にした。

 がらがらと音を立て、病室の戸を開が開く。

 武仁が病室の中に入ると、窓の外を見ていた武仁の母が、振り向いた。

「武仁…」

「お母さん、大丈夫?」

 武仁の母はやつれた顔で、唇を噛み締めた。

「どうせ、あんたも私の自業自得だって、思ってるんでしょ?」

 武仁はびくりと身を震わしてから、その場に立ち尽くした。

「あんたってホント、そういうところ、お父さんそっくりよ。自分の意見は全く言わない。全く対等に私と関わろうとしない。そうやって、無視して私を馬鹿にしている。」

 武仁はただ押し黙っていた。

「冷たくて、無感情で、まるで心が無いのよ!」

 武仁は肩を落とし、項垂れた。

 その顔に涙は無く、ただ絶望していた。

(こういう母のヒステリーの当て馬になるのは、何も今日が初めてではない。)

 そう思案し、武仁は思考で感情を押し殺そうと、下唇を噛み締めた。

「…はぁ、本当に何にも言わないのね。」

 わざとらしい溜息だった。

 何故それが、わざとらしいかなんて分からない。

 しかし、どうしてわざわざやって来た息子に、悪態をつくのか?

 どうして、武仁なのか?

 どうして母は今ここにいない、武仁の父の話しをしたのか?

 それらはいったい何故なのか?

 どうして、どうして、何故なのか?

 武仁は自分の母親の前に立ったまま、むしむしして熱いとか、部屋が暗いとか、そういう五感で重く思考が鈍って、感覚がどんどん濁るのを感じていた。

 自分自身がその感情の渦に落ちていく。

 もう、抵抗一つせずに本当にその渦の底に落ちてしまえば、もう何も感じずに済むのかもしれない。

 そう感じる程、武仁はただただ棒立ちになった。

「武仁のかあちゃんて、毒親だな。」

 ふいに、梅吉の声がした。

 なんせ、百年モノの古い病院だ。

 武仁と武仁の母のやり取りは、外の廊下に丸聞こえだったのだ。

 武仁の母親は、他人に聞かれていたと分かると、急にあわあわ慌てふためいた。

「…じゃあ、俺、友達待たせてるから。」

 武仁はそういうと、母の居る病室を出た。

 廊下に出ると、梅吉がクマにホールドロックされ、口を押さえられていた。

 一生懸命暴れているが、強固なクマにか敵わない。

 その二人の様子を見ていた末恵は、武仁が病室から出てくると、振り向き、下手くそな愛想笑いをした。

 クマは無事に武仁が病室から出て来たのを確認すると、何も言わずに踵を返し、廊下の端に向って歩いた。

 末恵も、武仁も、何も言わずその後に続いた。

 口を押さえられたまま、クマに抱きかかえられている梅吉の藻掻く声だけが、日が暮れ、更に静けさをました古い病棟の空気の中に、小さく響いていた。

 クマは病院正面受付の手前までくると、梅吉を解放し、床に下した。

「俺は、ちょっと病院に用があるから、3人で先に帰れるよな?」

「…わかった。」

 梅吉はまたホールドロックされると困るので、その場は大人しく了承した。

 クマが立ち去ってから、梅吉と末恵は武仁に目を向けた。

「武仁君大丈び?」

 何時の間にか、下の名前で呼んでいる。しかも上擦って「大丈夫」と言えずに「大丈び」と言ってしまった末恵。

 しかし、そんな事気にも止めてられない。

 武仁が心配で胸の前で手を組んで、オロオロしている。

 梅吉は気が付いていたが、今は末恵に突っ込む気分ではない。

 武仁は一瞬だけ、二人に視線を向け、また正面を向いた。

「まぁ、それでも…」

 言い淀む武仁の横に、梅吉と末恵は、真面目な顔で武仁の側に隣立った。

「…あの母親がいなきゃ、俺は生まれなかっただろう?」

 梅吉は武仁の言葉に呆気にとられてから、顔を悲し気に歪ませた。

「…帰ろっか!」

 末恵が明るい調子で言った。

 語尾の「か」の音を、ふざけるように誇張して発音していた。

 3人は一度顔を見合わせると、誰からとも無く、歩き出した。

「あれ、あの人?」

 末恵は受付付近の、自販機の前にいた人物を見て、立ち止まった。

「どうした?」

 梅吉が末恵の顔を下から覗き込んだ。

「白雪さんじゃない?」

「何で分かんの?」

「姿勢や体つきがそうだった。」

 梅吉も、こっそり遠めから、身を屈め、末恵の目先の人物を探した。

 黒づくめの格好をした人物が目に入る。

 短髪で、帽子を深く被っている為分かりにくいが、帽子からはみ出た後頭部から見えた髪色が白かった。

 黒い服の上からだとわかり辛いが、体つきも、締まった筋肉をしている。

 何かしら職業で鍛えている人の身体だ。

 軸の太い姿勢と、靴のかかと部分から覗き見えた、踝の周りの形から、そうだと分かる。

「ちょっと、後付けてみようか?」

 二人の前に歩み出ていた梅吉が、振り返りながら言った。

「やめろよ、失礼だろ?」

 武仁が生真面目に注意した。

「タケは良い子すぎんだよ。たまに悪い事しない、真っ当に生きられないぜ?」

 梅吉は、武仁に身体正面になり、両手を広げ、わざわざ悪びれて見せる。

「…てめぇ」

 武仁が今日一番低い声を出した。

 梅吉は笑顔のまま固まる。

 末恵は仕方なさそうに溜息を付く。

 梅吉は、耐えられず、その場から逃げた。

「あっ、ちょっと、ウメちゃん…。」

 そのまま、歌手の白雪と思わしき目標人物を追う梅吉。

 末恵も仕方なさそうに、梅吉について行く。

 また更に仕方なさそうに、武仁がその二人の後を追った。

 こうして三人仲良く、目標人物の追ったのだった。

 黒づくめの人物は、エレベーターに向った。

「受付を通らなかったね。」

 末恵が梅吉と武仁に言った。

 三人は建物の柱の影から、目標人物がエレベーターに乗るのを見ていた。

 調度その時、3人の横を、十人程の白衣を来た人達がエレベーターに向った。

 3人は目配せしてから、その白衣の影に紛れながら、一緒にエレベーターに乗った。

 エレベーターに入ると、目標人物はエレベーターボタンの一歩手前に立っていた。

 中は、業務用と兼用な為、一人暮らしの1K程の広さで四角い鉄の箱は上に向って行った。

 病院側の医者から、患者、お見舞いと思わしき人、様々な人がまた乗っては、また降りて行った。

 途中梅吉は末恵と武仁に目配せし、エレベーター内の端に、置かれたままになっていた、大きな台車の裏に身を隠した。

 台車にはカバーがかかっていた。

 中身は患者用のベットのようだ。

(あれ?降りないぞ?)

 目標人物は最上階の4階まで来ても、エレベーターを降りなかった。

 受付のある一階から乗ったと言うのに。

 何の為に、エレベーターに乗ったんだろうか?

 台車の端から、顔をだし過ぎる梅吉の肩を、末恵が突いた。

 梅吉は大人しくまた台車に隠れた。

 梅吉は隠れて見えなかったが、目標人物の黒づくめの人は、不可思議な行動を取っていた。

 黒づくめの人はエレベーターが一番上の四階まで着いき、他の人が降りるのを確認すると、エレベーターボタン下の手のひらサイズの、四角い蓋を開いたのだ。

 そして、自分の胸元につけたチェーンを指先で手繰り寄せると、その先に着いていた、円錐状の銀の金具を取り出した。

 その銀の金具の先を、開けた蓋の中に差し込む。

 エレベーターは閉まると、高い機械音を発してから、急降下していった。

 梅吉達が、台車の影から、エレベーター上部を見る。

 階を表示するデジタルライトが、一階を通り越し、B1、B2と表示していった。

 エレベーターが着地した先はB6階。

 着地音とともに、エレベーターが止まり、開いた。

 梅吉は台車の影から、黒づくめの目標人物がエレベーターの外へ出るのを見ると、扉が閉まる前に、足早に外へ出た。

 武仁と末恵も梅吉に続いて外へ出る。

 梅吉達の目先に円形闘技場のように、丸く、広い場所があった。

 その円筒形の下へ、黒づくめの目標人物が、降りていく。

 梅吉達がその背中を追い、円筒形の端に近づくと、その下には、青いチューリップ畑が、ところ狭しと咲いていた。

 

以前書いたものを手直ししてる状況なのですが、本当に、間違いが多く驚いています。

こんな状態で点数を付けてくれたかた本当にありがとうございます。



 どうしてもこの作品は書きあげたくて書いてます。

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