親指姫 下編
颯斗の実家父である老舗の呉服屋の亭主先原 熟男は、今日店先の締められた玄関に向かって何度も溜息を付いていた。
今朝は呉服屋が通常営業だったと言うのに、次男坊の仕事先から連絡が来て、電話越しに何度も何度も頭を下げる事になった。
思えば昔から長男の早正は出来が良く、みんなに慕われる性格なのに対し、弟の次男は適当で、のらりくらりとした性質が強く、見ているだけで腹が立った。
その姿は全くもって、熟男の父親そっくりだったからだ。
熟男の父親は自分の妻が働き者なのを良い事に、自分は昼間っから夜まで遊びまわり、店の事は母に任せっきりだった。
そんな二人を見て育った亭主は、絶対に自分が実権を握るようになったら、父親を家から追い出してやろうと考えていた。
しかし実際、自分が店の実権を握るようになっても、その思惑は叶わなかった。
母に父が出ていくなら、自分も出ていくと言われてしまったからだ。
「母さんの為に言ってるのに。アイツのせいで母さんは苦労してきたんじゃないか?」
母は苦笑いしながら、苛立つ息子に「あんたが結婚して、孫さえつくってくれれば、私達も安心して引っ越せるわ。」と言った。
確かに自分が結婚し、部屋が足りなくなれば、あの自由気ままな父親なら窮屈に感じ、家を出ていく事を渋らないように思った。
そんな事を母と話した直ぐ後、熟男に縁談の話が来た。
商売の裁量があり、意欲に燃え、若く、聡く早熟な亭主に、良い縁談が来るのは自然な事だっただろう。
その縁談相手は大人しく、また同じく呉服屋の出だった。
卵顔の一重に、慎ましやかな佇まい。
淡い色の着物が良く似合う娘だった。
他にも色っぽい話はあったが、店を一緒にやるなら彼女しかいないと思い結婚した。
一年目で息子も出来、夫婦仲は上々だった。
新妻は客への対応も細やかで、誰から見ても出来の良い嫁だった。
自分の父親とまで仲良く過ごすのは余計な事のように思えたが、注意すれば必要以上の事をしないので、何も心配せず一緒に過ごす事が出来た。
しかし、その出来の良い嫁は、ある日店の経理を任せていた男と突然出て行ってしまった。
3歳になったばかりの自分の息子を置いて。
理由は分からなかった、問い詰めもしなかったが。
出て行った。と言う事実だけで、熟男はもう嫁を受け入れられなかった。
今の嫁はその後、自分の息子の面倒を見てくれた女だった。
この嫁はたまに店へ出入りするクリーニング屋のアルバイトだった。
熟男に出会った頃は若くも、仕事が出来るわけでも無かった。
が、来る度に息子が懐いていたので、父親が勝手に家に上げ、茶菓子を振舞うようになり顔見知りになったのだ。
そのうち、仕事と子育てで疲れ果ていた熟男と、幾つもの言葉を交わすようになったのだ。
付き合って1年で籍を入れ、直ぐに次男の颯斗が生まれた。
颯斗が小学校まで、二人の息子はとても仲が良く、ともにすくすくと育っていた。
しかし、それを見て亭主は余り良い気持ちにはなれなかった。
自分が忙しく店を切り盛りしているのに、息子たちが自分の父や母と戯れている姿に酷く心が乾いた。
「本当の母親を知らない長男を不憫に思うんだ。」
ある日熟男が息子二人がベットに着いたのを見ながら嫁に言った。
嫁はただただ熟男の話を、普段と変わらない笑顔で聞いていた。
そのうち、颯斗が小学校に上がる頃、熟男の父と母はこの家を出て二人で生活すると言い出した。
やっと自分の思惑通りに物事が動き出した。
熟男は全てにおいて自分が主導権を握っている様な、年月が流れた。
このまま、長男が店を引き継いでくれれば何の問題も無く、自分は東塔の老舗の呉服屋を守った功労者として一生涯生きていけるのだと疑わなかった。
しかし、熟男の知らないところで変化は。以前からあったらしく、それは長男の早正が高校に上がる頃、浮き彫りになった。
次男の颯斗が突然頭を茶髪に染め、耳にピアスを入れ、その態度も段々とひねくれたものになっていった。
「兄さんは反抗期も無く、真面目で穏やかなのに、どうしてお前はそうなんだ!」
毎日の様に颯斗を叱ったが、颯斗は何の変化も見せなかった。
そして中学3年の頃、颯斗が高校に行きたくないと言うものだから、知り合いのコネで相撲部屋に入れてやった。と言うのに、数年後先輩の相撲取りと喧嘩し、追い出されてしまった。
当時は長男の早正が外国人向けの浴衣を安値で大量生産した事で、かつてない売り上げを出していた。そんな忙しい時に、辛気臭い不貞腐れた次男に家に帰って来て欲しくなかった。
なので帰って来た時、通帳事金を渡し「自立するまで帰ってくるな。」と告げた。
そこから数年、音沙汰無しと思ったらこの有様だ。
あの次男さえいなければ、自分の人生は順風満帆だったと言うのに。
今日は一日そんな次男を思い、一切の仕事が手に付かなかった。
今も眠れず、問題を起こした息子に連絡しようかしまいか、スマホを手にまた一つため息を付いている。
時刻は24時前。
仕事が手に付かないものの、今日はずっと店先に立っていた熟男。
もしかしたら、店先に次男が現れるのでないかと、不機嫌顔を隠さないまま、何時間も店先に立っていた。
風呂に上がった今も、一番お気に入りの浴衣姿で、絞められた店先の玄関で、店の外側に耳をそばだてていた。
老舗呉服屋の亭主はスマホからメールフォルダを開き、隼人との最後のやり取りを見る。
そこには「お互い知らないところで、知らない内に死んだ方が良い」と書いてあった。
今日、何十回目か分からないため息を熟男は吐いた。
「ああああああああ」
熟男が吐いたため息がスマホにかかると、反応するように音がした。
聞き覚えの無い、人の声の様な汚い音にスマホを凝視する。
と、画面の中から二匹の青く光る妖精が現れた。
妖精はスマホ画面に手を付き、画面から腰を引き出すと、勢いよく天井に舞い上がった。
「「あああああああああああ」」
妖精の笑い声が木霊する。
妖精は顔の側面まである大きな口を引き上げ、背にした木造りの天井と玄関をその身の光で照らしつつ、亭主に笑いかけた。
「ぎゃあああああああああ!」
思わず、熟男は叫び、逃げ惑った、玄関から逃げたかったが、妖精が真上に飛んでいるので出来なかった。
急いで店奥の襖を音を立てて開き、畳の上を走った。
しかし、妖精は笑いながら鳥の様に宙を飛びかい、熟男の後を追って来る。
襖を開き、部屋の半分まで走ったところで、二匹の妖精が両脇の襖を派手な音を立てて破りながら熟男を追い立てる。
3つ目の襖が破られたところで、書院造のお茶室の様な部屋に辿り着くと、熟男は縁側の窓から庭に逃げようとした。
が、「ぎゃああああああああ!」
妖精が口から放ったトゲが手に刺さり、熟男は手を負傷してしまう。
熟男が叫ぶのを見ると、もう一匹の白いドレスを着た妖精があははと笑いながら、相棒の妖精の真似をし、熟男の背中にトゲを吐いた。
「「ああああああああ」」
二匹の妖精は熟男を眺めながら、楽し気に宙を回転した。
真っ暗な部屋で青く輝く光が二つ。
妖精は無邪気に笑い声を上げながら幻想的に舞った。
妖精が灯す光がぼやけ、鬼火のように見え始める熟男。
その青白い光が、天井に描かれた百人一首の絵画をところどころ照らし、映し出す。
熟男は、これが自分の最後に見る景色なのかと、そう思いながら思考を手離そうとした。
助けを呼びたかったがスマホは玄関先に投げ捨ててしまった。
出来の良い息子と嫁の名を呼んだが、生憎今は、着物小旅行の企画の為家にはいない。
のたうち周りながら、血を流す熟男。
妖精の光に照らされて映し出される金の天井には、煌びやかな着物をまとった俳人達の顔が浮かび上がった。
浮かび上がる絵の顔、その一つ一つが、けたたましい妖精の笑い声と重なる。
上から見下して笑われている様な思いになる。
「はぁ、はぁ」
熟男が息を整えていると、青白く輝く妖精が、腕を伸ばせば届きそうなところまでやって来た。
その時。
「やい!化け物!」
暗かった部屋の照明が点いた。
仰向けになった熟男が顔を襖へ向けると、見知らぬ少年が二人。背の低い方の少年が妖精に向って怒鳴っていた。
梅吉が二匹の妖精達に向かって叫ぶと、妖精達が標的を梅吉に変え、トゲを放ってきた。
梅吉は咄嗟にパーカーを脱ぐと、片手で勢いよく布地を回し、とんできたトゲを受け止める。
トゲが当たらなかったことに激怒したのか、妖精の一匹が、真っ直ぐ高速で梅吉に向っていった。
梅吉は何度もかわす。
が、数度よけてかわし慣れて来た次の瞬間、妖精が動きをカーブさせ、みぞおちに激突してきた。
ばきん!
「うげぇっ!」
名バッターの打った玉が、壁に激突したような音が響いた。
「梅吉!」
武仁が叫んだ。瞬間顔が青ざめる。
しかし、梅吉は目を見開き、持っていたパーカーを妖精に被せ、激突してきた自分の腹に、そのまま抑え込んだ。
布地の上から両手で暴れる妖精をしっかり押さえ、腹から引きはがし取り押さえる。
抑えてしまえば、梅吉の両手に収まってしまうくらいの小さな身体。
武仁の話が正しければ、こいつは元は人間の胎児。
梅吉はそのまま絞め殺そうかとも思ったが、出来なかった。
持ったものをそのまま畳に押さえつけ、パーカーを風呂敷代わりにし、妖精の胴体を布地で縛り付け動きを封じた。
「すり抜けられるのは、機器の画面だけ何だな。」
こんな時でも武仁は冷静に分析をしていた。
しかし、梅吉が振り返り見るとその顔は苦悶し、涙が流れてないのが不思議なくらいだった。
「梅吉、腹大丈夫?」
(いや、お前が大丈夫かよ?)
と、梅吉は言いたかったが、お腹が痛くて、「ぐ」とか、「う」しか言えなかった。
武仁は表情を変えず、梅吉の腕から風呂敷状になったパーカーをとった。
「プチッ」
「あ」
空砲シートが割れるような小さな破裂音がした。
そうしてパーカーは動かなくなる。
何が起こったかと言うと、武仁がパーカーの布地の上から中身の妖精を、両手親指を添え、折ったのだ。多分首を。
梅吉は一瞬何が起こったのか分からず、あっけに取られた。
「うわあああああああああああああああ!」
小さな女の子の泣き声が天井に響いた。
母親に叱られた時のような、買って欲しかったものを買ってもらえなかったような、恥も外聞もない、幼く甲高い泣き声。
「何で!?何で!?お兄ちゃん私にこのドレスくれたじゃない!何でぇ!何で私の友達に意地悪するのぉおお!何でぇえええ!?何で殺しちゃうのおおおぉぉぉ!」
甲高く叫びながら必死で自分の感じる理不尽を叫んでいる。
妖精が喋れた事に驚くよりも、泣き叫びながら飛び回る様子が恐ろしかった。
「うああああああああああああああ!!」
残された妖精はぐるぐる叫びながら飛び交い、そこら中にトゲを吐き散らかした。
空いていない瞼からボロボロと涙が零れていく。
「ひいいいいいい!」
店主であろう、倒れていた初老の男性が頭を抱え蹲る。
妖精の放ったトゲが畳にも柱にも、天井にも刺さる。
天井に描かれた美しい百人一首の絵のお姫様の顔がつぶれ、畳は荒れ放題になる。
梅吉と武仁は廊下側によけた。
「あいつ、喋れんの!?」
「その通りなら、交渉も可能かもしれない。」
武仁はそっとパーカーの塊を畳に置くと、決心した顔で立ち上がった。
「やっぱ、お前は俺の妹なのか?母さんが庭に埋めたはずなのに、どうして生き返ったんだ!」
武仁は天井を未だ暴れまわる妖精に叫んだが、妖精は泣き叫ぶばかりで、何の返答もよこさなかった。
「おにいちゃんまで私に酷いことした!お兄ちゃん!お兄ちゃん!オニイチャン!オニイヂャン!」
嗚咽しながら叫び、さけた口を開いて、妹の妖精は武仁に向ってトゲを吐いた。
武仁も梅吉がしたように、上着を脱ぎ、棘を受け止めかわそうとした。
しかし、妹の妖精のトゲは武仁より右斜めに外れる。
騒がしさが遠のき、沈黙になった。
「…お兄ちゃん。…お兄ちゃん。」
妹の妖精は火の玉のようにゆらゆら浮遊しながら、光を瞬かせた。
間々あってゆっくり武仁の元へ降りて来る。
そして武仁の差し伸べた手に乗ると、深く目を閉じた。
武仁は手の中で輝く妖精の光を眩しく感じながら、そっとその首元に親指を添えた。
「まっ」
待って。と梅吉が叫ぶ前に、突然廊下から何かがやって飛んで来た。
それは、素早く妹の妖精の頭にかじりつくき、武仁の手から奪う。
「あーーーーー!」
妹の妖精は咀嚼されながら、甲高い声を上げていた。
自分より10倍程大きい青い妖精に。
その妖精は一歳児の赤ん坊程の大きさで、まるでおもちゃをしゃぶるように、妹の妖精の頭にかじりついていた。
仕草は赤ん坊だが、口が裂けて、妖精の羽が生えた姿は、化け物と言う他無い。
青い妖精は掛け軸の前で胡坐をかくと、生え揃った歯で、妹の妖精をバリバリ噛み砕きながら食べた。
まるでふかし菓子でも食べる様に、10秒足らずで食べきった。
自分で早食いをしといて、名残惜しそうに指を舐めている。
「まったく、お行儀の悪い子だね。」
暗いままの廊下から声が聞えた。
「誰だ!?」
梅吉と武仁が廊下に出ると、玄関側の廊下向こうに、一人の人影と青く瞬く数個の光が見えた。
瞬く光が人影の周りを飛び交う。
その青く、青白く浮かび上がる光が、人影をところどころ映し出した。が、パーカーの帽子を深く被っていて、どんな奴なのか全く確認することが出来ない。
「あ!」
人影に気を取られていた隙に、梅吉のパーカーを一匹の青い妖精に奪われてしまった。
人影は青い妖精からパーカーを受け取る。
その口元が妖精の光で一瞬口元が青く照らされた。
顔立ちからいって梅吉達と同じくらいの雰囲気だ。
「おじゃましました。」
何処かで聞いたような声だった。
しかし思い起こす暇もなく、人影は玄関へ走っていく。
「おい!待て!お前は誰だ!?」
「ピノキオとでも言っとこうかな?」
(ふざけんな!)
と、言おうとして梅吉は咳込んで床に膝を付いた。鎮まりかけたみぞおちの痛みがまた強くなっていた。それどころか、何だか体が全体が熱い。
梅吉は負けじと立ち上がり追いかけようとしたが、その肩を武仁に掴まれた。
「何だよ!何で止めるんだ!?」
「俺は、自分の妹を止めるっていう目的を果たした。それにここまで酷い事になると思わなかった。もう梅吉に怪我をしてほしくない。」
梅吉は先程からずっと右手でみぞおちを押さえていた。
妖精に体当たりされてから、まだ吐き気のする痛みが続いていた。
もしかしたら骨が折れてるかも知れない。
しかも時間は既に深夜3時を回っている。
梅吉は諦めと共に深い溜息を付くと、武仁の手に素直に従い、その胸に自分の頭を預けた。
「君たちは誰なんだい?」
「あんたの息子が浮気した女の人の息子と、その友達。」
梅吉は即答した。全く何の感慨も無く。
熟男は気まずそうな顔をしたが、梅吉が疲れ果ててしかめっ面をしていたので、何も言うまいと思った。
武仁もそんな梅吉を見て苦笑いする。
そして、梅吉は熟男を畳に座らせると、後ろに立って、刺さっているトゲに、自分の唇を這わせた。
熟男と武仁が驚く。
しかし、熟男のは身体から痛みが抜けていき、身体が軽くなるのを感じると、大人しく梅吉のされるがままになった。
梅吉は唇の先で、熟男の背中から、トゲを取り終わると、スマホで救急車を呼んだ。
「早く、出よう。僕たちがやったと思われる。」
武仁は梅吉がトゲについては、その場では何も突っ込まなかった。
「家中に刺さったトゲは自分で何とかして。」
梅吉は熟男にそう言うと、武仁と共にその場を立ち去った。
呉服屋を出ると、他の民家がちらほら照明を点けているのが、見えた。
こちらの様子を伺っているようだ。
裏の勝手口から出た梅吉と武仁は音をひそめ、足早に両厳駅に向かった。
まだ、始発が来るまでに一時間以上ある。
二人はこっそり、両厳駅近くの庭園で時間を潰すことにした。
其処は昔、大名が住んでいたのであろう、和の設えで敷き詰められた。
典雅な趣向に思わず厳かな気持ちになる。
木、水、鳥、魚、石。
すべての動きある何かが声を潜め、幾重もの静けさがささめき合い、平穏な夜の闇を更に深くしている。
二人は池の前にヘタレ込んで、大きく息を吐いた。
暗い中、武仁の顔がスマホのライトで照らされた。
武仁が手にしているピンクのケースのスマホはきっと母親のものだろう。
母親が倒れたので、息子の武仁がスマホを持っているというのは、一件普通の事の様に思えたが、梅吉は何だか、違和感を感じた。
「ロックとかかかってないの?」
「前からよくチェックしてたから、大丈夫。」
(何が大丈夫なんだ。)
開いた口が塞がらないとはこの事だ。
口を開けたまま自分を見る梅吉にも、武仁は平然とした顔をしていた。
梅吉は今いる和の庭園と、武仁がとてもよく似ていると思った。
整っていて、厳かで、静かで落ち着いているのと同時に、奥底に真っ暗で何か恐ろし気な生き物を内側に取り込んでいそうな、そんな雰囲気だ。
武仁の暗い部分が、どれくらい大きいものか計り知れなくて、梅吉は口を歪めた。
梅吉が思うより、早く武仁は呉服屋に辿り着いた。
武仁の母のスマホ内に、もともと浮気相手の情報がまとまってファイリングしてあったのだ。
それも恐いが、その自分の母のスマホを以前からよくチェックしていたという武仁もなかなかの強者である。
「だって、必要以上のお金のやり取り何かあったら大変だろ?」
梅吉の顔を見て、察すると、シレっと武仁は言った。
「お前、ドライなんだか、粘着質何だかわかんないな。」
梅吉が真顔でそう言うと、武仁は目を見開いてから、正面の池に向き直り、じっと自分の両手を見つめた。
きっと、先ほど妖精を潰した感覚が手に残っているのだろう。
「大丈夫か?」
「俺、感情では「可哀想」って思ってても、頭が正解を出していると、その正解を実行しちゃうんだ。俺って、サイコパスかな?」
梅吉に向き直らずに、手を見つめ続ける。
自分の手の神経を指先まで確認し、自分を何者なのか問うてるようだ。
「「サイコパス」が何なのか、よく分かんないけど、お前は俺の事心配してくれたじゃん?」
梅吉はたどたどしく言葉を探した。
「確かに前から自分の母ちゃんのスマホチェックしたって聞いて「こわっ」て思ったけど、それは、本来いけない事だけど、あの妖精みたいな生き物も可哀想だったけど、けどけどさ」
梅吉はここで「お前は正しいよ」とか「お前は良い奴だ」と言う言葉を投げかけるのは何か違う気がした。
言葉が見つからない。あんなに漢字検定の勉強をするのに、色んな字や単語を学んだはずなのに、言葉が見つからなかった。
(今回の事件が起こるまで、武仁はどのくらい苦しんでいたんだろう?)
そうとは見えない大人びた表情がとても冷たい。
今も涙一つ浮かべていない。
きっと人前で泣くタイプじゃないと分かっているが、分からない人間は武仁はどんな風に映るんだろう。
これから武仁はどうするんだろう。
梅吉は仰向けになって「あー」とも「うー」とも聞き取れないうめき声を上げた。
仰向けになって見上げた夜空がやけに遠く見える。
そのまま、梅吉は思考が停止していき、眠ってしまった。
そのうちだんだん夜が明けて行った。
最初にトラックの音がした。次に鳥が鳴き始め、ぽちゃんと池で何かが跳ねた。
幾重にも重なっていた静けさが、一つ一つはだけ、空気が光と音を吸い込んでいく。
武仁は爆睡する梅吉の傍ら、自分の膝を抱き、身を屈めた。
「よく、こんな硬いとこで寝れるよね。」
武仁の冷静な口調からは、馬鹿にしているのか、本当に感心しているのか読み取れない。
時刻は始発5分前。
全然休まってない体の節々が痛い。特にまだ腹の溝内が。
梅吉が自分の腹を押さえつつ起き上がるのを見て、武仁が眉を潜めた。
「痛むの?」
「それは良いんだけど、クマの奴にどう言い訳しようかな…。」
梅吉が心配するのはクマの心配らしい。
見るからにやんちゃな梅吉は怪我はよくするタイプだろう。
「まぁ、高価なソファにはしゃいでトランポリン変わりにしていたら、端にぶつけちゃったって言えば?」
「流石に俺も、そこまでガキじゃねぇ!」
梅吉は立ち上がり講義すると、足早に庭園をでた。
「一回お前んちでシャワー貸してくれよな!こんなぼろぼろじゃ、何言われるかわかんねぇ。」
苦笑いする武仁の目元は少し赤く腫れていた。
梅吉と武仁は地元の東七奈の駅に着くと、同時にお腹の虫を鳴らした。
調度、丼ものチェーン店の朝メニューが始まっている時間帯だ。
二人は、カウンターで仲良く並んで朝定食を食べた。
梅吉が目覚めた時、少し武仁の眼が赤くなっていた気がしたが、既に普段通りのひょうひょうとした表情に戻っているのでそれには突っ込まない事にした。
面の皮の厚い武仁を尊敬半分、微妙な気持ち半分で盗み見ながら、梅吉は自分の皿に紅しょうがを欲張ってのせた。
お腹もいっぱいになり、少し安心した心地で武仁の家に行くと、家の塀の前に数名の人影が見えた。
その姿を見て梅吉は思わず顔を渋らせた。
朝だというのに、失礼な事だ。
数名の人間はマイクや撮影器具を持っていた。
梅吉はある事無い事噂を流し、懐を肥やしている奴が事の他嫌いだった。
「うちにいこうぜ。」
梅吉は不機嫌な顔のまま武仁の顔を見た。
梅吉の家に行くと、冬眠から目覚めたばかりのような、不機嫌に目を細めたクマがドアを開けた。
「…お帰り」
「…ただいま」
怒っているのか、寝不足なのか分からない佇まいで、クマは冬眠明けの熊のように気だるげに立っていた。
「あの…、すいません。僕おじゃましても良いでしょうか?」
細かったクマの目が数ミリ開いた。
「こいつの家に、ニュースの報道人が来ててさ。」
梅吉が忌々し気な顔で説明を付け足した。
「…どうぞ」
クマは少し会釈して武仁を家に上げてくれた。
身長差が大きいので会釈も頭を下げてるように見えないが、武仁は足素の無いクマに怯えることなく、頭を下げ返し、部屋へ上がった。
クマは二人を家に通すと、何時ものようにテレビをつけ、ラジオ体操を始めた。
梅吉も日課になっていたので、一緒に体操を始める。
武仁も取り合えず一緒に体操を間々あって始める。
朝から、男三人がラジオ体操をしてる姿は何とも健康的だ。
テレビの中の講師の烏賊先生が「それでは、みなさん。良い一日を。」と、言い終わり、画面に向って笑顔で手を振る頃には、三人の中に不思議な一体感が芽生えていた。
しかし、その後に続いたニュースにその空気は消えてしまう。
美人ニュースキャスターが表れたかと思うと、画面が変わり、見覚えのある家が映る。
「これ、武仁の家じゃない?」
梅吉の言葉に武仁は反応しなかったが、顔は唖然としていた。
きっと一番驚いているのは、武仁自身だ。
一瞬さっき見かけた報道陣かと思ったが、映された映像は夜撮影されたものだと、景色が暗い事で分かった。
映像は家の塀門前で何度もインターホンを押す報道陣の手が映し出さた。
しかし、インターホンに対しての反応は無く、リポーターが振り向いて勝手な解釈の、勝手な解説を始めた。
「ええ、今回我々は、元七色アイドルメンバーの一人、あややさんのご自宅前に来ています。何と、この可愛らしかったあややさん!既にご結婚されているのですが、今若い男性数名と愛人関係にあるとの事でした。そして、今日のお昼間、何者かによって、危害を咥えられ、現在入院中との事でした。私達は、ご家族の方に真実をお聞かせ願おうと、はるばるご自宅に伺ったのですが、見計らったように、どなたも御在宅でないようですね。」
リポーターが言葉を区切る度に、声音に圧を入れて喋るのが腹立つ。と、梅吉は感じた。
「見計らったのはお前らだろうが。」
「お伺いする前に、一本電話を入れて欲しいよね。近所迷惑だ。」
(この強がりが)
苛立たし気に梅吉が言うと、相変わらず冷静に武仁が突っ込んだ。
梅吉は心の中で武仁を蹴とばした。
画面の前の情報誘導陣営にも、何時までも冷静ぶる武仁も虫唾が走る。
武仁の顔は苦々しく画面を睨み付けている。
耐えている。なのにそうは見えにくい武仁を見ていると、梅吉は胸が締め付けられた。
その後も、そのニュースは続いた。
(もっと大事なニュースもあった気がするが、大分尺を取ったもんだ。)
と、クマは心の中でリポーターを蹴とばした。
映像はつぎつぎ変わり、元七色アイドルあややのアイドル歴や、それ以外のあまり聞いていて気持ち良くない内容がテレビから流れた。
まるで、一つの事実をつくる為に、色んな情報をつぎはぎしているような内容だった。
もともとアイドルになれたのも、枕営業だとか、お世話になっていた事務所を訴えただとか。うんちゃらかんちゃら画面の向こうの人たちが解説していた。
梅吉はテレビを見据える武仁の横顔を見た。
その顔がだんだん普段のポーカーフェースが剥がれていき、みるみるうちに悲しそうな、くしゃくしゃな顔になる。
そのうち悔し気に眉を歪ませ、唇を噛んで震えていた。
『ぴっ』
突然、クマがテレビを消してしまう。そしてテレビを後ろにし、梅吉と武仁の前に立つ。
自分を見上げる梅吉と武仁の顔をしっかり見据え、大きな手で二人の頭を掴んだ。
「おまえら、風呂入れよ。」
クマはそれだけ言うと、自分の部屋に戻っていった。
武仁は震えが止んだようだった。
しかし、かわりに涙が込み上げてしまったようで、さめざめと音もなく泣いていた。
「行こうぜ。」
梅吉はクマの背中がドアの向こうに入ってしまうのを見終わると、武仁の袖を引いた。
「え?一緒に入るの?」
流石、普段から冷静な武仁。
さっきまで、さめざめと泣いていたのに、脱衣所に来て、梅吉が服を脱ぎだすのを見ると、真顔で梅吉に突っ込みを入れる。
「せ・な・か。ながしてやるよ!」
(うぜぇ)
武仁は心の中で思ったが、突っ込む気力が無かった。
無気力なまま、梅吉の背中に続き、風呂場に入った。
「ここ座れよ。」
梅吉は鏡の前のバスチェアーに武仁を座らせた。
「はぁ」
座ったと同時に、大きな溜息をつく武仁。
(もう、一ミリも動きたく無いし、一ミリも喋りたくない。)
ぐったりと重い体で、身体を前に倒した。
梅吉は借りてきた猫のような武仁に、頭から勢いよくシャワーをかけた。
その乱雑さに、武仁は一瞬小さく身を飛び上がらす。
梅吉は大サービスとばかりに、スポンジに何プッシュもボディーソープを付け、両手のひらの5・6倍の泡をつくった。
べちゃん。と、少々乱暴な音を立ててスポンジを武仁の背中に押し付けた。
梅吉の馬鹿力でスポンジが武仁の背中で上下される度に、武仁の身体が揺れる。
「…いい加減にしろよ!」
突然、武仁が怒鳴って立ち上り振り向いた。
「どうして、お前ってそう無神経なんだよ!」
「え、ごめん。俺なりに気を使ったんだけど…。」
実はちょっと面白がっていた梅吉は、バツが悪そうに謝る。
自分が面白がっていれば、武仁も面白がってくれるかと思ったのだ。
そういう、下手に空気を読んだ行いが、逆効果だったのだが。
「そんなんわかってんだよ!そういうことわかっちゃうから俺は、俺は!」
武仁はまっぱで立ち尽くしたまま、俯いて涙を流した。
梅吉も立ち上がり、武仁の顔を覗き見る。
「どうして、母さんも、母さんの男も、ああいう報道陣も、みんな、みんな無神経なんだよ…。」
武仁は自分の腕で目を多い、必死で梅吉から顔を隠した。
梅吉は数分、泣き続ける武仁をまっぱで泡だらけのスポンジを握りしめたまま、見つめていた。
せっかくつくった泡が、お風呂場のタイルに、ぽたぽたと音を立て、落ちて流れていく。
「ごめん。」
「いいよ、謝んな。」
武仁は落ち着きを取り戻すと、目を腕で覆うのを止め、手先で強くぬぐってから、顔を上げた。
「シャンプー借りる」
そう言って武仁はまた鏡の方を向いた。
が、
「あっ」
「お?」
あっ、という間に武仁がすっころんだ。
足元のタイルに溜まっていた泡に足を滑らせて。
梅吉は武仁の身体を後ろからとっさに抱きとめ、尻餅をついた。
「…っ、っちっくしょ~。俺の人生、こんなんばっかかよぉ~。」
「あはははははは!」
武仁の弱弱しい叫びに、梅吉がけたたましい声を上げて笑った。
やっと本当の本音を武仁が言ったような気がした。
「おい、大丈夫か?…」
「「は?」」
クマが浴室のドアを開くと、裸の少年が二人。
にやにやと嫌らしく歯を出して笑っている梅吉が、浴室のタイルに座り込んで、涙目のよその少年を後ろから抱きかかえていた。
間。
「いやいや、クマ違うからね?」
「梅吉、無理強いは良く無いだろ?」
「ちがあああああう!」
梅吉のもともとデカい声が浴室でわんわん木霊する。
「あはははははははははは!」
武仁の笑い声も浴室にわんわん木霊した。
差し込んでくる朝日が浴槽の白いタイルを更に白くし、昨夜の真っ暗さがまるで嘘のようだった。