夢館(ゆめやかた)
水槽の中で薄緑の透明な結晶が成長している。プラセオジム化合物。いかにも涼しそうに見えるが、水温は摂氏四十二度。志村いさおはレギュレータの目盛りを三分の一回転させる。一日三回、三日で水槽の温度が一度下がる。結晶の成長を確認しながら、腕時計に目をやる。二時二十分前。約束の時間は二時。実験室をロックして廊下に出る。理学部の構造化学研究室はすでに夏期休暇に入っている。普段はあまり気にはならないが、人気のないひんやりとした廊下には妖気に似たものが漂っている。
研究棟から外に出た瞬間、真夏の日差しが目を眩ます。構内の風景が不意に白亜色に脱色される。一度立ち止まってから、足早に玄関口を横切る。風景が脱色されて見えるのは今に始まったことではない。彼の意識がいつも白亜色のもやに取り囲まれているせいだ。
理学部を出たところに雑草の生い茂る空き地がある。そこからは薄暗さとは対照的に、昼間の光に包み込まれた神戸の町と瀬戸内海に臨む広い港が一望できる。船に貨物を積み込む豆粒のようなクレーンの動きを見ながら、坂道を駆け降りる。いつもの席で待っているヨーコのすねた顔を思い浮かべる。
『リド』は駅前のビルの地下にある。黒をベースにコーディネイトされた調度が中世ヨーロッパの黒魔術を連想させる。階段を駆け降りて、呼吸を整えながらドアを引く。
「最近、あまり遅れなくなったわね」
ウエイトレスが注文を聞いて離れると、ヨーコが薄笑いを浮かべる。店には他に客はいない。
「君に飼い慣らされたせいだ」
「私があなたを飼い慣らした?」
「たぶん」
「頼りないのね」
「君はいつも先に来て待っている」
「いつもじゃ、ない」
「僕が来るまでのひとりの時間っていうのもいいものだろ」
「悪くはないけど、でも」
「ヨーコがひとりでそこに座っている構図は絵になる」
「どんな絵?」
「モジリアニかな。それともビュッフェ」
「痩せているから?」
「見かけは繊細だけれど色調とか構図に親しみが持てて、それでいて面白い絵」
「うまいこと言うわね。でも、ほんとうはそうは思っていない」
彼女はそう言いながら、彼の後ろに掛けられたルノアールの複製に目をやる。店の調度と最も違和感のある絵。彼女はいつもこの席に座ってルノアールを眺めている。片足を椅子に置き、下着をとろうとしている豊満な体つきの女。
「ルノアールが気に入っているようだな」
ヨーコは首をすくめるようにうなずく。
「どこがいいの」
「女らしいわ」
「君は?」
「私のことなんて、どうだっていいわよ」
そういえば、彼女は少し痩せすぎている。あまり欲情を掻き立てられることもないし、どこか植物的なところがある。それも青臭い植物というよりも、冬枯れした樹木のようだ。
「どうして、そんなに見つめるの」
「君には植物的なところがある」
「女として魅力がないってことかな」
「そんな意味じゃない。樹木の精とでもいった感じかな」
「どんな樹?」
「ケヤキ」
「どうして」
「欅の枝ぶりには擬人的な要素がある」
「わからない」
「人間の裸体を極限的に植物化すれば欅のようになりそうな気がする」
「艶かしい植物」
「艶かしさというより、森の精霊」
「森のニンフ。泉のまわりで戯れる裸体の娘たち。樹はきどったかりそめの姿で、森の中ではいつも人間の姿でいる」
「そこまで考えていなかったけれど、言われればそうかな」
「でも、ニンフはルノアールの娘のように豊満な肉体をしていなくてはいけないから、私のイメージとは違う」
「樹木の精が肥っていてはおかしいよ」
ヨーコと話しているといつもこうだ。想像しているものが少しずつ食い違ってくる。
「今日はこれからどうする」
「予定なんてないわ」
「俺たちにはいつも予定なんてない」
「船が見たい」
「どんな船」
「メリケン波止場の異国船」
「メリケンハーバーには外国船はいないよ」
「ヨコハマの波止場から異人さんに連れられて船にのった女の子」
「赤い靴をはいた女の子か。だけど、ここは神戸でブルージーンズをはいた黒い髪のフランス人形」
「港町のイメージというのは、私には雨の中にたたずんでいる赤い靴をはいた女の子なの。おかしい?」
「そんなことはないけど」
「ユミが来た」
志村いさおが振り向くと黒い小さなドアが開いてユミが入ってきた。ユミのあとにマサルがいつものように従っている。
「どうして、いま、ユミだと判ったの」
「え?」
「いま、ユミが来たと言ったとき、彼らはまだ外にいた」
「そんな訳ないわよ」
「そうかな」
「・・・・」
「前にもあったんだな、こんなこと」
「いつ?」
確かにそんなことがあった。だが、いつかと言われても思い出せない。いや、むしろ夢の中のことのような気もする。
「どうしたのよ。そんな深刻な顔して」
ユミが隣のテーブルに座りながらハスキーな声で言う。マサルがその前で目をこする。よく目をこするのがマサルの癖だ。
「ヨーコが君たちが入ってくるのを予言した」
「ここに居れば誰にだってできるようになるよ」
ユミに小声で話す以外、めったに喋らないマサルがとぼけたように言う。
「どうしてだ?」
マサルはまた目をこすりながら答えようとしない。
「この子、時々妙なことを言うのよね」
十六歳になるのにユミの側にいるマサルはいつも子供のように見える。
ウエイトレスが注文を聞きに来てマサルにだけ「いらっしゃい」と声を掛ける。そして、いさおに微笑みかける。そういえば、店にいるのはいつもこの娘だけだ。細面のぬけるように白い顔に柔らかな茶色っぽい長い髪がいつもかかっている。きれいな顔の娘だといさおは思う。それに、鈴のように澄んだ声をしている。
不意に入り口の辺りで物がぶつかるような音がする。店の雰囲気とは場違いな、大きなリュックをしょった髭面の男が入って来た。周りをいっさい気に掛けていない様子でユミたちのひとつ後ろの席まで来て腰をおろす。すぐに手に持っていた地図をテーブルいっぱいに広げ、注文を聞きに行ったウエイトレスにしきりと何か問いかける。
「ヨーコ、マスターがまた遊びに来るよう言っといてくれって。マスター、ヨーコのことが好きなんだ」
「そんなことないわよ」
三宮のジャズ喫茶のマスターだ。店ではライブでジャズを演奏する。ユミがボーカルを担当している。
「今晩あたり、来ない?」
「今日はダメ。船を見に行くの」
「船? どこへ」
「港」
「どこの?」
「どこだっていい」
「船なんて、埠頭に行けばいつだって見られるじゃない」
「ヨーコの言ってるのは、そんなんじゃないんだな」
「じゃあ、なんなの」
「異国船。ほんとうは横浜がいいんだけど」
「なによ、それ」
「ユミにはわからない」
髭面の男が地図を広げて持ったまま、いさおの前までやってくる。
「この辺りで洞穴とか洞窟を見かけたことないかい。聞いた話でもいいんだが」
前置きもなく話しかけてくる。
「ないよ」
首を傾げるヨーコとユミの顔を見て、いさおはそっけなく答える。
「どんなことでもいいんだがな」
「知らんよ」
ヨーコとユミの顔がうなずく。
男は首を振っただけで何も言わずに地図に目を落として振り向いて行ってしまう。
「俺、知ってる」
また、目をこすりながら、マサルが独り言のように呟く。
「ユメヤカタへ続いている洞窟があるんだ」
みんなの視線が集まるのを無視してマサルはうつ向いて目をこする。
「なんだ、またその話か」
「ほんとだよ」
「夢の話なの。この子ったら、夢と実際の区別がだんだんつかなくなってきているようなの」
マサルのことだからそうだろうと思う。それにマサルはいつも夢を見ている。
「それ、どこにあるのかね」
男がいつのまにか戻って来ていた。マサルは聞こえなかったように答えない。
「夢の話をしているだけだから、放って置いて」
「夢の話でもいいから、どこにあるか教えてくれないか」
マサルは黙ったまま下を向いている。
「だめよ。この子、他の人とは話をしないから」
「夢って、どんな話」
ヨーコが真顔で聞く。
「狭い洞窟をずっと進んで行くと石がきらきら光る大きな洞窟があるそうよ。そのずっと向こうにユメヤカタがあるんだって」
「それだ。鈴の岩屋だ」
男がユミの前に詰め寄る。
「どこにあるんだ。頼む、教えてくれ」
「だから、夢だって。この子の夢の話なのよ」
ユミは男の取りすがるような声に訝しげな顔をしてマサルの方に顎をしゃくる。
「ねえ、君。その洞窟というのはどこにあるの」
マサルはそっぽをむいたまま答えない。
「ねえ、君。頼むから教えてくれないか」
男はマサルの肩をゆする。
「だめよ。他の人とは話をしないから」
「ねえ、君。お願いだ」
ユミの声が聞こえなかったように、さらに男はマサルの肩をゆする。
「だめだって言ってるでしょ」
ユミは男の手を払おうとして立ち上がる。
「探しに行ってもいいよ」
マサルがうつ向いて呟くように言う。
「ほんとうか」
男に肩を掴まれたまま、マサルがこっくりとうなずく。
「バカね。そんなのある訳ないじゃない」
「ねえ、君。今から行ってくれるかい」
マサルがまたうなずく。
「この子の夢の話なのよ。この子、ちょっとおかしいのよ」
ユミがマサルから男を引き離そうとする。男はマサルから離れたかと思うと、自分の席に行ってリュックをしょって戻ってくる。
「じゃあ、すぐに行こう」
「待ってよ。ほんとうに夢の話なんだって。そんなのある訳ないでしょう」
マサルが立ち上がる。
「バカね。やめなさいよ」
止めようとするユミの手をすり抜けるように、マサルは男の前に出て先に歩き始める。
「どうしよう」
ユミが心配そうに振り向く。
「どうってことないだろ。好きなようにさせておいたら」
「ども、こんなこと初めてなのよ」
「そういえば、最初からちょっと今日は変だったわね」
マサルと男はドアを押して出ていった。ウエイトレスが黒いカーテンの間から姿を現したと思うとすぐに、後を追うように出て行った。
階段を上がってくる足音で志村いさおは目を覚ませた。夢を見ていた。森の中を遠くの鈴の音に引き寄せられるようにしてさまよっていた。随分長い時間歩いていたような気がする。少し前から足元に何かが絡みついてうまく動けない。解いてもほどいても絡みついてくる。暖かい触手。早くマサルを捜さなければいけない。気持ちは焦っているのに動けない。柔らかくて、暖かいものがからだ全体にまとい付いてくる。欅の精。そう思ったときには女のからだが絡みついている。浅瀬の生温い海の底で海草にしがみついているような気分だが、確かに女のからだに違いない。彼はその柔らかくて、暖かいものに身をまかせる。女のからだの輪郭がはっきりと見えてくる。森の景色も、マサルのことも消えてしまっている。女の顔に見覚えがある。昼間に見た『リド』のウエイトレス。きれいな娘の顔が前にある。いつもの静かな表情とは違って、どこかに艶かしさがある。不意に胸苦しさが込み上げてきて夢中で娘のからだを抱きすくめる。
汗をかいていた。妖艶な娘のからだの感触が残っている。起きあがってベッドの端に腰をおろす。階段を上がってきていた足音がドアの前まで来て止まる。
「イサオ、起きてる」
軽いノックの音とともにヨーコの声が聞こえる。
「あいてるだろ」
ドアがひらいてヨーコの顔が現れる。
「ちょと、いい」
「上がって来いよ」
高台にある倉庫の屋根裏を改造した部屋で、磨き上げられた広い板の間にはベッドと小さなテーブルセット以外ほとんどなにも置いていない。以前オランダ人の宣教師が住んでいて、トイレとバスルームの他にキッチンも揃っている。キッチンの横に備え付けられている大型冷蔵庫を含めてすべてヨーロッパ調の旧式のものだが、むしろそれが部屋全体に屋根裏とは思えない上品な雰囲気を与えているといさおは思う。
「月見草、見に行かない」
港の見渡せる南側の窓まで歩きながらヨーコが言う。志村いさおは腕時計に目をやる。十二時を過ぎている。
理学部下の空き地にオオマツヨイグサが大きな群落をつくって生い茂っている。月光を浴びて薄黄色の花が咲き乱れる光景を想像してヨーコに話したのを思い出す。
「いまから?」
「うん。外は明るいわよ」
マサルを捜してさまよっていた森のイメージがよみがえる。月明かりが森の中を薄いベールをかけたように青白く照らしていた。
「マサル、どうしたかな」
「え!」
「いま、マサルを捜している夢をみていた。森の中を歩きまわっていた」
「それで、マサルは見つかったの」
「え!」
「だから、その、夢の中で」
「いや。僕が森の精に捕まった」
「そう」
ヨーコは薄笑いを浮かべながら頬に掛かった髪を振り払うようにして窓の外に顔を向ける。北側の窓から微かに山手の冷気が降りて来ている。
「静かね。こんな夜に森の中を歩けたらいいだろうな」
「どうしてだ」
「だって、神秘的じゃない」
「夜の森なんて、無気味なだけで気持ちが悪い」
「夢の中でも?」
「いや。夢の中の森はもっと明るかった」
「夜の森を歩いていたのじゃないの?」
「そうなんだけど、どうしてだか、明るかった」
「森の精は? ルノアールの娘のようにふくよかだった?」
娘の妖艶なからだの感触が蘇る。夢を覗かれたような戸惑いをおぼえる。
「欅の精だ」
「でも、私の雰囲気じゃなかったわよね」
確かに、あの娘はヨーコには似ていない。ヨーコが葉を落とした欅の樹ならあの娘は豊かな森の精霊。あまり旺盛な生命力は感じないがどこかに艶かしさがある。それも単に性的なものではない、生命の持つもっと根源的な艶かしさ。
「ねえ、月見草、見に行こうよ」
雑草が生い茂り、昼間は草いきれでむせ返っている理学部下のこの空き地も、夜露を含んだようにしっとりと静まり返っている。月明かりが草むらを青白く照らし、雑草に混ざってオオマツヨイグサがいち面に花を咲かせている。
「思っていた通り」
ヨーコが無邪気に微笑みながら、草むらに足を踏み入れて行く。白いゆったりとしたコットンのワンピースが薄黄色の花の色にとけ込んで行く。ヨーコの髪が肩で揺れている。こんな光景をいつか見たことがある。月光と戯れているようなヨーコの動きを見ながら、いさおは思う。
伸ばした手が肩に触れる。ヨーコが甘えた仕草で振り返る。月の光に戯れている無邪気な娘の顔。森の妖精。腕がいさおに絡みついてくる。訳のわからない狂おしさが込み上げてきて、夢中で肩を抱き寄せる。髪のかすかな香りが狂おしさを掻き立てる。胸苦しさが込み上げてくる。からだを抱きかかえるようにして草むらに倒れ込む。ほっそりとしたからだの感触。森の精霊。欅の精。
サックスがピアノを追いかける。ピアノが小刻みに逃げていく。サックスがピアノを捕まえてリードする。ベースが底を流れていく。ピアノとサックスが絡み合う。サックスがすり抜けて逃げていく。ピアノがあとを追いかける。ハスキーなボーカルが太くうねるように割り込んでくる。サックスを押しのけたかと思うと小刻みに逃げるピアノに細く絡みついていく。ベースの底にピアノが逃げ込む。追いかけるのを諦めてボーカルがゆったりと音をリードしていく。
薄暗い店の奥で志村いさおは目をつぶって音に身をまかせる。華奢なからだからは想像できない、太く、しなやかで、それでいて繊細なユミのボーカルがたくみに楽器をリードしている。
三宮の小さなビルの地下にあるジャズ喫茶。ジャズをライブで聞かせる店は神戸でもほとんどなくなってきた。ユミの他にニューヨークから来たという専属の黒人夫婦が二組いて、本場の見事な演奏を聞かせる。
いさおがふと目を開けると、マスターがヨーコの横に来て耳打ちするように何か話している。
「マサルが来ているんだって。すぐにユミを呼んでくれって聞かないらしいの。ちょっと見てくる」
昨夜、マサルが帰ってこなかったことをステージに上がる前にユミがひどく心配そうに話していた。マスターの後を追うようにヨーコが小走りに入口に向かったかと思うと、すぐに腕をひっぱるようにしてマサルを店の中に連れてきた。
「どうもはっきりしないんだけど、マサルといっしょに行ったあの髭の男の人が怪我をしたらしいの。それで私たちに来て欲しいみたい」
ちょうどその時、曲が終わってユミがステージを降りてやって来た。ヨーコの話を聞くと、ユミはマサルを店の隅に連れて行く。声は聞こえないが、べそをかいて俯くマサルを叱りつけるようにして話を聞き出している。
「いっしょに来てくれない。あの髭づらの男のひとが崖から落ちて動けなくなっているようなの」
六甲の駅前でタクシーに乗り込む。
しばらく走った後、住宅地の間の狭い急な坂道を、車道が途切れるところまで上がって行く。しばらく待ってくれるように頼んで、タクシーを降りた。少し奥まった行き止まりに大きな洋館風の家がある。その横から山手に細い道が続いている。急な勾配をマサルについて登っていく。風化した花崗岩の崖があちらこちらに見える。
マサルが立ち止まって指さした方向に、小さな崖に続くテラスのように狭い草原があった。すぐに髭づらの男が草むらに座っているのが見えた。
「どうした」
志村いさおが男の近くまで来て声をかけた。
「あの上から落ちた」
男は切り立った崖の上を指さした。
「怪我は」
「膝と足首が痛くて歩けない」
四人が男を取り囲むようにして、足をのぞき込む。
「それで、洞窟は見つかったのか」
「小さな洞穴がいくつかあった。多分、この近くのどこかにあるはずだ」
「そんな洞窟を探してどうする」
「宝物がある」
「宝物! どんな物だ」
「それは言えない」
「そうか。まあいい。よし、マサル、リュックを持ってくれ。俺が彼を背負う」
男が彼の部屋に居つくようになってから一週間が過ぎていた。怪我はたいしたことはなく、足首と膝の捻挫程度だった。部屋の中をゆっくりとなら自由に歩けるくらいには回復していた。
どうして自分がこんな男の面倒をみなければならないのかと思うと、腹が立ってくる。おとなしくしているだけならいいが、世話をされているという恩義をまったく感じていない。いさおの作る料理にはいつもひとくさり文句をつける。昼間には暑いあついとわめきちらす。クーラーがついていないのだから、暑いのは当たり前だ。ユミがいつも店に出かける前に、マサルを連れてやってくる。マサルはそのまま、ユミが迎えに来るまで部屋にいる。
男は何度も地図を開けて、マサルと話をしている。マサルが「ユメヤカタ」と言っている洞窟を捜し出そうと懸命になっているようだ。
男が現れてから、マサルの様子が変わった。それまでユミ以外とはほとんど口をきくことはなかった。
マサルは時々、ひとりで洞窟を捜しに出かけているようだ。マサルが言う「ユメヤカタ」が本当にあるのか、単なる夢で見た光景なのかはわからない。男もマサルもその洞窟が本当にあると信じている。
夕暮れになって、志村いさおは三宮に出て来ていた。駅前の繁華街を歩きまわった後、北野坂をゆっくり上がっていく。そのまま坂道を上がっていくと、いくつかの異人館がある辺りに出る。昼間は観光客でにぎわう場所だ。
坂を少し上がったところで道を右に折れ、細い路地に入る。適当に路地を曲がりながら、これという当てもなく歩いていく。いつもは、駅の周辺を歩くだけで、この辺りに来ることはない。今日は自然と足が向いた。
いさおはある路地の角を曲がった途端、妙な胸騒ぎを感じた。この辺りにしては、店の明かりの少ない狭い路地だった。既視感に似た、以前目にしたことのある光景のように、記憶のどこかにつながっている。意識の奥で不安が揺らめいた。
寂れた雰囲気の路地をゆっくりと歩いていく。少し先に、ネオンサインが目にとまった。近付くと、古ぼけた、細い、曲がりくねったガラス管が「夢館」と読めるピンクの明かりを浮き出させている。一時代前のネオンサインのイルミネーションが店の黒く塗られた古い木の扉とよくマッチしている。
マサルの言っていた「ユメヤカタ」をすぐに思い出した。単なる偶然なのか。
いさおは扉を引いて、店の中を覗いた。
カウンターだけの狭い店だった。客は誰もいず、奥の椅子に黒いドレスの女が座っている。女はトランプを捌いていた手を止めて、振り向いた。
「やはり、いらしたわね」
いさおは戸惑いを覚えて、扉を開いたままつっ立った。
「さあ、どうぞ。遠慮なさらないで下さい」
誘われるままに店に入る。いさおを座らせると、女はカウンターの中に入って行った。最初見た時に、見覚えがあると思ったが、やはりそうだ。『リド』のウエイトレス。
「今、用意をします。その間、そこにあるものを摘んでいて下さい。おなかがすいているでしょ」
確かに空腹を感じている。右手に干し肉が皿に並べてあった。ひとつ摘んで口に入れる。塩加減がほど良く、乾きすぎていない肉片はすこぶる旨かった。女が飲物を用意している間に、皿の半分近くを平らげた。
「あなたは『リド』にいた人ですね」
「ええ、昼間はあそこにいます」
「僕がここに来ることを知っていた」
「ええ、お待ちしていました」
「どうして、僕が来るのがわかったのです」
「私には何でもわかります」
「僕はここへ来ようなどとは思っていなかった」
「でも、あなたはここへいらした」
「しかし、……」
「そんなこと、気になさらなくてもいいのです。どうぞ」
女がカウンターに置いた飲み物は、ブランディーに似た香りのする酒だった。甘さはないが、心のどこかをくすぐる香り。
「これは」
「夢を発酵させたものです」
「夢!」
「ええ。あなたと私の夢」
「僕たちの夢!」
「私、あなたがここへやって来るのをずっと待っていました。あなたがやって来て、私の夢を叶えてくれることを」
「あなたの夢?」
「ええ。私の夢」
「そんなものがあるのですか」
「ひとにはそれぞれ夢があります。でも、それを追いかけるのは選ばれた人間にしか許されません」
「選ばれた人間?」
「ええ、あなたと私のように。私たちは夢で結ばれているのです」
森の精霊。マサルを捜して森をさまよっていた夢。
「僕らは夢を追いかけることができる」
「あなたが望みさえすれば」
「夢を追いかける!」
「私、いろいろと考えてみたのです。でも、それ以外、私たちには残されていないのです。だから、あなたを待っていました」
「しかし、夢を追いかけることにどんな意味が」
「私たちに意味など必要なのですか」
「いや、しかし、……」
「あなたには、それ以外になにかあるのですか」
そう言われれば、確かになにもない。生活の目標すら。目の前の風景はいつも白亜色に脱色されている。風景が脱色されて見えるのは、彼の意識が白亜色のもやに取り囲まれているから。毎日変わりばえのしない、意味のない時間だけが堆積していた。
女の言葉が不思議と心にしみ込んでくる。彼をある確かな目的に向かってひきずり込んでいくのを感じ始める。
酒の酔いがまわってきた。何を話しているのかはわかっていたが、相手の顔がぼんやりとする。意識が朦朧としはじめていた。目をこすってみるが直らない。
「しばらく、そのまま休んでいてください。その間に準備をしますから」
「準備?」
「ええ。今夜のうちに出かけましょう」
女はそう言うと、カウンターの奥にかけられた黒いカーテンの陰に消えてしまった。
眠り込んでいたらしく、肩を揺すられて目を覚ませた。女はゆったりとした白いドレスに着替えていた。
「さあ、出かけましょうか」
彼は無意識にうなずいて立ち上がった。酒の酔いはまったく残っていず、むしろ、普段よりすっきりしている。
「どこへ行くのです」
「夢を追いかけるのです」
「夢はどこに」
「西の空の向こうに」
「西の空の向こう!」
「ええ。ほんとうの夢館が見つかれば、夢を追いかけることができます」
「ほんとうの夢館! ここは?」
「あなたを待つための私のいたずら。さあ、出かけましょう」
細い路地をいくつも曲がって、薄暗い通りに出た。
「この道を歩いていけばいいのです」
さして広くないアスファルトの通りに、黄色い葉を密集させた銀杏の街路樹がどこまでも続いている。
ところどころに街灯があるだけで、ひっそりと静まり返っている。すれ違う人影もほとんどなかった。
「そんなに急ぐ必要はありません。私たちには充分な時間があります」
いつのまにか、急き立てられるような足取りになっていた。
「私たちの前にはどれ程長い旅があるかわかりません。ひょっとして、……」
「ひょっとして?」
「いえ、いいんです。とにかく、急ぐ必要はありません」
どれくらい歩いたのかわからなかった。随分の距離を歩いたような気がする。いつのまにか、アスファルトの道が石畳に替わっていた。石灰岩を組み合わせた石畳の道に沿って小さな石造りの家が連なっている。繁華な街中から離れた薄暗い通り。家の窓からは明かりが漏れている。家の中の明るさと通りの暗さが絵画的なコントラストをつくっている。ルオーの絵にこんな場面があった。
「ほんとうの夢館はどこにあるのですか」
「このまま歩き続ければ、いつかたどり着けます」
「どれくらい歩けば」
「それは私にもわかりません。でも、そこに行けば、私たちの夢の在処がわかるのです」
しばらく歩き続けると、街はさらに寂れたたたずまいを見せはじめ、もはや行きかう人影もなくなった。道はさらに狭くなり、人家がまばらになってきた。道の左右の広い大地の先になだらかな丘が続いている。オリーブの木があちらこちらに見える。石畳が土に替わっていた。
人家が途切れた辺りから、やや道が下りはじめた。まわりはオリーブの木が点在する以外、何もなかった。
道の先に橋が見えてきた。近づくと古い粗末な吊り橋のような木造りの橋だった。その下に深い谷が横たわっていた。橋からは下がほとんど見えなかったにも拘らず、暗い川が底をゆっくり流れているのがわかった。
「この橋を渡った向こうに、鈴の岩屋があります。そこに夢館の場所を知っている老人が住んでいるということです」
「鈴の岩屋?」
「ええ。もうすぐわかります」
橋を渡ると、さきほどと同じようになだらかな丘に続いている広い大地にオリーブの木が点在している。しばらくすると、灯の点った人家がまばらに見えてきた。道はほんの少し上り坂になっている。
「まだ、迷っているのですね」
「どんな夢を追いかけるのかと。僕に夢なんてもともとありはしない」
「あなたは何もわかっていない」
「僕は何もわかっていなくて、あなたは何でもわかっている」
「ええ。でも、もう少しすれば、あなたにもわかります。今は、夢を追いかけようとしているというだけでいいのです」
道の両側に人家が増えてきた。石造りの家の窓からは灯がもれている。道が曲がりくねり、いくつもに枝分かれしている。それぞれの道の先に、集落がぼんやりとした明かりを浮かべている。女は黙ったまま、先に歩いていく。分かれ道にさしかかっても、躊躇わなかった。道がいつの間にかまた石畳に替わっていた。人家が密集してきて、あちらこちらに路地が走っている。道はさらに狭くなり、迷路のように入り組んできた。女は一度も立ち止まることなく、先に進んでいく。暗い路地の向こうに明かりが見えてきた。
路地を抜けたところで、突然、広場に出た。広い円形劇場を思わす石畳の広場には街灯がいくつか灯されている。暗い迷路から抜けだして、ほっとした。
「鈴の岩屋はこの広場の近くだと聞いています。ここからは探し歩かなければなりません」
女は振り返って彼を見た。
「鈴の岩屋なら、あの道を行けばいい」
広場の隅で声がした。その方向に目をやると、建物の陰の薄暗くなっている辺りに、うずくまっている人影があった。近づいてみると、汚れきって悪臭を放っていそうな茶色の毛布にくるまった小男が、焦点の定まらない目を彼らに向けていた。
「鈴の岩屋をご存知なのですか」
「鈴の岩屋なら、あの道をまっすぐに行けばいい」
男は広場の片隅を指さして同じ言葉を繰り返した。
男の指さす方向に闇を飲み込んだような小さなアーチがあった。女はさらに何かを聞こうとしたが、男は恐ろしいものでも見たように、顔を膝の間に埋めてしまった。
アーチをくぐると、不意に空に浮かぶ星が目についた。彼はまわりを眺めてみた。空と思える部分に星が輝いている以外、何も見えなかった。ただ、地平の一点に薄ぼんやりと光を放っている場所があり、彼らの立っている道がその方向に延びているらしいことがわかった。彼がそう思っている間に、女は先に立って歩き始めた。女のゆったりとした白いドレスの輪郭だけが微かに揺れている。
さきほどから、かなりの距離を歩いているはずなのに、いっこうに近づいてこない。
「ほんとうにあれは鈴の岩屋なのですか。いつまで歩けば」
「もうすぐです。少しずつ思い出してきました」
「思い出してきた?」
「一度もあの場所へは行ったことがないのですが、以前の記憶のように浮かんでくるものがあるのです。おそらく、鈴の岩屋へ行くことが私たちに運命づけられているからでしょう」
女はそれだけ言うと、また先に立って歩き始めた。
オルガンの音が聞こえ始めていた。なぜ、なんの関連もなくそんな音が聞こえだしたのかわからなかったが、記憶のどこかから響いてきていた。彼はオルガンの調べにしばらく聞き入っていた。
不意にある情景が浮かび上がった。
夕暮れの散歩道の途中に小さな教会があった。何度もその前を通りながら、いつも入ることを躊躇っていた場所。蔦が隙間なく壁をうずめ、魂の救済の場にふさわしい静けさと落ち着いた雰囲気を感じさせる礼拝堂。その日、彼はなにげなくその中に立ち寄ってみる気になった。
だが、建物の中に足を踏み入れた途端、予想さえしていなかった異様な気配が彼を捉えてしまった。ステンドグラスから洩れる明かりはかえって内部を暗く沈み込ませ、底知れない不気味さがまわりの空気を支配していた。
入り口の近くに立ち尽くしたまま、この世界を覗いてしまったことを後悔し始めていた。見てはならない神の裏側を見てしまったと彼は思った。
その時、不意にオルガンの音が建物の内部を震わせた。空気をつんざくような最初の音は次第に長く低く、彼の呼吸に合わせるように流れ始めた。背筋をぞくぞくとさせる、恐怖感に似たものがからだを包み込んだ。逃げ出したいと思うのに動くことができない。これが神のほんとうの姿。
彼は甦った記憶をさらに辿ろうとしたが、その先がすぐに見えなくなった。
そうだ。今、感じている不安はあの時と同じものだ。得体の知れないものに向かう底知れない不安。
「なにも怯えることはありません。私たちの行こうとしているところには不安を抱かなければならないものは何もありません」
「どうして、そんなことがわかるのです」
「私たちが追いかけているのが、夢だからです」
女はそう言って微笑みかけた。
足どりが急に速くなった。明かりが近づいてくる。足を速めたと思ったのは錯覚で、明かりが間近に迫ってきていた。そう思ったときには、洞窟の入り口がすぐ前にあった。
石造りの小さな門があり、薄ぼんやりとした明るさが洞窟の奥に続いていた。
「ここが」
「鈴の岩屋です」
「こんなところに」
「今歩いて来たのは意識の迷路です。不意にここに近づいたのは、たぶん私がこの場所を思い出したからでしょう。ここに来る途中に川を渡ったでしょ。あの川は限られた者にしか渡れません」
「限られた者?」
「ええ」
「しかし、橋が」
「そう。あの橋は夢を追おうと決めた人にだけ架けられるのです。虹を追いかけると、あの橋に行きつくと言い伝えられています」
「虹?」
「そう。虹は夢の象徴。もちろん、ただの言い伝えです」
そう言って、門をくぐって洞窟の内部へ彼を誘った。
狭い洞窟の中を女の後に従って進んで行く。
「鈴の音が聞こえる」
「ええ、こんな澄んだ音色を聞いたことがありません」
女の声が岩の壁に跳ね返って響いてくる。洞窟の中の薄ぼんやりした明るさは、まわりの岩がかすかな光を放っているせいだ。奥に進むに従って明るさが増してくる。そう思っているうちに、洞窟が広がり始めた。
そこは広い岩の空洞だった。入った途端、空洞の異様さに目を見張った。暖かな光が岩壁全体から放ち出され、様々な植物が緑の葉を茂らせている。中央には泉があり、そのまわりにはガラス質の結晶が、あたかも水の精ででもあるかのように澄んだ音色を響かせている。
今まで聞いていた鈴の音は、ここから響いていたのだ。女が彼の動きを手で制した。鈴の音が不意に止んだ。
「だれじゃ。そこにいるのは」
掠れた声が空洞の奥から聞こえた。声の方向を見ると、老婆がうずくまるように鈍い視線を彼らに送っていた。
「ここが鈴の岩屋なのですね」
「夢館を捜しに来なすったか」
「ええ。夢を追いかけるために、ここまできました」
「どうして、この場所がわかった」
「ひとりでにここへやってきました」
「そんなに夢館へ行きたいのか」
「そのために、ここへ」
「よした方がいい。夢など追いかけても仕方がない」
「でも、私たちは夢を追いかけようと決めたのです」
「夢など追ったとしても、どうなるものではない」
「しかし、私たちにはそれ以外……」
「まあ、いいじゃろう」
「それでは」
女の顔に晴れやかな表情が浮かんだ。
「ただし、ひとつだけ言っておくことがある。夢館へ向かった者は自分の意志では決して元の世界に戻ることはできない。もし、引き返そうと思った時から、どこにも道はなくなってしまう。そのことだけは肝に銘じて覚えておきなされ」
女にはその言葉を気にかける様子はなかった。
「夢館までどれくらいかかるのです」
「さあて、それは人によって違う。一日を一年と感じることもあるし、一年を一日と思うこともある。これから先は、これまでの時の長さは通用しなくなる」
「何年も、何十年もかかるのですか」
「それもわからん」
女は仕方ないと言うように、それ以上聞くことを諦めた。
山道を歩いていた。山道と言っても、石ころがあったり、歩き難い道という訳ではなかった。ただ、比較的急な上り坂がどこまでも続いていきそうな予感があっただけのことだ。
「あの老人は何者なのです」
「鈴の岩屋の主だという以外、誰にもわからないのです。ああして、岩屋にこもったまま鈴の音を奏でることが、おそらく無上の喜びなのでしょう」
「しかし、あんなにも人の心を捉えてしまう音色を今まで聞いたことがない」
「様々な澄みきった風景が絶え間なく心の中を通りすぎるのを感じていました。私にも初めてのことです」
「今まで思ってもみなかった透明な世界が、不意に目の前に現れてきて、なにもかもが澄みきってしまう」
「この鈴もすばらしい音色です」
女はそう言って、手に持った鈴を揺すってみる。岩屋の老人が夢館への道案内に与えてくれたものだ。道に迷った時、その鈴を鳴らせば、夢館の方向から、それに共鳴した鈴の音がかすかに響いてくる。老人はそう言って、青味がかった細い二本の結晶体でできた鈴を女に手渡した。
森の中を歩いているのかもしれない。風が流れると、まわりに葉擦れの音が聞こえた。まだ、暗くて何も見えない。いつの間にか、坂道は緩やかになっていた。
「いつまでもこんな場所が続くのですか」
「私にもわかりません。でも、これから様々なことが起こりそうな気がします」
「ここに来る前に、夢を追いかける以外、僕たちには何も残されていないと言っていたでしょ。だから、あなたは僕を待っていた。僕にはそれがよくわからない」
「別に、深い意味はありません。ただ、そう思うようになっただけ」
「しかし、どうして夢など追いかける必要があるのです」
「あなたはまだわかっていないのですね」
「僕は何もわかっていなくて、あなたにはすべてがわかっている」
「そんな皮肉な言い方をなさらなくてもいいでしょう。確かに私には大抵のことがわかります。あなたにはそんな私の感じ方はわかってもらえない。でも、それはそんなに大切な問題ではありません。私たちにとって、今最も大切なことは、私たちがふたりで夢を追いかけようとしている、そのことなのです」
女は遠くを見据えるような眼差しで微かな笑みを浮かべた。
美しいと思った。心の奥底から幸福感に似た想いが湧き出てきた。
空が少しずつ明るさを取り戻しつつあった。まわりの不明瞭さにも拘らず、前を歩いている女の姿だけははっきりとらえることができる。白いゆったりとしたドレスの肩に栗色の柔らかい髪が揺らいでいる。
「夢ってなにか、僕にはわからない」
「ほんとうは私にもわからない。でも、……」
その瞬間、空の一点からまばゆい一条の光が女を包み込むように降り注いできた。
「ああ、これは……」
声をつまらせた。
女が光の中へ歩いていく。彼は息をつめたま、その光景を見据えていた。そこには、ずっと以前、古い宗教画の中で見た聖女の姿が浮かび上がっていた。
「これが……」
声が白い闇に溶け、すべてのものが彼の心の奥から消えて行こうとしていた。
志村いさおが目を覚ませたのは夏草のおい茂る草むらの中だった。なぜこんなところにいるのか、まったくわからなかった。太陽の位置がだいぶ高くなっていることから、朝もすでに早い時間ではないようだ。空気が暑くなり始めていた。
立ち上がったが、頭がぼんやりしている。あれは夢を見ていたのかと思う。夢にしては昨夜のことは、あまりにもはっきりと、生々しく思い出される。それにしても、どうしてこんなところで眠っていたのか。
草むらの端に細い道が下に向かって続いている。その道を辿って、今居る場所がどこなのか、知りたいと思った。
急な山道がしばらく続いた後、道が比較的緩やかで、少し広くなった。その辺りに来て、風景に見覚えがあると思った。道を少し後戻りすると、小さなテラスのような草原があった。あの髭面の男が崖から落ちて動けなくなっていた場所だ。
屋根裏部屋の広い板の間の、ベッドから少し離れた場所に男のシュラフが無造作に置かれている。昨日、部屋を出る前と何も変わりはなかった。ベッドの横の小さなテーブルセットに男は座っていた。
「どこへ行っていた」
部屋に上がっていくと、男がぶっきらぼうに言った。
冷蔵庫から小さなミネラルウオーターのビンを取り出して、いっきに飲み干した。
「いちいちあんたに行動を報告するつもりはない」
「そうか。これでも心配していたんだがな」
「マサルは?」
「まだ、来ていない」
港の見渡せる南側の窓まで歩きながら、その前に置いたロッキングチェアーに腰をおろす。
昨夜のことが夢なのか、実際に経験したことなのか判断できなかった。北野坂から道を右に折れ、細い路地に入った。適当に路地を曲がりながら、裏通りを歩いて行った。
寂れた雰囲気の路地の少し先に、「夢館」があった。黒く塗られた古い木の扉の中に彼女がいた。『リド』のウエイトレス。夢の中の森で出会った女。樹木の精霊。夢中で抱きすくめた女。「夢館」に迷い込んだのは事実だ。その後は。
ノックの音が聞こえた。マサルがドアから顔を出した。
「上がれよ」
「うん」
マサルはテーブルセットの椅子をひとつ持って来て、いさおの横に座った。
「いさおさんはいつ帰ってきたの」
「今」
「どこに行っていたの」
マサルはいままでいさおにそんな風に話しかけることはなかった。
「鈴の岩屋に行ってきた。そこから、夢館を捜しにでかけた」
「そう。鈴の岩屋って、遠いの」
「わからない。でも、昨日の夜のうちにたどり着いていた」
「僕もこの間から、捜しているんだけれど見つからなかった」
「実際にどこなのかはわからないが、そんなに遠くではないと思う」
「その話、ほんとうなのか」
男が割り込んできた。
「あんたには関係ない」
「マサル君に嘘を教えるのは良くないのじゃないか」
「あんたには関係ないと言ってるだろ」
志村いさおは今日も夕暮れから三宮に出てきていた。あの夜と同じ道を先ほどから何度も歩いている。昨日も、一昨日もそうだ。
「夢館」のあった寂れた狭い路地とよく似た雰囲気の場所はあったが、どこにも『夢館』のネオンサインと黒い扉の店は見あたらなかった。
「夢館」を捜し歩いて三日になる。あれも夢だったのかと思う。「夢館」を探し出すのはもう諦め始めていた。それにしても、実際に経験したように記憶が生々しい。あの女にだけでももう一度会えれば何かがわかると思って、『リド』にも何度か行ってみたが、ウエイトレスが代わっていて、女のことも何もわからなかった。
「夢でも見ているようね」
「え!」
「私が見えていない」
ヨーコが志村いさおの目をのぞき込むように言った。
「そんなことはない。ちゃんと見えているよ」
「そうかな」
「そっちの方が変なんじゃないのか」
「鈴の岩屋ってどんなところ? 行ったのでしょ」
「マサルから聞いたのか」
「ユミから。あなたに案内してもらうって、マサルが言っているそうよ」
「夢の話だ」
「ひとりで行ったの」
「え!」
「だから、夢の中で、その鈴の岩屋へはひとりで行ったの」
一瞬とまどった。
「女が案内してくれた」
「そう」
ジャズがブルース調に替わっていた。ライブ演奏をしていない時はCDプレーヤーを使っている。昼間のライブは終わっていて、ユミはそのまま店を手伝っている。
「マサルは今日はあの男と一緒に出かけて行った」
「あなたの部屋もにぎやかになっていいわね」
「追い出そうとしても、出ていかない」
「いいじゃない。あの男のひとが現れてから、マサル君がだんだん普通の子のようになってきたって、ユミが喜んでいる。私が話しかけても、返事をするようになったわ」
「それはそうだが、あいつはいつも文句ばかり言っている。腹が減ったとか、食事が不味いとか、暑いだとか。いい加減にしろだ」
「それで鈴の岩屋の場所を教えてあげたの」
「夢の話だって言ってるだろ」
「あなたが夢でみた場所に、ほんとうにあるかもしれないじゃない」
「でも、どこだかわからない」
「実際に歩いてみれば、思い出すかもしれない」
確かに、歩いてみればわかるかもしれない。いさおがあの朝、目を覚ませた草むらの近くに『夢館』に通じる洞窟がひょっとしてあるのかもしれない。単なる夢だったとはいまだに思えない。
朝の六時から握り飯をつくり始めた。昨夜から泊まっているマサルは、遠足にでも出かけるようにはしゃいでいる。男もやっと起きだした。
部屋を出たのは七時を少し過ぎた時間だった。外気はまだひんやりとしている。あの朝、いさおが目を覚ませた草むらまでは、それほど遠い距離ではない。細い山道をゆっくり上がっていく。気温がそれほど高くなっているわけではないが、汗がしたたり落ちる。
あの草むらまでたどり着いたあと、まわりを手分けして捜すことにした。昼にまた草むらに集まった時には、何の手がかりもなかった。いさお自身、捜し歩いている場所にまったく見覚えがなかった。
四時近くの時間になって、雲行きが怪しくなり始めていた。遠くで雷鳴が聞こえている。その時、偶然、男の姿が目にとまった。声をかけて走り寄った。
「雨が来そうだ。今日はそろそろ引き返した方が良さそうだな」
「よし。この下にマサルがいると思う。捜して、一緒に下へ降りる」
「じゃあ、頼む。俺はもう少しこの辺りを捜しながら降りる」
男が狭い山道を降りて行ってからしばらくして、雨がぽつぽつし始めた。そう思っている間に雨足が激しくなりだした。山道を走り降りながら、どうせひと時の夕立だから雨宿りしているうちにあがってしまうだろうと思う。
ちょうど、あの朝、目を覚ませた草むらに来たとき、雨がひどくなってきた。
草むらの山手に小さな崖があり、蔓植物が人の高さより少し高い位置に庇をつくっている。いさおはその庇の下へ走り込んだ。
雨はさらに激しくなってきた。上から雨の滴が落ちてくる。滴を避けて、崖に張り付くように後ろへ下がった。岩が背中にあたるだろうと思ったが、まだ後ろに余裕がある。振り返ってみて、初めて背中の後ろが空洞になっていることがわかった。
蔓草をかき分けて空洞を覗いた。空洞は奥に続いていて、人の背丈ほどの高さがあった。大きな石につまずきながら、奥に進んで行った。光が届かなくなった洞窟の内部はまったく何も見えない。手探りで先に進んで行く。部屋に置いてあった懐中電灯はマサルのリュックに入っている。
三十分ほど進んだ辺りから、洞窟の内部に微かな明るさを感じるようになった。どこからか外の光が入ってきているのだろうと思う。目を凝らすと、洞窟の内部が、薄ぼんやりと見渡すことができる。
さらに一時間以上洞窟を先に進んで歩いてきていた。洞窟の明るさが少しずつ増してきている。よく見ると、洞窟の壁の岩が薄ぼんやりとした光を放っている。奥に進むに従って明るさが少しずつ増してくる。あの晩、鈴の岩屋にたどり着くときもそうだった。そう思った途端、微かな鈴の音が聞こえてきた。あの時の鈴の音。
洞窟の先に白いものが揺れていた。いさおはそれに近づこうとして走った。時々、石にけつまずいては、転びそうになって手をついた。必死になって追いかけているのに、なかなかそれは近づいて来なかった。
鈴の岩屋を離れて、「夢館」に向かっているときのことが、思い浮かんだ。森の中を歩いていた。風が揺れるとまわりに葉擦れの音が聞こえた。
「夢を追いかける以外、僕たちには何も残されていない。だから、あなたは僕を待っていた。しかし、どうして夢など追いかける必要があるのか僕にはわからない」
あの時、そんな話をしたような気がする。
確かに、あの時の光景に間違いない。そう思った時、石ころだらけの道がなだらかで、微かな上り坂に替わっていた。先の方で揺れていた白いものはやはり女の後ろ姿だった。足早に歩いていくに従って、白いドレスの後ろ姿が近づいて来た。
女が振り返える。
「どこへ行ってらしたの。突然いなくなってしまったので、心配していました」
「あの時、君は」
「振り返ると、不意にあなたがいなくなって」
「君にもう一度会いたくて」
「でも、よかった。あなたがどこかへ行ってしまったのかと」
「僕たちは今、夢を追いかけている」
「ええ」
「僕は今しがたまで、この洞窟の外にいた」
「でも、今はここに戻っている。それで、いいのです」
「僕は夢など追いかけようとは思っていなかった」
「あなたはまだ迷っている。だから、あなたはここから消えてしまった。でも、あなたは私と一緒に夢を追いかけるためにここに戻ってきた」
「僕たちの夢って、どんなものなのかわからない」
「それは私にもわかりません。今は、夢を追いかけているというだけで、充分なのです」
女が彼の腕をとって、道を先へ促した。
洞窟は薄ぼんやりしていて、まわりに風景が見える訳ではないが、今、草原のような場所を歩いているという実感があった。春の長閑な風が微かな草の香りを運んでくる。女のゆったりとした白いドレスが風に揺れている。柔らかな長い髪が風に戯れる。こんな光景にいつか出会ったことがある。
「ほんとうは夢がどんなものか、私にもわかっている訳ではないのですが、私たちの夢はそれほど遠くにあるものではないような気がします」
「この道を行けば、いずれ夢館に行き着くのですか」
「ええ、そうです。そこに行けば、私たちの夢の在処がわかるはずです。私たちがどんな夢を追いかけているのかも」
「僕に夢などほんとうにあるのかどうかわからない」
「人にはみんな夢があります。でも、それを追いかけることが許されるのは特別な人だけです」
「僕には特別なことはなにもない」
「でも、あなたには、夢を追いかける以外何も残されていない」
女が振り返って、彼を見据えるような眼差しで微かな笑みを浮かべた。心の奥底で幸福感に似た想いが揺れている。いや、これは彼女が手にした青味がかった結晶体の鈴の音が彼の心に響いているのかもしれない。
「この鈴の音はあなたの心に共鳴しています。あなたの心の中から美しい鈴の音が聞こえてきます」
「僕の心が」
「ひょっとして、あなたの心が夢館なのかもしれません」
女が彼の腕に絡み着くようにからだを寄せてきた。柔らかな髪が彼の頬をくすぐる。髪の香りに胸苦しさを覚える。女の肩を抱き寄せる。ゆっくりと、幸福感が心の中にしみ入ってくる。女の顔にはそれまでの静かな表情とは違った艶かしさがある。夢中で女のからだを抱きすくめる。狂おしい欲情が不意に突き上げてくる。絡み合ったふたりのからだがどこかへ落下していく。
水が飲みたいと思った。意識はぼんやりしたまま、砂の上に横たわっていることだけはわかっていた。暑かった。透みきった空から照りつける太陽がからだを焼きつけた。からだを動かそうとしたが、鉛のように重く、容易には意志に従わない。諦めて、このまましばらく横たわっていようと思う。
それにしても、この酷い喉の乾きはどうしたことか。喉だけではない。からだ中がひからびたように乾き切っている。ただ、足元だけが微かな冷たさを感じている。足を動かしてみようと思ったが、容易には動こうとしなかった。
太陽が正面から照りつているため、まぶしさが耐え難かった。再び、目を閉じる。透き通った空に輝く太陽の残像が瞼の裏に熱を帯びたように感じられる。しばらくの間、熱を追いかけて瞼に力を入れていく。加えていく力に応じて、熱さは静まっていき、やがて、太陽の残像は白い光の広がりへと変わっていった。からだの重さは眠気になって、意識がおぼろげにかすんできた。
再び目を覚ましたのは、どれくらい時間が経ってからのことだったか。柔らかい雲の上を歩いているような、ぼんやりとした感覚が足元に残っている。太陽は相変わらず真上にある。さきほどにも増して容赦なく照りつけている。顔の熱さを拭おうとして手を頬にあてた。からだが比較的自由に動く。足元だけが妙に心地よい。足を動かしてみた。現実的な感覚が不意に甦った。足が水につかっている。
ヒリヒリとした痛みのようなものが喉元に走った。感覚のすべてが足元に集中するように、からだを足元に引き寄せた。顔を突っ込むように、水をすくい上げた。水が喉を通ること以外なにもわからなかった。それだけが感覚のすべてだった。
しかし、次の瞬間、飲み込んだ喉の奥から、身震いするような吐き気が戻ってきた。吐き気は喉そのものを絞りだそうとするように喉元を締め上げた。
その時になってはじめて、口に入れた水の生臭い強烈な悪臭に気づいた。口の中に残った水を吐き出して顔を上げた。
ふやけて腐り始めた犬の白い目が、今、顔をつけていた水のすぐ横に浮かんでいた。再び吐き気を感じたが、飲み込んでしまった水は口の中に悪臭を残したまま、からだに染み込んでしまった。
顔を起こして、まわりを眺めてみた。さほど大きくない池が前にあった。池の周辺は窪地になっているせいか、まわりはなにも見渡せなかった。風があるのだろうか。水の表面が微かに波打っている。立ち上がってまわりを眺めてみても、やはりなにも見渡せなかった。
ヒリヒリとした喉の渇きがまたおそってきた。池の中心に向かって歩いていく。水が膝の少し上あたりまで来たところで、ゆっくりと水をすくい上げてみる。悪臭はまったくなかった。先ほどよりも冷たく、喉を流れ降りていく感覚はたまらなく心地よかった。急きたてられるように、何度も水をすくい上げた。
ひとしきり飲み終わって、からだを水の中に横たえた。冷たさがぼやけていた意識を目覚めさせていく。しばらく、そうして水の中でからだを泳がせた。
からだがすっきりすると、池のまわりの風景を確かめたくなった。水から出て、池の端からなだらかな斜面を上がっていく。裸足の足元が焼け付くように熱かった。水に漬かったためか、意識がはっきりしてきたせいか、暑さは先ほどよりもさらに強烈に感じられた。重い砂の斜面を熱さを我慢して歩いていく。
まだ、からだが充分に目覚めている訳ではないようだ。急いで歩こうとしても、足がそれに従わない。柔らかい砂の上で、何度も足をもつらせてころんだ。
池のまわりの小高い場所まできて、やっとまわりが見渡せた。その瞬間、期待がめまいのような不安へ転落していった。
ひからびた、だだっ広い地面にくすんだ緑色をした樹木が数本見えるだけの大地がどこまでも広がっていた。砂漠に似た風景に、打ちのめされたように膝まづいてしまった。こんな光景の先になにがあるというのか。
記憶が少しずつ甦ってきた。夢を追いかけていた。
「僕にはほんとうに夢などあるのかと」
「人にはみんな夢があります。でも、それを追いかけることが許されるのは私たちのように」
あの女はどこに。
この暑さの中にひとりで放り出されてしまったことに絶望的な苦痛を覚え始めていた。もはや、動く気力さえ失ってしまいそうだった。熱い砂の上に手をついたまま、しばらく動けなかった。暑い。からからに乾き切った暑さが容赦なくからだをひからびさせていく。さきほどの犬の死骸が頭をかすめた。あんなふうにはなりたくない。気持ちをとりなおして立ち上がった。もう一度、ゆっくりとまわりを眺めてみた。
池の右手の方向に、なだらかな起伏をなしながら細い道のようなものが、ひからびた大地の奥へ続いていた。あれは確かに道だと思う。道がある以上、どこかにたどり着ける。
道になっている部分はまわりの砂とは違って、硬く踏みしめられたように歩きやすくなっている。まだ、からだは重く、足がもつれそうになる。
前方の空をゆっくりと見上げてみる。やや白っぽい、雲ひとつない青い空が地平の先に続いている。今歩いて行こうとする道が同じように地平線の先まで続いているように見える。暑さの感覚が強烈に甦ってくる。喉元がヒリヒリとしてくる。
もう、かなり歩いているはずなのに、ほとんど風景に変化はなかった。からだが益々重くなり、時々めまいがしたように足元がもつれる。それでも、太陽の位置が少し片寄ったのだろうか。先ほどまでまったく陰をつくっていなかった木の根元から、少しずつ陰が伸びはじめている。この風景も変化していると思ったとき、希望のようなものが湧いてきた。歩きだしてまもなく、ひとつの不安がつきまとい始めた。いつまで歩き続けても、風景に少しの変化もおこらないのではないのか。
女とともに夢を追って歩いていた。
女が振り返って、彼を見る。微かな笑みを浮かべた女を美しいと思う。幸福な想いが心に共鳴していた。彼女が手にした鈴の音が彼の心に響いているようだった。
「あなたの心の中から美しい鈴の音が響いてきます」
「僕の心に」
「あなたの心が夢館なのかも……」
柔らかな髪が頬をくすぐる。女の肩を抱き寄せる。幸福な想いが心の中にしみ入ってくる。夢中で女のからだを抱きすくめる。絡み合ったふたりのからだが落下していく。
夢を追いかける途中、女とともにあの世界から転落してしまった。夢など追いかけたのが、許されることではなかった。もともと,夢などなかったのだから。これは夢など追いかけようとした罪の償いなのではないのか。
からだが自由を失い始めていた。喉の渇きは痛みを通り越して感覚さえなくなってきていた。意識が薄れようとしている。このままでは、行き倒れてひからびた死骸になるだけだと思ったが、恐怖感すらなかった。
さらにどれだけの時間歩いたのかわからなかった。足がよろけ、転びかけてはなんとかからだを支え直した。それも限界だった。ほんの少しの起伏を上がってきたが、もうそれ以上からだを支えることもできそうになかった。目を閉じ、その場に倒れ込もうとして一瞬顔を前方に向けた。何かが目にとまった。あれは。
確かにそれは村だった。白い四角い石をいくつも集めたような家々。その間に木々の緑が散らばっている。
あそこまで、歩きさえすれば。薄れかけていた意識がもどってきた。急ごうとする気持ちがからだのバランスを崩させた。何度も転んでは起きあがった。やっと、村の近くまで来た時、薄汚れた白い衣をまとった老婆が杖をつきながら歩いてくるのが見えた。
近かづいた時、声をかけようとして老婆をみると、一瞬おびえたような表情をしたが、すぐにうさん臭そうな目を向けただけで行ってしまおうとした。その間、なんとか話しかけようとしたが、かさかさにひからびた喉からはほんの少しの声すらも出て来なかった。必死に手を動かしてみたが、老婆は無視したように行ってしまった。
あの老婆はどこへ行くのだろう。この先には今まで歩いてきた道以外に何もなかったはずだが。しばらく、老婆の後ろ姿を目で追っていたが、すぐにまた村に向かって歩きだした。
すべての家の壁が塗りかえられたばかりのように、真っ白でまぶしかった。村の入り口にさしかかり、最初の家を通り過ぎようとした時になって、妙な雰囲気を感じた。妙だと言っても、違和感があるだけで、取り立てて言うほどのことではない。
最初の家には入り口の扉はなく、中に誰か居るのがうかがえたが、何も見えなかった。真っ白な壁とは対称的に、真っ暗な内部の様子はまったくわからなかった。それに、家の外には先ほどの老婆以外人影がまったくなかった。
その位置から、道を挟むように点在する家々が見渡せたが、五番目の家のあたりまで来たときには、からだがほとんど意志に従わなくなっていた。やはり扉のないその家は、他の家と同様に外から暗い空間が見えるだけで、内部はほとんど見えなかった。どこでもいいからからだを横たえたい。そう思って、恐るおそる入り口から家の中に入って行った。やはり中には誰も居る様子はない。まぶしい光の中を歩いてきた目には、暗い部屋の中は最初まったく何も見えなかった。物にけつまづかないように注意深く進んで行った奥に、もうひとつ部屋があった。部屋の隅にベッドらしいものがあるのが、かろうじて見きわめることができた。倒れ込むように、その上に横たわった。
誰かがからだをしきりに揺すっている。白い闇のような世界をさまよっていた。おぼろげにものは見えているが、何かわからない。口元に冷たい心地良さがあった。すぐにそれが水だとわかって、無意識に何度も飲み込んだ。
「気がつきましたね」
女の声がした。首を支えられて、水を飲ませてもらっている。喉を通る冷たい水の感覚とともに意識が少しはっきりしてきた。
「驚きました。部屋に入るとあなたがベッドに横になっていらしたから」
からだが泥のように重たかったが、上半身をかろうじて起こすことができた。
「ここはどこなのですか」
微かに声が出た。
「ここは私の家です。どちらから来られたのですか」
声に聞き覚えがあった。振り向いて、女を見た。
「ああ。あなたでしたか」
「え」
「いつからここに」
「少し前に戻ってきてから、ここに居ます」
「あなたがどこへ行ったのかと思っていました。あなたも池の傍らからここまで歩いてきたのですか」
「いえ、少し先の家に用があって行っていました」
「いつこの村に着いたのです」
「え。ここしばらく、村からは出ていません」
「いつからこの村にいるのですか」
「いつからって、……」
「この村に来たのは、いつ……」
「ずっとこの村に住んでいます」
「そんな。では、僕は」
女の顔から笑みが消え、いぶかしげに見返した。
「あなたと一緒に夢を追いかけていた。夢館へ行く途中で」
戸惑いが女の表情に現れた。
「何をおっしゃっているのかわかりません」
「だって、あなたと一緒にこの世界に落ちてきたのでは」
「大丈夫ですか。夢を見ていらしたのね」
あれは夢だった。いや、それなら今ここに居るのは。
「水はもうよろしいか」
「水。ああ。もっと飲ませてください」
女は立ち上がって、椀に水を汲んで持ってきた。口から喉の奥へ流れていく冷たい水の感触は、ぼんやりした意識を目覚めさせるように心地良かった。からだが少し軽くなったような気がした。
「そのまま、しばらくゆっくりしていて下さい。夕食の準備をしますから」
女はそう言って、奥の部屋に消えて行った。まだ、いくつかの部屋があるようだった。
ひとりになって、どうしてこんなところに居るのかと思う。女は何も覚えていないようだ。人違いかとも思ってみたが、どう見てもあの女だ。
あの世界から一緒に転落してきた女。夢館に向かって歩いていた。しかし、その前はどこに居たのだろう。何も思い出せない。
また、うとうととしていたようだ。女の声で目を覚ませた。
「これから、水浴にでかけますが、ご一緒にいかがですか。おなかがすいているでしょうが、ここでは水浴が済むまで夕食ができません」
「水浴?」
「この村のはずれに大きな泉があります。そこで、神に出会うのです」
「神に出会う?」
「自然の最も美しい姿を私たちは神と呼んでいます」
女は白い衣をまとっていた。肩に栗色の柔らかい髪がかかっている。
外はもう夕暮れていた。女は黙ったまま、先にたって歩いていく。思ったより広い村だった。どの家も入り口の扉はなく、壁は真っ白に塗られている。その壁の色も、今は夕暮れの色を映して薄赤く色づいている。村の中を二度三度曲がりながら、女の後に従って歩いていく。よく眠ったせいか、からだに先ほどのような重さはなかった。それより、無性に空腹を感じるようになっていた。
やっと村をはずれた辺りまできたところに、女の言っていた大きな泉があった。この村に来る前に、犬の死骸のあった池よりさらに大きかった。泉の対岸はそのまま小高い丘に続いている。丘の下の辺りは潅木でおおわれていた。すでに、大勢の人が集まって水浴を始めている。
女は水際までくると、うずくまってしばらく何かを呟いていたが、立ち上がるとそのまま水の中に入って行った。水が膝の辺りまできたとき、女が振り向いた。
「気持ちがいいですよ。こちらに来て、一緒に水を浴びませんか」
誘われるまま、水の中に入っていく。冷たかった。陽はたいぶ傾いていたが、まだ真昼の暑さを残した村の中を裸足で歩いてきた足には、水の冷たさがたまらなく気持ち良かった。
女が水浴と言ったとき、一瞬、あの犬の死骸のあった池が頭に浮かんだ。また、あの道を歩いて戻るのかと思うと、水の生臭い悪臭とともに、苦痛が甦った。しかし、そうではないことがわかってほっとした。
腰の上あたりまで水につかる位置まできて、女は水をかけてからだを洗うような仕草をした。それにならって、同じように水をからだにかける。女の方に目をやると、白い衣が水に濡れ、からだが透けて見えている。やわらかな胸のふくらみが見て取れる。きれいな姿だと思う。
池の向こうの小高い丘の上からそのまま空が続いている。少しずつ先ほどから空の色が変わっていくようだった。太陽は丘の右手に沈みかけていた。
広い泉のあちらこちらでたくさんの人たちが水を浴びている。子供たちもいる。誰も声を出さずに、ゆっくりとした仕草で水をからだにかけている。これは儀式なのだろうか。神と出会うための儀式。自然の最も美しい姿を神と呼んでいるのだと女が言った。
「もうすぐ太陽が沈みます。その後に私たちは神を見ることができるのです」
女が呟く。太陽は赤さを益していきながら、丘の裾がなだらかに切れていく辺りに沈み始めようとしていた。
もはや暑さを感じなかった。心地良い水の冷たさによって先ほどまでのひからびたからだの重たさがなくなっている。
太陽は益々赤味を加えていく。見つめている太陽が揺らめき始めた。太陽だけではなく、視界そのものが揺らめいている。泉のまわりになだらかな起伏をなす大地には、数えるほどのしなびたような木がはえているだけだった。しかし、その大地が太陽とともに、赤く染めぬかれたように揺らめいている。
いつのまにか空に雲がたなびき始めた。雲はゆっくりと増えていき、太陽の光を反射してさまざまに色づいていく。
「そろそろ、上がりましょうか。もう、私たちだけですわ」
その声に我に返ったようにまわりを眺めた。先ほどまで水を浴びていた人たちは、すでに水際にひざまずいて祈りの姿勢をとっている。
そうだ。この人たちは神と出会おうとしているのだ。その祈りの姿が大地の中にとけ込んでいる。神に祈るということが、こんなにも自然に見える。
これまで神に祈るなどということを経験しただろうか。神などというものがほんとうにあったとしても、神を恨みさえすれ、祈るなどということは一度もなかった。
女に従うように水際まで歩いていく。水に入っていくときには気づかなかったが、時々石が足の裏にごつごつあたるのが気になった。水際まで来たとき、足の裏に不意に痛みを感じた。その途端、声をもらしたのだろう。
「気をつけて下さい。この下に古い貝殻がたくさんあります。化石なんです。ずっと遠い昔には、この場所も海の底だったのでしょうね」
そんなに遠い昔がここにもあった。
水から上がって、女は水際の岩にひざまずいた。手を胸のあたりに組み合わせ、太陽の沈みかけている空のあたりを見つめている。女の胸元になにか光るものがあった。
あのときの鈴。鈴の岩屋の老人が夢館への道案内に与えてくれた青味がかった二本の細い結晶体。
空の色が変化していく。太陽が沈んでいく。一日の終わりに、沈んでいく太陽に祈りをささげる。神に出会うとはそういうことかもしれないと思う。
その時だった。目の前の光景が異様な色彩を放ち始めた。荒涼とした、だだっ広いだけの風景が、空の燃えるような多彩な色合いに映し出されて揺らめき始める。不毛な荒野がこの世ならぬ光景へと変貌していく。
無意識にひざまずきながら、なにか言おうとして女に目を向けた。うつむいた胸元の結晶体が空の色を映して輝いている。微かな鈴の音が聞こえる。祈りを捧げている女の姿が心をふるわせるほどに美しかった。これが神の世界なのか。
しばらく、言葉さえなくしたまま、呆然とその光景に見入っていた。だが、見ている間に空の色がゆっくりと失われていく。多彩な色合いに暗い陰が広がっていく。空は微かな明るさを残しただけで、暗闇に移って行こうとしている。
「そろそろ戻りましょうか。残っているのは私たちだけですわ」
女はそう言って、うながすようにまわりを眺める仕草をした。水際で祈りの姿勢をとっていた人たちはもうどこにもいなかった。
「おなかがすいたでしょ」
女が振り向いて、先になって歩きだす。来るときと同じ道を通っているのだろうが、入り口に扉のない、白い壁の家々にはとりたてた特徴はなく、どこを通っているのか定かではなかった。女は一度も振り返ることなく、足を急がせて歩いていく。
村の中を何度か曲がったところで、見覚えのある場所に出た。そこからちょうど、村の入り口あたりが見渡せた。女はそのまま、左手の家の中に姿を消した。急いで、それに従う。
家に入ると、女がふたつ目の部屋の隅に置かれたテーブルに案内した。そんなところにテーブルがあるなどとは気がつかなかった。部屋の中は暗かった。しばらくぼんやりとそのまま座っていた。
外が少しずつ暗くなっていた。夜が訪れようとしている。
「暗くなりましたね」
女が側に来て、テーブルの上のランプに火を灯した。部屋の中が急に明るくなったように感じられる。ランプの明かりで部屋の中が隅まで見えるようになって、妙に好奇心が湧いてきた。ゆっくりと部屋を眺め始める。だが、今座っている椅子の他にはテーブルと向かいに置かれたもうひとつの椅子以外何も見当たらなかった。壁は外と同じように白く塗られているが、長い間塗りかえていないらしく、でこぼことした壁面は薄汚れてくすんでいる。その部屋と女が夕食の仕度をしている部屋の他はランプが灯されていない。もれた明かりで薄ぼんやりとしている入り口の部屋に目をやったとき、壁に人の手のひら程の大きさの黒いしみがついているのが目にとまった。それが蜘蛛だとわかるまでかなりの時間がかかった。最初はその大きさにぎょっとしたが、別にそんな蜘蛛がいても不思議な気がしなかった。ずっと眺めていても、まったく動かない。
「食事の用意ができました」
女が奥の部屋から皿を持って現れた。
「このあたりでは、ごちそうをするようなものが何もありません」
そう言って、皿をテーブルに置いて、奥に戻っていく。その間、また蜘蛛に目をやる。同じ位置にじっとはりついたまま動こうとしない。黒い影に引き込まれるように見つめる。
「おなかがすいたでしょ」
すぐ側で声がする。いつの間にか戻ってきて、飲物の入った容器を置く。
「なにもありませんが、召し上がって下さい」
皿の中には豆やじゃがいもなどと一緒になにかの肉を煮たものが入っていた。木のスプーンを使って一口食べてみる。なんとも言えない旨さがあった。食べ始めると、空腹を感じていたのがわかった。がむしゃらに口に押し込む。すぐに皿の中味がなくなった。
ふと気がつくと、女は何かめずらしいものを見るように、微笑みを浮かべて見つめていた。
「よほど、おなかがすいていたのですね」
そう言って、陶器のコップに飲物を注いだ。微かな甘さがあったが、ワインに似ている。
「これは私がつくりました。このあたりでは果物を潰して置いておくだけで、おいしいお酒ができます。ここでは泉の水を引いて、いろいろな果物をつくっています。水さえ引いておけばひとりでに育ちます。私、この村に来たとき、最初、こんな乾いた土地には何もないだろうと思ったのですけれど、そんなことはありません」
「いつ、この村に来たのですか」
「わかりません。気がついたときにはここで暮らしていたのです」
「その前のことは」
「何もわかりません」
女の顔から笑みが消えていた。
「あなたと一緒に夢を追いかけていた。覚えていないのですか」
戸惑いが女の表情に現れた。
「何をおっしゃっているのかわかりません。夢の話ですか」
「いや。いいのです」
女とともにこの世界へ落ちてきた。だが、女は何も覚えていないようだし、この村に来たのはかなり以前のようだ。
「どれくらい以前なのですか」
「え。ああ、私がこの村に来たのが?」
「ええ」
「ほんとうによくわからないのです。もうずっと以前のような気もしますし、ついこの間のことのようにも思えます。おかしいでしょ。でも、ほんとうなんです。」
ここにいると、同じ生活が毎日過ぎていくだけで、以前の記憶がどんどん消えていくのかもしれない。
「あなたがこの村に来たのは、ほんの少し前のはずなのです」
「どうしてそんなことが」
「僕がここにたどり着いたばかりだから」
「え。意味がよくわかりません」
「ほんとうに何も覚えていないのですか」
女は首を傾げるような素振りをした。
「僕たちは夢を追いかけるため、夢館に向かって歩いていた。その途中でどこかへ墜落していった。そして、僕たちはこの村にたどり着いた」
「では、この村が私たちの夢のありかだと」
「いえ、それは」
「おもしろいことをおっしゃる」
女は急に真剣な目をくずして、おかしそうに笑った。その声の響きを美しいと思いながらも、はぐらかされた失望感を味わった。
「そのお話、もう少し話していただけません。おもしろそう」
その言い方に絶望に近いものを感じ、答える言葉を失ってしまった。
「いや。ただ、それだけのことです。夢の話です」
「そうですの。私もよく夢を見ます。見たこともない広い大きな町が夢の中に現れて、その片隅でいつも立ちすくんでいるのです。何度も見た夢なのですが、悲しくて、つらい夢です」
その話し方が、記憶のどこかに絡みついていく。
女の後ろで黒いものが動いた。先ほどの蜘蛛がゆっくりと足を動かしている。蜘蛛の動きを見入るようにみつめた。
「どうななさったの」
「後ろの壁に蜘蛛が」
女が振り返る。
「この蜘蛛は家を守ってくれているのです。スコルパの唯一の天敵なのです」
「スコルパ」
「さそりに似た小さな虫です。さそりほどではないのですが、スコルパに刺されると何日も苦しむことになります」
「このあたりは毒虫が多いのですか」
「毒虫は砂漠にいるさそり以外はスコルパだけです。水のあるところにはよくスコルパがいますから、気をつけてください」
女は真剣な顔で言ったが、その名前がいかにもユーモラスに聞こえた。
酒の酔いがまわってきたのか、眠くなり始めていた。話しながら、何度もワインに似た飲物を注いでくれていた。
「眠くなってきました」
「そうですね。今日はお疲れになったでしょ。もう、お休みになって下さい。あのベッドを使って下されば結構です」
「あなたは」
「私ももう少しすれば眠ります」
何かが手の中で動く気配があった。それが何なのかわからない。それどころか、今どこに居るのかさえわからなかった。しばらく、頭がはっきりしなかった。目を開けてみた。真っ暗で何も見えなかったが、急に記憶が戻ってきた。手の中にあるのは女のからだだ。手を動かしてみる。どうしてここに女が。そうだ。これは女のベッドだった。それにしても。そのとき、女は寝返りをうってむこうを向いてしまう。
からだの節々が痛いように重く感じられる。半分眠ったままで、もう一度、女のからだがそこにあることを確かめてみる。柔らかな感触が再び手に触れる。その手を振り払うように、女はからだを動かす。藁でも詰めてあるのか、堅いベッドの寝心地はあまり良くない。
微かな光さえない部屋の暗さは異様に思える。暗闇に目を開けたまま、昼間ひからびたからだを引きずって歩いていたときのことや、夕暮れに目にしたこの世ならぬ光景を思い浮かべる。からだは重く、眠気が戻ってくる。目をつぶると、ゆるやかな波のうねりのように、再び眠りの中に誘い込まれていく。
再び目を覚ませた時には、部屋の中は明るくなっていた。女はすでにベッドにはいなかった。夜中、目を覚ませたのを思い出す。女の柔らかなからだの感触が残っている。
「よく眠れましたか」
ベッドの端でからだを起こすと、女がさわやかな笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「よく眠ったようです。もう、夜が明けてたいぶ経つのですか」
「ええ。もうかなり太陽が高くなっています。そろそろ、暑くなってきます」
確かにすでに暑くなり始めていた。よく眠ったにも拘らず、からだが重かった。
「すぐに、食事の用意をします」
そう言って、女は奥の部屋に姿を消した。入り口の部屋に目を向けると、まぶしいほどに明るかった。その光に誘われるように入口まで歩いていく。外に出てまわりを眺めてみると、家々の壁がまぶしい白さで目にとまった。人の気配はまったくなかった。
「どうぞ。用意ができました」
声に誘われて、中に入る。しばらく外にいた目には部屋の中が暗く感じられる。すでに女が座っているテーブルの前に腰をかける。あまり食欲はなかった。
パンと干し肉とミルク。それに、ボールに野菜が盛られていた。ミルクを口に入れてみる。柔らかい香りに冷たい口あたりが心地良かった。ほど良い塩加減の焼きたてのパンもすこぶる旨かった。干し肉もひとつ摘んでみたが、堅くなく、塩気も少なく、微妙な味わいがあった。いつかどこかで同じ物を食べたような気がする。
「食事が終われば、村の中を案内してもらえませんか」
「ええ。いいです。なにも見るものもありませんが」
村の中を歩いてみたいと思った。好奇心というよりも、夢を追いかけてきた末に墜落してきた場所が、はたしてどんなところなのか確かめたかった。
「今、外に出てみて、道に人気がまったくないのを不思議に思いました」
「ええ。もう、これくらいの時間になると、誰も外にでません」
「なぜです」
「よくわかりません。最初は暑さのせいかと思ってのですが、それだけではないようです」
「家の中でなにを」
「それもわかりません。でも、ここでは昼間、やることは何もありません」
なにもやることのないまま、同じ毎日が過ぎていく。ずっと以前、そんな生活をしていたような気がする。
食事が終わった後で、女が布を抱えて戻ってきた。
「外に出る前に、今着ているものを着替えた方がいいですわ。昨晩、着るものをつくっておきました」
その時になって、昨日の夕暮れに見た村の人たちの衣服がすべて白い布を合わせただけのもので、腰をひもで結んでいたのに思い至った。女も同じものを身につけている。
「それに、これを履いて下さい。どこにでも貝殻が落ちていますから」
柔らかい革でできたサンダルを差しだした。そういえば、昨日、あの泉の貝殻が足の裏に突き刺さったところが、まだ歩くたびにじわじわと痛みを残している。
着替えを済ませて外に出た。暑かった。空を見上げると、深みを帯びた青く澄んだ空気の中で、太陽が金属的な光を放っていた。
からだの重さがいつのまにかなくなっている。ぴったりとくっついたサンダルは歩きやすく、足が自然に動いていく。
村の中を歩き始めると、暑さが益々ひどく感じられる。入り口のない白い壁の家はよく見ると少しずつ形が違っている。村は昨日思ったよりさらに広く感じられる。
このあたりが村の中央だと女が言ったところに、石畳を敷いた小さな広場があった。その真ん中にいくつもの四角い石を積み重ねた、人の背丈ほどの石柱があり、その中程のあたりから水が飛び出すように流れ出ている。石柱の下には水を受けるための小さな水場がつくられている。
「この水はあの遠くにある山の頂きから引かれていると言われています」
女が指さした方向に、うっすらとした山の影があった。
「あんなところからどうして水が引けるのかわかりませんが、ここの人たちはそう信じています。それに、この村にはおもしろい言い伝えがあります」
「言い伝え」
「ええ。昔、この村のあった場所に宮殿があったというのです。この荒れ果てた大地の真ん中に、緑のおい茂る、それはすばらしい宮殿がぽっつりと浮かび上がったように、そのたたずまいを見せていたということです」
女はその宮殿をあたかも想像しているかのように、ぼんやりとした眼差しで呟いた。
「その宮殿はどうなったのです」
「ええ。ところがある日、宮殿にひとりの見慣れぬ男が現れたのです。ぼろぼろの衣をまとったその男はいかにも哀れに見えたので、情け深い王妃のはからいによって、宮殿の片隅に住むことを許されたのです。しかし、いく日か経ったある日、王妃が突然高熱で苦しみだしたのです。宮殿の医者が呼び集められたのですが、その原因はわからなかったそうです。ところがある夜、王様が宮殿の庭を歩いていると、その男が不意に現れてこんなことを言ったのです。王妃の病気は神の妬みのせいだと。嫉妬深い神がこの宮殿のすばらしさとあなた方の幸せなくらしを見られて腹を立てているのだ。もし、神の腹立ちを治めたければ百頭の羊とともに、姫を生けにえに差し出さなければならないと。しかし、そんなことを信じなかった王様は、百頭の羊はともかく、目に入れても痛くないほどかわいがっているひとり娘を生けにえにしろという男に腹を立て、すぐに男を宮殿から追いだしたのだそうです。でも、そのすぐ後で王妃は苦しみ続けた末に死んでしまったのです。それから後、不吉なことがいくつも重なったとき、王様はその男が最後に言った言葉を思い出して青くなったのです。男は追い出されるとき、皮肉な笑いを浮かべて、こう言ったのです。『素直に渡せばいいものを。無理にでも姫は連れていく。その後でこの宮殿も消してみせる』 王様はその時になって、男が悪魔の仮の姿だったことに気がついたのです。悪魔でさえも自分のものにしたくなるほどの、それは美しいお姫様だったそうです。その後、悪魔が言い残した通り、姫はある日突然姿を消してしまい、宮殿もなにもかもなくなってしまったということです。しかし、宮殿の中庭にあったという、この水汲み場だけがそのまま残されたと言うことです。どこにでもありそうな伝説ですが、ここの人たちはその言い伝えを信じています」
「ほんとうのことじゃ。恐ろしい悪魔がよそ者の姿で現れるのじゃ」
驚いて、声のする方に振り返った。いつの間に現れたのか、薄汚れた白い衣をまとった老婆が少し後ろで杖をついてこちらを見据えている。
「よそ者が来るといつも不吉なことが起こるわい。不吉なことが起こる前に出て行きなされ」
老婆は焦点の定まらない目をこちらに向けたまま立っている。ああ、あの時の老婆だと思う。昨日、ちょうど村の入り口にさしかかろうとした時にすれ違った。
「よそ者がいると必ず不吉なことが起こる。はよう出て行きなされ。はよう出て行きなされ」
老婆は何度も呪文のように繰り返す。
「行きましょう」
女は先に立って、村の反対の方向に歩き始めた。広場の端まで来て振り返ってみると、老婆は追い払おうとするかのように見据えている。その老婆の姿に嫌な予感がする。その場から逃れるように女の後に従った。
暑さが益々激しくなってきていた。どの家の形も少しずつ違いはあるものの、さして大きな変化は見られない。道は細く入りくんでいるため、迷路の感があった。女は黙って、先に立って歩いて行った。
喉が渇いてくる。何度も肩にかけた革袋から冷たい水を飲む。
「もう少し先に涼しい場所があります。そこで、しばらく休みましょう」
女も暑そうだったが、歩き始めて一度も水を飲もうとしないことを不思議に思う。おそらく、女もからからに喉を渇かしているはずだ。そう思いながら、また立ち止まって水を飲む。
「あまり水を飲むと疲れますよ。できるだけ飲むのを少なくして下さい」
女が少し先から、振り返ってそう言った。ひと口飲んだだけで、革袋に栓をした。からだがだるくなってきた。どこか、涼しい場所で横たわりたかった。女の歩き方にも軽やかさがなくなっていた。道は少し先で大きく右に曲がっている。
「もうすぐそこです」
女は側まで行くと、また歩きだした。道なりに右に曲がっていったところで、人影を目にしたが、近づくとすぐに家の中に姿を消した。別に気にはならなかった。それよりも、道の先の大きな古めかしい建物が目を引いた。足を速めて、女の後についていく。
建物の近くで見ると、思った以上に大きかった。これまで通ってきた村の家々に比べると、不釣り合いなほどに古めかしかった。女はそのまま扉を押して中に入って行こうとして、振り返った。促されるように後に従う。
一歩、建物の中に入ると、外の暑さがうそのように涼しく感じられる。中は暗くて何も見えない。
「この中に入るたびに、いつもほっとします」
「これは」
「ずっと以前、礼拝堂として使われていたそうなのですが、今は誰も中に入ろうとしません。さきほどお話しした悪魔がこの建物の中にお姫様をつれこんだまま姿を消したというのです。だから、誰も近づこうとしません。よくここへ来て、ひとりで静かに座っていると、気分が落ち着いてきます。悪魔などどこにもいません」
暗い礼拝堂の中に響く女の声は鈴のような響きを持っていた。女の顔を見ようとしたが、暗さに慣れない目には表情はほとんどわからなかった。それでも、色とりどりのステンドグラスから漏れる光によって、内部の様子はだいたいうかがうことができた。礼拝のための長椅子が真ん中の通路を隔て、狭い間隔で何列にも並べられ、通路の奥には祭壇が設けられている。取り立てて特徴のない礼拝堂だった。奥に進んで長椅子のひとつに腰を掛けた。女もそれに従うように、通路を隔てた隣の椅子に腰を降ろした。しばらく礼拝堂の中は静けさだけになった。ふと気がつくと、女は手を顔の前で組み、頭を垂れて祈りの姿勢をとっているのだった。やっと暗さに慣れた目には、それは浮き出たように美しく、中世の宗教画に描かれた女性の姿を想いおこさせた。長い間、女の姿に見入られたように眺めていた。
「私、こうしているとなんだか遠い宇宙の果てに来たような気がします」
女は向き直ってぽつりとそう呟いた。女の目には薄暗い中でみているせいか、あるいはそのように想像したためか、遠い宇宙の果てを見つめているような青く透き通った眼差しがあった。天上への憧れ。ふいに男の中にそんな言葉が浮かび上がった。ともにこの世界に墜落した女。いや、そんなことはもういい。もし、この村で新しい生活が始まるなら、過去のことなどに意味はない。本当に新しい生活が始まるのかもしれない。
「そろそろ戻りましょうか」
女はそう言って立ち上がった。
礼拝堂の外は暗さになれてしまった目には真っ白な世界だった。男は一瞬目を閉じてしまう。そして今度はゆっくりと、白い光に目を慣らしてゆくように薄く目を開らける。
「ばちあたりめ。ばちあたりめ」
すぐ側で呪文のような声が響く。驚いてその方向に目をやる。さきほどの老婆が横でぶつぶつと呟いている。
「はよう出て行きなされ。はよう出て行きなされ。よそ者が来ればいつも不吉なことが起こるのじゃ。はよう出て行きなされ」
老婆はまた同じ言葉を呪文のように繰り返す。
「かまわずに行きましょう」
女の言葉に救われたようにその場を離れた。
女の家に戻ってベッドに横になっていた。薄暗い部屋の中で横たわっていても暑かった。女は部屋の奥でなにか仕事をしているようだった。先ほどの老婆の言葉を思い出す。なにか不吉なものがうごめき始める。ベッドに横たわったままでぼんやりと天井を眺めている。眠くはなかった。老婆の言った言葉を打ち消せば打ち消すほど、呪文のような言葉が息づいて来る。そんなことはないともう一度心の中で打ち消した途端、体が下の方からぐらぐらと揺れた。それと同時に大きな音が耳に入ってきた。地震だと思う。そう思ったとき、また今よりもさらに大きくからだが揺らいだ。ベッドが厭な音をたてた。しかし、揺らぎはすぐにおさまった。
「ああ、驚きました」
奥の部屋から女が出て来た。女の顔が少し青みがかって見えた。
「大丈夫ですか。大きな地震だ」
「ええ、驚きました」
「時々こんな地震が起こるのですか」
「いいえ、初めてです。でも、もうおさまったようですね」
「今、ちょうどあの老婆の言ったことを思い出していたところです。よそ者が来るといつも不吉なことが起こると言っていた」
「あんなこと、気にしないほうがいいですわ。私、少し外を見て来ます」
「それじゃあ僕も」
ベッドから離れて女の後に従った。何人かの人が道に出てかたまって話していた。近づいて行くと、それに気づいた人たちは黙って家の中へ消えてしまった。さらに進んで行ったところでも、また何人かの人たちがかたまって話をしていた。その人たちは家の中へ消えることはしなかったが、そのかわり、彼らを避けるように道の端にかたまったまま、黙って彼らが通り過ぎるのを不安な目付きで眺めていた。進んで行く道の両わきの家のいくつかが壁に大きなひびを走らせていた。朝歩いた道を女はたどって行くようだった。ちょうど村の中央の水場の見えるあたりに来たとき、思わず声を出してしまった。水場の周りには何人かの人たちがいて、その中央の、朝見たばかりのいくつかの四角い石を組んで造られていた石柱が跡形もなく崩れてしまっているのだった。
近寄って行くと、その周りにいた人たちは避けるように反対の方向にかたまって、なにかひそひそと話し始めた。それを無視するように水場の前に立った。それはほとんどただ石を積み上げただけのものだったから、少し揺れただけで崩れるのは当たり前だと思う。
「はよう出ていきなされ。これ以上不吉なことが起こらぬうちに」
またあの老婆だった。
「悪魔じゃ。悪魔がまたよそ者の姿で現れたのじゃ。はよう出て行きなされ。これ以上不吉なことが起こらぬうちに」
呪文のように言葉を繰り返す。その言葉を後に聞きながらその場を立ち去った。人々は家の中に入ってしまったらしく、戻り道に人影はなかった。
再び女の家に戻って、またベッドの上に横になった。何度も老婆の言った言葉を頭の中で反すうしながら、そのうちに眠ってしまった。
しばらくして揺り動かされて目を覚ました。またなにか夢を見ていたようだったが、思い出せなかった。
「もうそろそろ、水浴に出かける時刻です」
まだぼんやりとした頭で、もう夕方になったのかと思う。そう言えば暑さが少し和らいだようにも思える。立ち上がると女は家の外へゆっくりと歩き始めた。
外はまだ昼間の暑さをそのまま残していた。女はもう見慣れてしまった村の道を足を速めて先へ歩いて行く。村の細い道を何度か曲がった先に泉が見えた。昨日と違い、薄い革でできた柔らかいサンダルをはいていたので歩きやすかった。それに、この気候に少し慣れたせいか歩いていてさほど苦しくはなかった。女は泉の側までまったく後を振り向かずに歩いて行った。
泉の周りには昨日ほど多くの人はいなかった。まだ時刻が早いのだろうと思う。女は水際近くに来て、一度振り返っただけでそのまま水の中に入って行った。女の顔にはなぜか明るさが消えているのに不吉なものを感じた。そう言えば、昨日ここへ来た時にはまわりに何人かの人がいたのに、今日は彼らを避けるように離れたところで水浴している。まだその時、時刻が早いために散らばっているのだろうと思っていた。だがその後でやって来た何人かも、近くが空いているにもかかわらず近寄ってこようとはしなかった。その時になってやっと、人々が彼らを避けていることに気がついた。なぜだろうと思う。そう思いながらゆっくりと泉の中央に歩いて行く。女は昨日と同じように腰のあたりまで水に漬かり、水をからだにかけて洗うふうな仕草を始めた。
「あの人たちは僕たちを避けようとしているようですね。どうしてです」
「さあ。わかりません」
女はそのまま黙り込んでしまった。それ以上聞くことはやめた。ひとつの答が不吉な予感を浮かび上がらせていた。だがそれ以上考えることをやめて女と同じように、水をからだにかけたり、からだをかがめたりして、からだ全体を水に馴染ませた。暑い中を歩いてきたからだには水の冷たさが心地良かった。しばらくその心地良さに身をまかせた。
水に浸した顔を手でぬぐうようにして西の空に目をやった時、ちょうど太陽が丘の右手に沈みかけていた。空は先ほどから少しずつ色合いを変えようとしていた。昨日と同じように視界の全てが色づき始めていた。荒涼とした風景が空の赤みを反射して赤く染まって行く。見ている間に太陽は益々その赤味を増しながら、地平線にさしかかって行こうとしていた。
「ああ、太陽が沈んで行きますわ」
女の声が耳元で美しく響き渡った。水の冷たさとその声の響きがからだの中で心地良く共鳴した。その心地良さを追うようにそのまましばらく太陽を見つめている。みつめている太陽が視界の中でゆらめき始める。太陽のゆらめきとともに染めぬかれたように赤くなった空と荒涼とした大地がゆらめいている。
ああ、あのひからびた大地がこんなにも美しく見える。そう思って見ていた大地の上に、また昨日のように雲が出始めていた。雲は太陽の光を反射してさまざまな色合いを浮かび上がらせていく。
その時だった。ひとりの男が少し離れたところから泉の中央に進みだした。男は手にしていた杖を高く掲げて、太陽の沈んで行く方向に向かってなにか大きな声を出し始めた。その声が何を言っているのかはまったくわからなかった。異様なものを見るようにその姿を見つめる。
「何を言っているのです」
「私にもわかりません」
厭な予感が広がっていく。人々はその男の声に合わせてひざまずき、声を合わせて祈るように太陽の方向を見つめている。声は次第に節を帯び、大地に響いてゆるやかに流れ始めた。
「いつも、あんなふうに」
「いえ、そんなことはありません」
女の顔が真剣な面差しに変わっていた。何か不吉なものを感じているのだろうか。
再び、太陽の方向を見つめた時、ちょうどそれは地平線の下に隠れようとしていた。空が急に濃厚な色彩を帯び始めた。太陽が沈んだ途端、目の前の光景が視野の中で異様な色彩を放ち始める。だだっ広い荒涼とした風景が、空の色合いを映し出し大きく揺らめいている。空は昨日とは違い、暗いかげりを含み込んで、あたかも地獄絵の炎の揺らめきのように燃え上がり、青や緑の浮き出た紅の輝きを映し出させていた。
「これが神の姿なのです。自然の最も美しい姿」
「いや違う。これは神などではない。もし、神であるとしたら、これは神の罠だ。悪意の罠だ。これこそ悪魔と言うにふさわしい悪意の罠だ。人間を永遠にこの荒涼とした大地につなぎとめようとする悪意の罠だ」
声が響き渡る。思ってもいなかった言葉が、大声となって口からほとばしり出た。いつの間にか、先ほどの男の声は消えてしまっていた。
ベッドに横になっていた。傍らに女が横たわっている。酔いが頭をぼんやりさせていた。
「私、少しずつ思い出しています。あなたとふたりで夢を追いかけていた。泉で、あなたがこれは神の罠だと言ったとき、不意に記憶が甦ったのです。鈴の岩屋を通って、夢館に向かおうとしていた。それから私たちはどこかに墜落していった。気がついたら私はこの村で生活をしていました。ここでの生活が私たちの夢だったのでしょうか」
「僕にもわからない。しかし、こんな荒涼とした大地の中に僕たちの夢があるとは思えない」
「では、夢は他の場所に」
「それも、わからない。僕にもともと夢などがあったのかどうかも」
「では、この世界は」
「夢館に向かっている途中で墜落した。もともと、夢など追いかけることが僕たちに許されていたのか」
女がベッドの中でからだを伸ばせた。女のからだが手に触れる。柔らかい感触が伝わってくる。女のからだを抱き寄せる。女は抵抗しようとしない。手に触れる胸のふくらみが懐かしさを呼び起こす。交わることがごく自然なことのように女は素直に従った。女の息づかいが荒くなる。女がくぐもった声を出した途端、背筋を快感が通り抜ける。長い間、そんな快感を忘れていた。
外で何か物音がした。女は慌てて白い衣を身につける。
「なんでしょう」
音に耳を澄ませる。それ以上の音はしなかった。
「ちょっと、外を見てきます」
ベッドに横たわったまま、今触れていた女のからだの感触を思い返す。
女はしばらく戻って来なかった。またしても、不吉な予感が浮かび上がる。しかし、眠気が再びおそってくる。いつの間にか眠り込んでいた。
女の足音にはっとして目を覚ます。
「起きて下さい。すぐにこの村から出なければ」
女は慌てて駆け寄ってきた。顔が緊張している。
「どうしたのです」
「大変です。すぐにこの村から出なければ」
「どういうことです」
「今、村の中央に大勢の人が集まっています。手に棒や石を持っていて、私たちを捕まえようとしています。悪魔を火あぶりにするんだと言って。すぐにこの村から逃げなければ」
「落ち着いて、もう少し詳しく話して下さい」
「今、村の中央のあの水場のあったところまで行ってきました。こっそり木の陰から広場を覗いてみたら、みんな松明を持って、口々に悪魔だ、悪魔だと叫んでいるのです。最初、なんのことだかわからなかったのですが、それは私たちのことだったのです。あの伝説の悪魔が私たちだと言うのです。私は驚いて見ていたのですが、そのうち誰かが私たちを火あぶりにしようと言い出すと、それに合わせたようにみんなが、火あぶりだ、火あぶりだと言い始めたのです。私、もう恐くなってすぐに逃げて来ました。あの人たち、もうすぐここに来ます」
女は興奮して息を切らせていた。すぐに何をすべきかはわからなかったが、女は水と食料が入っているという布袋を手渡した。
入り口から外に出ようとしたとき、向こうから松明をかざした一群がゆっくりと近づいて来るのが見えた。慌てて、女の手をとって、それとは反対の方向に走りだした。
「悪魔が逃げるぞ」
「石を投げろ」
女の手を掴んで走った。幾つもの石が側に飛んできた。頭やからだに石が当たる。これは神の罠だ。これは神の罠だ。そう叫びながら、必死で走った。このさきに何があるのかわからないままに。