物憂う朝に、一杯の紅茶を
「おはようございます、お嬢様」
いつものように、その声から篠原美優は朝の訪れを知った。気怠く、ふらふらと醒めきらない意識の中で、上体を起こして、寝ぼけた目を細めながら、美優は声の元へとに視線を向けた。
初めに、美優の目は真白いエプロンと、装飾を控えた黒いエプロンドレスを映した。眠気に抗って瞼を持ち上げると、良く知っている侍女が側に立っていた。彼女以外には知らない、青みを帯びた菫色の瞳に、柔らかな微笑みを湛えている。美優は呆然と見蕩れていたのだが、彼女はその仕草を、普段のような寝起きの悪さだと取ったらしかった。
「良い天気ですし、せっかくの休日ですから。それとも、もう少し寝坊なさいますか」
美優はそれには応じずに、ただ、緩慢に首を振って、ぼんやりとした寝起きの頭で言葉を継いだ。
「……いつも綺麗ね、怜香」
「ありがとうございます、お嬢様」
彼女はいつもと変わらない笑みを纏ったまま、淑やかな、礼儀作法の見本になりそうなカーテシーで応えてみせた。思わぬ言葉に彼女が面食らえば面白かったのだけどと、思いながら、美優は座ったまま小さく頷いた。横柄な態度かもしれないが、いずれにせよベッドの上では様にならない。ましてや朝の目覚めから、完璧な振る舞いを見せる彼女の前では、なおさら虚勢を張っても仕方なかった。
「それでは、紅茶をお持ち致しますね」
「ええ、お願い……」
朝の紅茶を用意するのは、怜香の日課だった。準備のために部屋を辞する彼女の背中を見送ると、美優は手元の布団を引き寄せて、背中を枕とクッションに預けた。
普段なら、怜香と朝の紅茶を喫した後は、寝間着から制服へ着替えなくてはならなかった。とはいえ、休日まで制服を身につけるような必要はなかったし、かといって出かける予定もないのに、わざわざ着飾る趣味とも縁がなかった。
何かをする気にもなれないまま、美優は被った羽毛布団に半身を浸していた。身体に馴染んだ温もりが、目覚めたばかりの意識を僅かに遠のかせる。既に怜香の手でカーテンを開け放たれた寝室の窓からは、レースを通して緩められた朝日が差していたのだが、寝起きの目には眩しくとも、睡魔を美優の瞼から振り払うほどではない。
日差しを嫌って目を伏せてから、窓の外は肌寒いだろうかと、ぼんやり考える。無論、直に中夜を迎えるような季節が暖かいはずもないのだが、そんな当然のことも美優が意識しなかったのは、集中暖房の恩恵が屋敷の隅々まで行き届いていて、寝間着だけでも肌寒さを感じられないためだろうか。
再び眠ってしまうほどの睡魔はとうに失われていても、蕩けそうな温もりの心地よさが、美優を離さない。
「お嬢様……?」
しかし、陽光で満たされた明るさを嫌って、目を伏せていたのもあって、怜香には眠っていたように見えたのだろう。片手でティーセットを載せたトレイを持って、困ったような微笑とともに、美優へ問いかける。
「やはり、お疲れでしたか」
「いえ、いいの……。それより、喉、乾いた、な」
「承りました。では、ご用意致します」
美優は背中をクッションから起こして、怜香の給仕を眺める。ベッドサイドのテーブルに、手際良くポッドや茶器を並べていく様は、いつ見ても飽きるものではなかった。ポットからストレーナーを通じて、カップへと注がれた紅茶の水色が、磨かれた白磁に良く映える。表面から微かに、白い湯気が立ち上っていた。
「お嬢様。砂糖とミルクは、ご入用ですか」
「……砂糖、だけ。お願い」
寝起きにかかるお腹への負担を考えると、普段ならミルクも入れてもらうのだが、今日はそうしなかった。鮮やかな水色を、美優が惜しんだからだった。
一杯の紅茶に、ティースプーン一杯だけの砂糖。事前にカップが温められているのもあって、砂糖はすぐに熱い紅茶に溶け、消えていく。怜香はスプーンで水面を軽くかき混ぜてから、カップをソーサーに載せて美優の前に差し出した。
「どうぞ召し上がりください、お嬢様。熱いですから、気をつけて」
「うん。ありがとう……」
美優がソーサーごと手元に引き寄せると、怜香は支えるように手を添えた。持ち手を取ってカップを口元に寄せ、僅かに傾けて熱く透明な液体を口にすると、美優が親しんだ茶葉の匂いが鼻腔に流れ込む。
「怜香も、座って」
「ええ。では、少し失礼を」
普段のように忙しない朝なら、こうしてゆっくりと過ごすことはできなかっただろう。美優もそうだが、怜香はそれ以上に多忙そうだった。最近は休日でもないと、一緒に朝の紅茶を飲むことさえ、ままならない。両手でソーサーとカップを支えながら、美優は椅子代わりにベッドの縁へ腰掛けた怜香の横顔を見つめた。
洗練された振る舞いは、恐らくリラックスしているとしても、整った姿勢を見せている。いつも柔和な微笑を纏う彼女は、しかし、今は何かを憂うように長い睫毛を伏せていた。少なくとも、美優にはそんなふうに感じられた。
「……れい、か?」
「お嬢様……?」
思わず、美優が名前を呼んでしまうと、振り返った怜香は虚を突かれたようだった。しかし、互いに顔を合わせた時には、既に彼女の目から陰りは消えていて、いつものように微笑んでいた。
「どうなさいましたか」
「……なんでも、ない」
その笑みを前に、美優は訳もなく不安になってしまったとは、言い出せなかった。ありきたりな話題すら思い浮かばずに、美優は気まずい沈黙を選んでしまう。怜香はそれを茶化すようなことはせず、困ったように目尻を下げる。
しばらく、そうして沈黙が続いたのだが、不意に怜香がカップをテーブルに戻した。物思いのせいか、美優のカップに注がれた紅茶は、まだ半分ほどしか減っていない。
「お嬢様。こちらはまた後で、淹れ直しましょう」
すると、怜香はソーサーごと美優のカップを取って、テーブルに戻してしまった。いつになく強引な仕草で、まだ冷めていないと抗議するまもなく、あっけにとられてしまった美優に、怜香は正面から向き直った。柔らかな微笑みこそ普段と変わらないままだったが、菫色の瞳には陰りが覗いていた。
「どうした、の……」
怜香は理由を語ることなく、代わりに美優の背中に腕を回す。反射的に口から飛び出した言葉が、つい数瞬の前に彼女から問いかけられた台詞であることを、美優には気づく余裕もなかった。
普段使うシャンプーの香りか、それとも衣服の洗濯に使う柔軟剤のためだろうか。布地を越えて暖かさが伝わるほどの距離では、彼女が纏う、不思議と甘く、心地よい匂いが美優の意識を散らす。ゆっくりと彼女の体重がかかってくると、美優はそれを受け止めようとはせず、身体が傾ぐままに任せた。
背中がシーツに触れると、怜香は美優の側に横たわった。緩く回された彼女の腕に抱かれると、美優はふと幼少の頃を思い出して、懐かしくも落ち着かない心持ちになる。幼稚園から帰った後、怜香は幼い美優に昼寝の時間を取っていたのだが、彼女と共に微睡んでいた記憶。
彼女には、私は当時と相変わらず幼いままなのだろうか。美優はどうしてもそう思ってしまい、それに呆然と仰向けになっているのも決まり悪く、怜香の方に身体を捩った。
するりと、怜香の手が背中を離れ、頬に触れる。改めて間近に見た怜香の表情は、いつかのように我儘な幼子を宥める微笑みではなく、先と同じく憂うような、心配と言っていいもののように感じられた。
「……お嬢様。少し、熱っぽいようです」
「大丈夫」
普段よりも熱があるように感じられるのも、妙に気怠いのも寝起きのせいだろうと、美優は思った。だから無理にでも身体を起こそうとしたのだが、背中に回されていた怜香の腕に意外にも強く遮られて、そうすることは叶わない。なけなしの気勢を削がれて、美優はなすすべなく枕に頭を乗せた。
「……あまり、無理をなさるものではありません」
「……れい、か」
「良い天気でしたから、起こしてしまいましたが。時には、少しくらい休みましょう」
それに、穏やかながら反論を許さない言葉に、美優は沈黙するしかなかった。僅かに空いていた隙間を埋めるように、美優は怜香の元に引き寄せられる。そのように言われてしまうと、身体の怠さにも引き摺られて、美優は瞼を降ろす。
時折、怜香の瀟洒を絵に描いたような振る舞いは、美優に詮のない疑問を抱かせる。美優の物心ついた頃から屋敷の一切を指配していた怜香のことは、当然ながらよく知っていた。それでも父がどこで彼女と知己を得たのか、家中と娘の世話を委ねるほど彼女を信任する理由を、そして何より美優の世話を焼く理由は、とても美優の記憶と知識が及ぶところになかった。彼女があえて語ろうとしない過去を聞き出すほど、美優が無遠慮になれなかったのが、最大の理由ではあったけれど。
なぜ、彼女は私の側にいてくれるのだろう。忙しい日常の中で忘れかけていたものが、こうした瞬間にふと顔を覗かせるのだ。そんな考えが浮かんでしまうと、美優は恐ろしくて彼女の方を向くことができなかった。背中に回した腕が、無意識に強ばってしまう。
「……ねえ、怜香」
「お嬢様……?」
不思議に思ったのか、それとも困惑したのか。どちらとも判別がつかなかったが、どちらにせよ、美優が願うことは変わらなかった。
「私で、いいのなら。もう少しだけ、側にいて……」
「……もちろん、美優」
何が解決するわけではないにせよ、美優はただ縋りたかった。いつか、彼女と共にいる日常が途切れてしまうとしても、そのような憂鬱な思考を覆い隠してくれる瞬間まで。偽りなく、美優が願うのはそれだけだった。
怜香は美優にもう少しだけ、続きを話そうかと思ったのだけども、その言葉は些か気障すぎるように感じられた。
だから、次の言葉は、美優には届かないほど微かに声を落とした。
「あなただから、ですよ……」
読了お疲れ様でした。以前のpixiv百合文芸に出したかったものの供養だったりします。
作中の季節が冬なのはその名残でした。冬のお布団には誰も勝てない。