【轍輪道(てつりんどう)、再び。】
虚実入り交じりですが、お送りいたします。
その着信に気が付いたのは、休憩もろくに取れない狂気じみた来店ラッシュが終わり、やっとの思いで厨房から逃げ出して、表通りから死角になっている非常階段の踊り場でニコチン摂取に勤しんでいた時だった。
「……主任~ッ!! 三組ご来店だから、早く戻らないと瀧君一人じゃ厨房廻せないですって!!」
「……わーってるよ……これ吸ったら直ぐに行くから……」
給仕服姿の希恵が扉を開け、即座に煙の匂いに嫌そうな顔をしながら、溜まったオーダーの束を振り回して絶望的な表情で訴える。
俺は火を点けたばかりの煙草を護るように背を向けながら、彼女が突き出す束を掴み取り、パラパラと捲りながらオーダーを把握してから、
「……でもよ、こっちはフィンにフライパンだけ任せてソースは朱美ちゃんにやって貰って、阿久津に一人でホールやらせれば……希恵ちゃんフリーだろ?」
「……うええぇ……鬼シフトっす!! パワハラで訴えちゃるぅ!!」
誰もが認める【やれば出来る娘】の希恵に無茶振りすると、理解力が高い彼女は嫌々ながらも提案したポジションを察し、愛らしいお団子髪を揺らしながら憎まれ口を叩きつつ扉を開け、
「……でも、これで上手くいったら……今度こそ約束の『食べ放題』コース確定ですからね!!」
「あー、判った判った……ミート角の松コースだろ? その代わり、彼氏同伴は無しだかんな?」
「うっわ!! そんなんナチュラルセクハラ確定じゃないですか!! ……奥さんにチクりますよ?」
「……焼き肉と、我が家のメルトダウン……どっちがいい?」
「……焼き肉っす!!」
ビシッ! と音が出そうな敬礼をしながら、希恵はニッコリと肉目当てな愛想笑いをしつつ、扉の向こうへと消えていった。騒々しい彼女は居なくなったが、柔軟剤か何かの淡い香りだけは残っていて、それの正体を思い出そうとしながらスマホを探ると、通話アプリに着信マークが点灯していた。
「……着信は……つい、さっきか……ん?」
俺はスマホのロックを解除してからアドレスを確認し、相手が高校の同級生の木島だと判ら……独り言を飲み込んだ。
俺達は、もう……親父だ。
スマホでゲームをすれば反射神経の衰えで若い連中に遅れを取り、衰えを実感する年頃だが……まさか、誰か……倒れたか?
今すぐ連絡したくなる気持ちは有るが、今は仕事だ。友人の危篤位じゃ早退出来ない職場環境を恨みつつ、違っていてくれと祈りつつスマホを閉じた。
「……おかえりぃ……パパやん、どーした?」
「ん? ……いや、別に……」
娘が中学のジャージを羽織ったまま、スマホの画面に注視しながら背中を向けたままで聞いて来る。俺は曖昧に返答しつつ、着ていたシャツと持ち帰ったユニフォームを洗濯カゴに放り込んだ。
嫁の佳世は毎回、「肉の臭いが家に籠るから洗濯物は別けて洗ってね!」と苦々しく言うが、そんなのは些細な事だ。
「……寝る時は電気消して、歯磨きしとけよ?」
「ほーい……ねぇ、パパやん、もう寝なきゃダメ?」
「……ダメじゃねぇけど、早く寝ろよ……」
俺はそれだけ言うと、台所に立つ佳世が小さな乳酸飲料を手に持ち、ゴクゴクとラッパ飲みする背中を横目にスマホを取り出した。
玄関の扉を開けて外に出ると、出てきたばかりの扉の向こう側から気配が伝わり、苛つきを隠さない佳世の声が聞こえてくる。
「……タバコなんでしょ? ……止めてよね、ホント……ここマンションなんだから、近所迷惑だし、いい加減に……ねぇ、聞いてるっ!?」
聞こえてるさ。だから返事しないんだろ? 付き合い長いんだから判ってくれよ……その位は。そう身勝手に思いながらスマホのアドレス帳から木島を選び出し、通話ボタンを押した。
……暫しの沈黙、指先に挟んだショッポが、ジジ……と音を立てて光り、音が煙に変わって立ち昇っていく。そうして揺蕩う紫煙を幾度か見送った後、やっと木島が出た。
【……あ、吉野か? 悪い。忙しかったろ?】
あの頃と全く変わらぬ朴訥な喋り方。木島も俺も思い起こせば変わってない。変わったのはお互い、身を置く環境だけ。
「あー、まぁな。自粛だ何だ言っても、結局は他人事だよ。食いたくなったら食うだろうし、常連の年寄りは自分だけ旨いもん食うのに抵抗があるからさ。それだから一族郎党引き連れて、みんなで仲良く感染するつもりなんだろーさ」
【……酷ぇ言い草だな。仮にもお客様だろ?】
「知らねぇよ。金を払うまでは食い逃げ犯もお客様も、みーんな同じだよ」
接客業に従事する人間とは思えない暴言だが、本音で話せるのは家族と気を許せる古い付き合いの奴らだけだな、結局。
【はは、相変わらずお前らしいな。で、実はな……】
木島はそう切り出しながら、俺の反応を確かめるように、静かに語り始めた。そして、案の定と言うか……誰かの危篤等とは程遠い話だった。
【……バイク、直したんだ。ヤマハのSDR。知ってるだろ?】
「……知ってるか、だって? なぁ、誰に向かって言ってるんだよ……お前のせいで、俺の人生はヤマハヤマハヤマハ……ヤマハ以外、バイクなんか乗った事無いってのによ……単気筒の2スト(※①)だろ?」
(※①→内燃機関に於ける呼称の一つ。大多数を占める4ストとディーゼル以外はマツダが生産していたロータリーエンジン、そしてバイクが主流の2ストロークエンジンの四種類だったがロータリーと2ストエンジンは絶滅した)
一台目のバイクがたまたまヤマハだったせいで、奴に勧められた二台目のバイクもやはり……ヤマハだった。タンクからシートカウルに繋がる繊細流麗で女性的な見た目に反し、玄人好みのエンジン特性と切れ味鋭いハンドリング……そう、一度感染すると、完治出来ない中毒性の高い『ヤマハ・ウイルス』……奴の愛車のSRX600も、俺の元愛車のRZ250Rも、ヤマハなのだ。
【それな……で、乗らなくなってタンクも腐っててさ……塗装剥がして内側コーティングして、それからさ……】
朴訥な語りは鳴りを潜め、苦労を重ねながら完調を取り戻した愛車で走り出す話にのめり込む木島。ああ、変わらないな。変わったのは、お互いの環境だけ……俺も、奴も。
奴とは高校一年から、今の今まで付き合い続けてきた。十代最後の北海道ツーリングも、社会人になってからの峠道ツーリングも、何だかんだ言いながら互いに時間を工面しては、昼夜問わず出掛けたもんだ。箱根ターンパイク、奥多摩周遊道路、名も無い林道に首都高……懐かしいな。
俺と奴は互いに独身、好きなのはバイク、特にヤマハ……いや、完全にヤマハオンリー……気持ち悪ぃな、良く考えたら……。まぁ、それはともかく、そんな付き合いを続けていた若かりし頃のある日、唐突に変化は訪れた。
当時、まだ独り暮らしもせず、実家で臑齧りしてうだうだしていた二十代の初め、俺の前に現れた木島はいきなり、こう切り出したのだ。
「……愛美と、付き合ってる。結婚前提でさ……」
高校の同級生と、いつの間にか婚約していたのだ。勿論、俺もクラスメートだから彼女とも知らぬ間柄ではない。俺は祝福してやったが、何故か俺だけ置いてけぼりにされたような……除け者にされた寂しさを感じた。
一年後、奴は入籍し、暫くして実家から然程離れていない場所に家を借りて新婚生活を始めた。俺は実家から出て、独り暮らしする為に都市部に単身、引っ越した。
それから二十五年……ああ、二十五年も過ぎてしまったのか……その後、遅れながらも俺も付き合っていた年上の女性と結婚し、偶然だがお互い同じ年に娘を授かった。俺の娘も奴の娘も、今年の春に高校生になったばかり。そしてお互いに違う仕事ながら、責任有る立場を任され、社会的にはいっぱしの大人なんだが……
【……で、相談なんだが、お前のバイク、まだ店に預けたままなんだろ?】
そう、俺のバイクは故障したままバイク屋に預けっぱなしだ。いつか直すと繰り返しながら、律儀に税金だけ支払う俺を「無駄な金を捨てて楽しい?」と妻は謗るが、精神安定の必要経費なんだよと毎年繰り返してきた。だが……なかなか修理費用が工面出来なくて先伸ばしにし続けてきた。
「ん、そうだぜ? でも……直ぐには動かないだろうな、きっと」
【……なら、俺が引き揚げて直すか?】
唐突に切り出され、俺は一瞬何を言っているのか判らなかったが、暫し反芻した後、
「いいのか? たぶんエンジン焼き付いてるぜ?」
【えっ!? ……マジか? まあ、いいさ。で、俺が塗った塗装は無事なのか?】
奴の職業は車の板金屋。十八年前に俺の結婚祝いだと言いながら全塗装した外装は、最後に乗ったその日まで、全く色褪せず、美しい光沢を放っていた。生産されていたラインナップには存在しない、黒と黄色のインターヤマハ・USカラー。黒は目を凝らして見ると、紫に近い微妙な色の違いが判るような、拘りに満ち溢れた世界に一台だけのオリジナルカラー。
「綺麗だったよ、最後に乗ったのは今の仕事の頃だから……六年は過ぎたか……焼き付いて動かなくなっただけで、転んじゃいないし」
【じゃあ、近いうちにバイク屋に連絡して、移動させとく。何時になるかは判らないが、直ったら……そのうちまた……走りに行こうぜ?】
奴はそう言うと、結果はメールに写真を付けて送っておくから、と付け加えて電話を切った。
仕上がったばかりのバイク。そのハンドルの付け根のキーシリンダーに鍵を差し込み、グイと捻りながら左手のクラッチレバーを握り締める。キーシリンダー周りから年代を表す排気デバイスのモーター駆動音が鳴る。それを合図に右足をクランクペダルに載せて、キャブレター脇のチョークレバー(ノーマル車はハンドルに付いている)を引いてから、一気に踏み降ろす。
……ボロン!! ボンボンボンボン……
今や貴重な2ストの排気音。レース用のチャンバーに街乗り用のサイレンサーの組み合わせだが、腹に響く低音の効いたそれは、甲高いだけの軽い排気量とは全てが違う。その音は大気を震わせる独特の振動を伴い、薄い鉄板を複雑に溶接して組み合わされたチャンバー内を反響させながら、サイレンサー内で紳士的に緩和されて放出される。まぁ、今だけは……だが。
やや高低バラつきながらアイドリングしていたエンジンはチョークを戻すと次第に落ち着き、八百回転で安定する。その間に全く同じ色とデザインのジェットヘルメットを被り、顎紐を締める。
……少しだけ、腹周りがキツくなった革ジャンのジッパーを上げ、革手袋を嵌めてからハンドルに手を添えた。
判っているんだが……そう、近所迷惑だとは判っているんだが……右手のアクセルをグイと捻り、キャブレターに必要以上の混合気を流入させて、一気に回転数を上げる。
……ブアン!! ババババババババ……パン!!
……残念ながら、我がバイクは重いだけの旧車じゃない。アイドリング中ですら、アクセルを開ければレーサー並みの急速な立ち上がりを放ち、先程までの紳士的なイメージは完全に消し去ってしまうのだ……排気音も、常識も。
片足で左下のスタンドを払い、バイクを直立させてクラッチを切る。ニュートラルポジションから一速にギアを落とし、左手のクラッチを繋ぎながら右手のアクセルを開け、バイクを発進させる。
もう、初夏か。風の中に揺らめくような熱が漂い、気のせいか草木の青い香りがするように感じられる。
バイクはゆっくり走れば、様々な情報が身体を包み込み、大気は穏やかにライダーを愛撫する。全身を撫でて擦り抜ける風の流れはアスファルトからの熱波を緩和し、優しさに満ちている。
信号待ちで停まった俺は、現代的なカウルに包み込まれた同じ排気量のバイクと並んだ。今風の4スト、同じ二気筒……そう、メーカーすら同じなのに……調教され尽くした、牙の無い穏やかな印象。乗っているライダーのイメージすら、勝手にそう思い込んでしまいそうだ。
でも……悪いが、ライダーってのは……いや、昔の【ヤマハ乗り】って奴は、そんなおままごとみたいな乗り物じゃあ、何も感じられないんだ。
信号が変わる直前、左手のクラッチを握り締めながら上半身をタンクに被せ、右手はやや上から被せるようにアクセルを握り、フル加速に備える。
青になった瞬間、左手と右手は同時に動き、一気に景色が蹴り飛ばされる。脳を置き去りにするような破滅的な加速が襲い掛かり、全体重を掛けた筈のフロントタイヤは軽々と持ち上がる。更に車体は四十五度の角度を維持しながら、全てを投げ飛ばすような勢いで白煙と爆音を撒き散らす!!
……ああ、これじゃなきゃ、ダメなんだよ。
唖然とする脇のライダーを置き去りにし、二速へと素早くギアを上げるが、全く変わらぬ加速のままフロントタイヤを浮かせたまま次の信号に着いてしまう。
青に変わったばかりのタイミング。まだ動き出さないトレーラーの間を少しだけアクセルを緩めてタイヤを落としてすり抜け、その先で既に走り出していた車の狭間目掛けて再加速。
……パアアアアアアアァーーッ!!
……そう、2ストカスタム車だけの強烈な排気音が、有り得ない程の広い範囲に木霊して響き渡り、同時にバックミラーは青白い排煙で見透せなくなる。本当に済まないとは思うが……これが、2スト車なんだ。許してくれ。
でも……贖罪の気持ちなんて、一瞬で掻き消されちまう。三速に入れた筈のバイクは全く変わらぬ勢いで、やはりフロントタイヤを持ち上げながら常識的な速度を脱し、走る車の間を幽霊のようにすり抜けて行った。
もしも、君がバイクに乗りたいなどと思うなら、ヤマハの旧車にだけは乗らない方が良い。今のご時世、パーツも少なく修理するのも難しく、多くの苦労しか存在しない。
だが、それでも良いと言うのなら……
【ようこそ、向こう側から、こちら側へ】
温かく出迎えよう、一人のライダーとして。
実名を避ける為にエッセイジャンルは避けました。虚構の狭間に見え隠れするおっさんライダーのイメージを感じて貰えれば幸いです。