謎の体調不良
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三日連続の光景だった……
初日はワインをぶち撒かれ、昨晩は流れであんなことになってしまい、今日こそはと普通を装い 仕事という体でやって来た。
今日は合鍵は使わない。というか、今後だってあまり頻発して使っていい代物ではない気がする。
吉岡は朱美の自宅のインターフォンを鳴らすと、僅かな待ち時間の間に身なりを整えた。
「吉岡さん? どうぞお待ちしてました 」
「ああ、お久し振りです。お邪魔します 」
吉岡を出迎えてくれたのは、朱美のアシスタントのマリメロンだった。同人誌の世界では成人向けの神BLを爆弾させまくっている第一人者のような存在で、その世界では名を知らない者はない逸材だ。同人一本でも十分やっていけそうだし、逆に商業デビューの声を掛けたこともあるが、彼女は何故か朱美のアシスタントとしての仕事も大事にしていた。
「あの、原稿の進行具合はどうですか? 」
「うーん、どうなんですかねー 私と伊藤ちゃんはバッチリなんですけど、先生が調子良くないみたいで 」
「……そうですか 」
「ずっと お腹を押さえてるし、全身筋肉痛らしくて。声もガラガラなんですけど、熱はないみたいなんですよね 」
「はあ 」
「風邪の初期症状ってやつなんですかね 」
「うーん、季節の変わり目ですからね 」
吉岡はマリメロンの嘆きにすっとぼけた回答をすると、何事もなかったかのようにスリッパに履き替えた。
でも心の中では、こう思っていた。
申し訳ない…… マリメロンさん。
朱美さんのそれは、風邪なんかじゃないんですよね。
そういうことの才能に溢れたマリメロンに 朱美の体調不良の理由がバレていないことには、吉岡は内心安堵していたが、油断は出来ないような気がしていた。
作家というのは、周りの機微に大変聡い。
朱美だって自分のことには驚くくらい鈍感だが、他人のことはその本人以上に動向がよくわかっている。別に彼女たちに自分達の進展した関係がバレたからといって敵に回ることはないだろうけど、二人の方が朱美との付き合いが長いことを考えると、気を使わせる状況は避けたいところだった。
吉岡が作業部屋へと入ると、朱美とアシスタントの伊藤ちゃんが前のめりになって机に向かっていた。
伊藤ちゃんは至っていつも通りで静かに背景にペン入れをしていたが、朱美はタートルネックで顔の半分近くを覆いつつ、左手でお腹を押さえながらペンを走らせている。身体は微妙に斜めに傾いていて、その姿はいつも以上にいつも通りの朱美の執筆スタイルにも見えた。
「神宮寺先生、どうですか? 」
「よし……おか……? 」
朱美は吉岡の声を聞くなり顔を真っ赤にすると、すぐさま近くにあったタオルで顔を覆った。昨晩 夜通しあんなことやこんなことになってしまったにも関わらず、吉岡が平然としていることに朱美は理解が追い付かなかった。
「なんで、来たの? 」
前情報というか朝もそうだったから知っているのだけれど、朱美の声はやっぱり掠れていた。
「そう言われても。大丈夫かどうか、一応確認に 」
「大丈夫かどうかと聞かれたら、大丈夫じゃない。大丈夫な訳ないでしょ、具合悪いもん。だけど、一応ちゃんと描いてる。締め切りは待ってくれないし 」
「そうですか。それなら安心です。じゃあ僕は今日はこれで。マリメロンさん、伊藤さん、神宮寺先生のこと宜しくお願いしますね 」
「「はあ…… 」」
伊藤ちゃんとマリメロンは いつもならあり得ないような吉岡のあっさりした物言いに、思わず目を点にする。その反応は朱美も右に習えだった。
「なっ、ちょっ、マジで帰るの? 」
「ええ、何とかなってるの確認できましたし、僕がこれ以上ここにいても出来ることはないですから。では失礼しますね 」
「ちょっ、吉岡っっ 」
「見送りは大丈夫ですよ? 」
「鍵を閉めないといけないから、どちらにせよ誰か見送らなきゃならないでしょ? 」
朱美はそう言うと、体を丸めながらゆっくりと席を立った。伊藤ちゃんは「私が代わりに」と手を出そうとしたが、マリメロンは何かを察したのかその腕を取ると、小さく首を振った。
「すみません、玄関まで来てもらっちゃって。あの、どうですか? 具合の方は? 」
「どうですか? じゃないでしょ。誰のせいだと思って…… 」
朱美はそう言いうと、勢いよくタートルネックを捲った。首筋には無数の充血跡が広がっていて、何とも痛々しい状態になっている。
「すみません、その、反省はしてます 」
「そうだよ、そうそう。大いに反省してもらわないと。私は殆ど初心者なんだから、もっとお手柔らかにしてもらわないと 」
「でも、後悔はしてません 」
「なっ、ちょっ。それ、どういう意味? 」
朱美は物凄い剣幕で、吉岡を睨み付けた。と言っても、立ったままのこの状態では朱美は完全に上目遣いになっていて、あまりその威力というのは感じられない。
「あの、どうしたらいいのかちょっと良くわからなかったんですけど、一応カイロを買ってきました 」
吉岡はそう言うと、鞄の中から使い捨てのカイロを二つ三つ取り出して朱美に渡した。
「吉岡、実はやっぱり慣れてるな? 」
「慣れて……? とは? 」
「なっ、なんでもないっッ! 」
朱美はプイッとした表情を見せると、壁に軽く手をついた。真っ直ぐ立っているのもしんどいくらい、事態は思った以上に深刻だった。
「朱美先生。今朝起きたら、腹が痛いって言ってたじゃないですか。対処として合ってるかわからないし効くかもわからないけど、一応自分なりに考えたつもりです 」
「何じゃそりゃ。でも、まあ、ありがとう 」
朱美は若干 不貞腐れながらカイロを受けとると、すぐさまその封を切った。そのくらいお腹にはずっと鈍痛が響いていて、それが治まる気配はまるでない。
というよりも、これから先もこんなのが続くのかと思うと、何だか途方に暮れてしまうような気がしてくる。こんなんじゃ歴代彼女は苦労の連続だっただろうと、同情すら湧いてきた。
「あの、朱美先生、なんか勘違いされてる気がするから一応確認ですけど 」
「何? 」
「俺、自分から女性に対して好きって言ったの初めてなんで 」
「はあ? 」
「何ですか? そのリアクションは? 」
「吉岡って、もしかして本当は●●なの? 」
朱美が素直に発した言葉を聞いた瞬間、吉岡は反射でゲンコツを落としていた。
この天然バカっッ、いきなり何を言い出すかと思えば……
つーか、発想が豊かすぎやしないか?
「ちょっ、いきなり何? フツーに痛いんだけどっッ 」
「先生、声がデカイですっッ! しかも違うっッ! 何でいきなりそんなに振り切れるんだよ! ったく、俺が今この場でそういう嘘を付いて、何かメリットがあるんですか? 」
「それは、わからないけど…… 」
「じゃあ、今日はもう俺は帰りますから 」
「なっ、ちょっ、それズルいっッ 」
吉岡はそう言うと、そそくさと靴を履き始めた。
そして明らかに不機嫌な顔をすると、仕返しとばかりに朱美の耳元に顔を近づけてこう囁いた。
「こっちもね、誰かさんがワインを派手にぶちまけてくれたせいで、一昨日から殆ど寝てないんだよ。痛いのはそのうち俺が時間かけてなんとかするから、昨日は すみませんでしたっッ 」
痛いのは、そのうち何とかする?
って、何だその変態発言はっッッ!?
「な゛ッッッ、ぢょっどぉ!バっカぁじゃないのっッ!? 」
朱美は吉岡の問題発言を脳内で処理して、直ぐに大音量の奇声で対抗を試みたが、吉岡も瞬時に反応してその口を押さえて無理矢理シャットアウトする。
そして向こうの部屋にいる二人のアシスタントの気配に変化がないことを確認すると、今度は普通に朱美にこう言ってのけた。
「朱美先生が面倒臭い感じになったら、ああすればシュンとすることわかったし、一回やってしまえば怖いことなんてありませんよ。じゃあ 」
「なっ 」
吉岡はそう言うと、朱美の反応を殆ど確認せずに玄関のドアを開けた。
一方の朱美はほぼ放心状態で、その場に腰が砕けたかのように沈み込んだ。
ちょっと、もはや、どうかしてないか?
吉岡は決して表面的には大したこと言ってはないが、意味を考えると相当酷いことをペラペラと発しているのではないだろうか。
「吉岡のバカバカバーカ!! 」
何なんだ、まったく……
完全に私のこと、お見通しじゃないか。
ムカつく。
凄くムカつく。
こっちこそ、今度は倍返しで受けて立つッ!
朱美はブリブリ怒りながら貰ったカイロを全力で振り始めたが、やはり暫くはその場でうずくまるしかなかった。