眠り姫、夜に目覚める
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この香りは…… 何だろう?
私は この香りを嗅いだことがある。
舐めたらきっと、甘くて瑞々しい。
けれど決してくどくはなくて、心地いい感覚が口の中いっぱいに広がるのだろう。
初めてこの匂いに触れたとき、私は何だか切ない気持ちになって胸の辺りがキュッとなったのを覚えている。日本で過ごす日常では決して出会うことがない特別な香り……
私にとってこの匂いはとても懐かしくて、大切な思い出の一部になっているのかもしれない。
窓の外を、バイクの大群が黒い煙を立ち込めながら掠めていく。遠くの方ではクラクションの音が鳴り響いていて、ヘッドライトが時折目に刺さる。目線の高さにあるエアコンの吹き出し口には玉蘭花がいくつもぶら下がっていて、それが揺れる度に仄かに蜜のような香りが鼻腔を刺激する。そして規則正しくガタンゴトンと揺れる車内は妙に心地が良い。
っていうか、ガタンゴトン……って、何だ?
ここは…… 車の中?
ならば私はいま一体どこにいるのだろうか。
「えっ……! なっッ!? 」
茜は声を上げならがら目を見開くと、そのまま前方に身を乗り出した。シートベルトに固定されて身体の自由が利かない。目の前には馴染みのない風景が広がっていて、強烈なネオンを放っている。
「目、覚めた? 」
「えっッ? 」
私はこの声色を知っている。
だけどその生声を聞くのは、容易なことではないはずだ。
茜は声のする方向を、恐る恐る振り向く。
林が運転をしていて自分が助手席に座っているのに気付くには、数秒の猶予が必要だった。
「ここどこ? っていうか、何でリンリンがいるの!? 」
「何でって…… あんた、いま台北にいるんだよ 」
「なっ、誘拐? 」
「ちがっッ、何でそうなるんだよっ? 」
林は声をあげながらチラリと茜を振り向くと、少しだけ顔をしかめた。林はいつもとは異なり、何故かベストにネクタイを締めてフォーマルな服装をしている。茜の胸元にはジャケットが掛かっているが、これは林の私物か何かだろうか。
「外、真っ暗…… 」
「こっちも十月だと太陽が落ちるのが早くなるからね。確かに二十四時間近く起きてたらさすがに寝落ちするよ。ほんと、到着ロビーまで耐えただけで偉かったって俺は思うけど 」
「……? 」
茜には林の言っている意味が、さっぱりわからなかった。飛行機に乗って、シートベルトをしたところまでは覚えている。だけどそれから体験したであろうハズのことが、何一つ思い出せない。ここまでキレイに記憶が飛んでいると、もはやどうやってここまで来たのか知りたくないような気さえしてくる。
「あの…… 」
「何? 」
「リンリン、何で……スーツを着てるの? 」
「御堂さんがどんな服装で来るかわからなかったから。テレビのままの服装でこっち来たら、俺もそれなりじゃないとおかしなことになるだろ 」
「えっ? 」
茜は驚いて思わずシートベルトを引っ張りながら、左側に身を乗り出す。だけど座席が少しリクライニングされていた反動もあってか、茜はまたシートに吸い込まれるように尻餅をついた。
「って、そんな急に起き上がるなって。目眩起こすから 」
「いや、だって…… OA…… 見てたの? 」
茜はジャケットで顔を覆いながら、林の様子を伺った。テレビに出るのが仕事なのだから 視聴者がいるのは当然のことなのに、海の向こうの住人にまで認知されてるとなると 流石に少し恥ずかしいものがある。
「別に全部見た訳じゃないけど…… SNSでトレンドに上がってたから、動画が上がってて目に入ったっつーか 」
「トレンド? ……私がっ? 」
「御堂さん、エゴサとかしないの? 」
林は意外といった表情を浮かべて、茜に問いかける。茜は思わず赤面しながら、林の問いを直ぐ様否定した。
「そんなのしないよ。する訳ないじゃん! OA終わってからバタバタしてたし、そもそも悪口と文句ばっかでしょ? 」
「悪口は目に入らなかったけど。視聴者の反応とか気にならないの? 」
「気になるよ。だから私、そういうの見ないって決めてるの。私は言葉の力を信じてるから、そういうの見るとネガティブな方向に引っ張られちゃう気がして。それにピンチヒッターで出演しただけだから、誰も私に注目なんてしてる訳ないし 」
茜はプイッと窓の外を向くと、少し拗ねたような反応を見せた。別に自分は必要とされてない存在だ。アナウンサー職だって、引くに引けなくなってしがみついているだけに過ぎない。僻んでいる自覚はあるのだが、ついつい言葉が否定的になってしまうあたり、自分でも大人げないと思ってしまう。
「そうかな。SNSの評判は良かったみたいだけど。お帰り!とか、温かいコメントが多かったよ 」
「そうなの? 」
「俺は御堂さんが、何かアナウンサーっぽいと思った。凄くしっかりしてたし 」
「どーせ 普段の私がだらしないから意外だったー、とかでしょ? 」
「いや、そんなこともない。確かに俺の御堂さんの印象は寝落ちしてばっかりなイメージだけど、どちらも君の本当の姿だろ 」
「本当の……姿……? 」
茜は今一度、運転席を振り返った。
林は相変わらず交通量の台北の街中を、スルスルと縫うように車を走らせている。
「リンリン、お気遣いありがとね。お世辞でも嬉しい 」
「…… 」
林は横目で茜を確認すると、また前方へと目線を戻す。お世辞なんかではないけど、と林は言おうとしたがその言葉はグッと飲み込むことにした。
「そういえば里岡さんたちは? 」
「ロケに行ってる。後でアフレコで話を繋げるってさ 」
「そっちのアテンドは大丈夫だったの? 」
「ああ。うちの若手が付いてるから、それは平気 」
林の淡々とした態度に、茜は少しだけ拍子抜けする。というか里岡のアテンドを林がして、自分のピックアップを若手に任せた方が効率がいいような気もするが、いろいろと都合もあるのだろう。
「そう。いろいろと迷惑かけてしまってごめんなさい 」
「別に、御堂さんのせいではないだろ? 里岡さんに聞いたよ。演者さんが食あたりだって? 大変だったね 」
「うん。でもところ構わず寝ちゃったのは、完全に私が悪いから 」
林は茜の反省の弁を聞くと、苦笑いしながらバックミラーをチラ見する。そして車線変更をすると、ゆっくりとこう続けた。
「君にとってここは外国だから、緊張感は持った方がいいかもね。まあ、俺は別に君が無事ならそれでいいけど 」
外国……という単語を聞いた一瞬、茜は林との間に深い溝が入ったような気持ちになった。
何でこんな些細な言葉に、胸がズキンとしたのかはよくわからない。だけど心の片隅には冷静に取り繕わなきゃと思う自分がいた。
「あはは。台湾で私になにかあったら、リンリンが一番迷惑を被るもんね。気を付けなきゃね 」
「迷惑とかじゃなくて心配するだろ、普通に 」
「……えっ? 」
「えっ? って、なんだよ? 」
「私のこと、心配してくれるの? 」
「そりゃそうだろ 」
「……何で? 」
「理由なんか聞いてどうすんだよ? 」
「それは…… 」
茜は無意識だった。
何でそんなことを聞いたのか、自分でもよくわからない。
その空気を察してか林は一瞬黙ったが、
「理由なんてないよ 」
と、一言呟くとウィンカーを出して左折レーンに進入した。
「あっ! 」
「なにっッ! 急にでかい声出して! 」
「あのさ、私って、ロケに合流しないでいいの? 」
茜がそう言いながら、また林を振り向き余所見をしたときだった。
「おい、お願いだからそんな急に動くなって 」
「あっっ 」
気がついたときには、目の前の風景が一変していた。
車は日本にいるときにはあまり馴染みのない遠心力で左側に傾き、茜の上半身は運転席の方に体が倒れていた。
「ほら、言わんこっちゃない 」
「ごめん 」
林に肩を押されながら茜は助手席に体を戻すと、ハアと一息ついた。
頭が廻らなくて、変なことを口走って、体が先に動いてしまうくらいには、どうやら自分は疲れているらしい。
「里岡さんから伝言で、今日は御堂さんはホテルでゆっくり休息を取るように、だとよ 」
「あっ、うん 」
申し訳はないが、今日は流石に休ませてもらうしかない。もう既に二十四時間以上稼働しているのに、茜の一日はまだ終わりそうにない。
茜は鞄の中からスマホを取り出すと日程表を確認した。
「え゛っ……? 」
「ん? どうかした? 」
「そもそも…… なんで、私こんな時間までリンリンと車に乗ってるの? もう九時を過ぎてるじゃん!? 」
茜はアワアワしながら車内の時計も確認する。
自分が混乱しているせいかと思ったが、やっぱり時刻は九時を示していた。
「……御堂さんが爆睡してて、ホテルにチェックイン出来なかったからね。で、仕方なくドライブしてた。寝てる人間連れてホテルにチェックインしたら警察が来てしまうだろうし 」
「えっーっッッ? 」
茜は予想外の林の説明に、言葉が詰まってしまう。
この対応は優し過ぎやしないか?
ただでさえ深夜から振り回しているのに、そこまでサービスばかりしていたら、この人は超過勤務でパンクしてしまわないか?
いや、というより…… もしかして……
茜の脳内には一瞬のうちにあらゆる可能性が駆け巡ったが、すぐに邪推を飲み込んだ。
今はそんなことよりも、まずは言うべきことがあったからだ。
「それは、その、ごめんなさい。ありがとう、気を使ってくれて 」
「別に謝らなくていい。俺もそっちの方が都合良かったんだよ 」
「……? 」
何がどう都合が良かったか 茜にはよくわからず 思わず首を傾げる。でも今後もここまで手厚く対応してもらう訳にはいかないので、茜もいろいろ伝えなくてはならなかった。
「あの、リンリン。気にしないで起こしてくれて良かったのに 」
「…… 」
林は茜の問いかけには答えずに、黙ったまま前を向いている。落ち着いて考えてみると、言葉も通じない異国の地でツアコンと二人で車に乗っている現在のこの状況は異常であるような気がしてきた。
「あのー 」
「……なに? 」
「私、その、どうやって車まで来たの? 」
「知ってどうすんの? 」
「それは…… 」
茜は一瞬食い下がりそうになったが、ここは引くわけにはいかない。起きてから混乱していたから気にもしてなかったけど、さすがに目が覚めてくれば状況は見えてくる。これはまた醜態を晒してしまったパターンのような気がしていた。
「……ったく、知らない方がいいと思うけどね。御堂さん、バゲージクレームで寝ちゃってたみたいなんだけど、それは覚えてる? 」
茜は恐る恐る首を横に振る。
「じゃあ、もう聞かないほうがいいと思う 」
「なっ…… えっ、それどういうことっ? 」
茜は林が運転中なにも関わらず、隣で大声を出す。そんな風に言われると、ますます気になるのが人間の性だ。茜の迫力に林もさすがにビックリしたのか一瞬耳を塞ぐような仕草を見せたが、ハアとため息をつくと少し面倒臭そうにこう返事をした。
「多分ね、聞いたら自分で自分のこと怖くなると思う。あと外国で油断しすぎ 」
「なっ…… それ、どういう意味っッ 」
茜は青ざめて、林に詰め寄る。
狭い車内で自然と距離は近くなるが、林は茜から無理矢理顔を背けた。
「御堂さん、あんた俺の友達に手を引っ張られて寝ながら到着ロビーから出てきたんだよ 」
「はあ? 」
「で、俺が保護した 」
「保護? 」
茜は信じられないといった風な口調で口を尖らせている。だけど事実は事実だ。
そして今のこのシチュエーションにいたっているとゆう点で全てが合致しているし、何より林が嘘をつくメリットも何処にもなかった。
「御堂さん、なかなか出てこなかったから、何かあったんじゃないかって俺は生きた心地しなかったよ 」
「それは…… 」
納得はしたくない。
それが事実なら、自分でも信じられないくらい自分は異国で浮遊していたことになる。
もはや夢遊病を疑うレベルの話ではないか。
そしてこの話は恐らく全て真実だ。
こうなったら謝り続ける他、手段はなさそうだった。
「すみませんでした。本当に迷惑かけて、ごめんなさい 」
「…… 」
林は黙って茜の謝罪を受けとる。林としては後々茜に厳重注意をするつもりだったが、どうやら自分は詰めが甘いらしい。茜にそんなに素直に謝られたら……もう強くは言えなかった。
林は次の信号で脇道に入り 元の大通りに戻ってUターンをすると、こう茜に声を掛けた。
「じゃあ、これからホテルまで送るから。前に泊まったところと同じだから、もうすぐ着くよ 」
「あっ、ありがとう。あの、リンリン? 」
「今度は、なに? 」
林はまた怒鳴られるのではないかと、少し身構えた。でも茜もだいぶ頭が冷えてきたのか、今度は普段のテンションでこう話を続けた。
「今日は一日いろいろ助けてくれて、その、ありがとう。お陰で何とかなったから 」
「こっちは仕事だから。そんなに気にしないでいい 」
「違っ、そっちじゃなくて、いやそっちもだけど 」
茜とはしては深夜の電話の励ましも含めて礼を言ったつもりだったが、どうやら林には伝わっていないらしい。茜は慌てて訂正を試みたが、その声を発する前にグッーっとお腹から鈍い音が響いた。
「あっ、ちょっッッ! 」
茜は顔を真っ赤にしながら、お腹を押さえる。しかし一度鳴り始めた音は止まらない。茜のアタフタした様子を見た林は、込み上げてくる笑いをムフフと堪えながらこう言った。
「御堂さんって、いつも腹を空かせてるよね? 」
「なっ、そんなことないっ!ない、けど…… 」
穴があったら入りたい……
茜はジャケットを頭から被ると、あーだのうーだの呻き声を上げた。エンジンやら色々な音で煩い車の中でこれだけ腹の虫が響くのだ。否定しようにも説得力がなさ過ぎた。ここまで緊張と睡魔でゾーンに入ってはいたが、お腹は空っぽの状態だった。
「で、いつから食ってないの? 」
「えっと、その、ロケでいっぱい食べると思って 」
「どうせ昨日からロクに食ってないんだろ? 」
「えっ、まあ、そんな感じ……かな…… 」
茜は言葉を濁したが、どうやら林にはお見通しのようだ。林は信号に掛かったタイミングでカーナビを操作すると、何やら検索をし始めた。
「御堂さんってさ、すぐ寝落ちして油断の塊なのに、根は真面目だよね 」
「えっ? 」
茜は林の言葉を聞いてら少し呆けた。
そして時間差で林はむふっと吹き出すと、そのまま笑い声を上げ始めた。
「何? 急に笑いだして 」
「ごめん、一日長かったんだろうなー、と思って。疲れただろ。大変だったな 」
「まー、それなりには 」
「夕飯、うどんとかでいい? 」
「うどん? 」
「24時間近く絶食して、久し振りの食事がコンビニってのもね。台湾料理は明日から食べまくるだろうから、微妙だろうし 」
「う、うん 」
「本場には敵わないだろうけど、日系のチェーン店だから 多分美味しいと思う 」
「ありがとう。台北でうどん食べられると思ってなかったから楽しみかも 」
「どういたしまして 」
夜勤から始まった長い長い一日の終わりが見えてきた。
緊張感のある二時間をやり過ごして、ワープをしたように台湾に来て、何故か当たり前のように隣にリンリンがいて、自分のことを自然に迎えてくれている。
会うのはまだ二回目、ここは遠い異国なはずなのに、林との距離感は妙に安心する。
もしこの感情に名前があるのならば、誰か私に教えてはくれないだろうか、と茜は思った。
このときの茜は、まだ何も予期していなかった。
近い将来、自分が仕事と恋を天秤に掛けなくてはならないこと。
台北の住民になる未来予想図。
そして何より……
自分が情熱的な恋に落ちる人間であるという、客観的な事実さえも。




