深夜三時の憂鬱
■■■
社会人には様々な働き方がある。
朱美のように漫画家として 個人事業主になって働く人もいるし、息吹のように 公務員として公のために従事する道もある。
桜や茜のように企業に所属して仕事をする道を選ぶのならば、会社に貢献するパフォーマンスをしなければ対価としての給与は横這いのままだ。
そう、会社員には年に数回、避けて通れない憂鬱な儀式がある。
それは人事査定。
無理矢理 自分をアピールして給料アップを目指す、面倒臭くて毎回毎回頭を悩ませなくてはならない謎の儀式である。
『まあ、私の場合は今期も戒告くらってるしなー 』
その日、茜は照明もろくに点いていないアナウンサールームで 一人パソコンと睨んでいた。アナウンス部長の迫田との面談はまだ何日か先の日程ではあったが、今後のスケジュールを考えると 評価シートへの記入は今日中に済ませておきたいところではある。
御堂茜、職業はアナウンサー
只今、絶賛当直中であった。
先月、共演者の未成年淫交疑惑という気持ちの悪い不祥事の煽りで、茜が帯で出演していた大切な深夜ラジオのレギュラーがなくなってしまった。現在はちょくちょくスポットニュースに出演したり、隔週で台湾に飛んでBSのグルメ番組を担当しているが、相変わらず夜勤は続いている。一応深夜に緊急ニュースや災害があった場合の要因として 待機はしているが、そんな特殊な状況になることは殆どないのだ。
もうすぐ中期の面談だから、自分の仕事を少しでもアピールしたい気持ちには溢れているのに、今の自分の担当番組は いまいちパンチが足りない。不倫スキャンダルに週刊誌泥酔激写と 色々とやらかしてしまったのに 会社に置いてもらっているのだから、それだけでも丸儲けで文句は言えないのだけれども、やっぱり社会人としてはスキルアップを図りたい願望はある。
はー、やっぱ私、アナウンサーに向いてないのかなー
いや、もはやアナウンサー以前の問題か……
茜は盛大なため息をつくと、デスクの脇のブラインドの隙間から外を眺めた。こんなに深い時間になると、東京の夜景であっても 光源の数は少なくなる。
深夜に眺めるこの風景にも、そろそろ見飽きてきた。過去には栄光の時代もあった。あれは自分の身体を張って得た、本来の実力で勝ち取ったものではなかった。けれど そのときは手段なんて選んではいられなかった。
でも今は違う。あのときみたいな若さもないし、ガッツもないし、ズル賢さもないし、手段は選ぶ。何より自分の実力をキチンと評価されたいと思っている。
ここまで来るとアナウンサーなんて辞めて、もっと肉体的にも精神的にも 自分に向いている仕事に転職してもいい気がする。でも、このまま終わりたくないという欲もある。
今の私にはアナウンサーとしての実績が無さ過ぎる……
茜は完全に行き詰まって、冷めきったコーヒーを少しだけ口に含む。そしてもう一度キーボードに手を掛けたとき、誰かがアナウンサールームに向かってくる足音が聞こえた。
「茜っち、アナウンサールームにいるなんて珍しいね?
部屋にやって来たのは、茜の同期の西野だった。彼は茜とは逆のパターンで 若いときはそれほど活躍はなかったが、着実に実績を重ねて 現在は朝八時からの情報番組に出演している。
「西……くん……? 早くない? まだ、三時だよ? 」
「そうかな? いつもこんなもんだよ…… つーか、茜っちこそ何してんの? いつもこの時間は 報道の手伝いをしてるっしょ? 」
「何って…… 今日は中期の評価シートの中身を書いてるの 」
「ああ、そういえば そんなシーズンだね。俺、全然書いてないや。茜っちは いつもそういうのを真面目にちゃんとやってるよね。スゲーよ 」
西野は軽いノリで茜と話をすると、自分のロッカーから衣装のジャケットとネクタイを取り出す。爽やかさが売りの西野の日常を 視聴者が知ったら幻滅間違いなしかもしれないが、茜はこの背伸びをしない彼のスタイルが 嫌いではない。
「でも締め切りは月末だよ? 西くん、ちゃんと書いてるの? 」
「まだ真っ白。っていうか、フォーマットのダウンロードすらしてないし。まあ、何とかなるっしょ。綾瀬もまだノータッチって。まあ、最悪データ貰ってコピペさせて貰うし 」
「綾瀬は部署違うじゃん。あっちはAPだし…… コピペって…… それって、大丈夫なの? 」
「だって部署内でコピペしたら、部長にバレるっしょ? それに、あんなの ただの儀式みたいなもんだからね。僕は仕事の出来は 画面を通して部長にアピールする。紙切れだけじゃ、アナウンサーの仕事は語れないからね 」
西野はあっけらかんとしたノリで言うと、手早くジャケットに袖を通した。彼は茜に不倫疑惑が出たときも態度を変えずに接してくれて 今もそれは変わらない。西野はどんなときも誰に対してもフラットだ。彼のように周りに流されずに 肩の力を抜いて自分のリズムで働くことが出来たのならば、どんなに良かっただろうと思ってしまう。
「そうだ、茜っち!これあげるよ 」
「えっと…… なにこれ? 」
茜は西野から紙の箱に入った何かを受け取ると、それを広げて中身を確認した。
そこにはカスタードが使われたタルトのようなものが入っていた。
「俺んとこの地元で有名なお菓子。田舎から送ってきたんだ。生物でもたないからって差し入れで持ってきた。よかったら食って…… 」
つやつやに輝くカスタード、宝石箱のように輝くフルーツの数々は美味しそうだった。
食べたい…… 食べたいっッ、でもっッ……
茜は今日は心を鬼にすると、紙箱をゆっくりと閉じた。そして申し訳ない面持ちを浮かべて 西野にこう詫びを入れた。
「ありがとう。でも今日は気持ちだけもらっとくね 」
「あれ? 珍しいね、茜っち、甘いの好きじゃなかったっけ? 」
「うん、まあ人並みにはね 」
「じゃあなんで? 」
「台湾…… 」
「たい……? 」
「今日、明けで台湾行くから 」
「台湾!? って、あの例のヤツ!? 確か大食い番組並みに食って食って食いまくって、あまつさえ自分でカメラ回したりインサートを撮ったとか言ってた鬼畜番組!? 」
「そんなんじゃないから、別に…… 一応、私の冠番組だし。だから今日から断食してんの。お腹すかせとかなきゃ、ロケに支障が出るし 」
茜は再びごめんね、ありがとう、と言うと紙箱を西野に返却した。
「茜っちってさ…… 」
「なに? 」
「前々から思ってたけど、けっこうストイックな一面があるよな。それこそ、評価面談でアピールしなよ 」
「あはは、ロケのために断食してます、って書いてもねえ…… 」
「あはは、それもそっか。じゃあ、またね。俺、土産はパイナップルケーキがいいなー 」
「はいはい。気が向いたらね 」
西野は再び紙箱を手に取ると、颯爽と何処かへ去っていった。西野にはチャラい一面もあるけど、こんな早い時間帯から出社しているということは、打ち合わせから顔を出しているということでもある。何だかんだで、彼は真面目で 物事に対して客観的な目線を持っている。そんな彼に対しては何だか羨ましくて、やっぱりちょっと悔しい気持ちになってしまうのだ。
茜はほぼ白紙状態の中間査定表をデスクトップに張り付けて保存すると、静かにノートパソコンを閉じた。
今日は夜勤明けに直接空港に向かって、台湾ロケに飛ばなくてならない。今日は事前に仮眠を取る許可が降りているので、そろそろ休息を取っておかないと明日に響く。茜はそそくさと身支度を整えると、仮眠室に向かう準備をし始めた。




