君は僕のもの
桜はゆっくりと立ち上がった。
立ちくらみなのか貧血なのか、それとも衝撃的な光景を目の当たりにしたからなのか……
視界は酷く澱んでいた。そしてゆっくりと織原のいる廊下の方に目をやった。
彼はバイト仲間たちに回収される佐藤を、静かに眺めていた。その表情はとても強ばっているようにも見えた。
そして……一瞬、織原とちらりと目が合った。
織原は目を逸らさなかったが、驚いた表情を浮かべてい目を見開いていて息を飲んでいた。
桜は……咄嗟に軽く頭を下げてその場をあとにすると、一万円を幹事に預けて店を後にした。
気まずい。気まずすぎる……
明日から、どんな顔をして職場に向かえばいいのやら……
桜は一人、ため息をつきながら東京駅に向かって歩いていた。
地下鉄に乗れば、自宅までは一本で帰れる。だけど今はただただ夜風に当たりたい気分だった。
あんなにデカイ声で佐藤に名前を絶叫されたのも恥ずかしかったし、とにかくあの場に居続けるのは困難だった。
だけど心のどこかで佐藤の若さが羨ましく感じている自分もいる。好きな人に好きと言える気持ちも、ハッキリと態度に表せるパワーも自分には持ち合わせていない。いや、若さとか以前に、そうゆう自分であったことがない。レディース総長として偉そうにしたりして、自分を誇示することはしてきたけど、本音と建前はいつも裏腹だったかもしれない。
もう今日は疲れた……
ほとぼりはある程度は冷めるだろうし、いまどうこう考えても仕方がない。
桜は終電の検索をするために、鞄の中のスマホを探した。
あれ……?んっ……?
見つからない?
何か……目の前が暗いような気がするし手も震えているような気がする……
これは、もしかしたらヤバイかもしれない……
何だか思うように手に力が入らないし、視界も霞んできた。
桜は思わずガードレールに手をかけると、その場でしゃがみこんだ。
最近の自分はどうかしている……
私はこんなに惨めな思いばかりしているのだろうか……
桜はスマホを握りしめながらグッと唇を噛んでいた。スマホは時折、ブーブーと揺れている。
着信相手の予想は大方ついている。
今の自分は大人気ないし、みっともない。
格好悪いし恥ずかしい。
だけど、気づいてしまったこの感情をこのままにしてはおけなかった。
桜は意を決っしてゆっくりと立ち上がると、来た道を振り返った。
まだふらつきは治まらない。
だけど……気持ちに素直になったぶんだけ、体が軽くなったような気がしていた。
桜の目線の先には息を切らした織原究が立っていた。
「どうして……? 」
「抜けてきた。何か、みんな酔っぱらっちゃって、よくわかんなくなってたし…… 」
「主役は……最後まで居なきゃ駄目なんじゃないの? 」
桜はか細い声を絞り出すように、織原に問いかけた。彼はもう職場の人間ではない。だけど彼の起こした行動は、彼も自分も後戻りできない賭けのようなものであることはわかっている。
「そうだね、けど、まぁ、ちょっと居づらくなったから……強行突破してきた 」
「また、喚いてるとでも思った? 」
「さすがにそうは思わなかったけど…… 今日を逃したら……遠藤さんと、ちゃんと話が出来ないような気はしたから 」
「……それは 」
「これでも遠藤さんを困らせてる自覚はあるからね 」
図星を突かれて桜は思わず口をつぐんだ。
織原はまだ少し肩で呼吸をしていた。その両手には大量の送別の花やらを抱えていて、その香りが少しだけ鼻に届いた。
「……佐藤さん、織原のこと好きなんだね 」
「……そうみたいだね 」
「……返事したの? 」
「なに? 遠藤さん、もしかして妬いてるの? 」
「ちがっ…… 別に…… 答えたくなければ、答えなくていいけど 」
「あのあと断りましたよ。丁重に…… 有難いことだけど、僕は彼女の気持ちには答えられないから 」
「…… 」
桜はただただ織原を見つめていた。彼が着ているロングカーディガンの裾が揺れ動くくらいには風は冷たくなっていた。大通りには飲み会終わりの酔っぱらいの集団数組が、腕を組み二次会へと向かっていく。都心のど真ん中で距離を保ちながらぎこちない会話をしている自分達は、現実から取り残されているような気分だった。
ここを去れば全てが終わる。
そしてお互いに新しい道に進む。
彼のためにも、自分は一緒にいるべきではない。
わかっているはずなのに、桜はその場から足を動かすことができなかった。
織原は桜にゆっくりと近づいていた。桜の長い髪の毛もまた風に少しなびいている。一ヶ月ぶりに直視する彼は、いつもと何ら変わりはなかった。
「ひとつ、聞いてもいい? 」
「……何ですか? 」
「私の、何が………いいの? 」
「何がって……? うーん…… 」
織原はその場で難しい表情をすると、紙袋を抱えたままうーんと唸りながら手を組んだ。恋人同士でもないのに、自分は何て要求を彼にしているのだろうか…… それがおかしいことは、自分でも自覚はしている。だけどそれは思わず出てしまった言葉だった。
「遠藤さん、もっと本能的な人だと思ってました、理由とか気にするんですね 」
「それは、そうでしょ。私は自分のこと好きじゃないし 」
桜はぷいと顔を背けると、少し頬を赤らめた。遅れてやってきた承認欲求はたちが悪い。それは自分でも十分に理解していた。
「そうですね…… 」
織原は考えながら、一歩一歩着実に桜に近づいていく。そしてゆっくりとこう語りだした。
「責任感強いところとか、たまに無茶するところとか、仕事に貪欲で友達思いなところに、読書家なところ 」
「…… 」
織原はさらに桜に手が届く距離まで歩み寄ると、ピタリと足を止めた。
「それに顔もスタイルも好みだし、髪が艶々なのも好きだし……それに…… 」
一度始まった織原の話は止まらなかった。それはまるで桜を茶化すかのようにひょうきんな口調なのに、真剣な表情を浮かべていた。
「…… 」
「遠藤さんが言えって言うから、僕は伝えたんですよ。何か感想はないんですか? 」
「感想って…… 」
「そうですか?これから一番かわいいなと思うところを言おうと思ったのに…… 」
「……なっ、かわいい?私がっッ? 」
桜は思わず声を張り上げると、少し向きになって織原に問いただしていた。
「……自分に自信なくてちょっと控え目なところも、ギュッとされてすぐに照れちゃうウブな一面も最近は愛しいと思いますよ 」
「…… 」
桜はただただ織原を見つめていた。
怒濤の言葉攻めに、耳が疼いてパンクしそうだった。
「僕は自分自身に自信はありません。唯一ちょっと自信がある部分は、小説がかけるとゆう部分だけです 」
「…… 」
「ただ一つ言えるのは…… 僕は遠藤さんのことが好きとゆうことと、誰にも渡したくないってことだけです 」
「織原…… 」
桜はギュッと目を瞑った。
もう引き返す選択肢も後戻りする選択肢も頭にはなかった。
私はこの先の未来を見てみたい。
桜は決意を決めると、すっと手を織原の前に差し出した。
織原はその手を何も言わずに取ると、今度は二人で駅に向かってゆっくりと歩き出した。
あの晩、何回もキスをした。
あれは感情に流されただけじゃないと今なら言えるような気がする。
彼の優しさに私は救われた。前に進むきっかけもくれた。今度は私が素直にならなくてはならない。
彼の紡ぐ物語は美しい。
そんな理想郷のような世界観に私は惹かれていた。
今までは寄り道ばかりだった。だけど変わりたかった。
これから先、私のことをこんなに好きでいてくれる人には出会えそうにない。
「遠藤さんが、こんなに泣き虫だなんて、僕は知らなかったですよ 」
「なっ、織原のいじわるっッ、誰かさんが変なこといっぱい言うから…… 」
織原は動揺する桜をみて、ぷふっと吹き出していた。そんな織原の表情をみて、思わず桜も赤面する。
そんな桜の微妙な心情の変化を察したのか、織原は桜の耳元に顔を近づけるとゆっくりとこう囁いた。
「…………帰ったら小説の感想を聞かせてください 」
「……うん 」
私は彼のものになる……
そして彼は自分のものだ……
桜は一言そう呟くと織原に体を預け、その手をまたしっかりと握り締めた。




