赦しを乞う人たち②
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移動中はずっと音楽を聴いていた。
知らない待ちの風景に、自分の好きな音楽が溶け込んでいく。それは何とも不思議な感覚で、新しい景色が増えていくようだ。
そして正直なところ、心情的に何かで気持ちを誤魔化さないと、目的地まで気を保っていられる勇気もなかった。
最寄りの駅から目的地は数十分。知らない街で地図を片手に歩くのは、少しパワーを使う。だけど行き先的にタクシーを使うのは心情的にも躊躇われて、結局徒歩を選択した。もうちょっと身軽にして来れば良かったのだが、少しばかり荷物がかさばった。だがこれが私と彼らの足枷になっているのならば、残酷かもしれないが自分はそこから解放されたいと願っていた。
職場を出てからは数時間が経過し、結局目的地には昼前の到着となった。住宅地に突如現れたその場所は、高い壁に阻まれていてとても異質な存在に思える。桜は迷いながらも入り口を見つけると、一回深呼吸をしてその場へと向かった。
果たして彼女は姿を見せてくれるのだろうか……
想像していた通りの手順で受付を済ませ塀の中へと入ると、そこはとても無機質な空間が広がっていた。桜は再度入念なボディチェックを受けると、待合室のようなところに通された。真夏でクーラーもないのに、その部屋は異様にひんやりしていた。
緊張する……
それはここが非日常に感じたとゆう理由だけではなくて、彼女に対しての緊張だとゆうことはわかっていた。
秒針の進む音だけが静かに響き渡る……
今この瞬間も世界は平等に一秒を刻んでいるのか、疑問を抱く境地にある。
桜にはそのくらい、時が進む感覚が遅くなったように思えた。遠くでは微かにではあるが、時折足音や号令が聞こえてくる。そしてその音がすこしづつこちらに近づいてくる気配がして、それはここがそうゆう場所なのだと深く実感した。
部屋の外で号令がピタリと止み、ドアをノックする音が小さく響く。桜は思わずパイプ椅子から思わず立ち上がると、ドアに向かって小さく返事をした。
鼓動が早くなる。
何故、こんな形にしかならなかったのだろう。
何故、十年振りの再会は透明な壁に阻まれているのだろう。
そして開いたドアの先には、
桜の記憶していた彼女の記憶と違う人間が立っていた。
「万由利、久し振り…… 」
「…… 」
想定はしていた。
だがそれの控えめな想像を軽く越えるくらい、万由利は別人に変わり果てていた。
表情は乏しく肌も髪も、手入れを放置している。グレーの上下の作業着はサイズがあっておらず、骨の出っ張りまで服に響いているように見えた。
万由利は一礼すると、静かに椅子に腰かけた。
「もうすぐ仮出所なんだってね…… さっき看守さんから聞いたよ。おめでとう 」
「…… 」
「少ないけど差し入れを預けたから。文房具とか借りっぱなしになってたものとか 」
万由利は口をつぐみ、斜め下の机を見つめていた。目線は虚ろだが、少し動きはあるように見える。何故彼女は面会を承諾してくれたのか、もはや不思議に感じるレベルであった。
「離婚届……催促しに来たんでしょ…… 」
「えっ……? 」
彼女は下を向いたまま、ぼそぼそと声を発した。桜は思わず聞き返してしまうくらい彼女には覇気が感じられなかった。
「……もう何回も届いてるの、凌平から離婚届が。桜の事も書いてあった 」
「なっ、何……それ…… 」
「……本当はわかってるの。私も逆の立場だったら、こんなヤク中な女となんかすぐに離婚する。子どもいるのに、結局クスリがやめられなかったんだから 」
万由利は手を小さく結び震えていた。
目には涙を浮かべ、嗚咽をこらえていた。
「手紙には桜の事も書い愛郁も美羽も懐いてるって。やっぱり総長経験者ともなると、人望があるのは子どもでもわかるのね 」
「 万由利、それは誤解だから…… 」
「惨めでしょ?笑っていいよ、どうせまた私は繰り返すし家族も呆れてるの。帰る場所もないし。どうしても凌平が欲しくて横取りしたけど、私は結局桜には勝てない。敵うわけない…… 」
一度開いた万由利の話は止まらなかった。
感情を圧し殺しながら話す万由利には、鬼気迫るものすら感じられた。
「……万由利、私は万由利と凌平に別れて欲しくて、ここに来た訳じゃない。それに私は凌平と交際をしているわけじゃないから 」
「へっ……? 」
「私はあなたたちの家庭を壊したいなんて思ってない。私はそうゆうのと一番縁遠くいたいって思ってる。私が非行に走ったのは、家族を信じられなくて自分で壊して逃げ出したことが原因だから…… 」
「でも凌平からの手紙には…… 」
「それは……凌ちゃんの独断専行というか………私もそれは今知ったから。確かに凌平から連絡もらって、ここ最近は愛郁と美羽の面倒をみたりはしてた。全くクリーンとは言い張らないけど、私と凌平の間には何もないし、これからも何もない…… 」
キスをしたのは事実だ。
そして抵抗しなければ体を重ねていたであろうことも揺るがない事実だ。
嘘はつかない。
けれどもこの先の何も起こらないことも事実にすると、私は強く誓ったのだ。
「じゃあ…… 何でわざわざこんなところまで……来たの? 」
「今日は、万由利にちゃんとお別れを言いに来た 」
「お別れ……? 」
万由利は顔をあげて、初めて桜の目を見つめた。十年近くぶりに見た彼女の目は、あの頃の輝きは失っていた。
「うん……ずっと引っ掛かってた。二人のこと。私は心が狭いから何回も許そう、忘れようと思った。けどずっと忘れられなかった。」
「……ちがっ、それは私が桜を裏切ったから 」
「全然違くなんかない…… 私はそのくらい二人のこと好きだったし、いまでも多分少しは好き。だからどうしても出来なかった 」
「桜…… 」
「最近ね、こんな情けない私のことを凄く心配してくれた人がいたの。それで素直に思ったんだ。私は恵まれてるなって。私は自分のことが嫌いなのに支えてくれる人がいる。私はその人たちに応えたい 」
「…… 」
「私は誰かの大切は奪わない。だけど万由利を不安にさせてたんなら、それは謝る…… ごめんね 」
「ごめんって、そんな…… 謝らなきゃならないのは私の方なのに…… 桜に何回も何回も辛い思いをさせて…… 裏切って……
本当に本当にごめんなさい…… 私を許してチャンスをくれて、こんなところまで来てくれて…… 本当にごめんなさい 」
万由利は涙を流し声をあらげていた。薬物の後遺症なのかはわからない。万由利は自分自身で体を支えることが出来なくなり、崩れ落ちるように椅子から転げ落ちた。
彼女は過呼吸気味になりながらも必死に這い上がろうとしていたが、自力ではやはり難しく後ろで控えていた看守に後ろから支えられるように体勢を整えた。
その一部始終を桜は静かに見つめていた。
やっぱり万由利に会っても、人のものを奪う心理もクスリから抜け出せない理由もわからなかった。
そして自分が何故彼女たちに固執していたのかもわからなくなった。それがわかっただけでも、ここに来た価値は十分にあるような気がした。
そのとき、桜は思った。
これで私も彼女もやっと自由になれたのだと。
桜はゆっくりと席を立つと、ドアの前で一度万由利の方を向き、最後にこう切り出した。
「万由利が本当に家族の元に戻りたいなら信頼を回復するしかないと思う。凌平の本心はわからないと思うけど、愛郁と美羽は待ってると思うよ 」
「桜……ごめんなさい、ありがとう…… 」
桜は何も言わずに万由利に頭を下げると、静かにドアを閉めて部屋を後にした。
彼女をこんなにも追い詰めたものは一体なんなのだろう……
あんなに涙を流すほど家族に未練があるのに、 何故彼女は薬を止めることが出来ないのだろう……
帰りの新幹線の中で、桜は一冊の本を取り出した。
川相晴臣の著書だった。
そして桜はあの日以来初めて、その本をゆっくりと開いた。
そこにはやはり紛れもなく川相晴臣のサインが記されていた。
織原……
やっぱり私は君が思うような人間じゃないよ……
桜は小さくため息をつくと、本を抱えたまま暫く窓の外を眺めていた。