適度な距離感
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「んっ……?これ…… 」
何かの物音がして桜が目を覚ますと、そこはさっきまで小さな天使たちと走り回っていた居間のソファーだった。遠足ハイに陥った姉妹をやっとの思いで寝かしつけた後、テレビを見ながら自分は寝落ちしたらしい。ふと見ると自分の体にはタオルケットが掛かっていて、照明も台所しかついていない。 硝子扉の向こうからは、愛郁と美羽の寝息が小さく規則正しく聞こえていた。
「悪りぃ…… 起こしちまったな…… 」
「ううん…… 」
湯上がりなのかTシャツに短パン姿の凌平は、マグカップに入ったホットミルクを桜に手渡しながら、ソファーを背もたれに床に腰かけた。音量は絞ってあるが、テレビでは既に夜のニュースが始まっている。
「ありがと。ごめん、私こそ…… 寝ちゃってたみたいだね 」
「いや、夜勤明けなのに、急に無理を頼んじゃって悪かった。今日だってお守りも飯も…… 風呂までサンキューな 」
「ううん、私なんかに保護者が務まるか、ちょっと不安だけど 」
桜はマグカップに目線を移すと、そのまま口にミルクを運んだ。口の中にはミルクと少しのハチミツの香りが広がって、桜はその演出に何となく悔しい気持ちになった。
「明日の遠足の付き添いお袋に頼む予定だったんだけど、昨日の晩にぎっくり腰なっちゃってさ…… 」
「そっか…… 遠足は保護者がいないと参加できないもんね 」
「チビたちさぁ…… 遠足、大分前から楽しみにしててさ…… 俺が普段構ってやれねーから、動物園とかも殆ど連れていってやれたこともなくて。休ませるってのも可哀想でさ…… やっぱり男手だけで子どもを育てるのは、なかなか難しいんだなって今さら実感してるトコ。店もまだ人を雇う余裕ないし、閉めるわけにもいかなくてさ…… 」
凌平は少し苦笑いすると、またホットミルクに口をつけた。桜は凌平が最近家でまともな食事を口にするところを見たことがなかった。
「でも最近お店、いつもお客さん入りがいいじゃん? 夜もけっこう賑わってるみたいだし 」
「まぁ、敢えて駐車場広いとこにしたしインターも近いからね。運ちゃんからは重宝がられてるかもね 」
凌平はリモコンのチャンネルを何気なくザッピングし始めると、よくわからない深夜の通販番組で動きを止めた。画面の中の出演者はオーバーなリアクションをしながら、美顔器を顔に当てていた。
何となく気まずい空気が流れ始めていた。
少なくとも、今、桜はそう感じていた。
煙草は切らしているし、そもそも子どもがいる空間では吸う気にならない。時間を埋めるアイテムがないのは辛い。
いつもならば子どもたちがいるから、完全に二人きりになることもないし、それにここに泊まるときは自分はいつも子供部屋で添い寝をしている。疲れてたとはいえ居間で寝落ちしてしまったら、変な空気が流れてしまうのはわかっていたはずなのに、完全に自分の油断が招いたミスだった。
何か気まずさを打破するものはないだろうか……
桜は殺風景な居間を見渡した。テレビはチャンネルを変えたところで経済ニュースくらいしかやってないし、視界に入ってくるのは、おもちゃ箱くらいなものだ……
が、次の瞬間…… 桜はあの紙袋の存在を思い出した。
「あのさ……夜中だけど…… 凌ちゃん、バームクーヘン、食べない? 」
「ああ、そういえば、忘れてたな。今日はバタバタして飯を食い損ねたんだよね。少し貰おっかな 」
「わかった。じゃあ、私取ってくる…… 結局、子どもたちは夕飯でお腹一杯になったみたいで、誰もまだ食べてないから 」
桜はソファーから立ち上がると、いつものように一歩を踏み出した。
だが、どうやら自分で思っていた以上に、桜はそれなりに疲れていた。
「あっっッ…… 」
「おい、大丈夫かっッ? 」
気づいたときには、遅かった。
桜はソファーに尻餅を突き、しかも視界は天を仰いでいた。
桜にとっての誤算は、タオルケットに躓いたことだった……
この体制は、絶対にマズイ。
このシチュエーションだけは、今の桜と凌平の関係性ならば、絶対に避けなくてはならない。
だが桜が冷静に起き上がろうとした刹那、そこには桜を覗き込む凌平の姿があった。
「あの…… ちょっと…… 凌ちゃん? 」
「あっ…… 桜…… 大丈夫……か? 」
凌平は一瞬ハッとした表情をみせたが、すぐに桜の手を取ると片手で体を引っ張り起した。
その二の腕には、桜にとっては少し懐かしいトライバルのタトゥーが透けて見えた。
「桜、今日は疲れてるよな。明日も早くからガキの世話頼んじまってるし…… 夜中にもの食うのは、お互い三十路だしな。止めとくか 」
凌平はそう桜に告げると桜の頭に軽く手をのせて、ふっとため息をついた。
助かった……
桜はそう思った。
隣の部屋からは、相変わらず子どもたちの寝息が聞こえてくる。
「じゃあ…… 凌ちゃん、お休み。私も向こうで寝るから 」
あちらに行ってしまえば、また明日の朝も凌平といつものように、お早うと言える。
「桜…… 」
桜がソファーから立ち上がろうとした瞬間、桜は自分の左手が捕まれているのを理解した。
「……えっ、なに?ちょっ…… 」
「ごめん。やっぱり、俺、お前のこと、好きだわ…… 」
凌平はソファーの上に桜を押し倒すと、そのまま唇を深く重ねる。
「んっ…… ちょっ…… 」
なんだか懐かしい気持ちだった。
そういえば昔はこんな風に、キスをしたっけ。
気がつけば自分は凌平の好意を受け止めてしまっている……
いけないとわかっているハズなのに、ずっとこうしていたいと本能が反応する。
受け入れてはいけないのに、理性と体の欲求が噛み合わない。
駄目だ、隣の部屋には子どももいるし、何より相手には妻がいる。
わかっているのに凌平を思う気持ちが、いつも私の正義を遮断する……
桜は弱々しく凌平の体を自分から引き離そうとするが、若い頃この辺りでは頂点に君臨したこともある人間だ。そんなに簡単に彼を突き放すことなど、物理的にも精神的にも今の桜にできるはずもない。
どれくらい、こうしていたんだろう……
凌平が一方的に唇を離すと、桜の目を見て、小さく呟いた。
「俺は…… ほんとはずっと、桜のこと…… 」
「なっ、何を今さら…… 大体凌ちゃんには、万由利が…… 」
「ごめん。今は…… 今はアイツのことは、忘れ……たい…… 」
「なっッ…… 」
「俺はアイツから、大事な宝物を貰った。それは感謝してる…… けど、もう、それ以上でも、それ以下でもない 」
あぁ、もう駄目だ……
凌ちゃん、あなたは私を捨てておいて、今さら凄く勝手すぎる。
ずっと抑えてきたつもりの感情が、全然押さえつけることが出来ないのは、こちらだって同じだ。
「凌ちゃん…… 今夜はお互いに頭冷やそ…… 私も万由利は許せないけど、まだ愛郁と美羽の側にはいてあげたい。だから…… 私は…… 」
だから、私は…… 凌平の気持ちに応えることは出来ないのだ。
でもその言葉は、まだいまの自分には簡単には口に出来るほど単純なことでもなかった。
「俺の方こそ、急にごめん…… 」
凌平はそう謝ると硝子扉をゆっくりと引いた。
その背中は、なんだかとても物悲しい……
凌ちゃんのバカ……
私だって好きでこんな関係、続けてる訳じゃない。
通販番組はいつの間にか次のスライサーセットの紹介になっていた。
だいたい明日は愛郁と美羽の保護者代りに引率するのはいいが、先生や保育園のママたちには、どうやって愛郁たちと自分の関係性を説明していいのかもわからない。女は男ほど単純に物事を考えられない生き物だと、いまここで叫んで教えてやりたい気持ちでいっぱいだ。
桜はテレビを消すと、深いため息をつき、そのままソファーの上で、強く目を閉じた。