秘密の場所の桜
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『まだ、連絡はない、か…… 茜は無事に家に帰れたんだろうか…… 』
桜はスマホの着信を確認すると、少しだけ窓のカーテンを捲った。高速バスが長かったアクアライントンネルを抜けて、海上の橋へ上昇し始める。相変わらず空は雲だらけで、いつ雨が振りだしてもおかしくないような色をしていた。
別れ際に茜を送り届けたら連絡をするように、口酸っぱく朱美に言ったつもりではあった。恐らく連絡を忘れているだけだとは思うが、こんなに気になるなら自分が茜を送ってやるべきだった、と思わずにはいられない。ただこれから小さな子どもに会うのに、シャワーも浴びず、しかも酒臭さを残した状態で向かうのは避けたかった。そうなると一度自宅で身支度を整えて、夕方にはバスに乗ることを考えると、今日ばかりは茜の面倒を看るのは物理的に不可能だった。
桜はまたカーテンをピシャリと戻すと、ふっとため息をつく。煙草も吸えないし何となく手持ち無沙汰だ。
平日の夕方だから道はそれほど混んではいない。橋を渡りきれば、目的地はもうすぐだ。
桜が木更津に来るのは、そんなに珍しいことではない。しかし昔いわゆるヤンキーグループのトップのような立場でいたこともあり、富津にある実家とは正月と盆に顔を出すくらいと、少し疎遠になってはいた。だがこうして用事があれば、房総半島自体には東京駅から一時間もかからずにバスで帰れる。
ただ、いつもこのバスを降りてから目的地まで少し伏し目がちに歩くのは、何となくこれから行く先に後ろめたさがあるからだった。
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ガラガラ……
「あっ、いらっしゃい。お客さん、すみません、今ちょっと仕込み中で…… 」
店主は手にしていた中華包丁の動きを止めると、店の入り口に向かって頭を上げた。
すると桜を見て直ぐに、「あぁ、ごめん、急に連絡して悪かった」といいながら、カウンターの中からその引き締まった体を見せた。
白衣には相変わらずソースやらスープやらの飛んでできた無数のシミがあり、両腕は勲章とばかりの火傷の痕が数えられない程広がっていた。
「思ったより、早かったな。 道、すいてた? 」
「うん、まぁ、いつもよりは…… 五十日だから、覚悟してわりにはね 」
桜は道中でかいた汗を軽く拭いながら、店主の問いかけに返答した。店内はある程度冷やしてあるはずなのに、ちっともその恩恵を感じられないのは、何故だろうか……
「これ、お土産…… 」
桜は持ってきた紙袋を、ぶっきらぼうに店主に差し出した。
「いつも、こっちが頼ってるのにありがとな。しかもこれって、あの東京駅で超並ぶとこのバームクーヘンじゃん。チビたちも喜ぶわ 」
「うん…… 今日はいつもより列が短かったから、思わず買っちゃった 」
桜は客椅子に荷物を置くと、羽織っていたカーディガンを鞄にしまった。これから小さなギャングたちを相手にすることを考えると、引っ張られそうな長めの服は、予め脱いだ方がいいことを最近やっと学習したところだった。
「チビたち、今日はもう裏にいるんだ 」
「あれ、まだ六時回ってないのに、早くない? 」
「今日は、ちょっと早めに迎えに行ったから…… 」
店主は店の奥にある扉に向かうと、腰についている鍵を使って開いた。桜も慣れた様子で店主の後をついていく。その扉は店の裏の居住スペースに繋がっていた。
「ほら、愛郁!美羽!桜ねーちゃんが来てくれたぞ 」
店主が部屋の奥に向かって、大声をあげた。
するとまもなくして、奥から聞き慣れた子どもたちの小さな足音が響いてきた。
「桜姉ちゃんだぁー! 」
「さくちゃんだー! 」
「愛郁、美羽!いい子にしてたかなぁー 」
靴を脱ぐまもなく、桜は両手に乙女を抱えるとそのまま一回転して二人をあやした。
「明日の遠足、桜姉ちゃんが連れてってくれんの? 」
「そーだよ。明日は、ひつじさんとか、やぎさんとか、いーぱい会えるんだよ 」
桜はそういいながら、子どもたちと手を繋いだ。子どもたちは力一杯桜の両腕を引っ張って、奥の部屋に誘導する。
「おい、お前たち、桜をあんまり引っ張るなよ。ねーちゃんは、寝ないで仕事して、ここに来てくれてて疲れてるんだからな 」
店主が慌てて桜と子供の間に入り込もうとするが、年頃の子どもたちはすばしっこい。二人は店主の攻防をさらりと交わすと、また桜の影に隠れた。
「桜姉ちゃんは、愛郁たちと遊ぶの!パパは、あっちいってて!」
「おー、わかったわかった。好きにしろ。ただお前ら、ちゃんといい子にしとくんだぞ。桜ねーちゃんに迷惑かけんなよ 」
「凌ちゃんは、二人に厳しすぎ。いつも、愛郁も美羽も、お利口してるもんね。じゃあ今日は何して遊ぼっか? おままごと? お人形さんごっこ? 」
桜は靴を脱ぎながら、二人の目線に会わせてしゃがみ込んだ。すべすべの肌、クルリとした目、全てがいとおしいと思えるくらいくらい、やっぱり子どもは可愛い。
「悪いな、桜…… ちょっとお願いしていいか? 俺が殆どコイツらに、構ってやれねーからさ…… 」
「勿論大丈夫。私は、ここには二人に会いに来てるようなものだから…… 」
桜は手にしていたシュシュで、自前の髪の毛を無造作に束ねつつ凌平の要請に応えた。そんな間にも、桜の膝には交代交代で、子どもたちが無邪気にしがみついてきていた。
「桜…… 俺も仕込みが終わったら、メシ作りに一旦戻るから 」
「うん。あっ、でも、いいよ。私作ろっか? 忙しいでしょ? 」
「あっ、いや、でも、流石にそこまで頼るのは悪いし…… 」
店主は申し訳なさそうな顔をして、桜を見つめた。
「別に平気。一応ファミレスの副店長だし、一応キッチンも一通りできるから 」
「じゃあ、悪い…… 今日は、チビたちは、オムライスにしようかと…… 」
「わかった。任せといて 」
桜は笑みを浮かべて店主を振り向く。
そこには、仲良し四人組にも見せない、もうひとつの桜の顔があった。