茜の過去
沈黙が続いた……
耳を疑うような単語だった。
桜は予想外の茜の言葉に、思わず声を失った。
彼女はときに大胆だ。
だけど女子アナだから、容姿端麗で頭も切れるし声もいい。学歴だって申し分ない。たまにお酒に逃げちゃうような側面もあるけれど、それすらチャームポイントなのだ。
そんな彼女が自分と同じことをしていたなんて、にわかには信じられない事実だった。
「私はね、奥さんいる人と恋人になって、夜勤従事者になった 」
「…… 」
「ごめんね、いきなり。驚いたでしょ。けどこれが本当の私。恥ずかしいけどね 」
茜は酔えない濃度の梅酒を片手に、さらりと話を続けた。正直いまの桜には、茜が自分に話を切り出した意図がまるで見えてこなかった。
「みんなとは違う、超後ろめたい理由だよね。夜勤してる理由が。普通は夢とかなし得たいことのために、夜働いてる訳だからさ 」
「…… 」
「あの頃の私は、どうかしてた。努力家して、一からコネクション作って、アナウンサーになって、多分、なんか勘違いしてたんだよね 」
「…… 」
「社会人になって、どんどん自信にみなぎっちゃってさ。一年目はちょっとおとなしくしてたけど、だんだん派手な交遊関係になってって。駄目なことにも、当時は気づかなかった。そうしたほうが、仕事やチャンスも回ってくるから 」
桜は頷くことも相づちを打つことも出来ずに、ただただ茜を見つめていた。茜は桜に同意を求めることも、反応を望むこともなく壁の一点を見つめながら淡々と語り続けた。
「そんなときに、お昼の情報番組のディレクターに誘われてね、その人のこといいなーとか思ってたし、何より仕事が欲しがった。わりとそれまでの人生、アナウンサーになりたい一心で、必死だったから。
そうゆうの良くわかってなかった。でね、気づいたら不倫関係になっちゃってた。知ってたの。妻子いるって。でもまぁイケメンだったし、何より自分もおかしくなってた。どこまでアナウンサーとしての体裁を整えるべきなのかよくわからなくなてて、普通の恋愛には消極的なくせに、人肌は恋しくて。利害が一致しちゃったの。本当にバカだよね。そしたらあっとゆうまに、アシスタントからメインにも抜擢されてさぁ。もちろん100%コネのパワーだったんだけど、当時は気づきもしなかった。いつの間にか、自分の実力で勝ち取ったって思い込んじゃってたんだよね。若かったから大人の男も刺激的だったし、何より設定に酔ってたんだよね。ホント、恥ずかしいよね。好きでもないのに離れられないって、変な話だよね 」
茜は梅酒を飲みきると、カップを持ったまま桜に向かって苦笑いを浮かべた。
桜は沈黙を貫いたまま黙って苦笑いを返すと、温くなった梅酒に口をつけた。
恥ずかしい……?
本当にそうだった?
自分はどうかしてたけど、その気持ちに偽りもなくて、引き返せなかった自分が許せなかっただけじゃないの?
桜は何も言わずに黙って茜を聞き続けていた。
いつものように宥めるためではなくって、ただただ自分には知る必要がある気がしていた。
「そんなときね、仕事の対談で朱美にインタビューする機会があって。最初は正直漫画家とか、大したことないと思ってた。でもね、あのとき私は衝撃を受けたの。朱美ってさ、なかなかの苦労人でさ。私みたいに人間関係でのしあがったんじゃなくて、純粋に実力で読者に支持されてる漫画家なんだよね。何回も何回も投稿した漫画が落選して、それでも諦めないで、仕事しながらも投稿し続けて。誰にも頼らない。自分だけ信じてさ。類友なのか、同級生でこんなに真面目に生きてる人、私の回りにはいなかったから。要領だけで、ショートカットの人生を送ってる人ばかりで、それが普通になってたし、粋だと思ってたの。だから本当に衝撃的で。そのとき私は朱美のことが眩しくて眩しくて、直視したくないくらい輝いて見えて、本当に自分を心底軽蔑したの。私がなりたかったのは、本当はなんだったのって。まぁ、職種は違うけどね。私は憧れたの。成功を勝ち取りたくて、私は回りの人間に頼る道を選んできたけど、自分で道を切り開く生き方ってすごいって、純粋に感じたってゆうか…… 」
茜は美しい声と滑らかな滑舌を惜しみ無く披露した。桜の同意とか反応を気にすることなく、一方的に話を進めた。
彼女はいつになく饒舌だった。
そして同時に彼女が一生懸命言葉を紡いでくれていることを理解した。
過ちを認めて、他人に惜しげもなく披露する。
そんな勇者は、逆を返せばあなたしかいないよといつもの自分ならば声をかけていたのだろう。きっと彼女はとっくに自分のことなどお見通しなのだ。
「まぁ、いまとなっては、だらしない部分とか、いっぱい見てるからね。まぁ、美談な部分もあるんだけどね。でもね朱美と会って暫くして、私決心したんだ。ちゃんとしようって。他人の力に逃げたり、誰かの大切を奪うような生き方は止めようって。それでディレクターとは、自分から関係を終わらせることにしたんだよね。もちろん、対価も凄くてさ。メインは降板させられたし、暫くはレギュラーなくなっちゃってさ。不倫こそスクープはあがらなかったけど、一気に奈落に落ちたから怪しまれて週刊誌にはつけ回されるし、家には帰れなくなるし。でも、そのときやっと気づいたんだよね。ちゃんと、実力を認めてもらえる人間になりたいって。そこからまた少しずつやっていって、やっと掴んだレギュラーが、いまの番組なんだよね。深夜だったし、結局打ちきりだけどね。私が初めて自分で手にした居場所だったから…… 」
茜は満足そうな顔を浮かべると桜の飲みかけのカップを受け取ると、その中身を静かに流し台へと下げた。
時刻はゆうに2時を回っていた。
「とまぁ、私のツマらない、過去の話はこれでおしまい。私も、まだみんなに話してないこといっぱいあるんだから。まぁ、気にしないで 」
「茜…… 」
「さっ、今日はもう寝よ。桜ねぇもあんまり寝てないでしょ。私もたまには暗がりで寝たいからさ 」
茜はそういうと桜に寝ようかと声を掛けて、寝室に案内した。
真っ暗な寝室には、部屋のスペースの殆どを占めてしまう勢いでダブルベットが置いてあった。
茜は聡明だ。
きっと彼女は勘づいている。
彼女も壊れそうになったのを必死に堪えたことがあるのだろう。
そしてそれを理解した上で、彼女はわざわざ地雷を踏んでそれを処理してくれた。
好きじゃなかった……?
本当に?
好きでもないのに、その人と寝られるの?
その人に恋はしてなかったの?
私は割りきれなかった。
相手の顔が見えているのに、止められなかなった。
後悔はしたくなかったのに、とても無念だった。
「……茜。一つ聞いてもいい? 」
「……なに?」
茜は加湿器のスイッチを押したりと寝支度を整えながら、ゆっくり桜のほうを振り返った。そしてその顔は少し強ばっているようにも見えた。
「茜は…… その人の腕の中で、何を考えてた? 」
「…… 」
茜は少しハッとした表情を浮かべた。そして苦しそうな笑顔を浮かべると、桜にこう返事を返した。
「いつもこの人が私のものになればいいのに、って思ってたよ。じゃなきゃ理性が勝つでしょ 」
茜はあっさり本音を吐露すると、ゆっくりと枕に顔を埋めた。
理性……か……
見えない理性と見えている理性。
どちらの方が抗うのが大変なのかは、自分には良くはわからない。
けど見えてても歯止めが効かないこともあった。
勢いで片付けたくなることもあった。
けれども、そんな日はもう今日でおしまいしたい。
私は良心に背くために、生まれてきたわけではないのだ。
桜は決意を決めると茜に、
「あのね、茜…… 」
と一言切り出した。