膨張した涙
物は水分を吸うと、途端に重量を増す。
そしてそれは蓄積されるとじわりじわりと付加をかけ、気づかぬうちに様々なところをゆっくりと侵食する。
すぐに気づけば、それを防ぐことはできるのかもしれない。
けれど一も通り水を吸ってしまったそれらについては、もはや絞るのも億劫で、けれどもお日様は待っていても出向いてはくれない。
だから日射しを求めるのならば、
自分で光を探すしかない。
それしかないのだ……
桜の肩を担ぎながら、息吹はやっとの思いで新宿地下の公営駐車場まで運びこんだ。全身びしょ濡れだし桜は脱力状態が酷くて過ぎて、半ガテン系の息吹をもってしても難儀なことには代わりはなかった。
息吹は公用車の助席を開け、作業鞄からフェイスタオルを取り出した。無理やり桜を駐車場まで引っ張っては来たものの、息吹はだいぶ困惑していた。あの桜が雨に打たれながら、何故新宿の駅前を徘徊していたのか…… 理由は皆目検討もつかない。
「桜ねぇ、取り敢えずこれで体拭けるかな…… 風邪引いちゃうからさ…… 」
息吹は言いつつ私物のタオルを桜の手元に押し付けたが、それはあっさりと地面に落下した。ここまで魂の抜けた脱け殻状態な人間を目の当たりにしたのは、初めてかもしれない。
「ごめん…… 車にはいろいろあって部外者は乗せられないから 」
息吹はそう詫びをいれると、桜を車の脇のスペースに小さく体育座りさせた。水道従事者は衛生管理が重要だから、定期的な衛生検査が求められる職業とゆうこともあり、勝手な判断で局の所有する車に一般人を接触させるわけにもいかない。
息吹は桜が投げ出したタオルを再び手に取ると、頭から順に彼女の含む水分を拭った。トートバッグでバッチリ口が開いてたものだから、鞄の中身もぐっちょり水分を吸って色が変色していたが、取り敢えずは人間を優先するしかない。
「桜ねぇ……寒いとこない? 」
「…… 」
桜は頭を下げたまま、首を小さく横に振った。息吹はそんな桜の様子をみて一旦は安堵したが、すぐにタオルを拾うと彼女の髪から順に水滴を拭い始めた。息吹はちらりと腕時計に目をやった。時間は既に30分近く経過している。もうそろそろ助っ人が来てくれる算段だった。
取り敢えず肌が露出している部分を拭き終えたタイミングで、駐車場を徘徊する一台のタクシーがいることに気がついた。
「あっ、茜……? うん、そう、E25って場所。うん、サンキュー。助かる 」
息吹は電話の先の彼女に、端的に自分の所在地を伝えると、すぐさまスマホを切った。息吹が最初にヘルプを求めたのは、意外なことに茜の方だった。
「お待たせ~。って、これはなかなかな感じだね 」
「ごめん、忙しかったでしょ? 」
「へーき、へーき。特に用事もなかったし 」
茜はワンマイルウェアといった装いで、ダテ眼鏡を掛けたといったスタイルだった。大きな鞄を持っていたから、もしかしたらこれから出かける用事があったのかも知れないが、茜の場合はレギュラー番組が平日のため土日は仕事がないことは幸いした。
「桜ねぇ、私…… 茜が来たよ。わかる? 」
「…… 」
茜のテンションとは裏腹に、桜は相変わらずの黙りで、頭を下げて微動だにしなかった。
「あっちゃー、これは想像以上だね。取り敢えずタクシーの座席はビニールシートとごみ袋敷いては来たから、上はスエット着せて、下半身はタオルで巻いてって感じで。桜ねぇ、動ける? 」
「あっ、私も手伝う…… 」
「息吹ありがと。じゃあ、せいの…… 」
二人は桜を抱え込むと素早く着替えを完了させて、彼女をタクシーへと乗せ込んだ。下車のときが若干心配ではあるが、もうそれは運ちゃんを動員してでも何とかするしかないだろう。
「じゃあ茜…… 悪いけど後は宜しく…… 事情はわからないし、聞いてもないんだけど。もし朱美からも折り返しあったら、そっち向かわせるから 」
「うん、OK!っても、私もあんま自信ないけどね。まぁ、どっちかでしょ。こうゆうのって 」
「……? 」
「まぁ、息吹は知らないままでいいよ。じゃあね 」
息吹の心配そうな顔をよそに茜は微笑を浮かべると、また颯爽とタクシーで去っていった。
「……茜、頼んだよ 」
桜のことは、とにかく心配だ……
でも茜が来てくれたのは助かった。
予備情報があったことを加味したとしても、あんな状態の桜を見てもあまり大きく取り乱すことはなかった。
それにしても、息吹は知らないままでいいという単語が引っ掛かかる。
茜が冷静だった、あの原動力……
それはアナウンサーとしての資質……だけなのだろうか。
新宿からの茜宅までの道のりは、土曜の夜とゆうこともあってから、なかなかの渋滞で前に進まかった。結局茜の自宅に着いたのはその数十分後で、タクシー代は五桁に近い数字まで膨れ上がった。
「家…… 散らかってるけど…… 」
「…… 」
茜は何とか桜を自力歩行をさせると、むりやり洗面台に連れていき服をテキパキとひんむいていった。冷えきった彼女の体は、それでも出るとこはでてお腹はくびれて、理想的なプロポーションで思わず目を見張る美しさだった。
「取り敢えず…… お風呂入った方がいいかな。いま、お湯沸かすから、先にシャワー浴びちゃって…… 」
「…… 」
茜は目線を泳がしながら桜を風呂場に突っ込むと、ふぅとため息をついた。
果たして何をどうするべきなのか、これはいきなりミリオネアレベルの難問ではなかろうか……
茜はううんと大きく首を横に振ると、台所へ向かった。
ーーーーー
「うち、あんまりモノがなくて。これ、ただのハーブティだけど 」
風呂上がりの桜に茜は水とハーブティー差し出した。桜は少し考えた様子を浮かべると、ハーブティーに手を伸ばした。
「……おいしい。ありがとう…… 」
「それなら良かった…… 」
桜は一言声を発すると、静かにハーブティーを口に運び続けた。
良かった……やっと喋った……
茜は少し顔の表情を緩めると、黙って桜を観察した。身体が冷えきっているのだろう。体を縮ませた桜の姿は、まるで知らない人のようだった。
「荷物…… 中身も濡れちゃったかな? ちょっと乾かそうか…… 」
「……ううん、大丈夫。大したものは入ってないし 」
「いいよいいよ、ほら、財布とかビッチョビチョ 」
「うん…… ごめん、ありがとう…… 」
桜は素直に例を言うと、まだ小さくなってカップで手を暖めるようにしていた。茜はそんな桜の様子を横目で確認すると、広げた新聞紙やら雑誌の上に持ち物を丁寧に並べていった。
鞄の中には何故か明るい色の浴衣……?それに…… 川相の本……が入っている。涙の理由があるとすれば浴衣が本命ではあるが、川相の本と言うのも桜には意外なアイテムなような気もした。
「浴衣は……取り敢えず後でクリーニング出すとして、うちで一回洗っちゃおうか。ねっ。本は……湿気材のシリカゲルをバラしてビニールに突っ込めば…、ある程度は乾くかな…… 」
「…… 」
「桜ねぇ……? 」
桜は返事をしなかった。
ズシリと地雷に踏み込んだ音が聞こえた。
そして茜が再び桜を振り返ると、彼女は大粒の涙を流していた。
「桜ねぇ…… 辛かったね…… 」
茜は直ぐ様立ち上がり桜に近づくと、後ろから抱えるように桜を優しく包み込んだ。
「あ……かね……? 」
「言わなくて良いから。理由は……詮索するつもりもない。桜ねぇがなくなんて相当なことだから、きっと私は助けてあげることもできない 」
「…… 」
「けど私は桜ねぇが傷ついていることはわかるから…… だからね…… 」
「うん…… ごめん、いっぱい迷惑かけて。茜にも息吹にも…… 」
桜はぎゅっと掴む茜の腕に手を回すと、少しだけ頭を傾けた。温もりが暖かかった。
「大丈夫…… 私こそ、いっつも桜ねぇには迷惑ばっかかけてるしね。私もたまには力になりたいし 」
「あり……がとう…… 」
「そうだ、お腹空いたでしょ。私、朱美みたいに料理しないからさ、大したものはないんだけど 」
「えっ、あっ、うん…… 」
茜はそういいながら台所に向かうと、なにやらこそこそとビニールを剥ぎ始めた。そしてあっとゆうまに両手に鍋焼うどんを携えて、リビングへと舞い戻った。
「じゃーん!鍋焼うどん!コンビニのうどんって美味しいよね。私、めっちゃストックしてるもん 」
茜はいいつつ生卵を落とすと、少し黄身を崩してとんすいにうどんをよそいはじめた。夏場なのにアルミの鍋からは湯気がうわっと立ち込め、何だか美味しそうな出汁の香りがした。
「どう? 」
桜がうどんを口に運ぶのを見届けると、茜はすかさず笑顔で感想を求めた。
「うん、おいしい。茜が作ってくれたから余計かもね 」
「あっはっはー、ただ火にかけただけだけど。まぁ、市販品だしおいしいのは当たり前か 」
茜は自分で自分に突っ込みを入れると、同じようにうどんを口に運び始めた。
自分のために食事を作ってもらったこと……
思い返せば最近は自分が台所に立つことはあっても、作ってもらうことはあまりなかったかもしれない……
でも…… そうでもないか。
朱美のパパラッチ事件のときは、織原が心配して夜食にミルク粥を作ってくれたっけ。何だかんだで自分は周りに恵まれているじゃないか。
何だかそんなことを思うと、余計に涙がおさまらなかった。
こんな年になってから、知りたくなかった自分の琴線を理解するのは、なかなか難儀なことなのかもしれないと思った。
ーーーーー
「かなりお湯いれたから。桜ねぇには、薄いかもだけど。毎年、実家から送ってくるんだけど、梅酒じゃ晩酌にならなくてさぁ。なかなか減らなくて 」
茜は食後にと、梅酒のお湯割りを桜には手渡した。いびつな形の梅が1個浮かんでいるのは、何だか美味しい証拠のような気がしてくる。
「なんかうちに人が泊まりにくるなんて、すごーく久し振り。二年以上は経ってるかな…… 」
茜は苦笑いを浮かべながら桜を見ると、ゆっくりとソファーに腰を下ろした。
二年……
それを長いと取るのか短いととるかは、ひとそれぞれなのだろうが、茜にとってのその歳月はどちらに転ぶのか、今の桜にはよくわからなかった。
「一応、仕事も仕事だからね。あんまり生活感あるようなところは、誰にでもは見せられなくて 」
人を呼ばない割には、彼女の部屋はキレイに整頓されていた。無駄なものはないし、ダイレクトメール一通すら、そこには放置されていない。だがライバルも多い仕事だし、何をきっかけに失脚するかもわからない。逆を返せばなんの接点もなかった自分とキー局の女子アナが友達だなんて、それ自体が奇跡のような組み合わせなのだ。茜もたまに失敗はあるかもしれない。だけど自分を演出することに徹している彼女に、甘えすぎてはいけない気がした。
「……寝て起きて、明日には元に戻る。いつもの私になるから。今日はありがと。嬉しかったよ。ごめんね…… 久し振りに泊まる人、私になっちゃって 」
「まぁ、良いことばかりの思い出ばかりじゃなかったから。桜ねぇに上書きされると、逆に助かるよ 」
茜はにこりと笑うと、また静かに梅酒を口に運んだ。酔えるような味はしないのだが、なんだが身体がポカポカする気はする。素面でいたくはないけど、酔ったらもっと感情のコントロールは効かなくなる。きっと彼女は既にこんな気持ちの処理の仕方を知っているのだと思った。
「茜も息吹も……、理由……聞かないんだね 」
「……全部が全部、共有するだけが友達じゃないからね 」
「……えっ? 」
「ごめん、これは朱美からの受け売り。昔、私がピンチなとき、助けてもらったんだ。いろいろあって家に帰れなくなったことがあって。そしたら避難したビジネスホテルに一目散に飛んできてくれて。あのときは朱美は締め切り前でかなり忙しそうだったんだけどね。あのとき、アイツは私にその理由は聞かなかった。まぁ、ワイドショーとかでやってたからさ、気づいてはいたと思うんだけど 」
「……そんなことがあったんだ 」
知らなかった。
そもそも朱美とちゃんと話すようになったのはここ二年だし、四人で遊ぶようになったのは一年くらいの話だ。
それに今更だけど、自分はまだ茜のことは本当の意味ではよく知らないし、知ろうともしたことがなかったのかもしれなかった。
「桜ねぇ、あのね…… 」
「なに……? 」
「私…… まだ、桜ねぇに話してないことがあるんだ 」
「……はなし? 」
「うん…… 全然人に誇れる話じゃないし、神様に見つかったら見放されちゃうような酷い話…… 」
「…… 」
桜は言葉が出なかった。
神様に背いたのは今の自分だ……
そして自分では処理しきれなくて、こんな風になっているのに、自分はあまつはてに茜の過去まで抉っているではないか……
「茜、ごめっ、私のせいで、思い出したくないことを…… 」
「ううん…… でもね、だから私たちは知り合えたんだよ…… 」
「えっ……?それってどうゆう…… 」
「だからね私はみんなと知り合えて……
神様にラストチャンスを与えてもらったって思うようにしてる…… 」
「……? 」
「違ってたらごめん……
でも私は桜ねぇが取り乱した理由…… 何となくわかる気がするから 」
茜の言っていることがわからない……
だって、その言い方じゃ……
完全にこちら側の人間ですと言っているようなものではないか……
心臓の鼓動が早くなるのがわかった。
それは自分だけなのか茜もそうなのか、そこは問題ではなかった。
茜は桜を向き直り彼女を見つめると、違ったら本当にごめんと再び前置きをして、ゆっくりとその口を開いた。
「私ね、職場で不倫してたの…… 」