朝 漫画家と漏水修繕屋とレモンサワーと
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「ぷはっー やっぱ完徹明けの泡は、細胞の隅々に染み込むわー 」
「ちょっ、朱美っっ。ジョッキで一気に飲み過ぎでしょ。潰れても、私らは運ばないからね。明日も仕事だしー 」
朱美の脳天気な発言に突っ込みをいれたのは、友人の山辺息吹だった。耳にはパールの一粒ピアス、ミディアムくらいの黒髪を一束にまとめ、胸元が見えそうで見えないバッツリシルエットの白シャツスタイルが今日も決まっている。そんなコンサバ女子にツンツン態度でこられたら、普通は言うことを聞きたくなるものだだが、朱美の場合はいつも例外だった。
「息吹は、直ぐにそういう事ばっかし言うー。いいの、今日だけはっ…… 」
さっきまでのジャージ&すっぴんメガネから、少しは色気のある姿になってはいたが、相変わらず態度はのんびりだ。朱美は少し甘えた口調で言葉を発すると、壁にパタンともたれ掛かる。
「そのセリフ、十日にいっぺんは聞いてるよ? つーか、あんまりデカい声を出さないでよ。周りの人たちはモーニングなんだし…… 管を巻いたら目立つからねっ 」
あの深夜というか早朝というか、とにかく凄まじいまでの締め切り攻防戦はなんだったのだろう…… と呆れるくらい、朱美はあっけらかんと酒を飲んでいた。
吉岡がこんな朱美の様を見たら、その場で富士山噴火並みの怒りを撒き散らすのは間違いない。
ここは東京駅八重洲地下街の、二十四時間営業の大衆居酒屋チェーンだ。十一時まではモーニングも並行しているが、朝九時のオープンと共に酒も出してくれる。
地下だから太陽の明かりもなく、しかも酒を飲む場合は、奥の薄暗い間接照明の効いた空間に通してもらえる。半個室で朝からゆっくり酒が飲めることもあり、彼女たちが月に一回は訪れる馴染みの店だった。朝の十時にも拘わらず、卓上にはエイヒレ等の乾きものから、焼き鳥、ほっけの開きまで、アラサー女子にしては渋いラインナップが並んでいる。
「朱美。で、今週の締め切りは守れたの? 」
息吹はサワーに入れるレモンをグイグイと絞りながら、朱美に切り出した。息吹と朱美は埼玉の女子高時代からの腐れ縁だ。学生時代は活発グループと、オタクグループで仲はそれほどよくはなかったが、社会人になってから参加した同窓会で酒好きという共通点が分かり、意気統合した友人関係だった。
「ううんー、とりあえず間に合ったけど、ヤバかったかなー。原稿で必死になって、扉のカラー忘れてたし…… まあ、ぼちぼちだね 」
朱美は悪びれる様子もなく、枝豆を摘むと、またゴクリと生を一口含む。
「って、忘れてたって、それは大丈夫だったの? 」
息吹は絞り立てのレモンをサワーにぶち込みつつ、呆れた表情を浮かべた。朱美も卒業後は数年、普通の社会人をやっていたらしいが、本当に完遂出来ていたのか怪しいもんだ。
「うん。ほぼ趣味で描いていたカラーが幾つかあったから、それで代用しちゃった。私はね、単純にイラストを描くのは好きなんだよねー 」
「じゃあ、何? 漫画は嫌いってわけ? 」
「もちろん嫌いじゃないけど、漫画は私には向かないなー、って思うことは多々あるかも。私は元々は絵を描くことが好きだったから。漫画はストーリーとか構図を考えるのが大変だなんだよね。私はストーリーの展開とか、その場の思いつきで話を決めてしまうタイプだし、そもそも恋愛偏差値が低いもん。話の続きとか結末とか、全然思いつかないんだよね。ストーリーの大半は、妄想と瞑想と友達の経験談だし…… 」
「何? その、友達の経験談って。それって、完全にうちらも利用してるでしょ? ギャラを払って欲しいわ 」
「いや。完徹同盟の話は……あんまり出てきてないよ。っていうか、皆そういう話しないじゃん 」
朱美はケロッとした表情で言い返すと、砂肝に手をかけた。串を持った右手のひらには、まだ真新しいインクの汚れが残っている。
「まあ…… うちらは夜中も働いちゃうような、仕事バカだしね 」
「そうだよ。だからあんまり、参考にならないんだもん 」
朱美はそう呟くと、次の酒を物色し始めた。本当は芋を飲みたかったが、完徹明けの自分のコンディションと、現在の自分の年齢をや加味すると、今日の場合は止めた方がいいのは、これまでの失敗から学んでいた。
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神宮寺アケミこと神寺朱美は、世間でもそこそこ名の知れた少女漫画家だった。
特に評判がいいのは、柔らかいタッチの絵で描かれるラブコメテイストの作品で、主に高校生から二十代女子に支持されている。今の連載が今年の冬からアニメ化されることもあり、朱美の所属する出版社では大切な戦力として扱われていた。
今日は朱美の隔週連載の締切明けで、例によって仲間内で飲み会となったのだ。いつもなら四人で集まるのだが、今日は珍しく二人からの酒宴のスタートだ。
年々、自分や自分が連む友達の、恋愛偏差値が低下していることには薄々気付いてはいた。あまつさえ、自分の場合は女子力も著しく低下している。
つい先程まで、すっぴん かつジャージにメガネで、どうしようもない身なりだったのだ。今は薄くではあるけど化粧もして街を歩けるくらいにはなっていたが、それでもゆったりマキシワンピに楽々サンダルのスタイルで、自称ラブコメ漫画家を名乗るのは、少し図々しいかも知れない自覚はある。
「前の会社の友達に、最強の恋愛マスターがいたんだよねー。二人ばかし 」
朱美はホッケをつまみつつ、粛々と話し始めた。
「そんなことだと思った。じゃあ、その人たちに聞けばいいじゃん 」
「それがさあ…… その友達たちは 最近 結婚しちゃったんだよね。人妻なんだもん。もうネタ収集は、絶望的なんだよね。聞いたところで不倫愛憎劇とか語られたらイヤだし 」
「じゃあラブコメは止めて、異世界系とか能力系とか職業系に転向したら? 」
「いや、その辺はもっと無理だ。私は血とか怖くてかけないし、モンスターは画力が追いつかないし、前の仕事は総菜屋の店長だけだから、総菜仕事漫画しか描けないもん 」
「それなら仕方ないじゃん。諦めて、自分に出来る漫画を描きなよ 」
息吹は言いつつ、徐にカバンからシガレットケースを取り出すと、タバコとラインストーンの付いた乙女ライターを取り出した。
「息吹こそ、最近はどうなの? 」
朱美が話を切り替えようと、息吹に話を振った。といっても、月に三回は会う間柄だから、大した近況の変化がないであろうことは、想定の範囲内だ。
「どうって聞かれてもね。仕事は相変わらずだし。うーん、強いて言えば最近は寄って集って、口説かれて困ってるんだよね。まあ、嬉しいから良いけど 」
「何、それっッ? 」
想定が違った!?
これからは、息吹の実体験を聞けばいいじゃん!
朱美は自然と少し前のめりになって、息吹の目を凝視し始めた。すると息吹はなんだか不敵な笑みを浮かべると、壁に向かって煙を吐き出し、ゆっくりと朱美を見返した。
「ちなみに朱美の期待には沿えないよ。これだから…… 」
息吹は自分の鞄に手を突っ込むと、その中からピンク色のゲーム機を取り出し電源を入れた。立ち上がった液晶画面を自慢げに朱美に見せる息吹の表情が少し悪い顔をしているのは、多分気のせいではない。
「三次元の配水管屋さんたちは、残念だけど私のことを女子って認識してないからね。それに私は、細身系のイケメンがいいし 」
「なんだ、乙ゲーか…… っていうか、息吹って二次元とか興味無かったよね? 」
「ものは試しでね。職場のお姉さま方が貸してくれてさ。十二人の兄と弟が入れ替わり立ち替わりで、私にアプローチしてきてさ。フルボイスで本気でやりたくなっちゃったから、買っちゃったんだよねー 」
「ああ、そう。多分、世間の男性陣は息吹みたいなキレイ目女子が、乙ゲーにハマってるって知ったら、多分凄く困惑するんだろうね。っていうか、十二人の兄弟が迫ってくるって、ちょっと気持ち悪っッ 」
夜勤生活を長くしていると、夜のゴールデン帯のテレビも見られないし、友達ともなかなかスケジュールが合わなくなって、そのうちお声も掛からなくなってくる。そして徐々に娯楽が減ってきて、オタクでもないのにゲームに嵌まり、そのうちに究極の娯楽とも言えるギャルゲーや乙女ゲームに手を出す人も多い。息吹はまさにその典型だった。
「やっぱり夜勤が続くと、病んでもくるじゃん? ぺーぺーだと、深夜工事の立ち会いばっかやらされるからね。女子だからって差別されないのも、良いんだか悪いんだか 」
「ふーん、やっぱり息吹は夜型生活は嫌いかー 」
朱美はやや残念そうな表情を浮かべると、そのまま次に飲むドリンクを物色し始める。
「私は好き好んで、夜行性はやってないよ。そもそも私の専門は配管設計で、工事監督のメリットは地中の水道管を生で見れることくらいだもん…… 」
息吹はタバコの灰を落とすと、小さくホッケをつまみ出した。
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息吹は朱美たちの女子校からは数少ない、国立の土木工学専攻に進学したリケジョだった。
大学卒業後は都の水道局の職員をしていて、最近は漏水を対応する部署にいる。小さな漏水ならば昼間に工事を行うことも多いが、大きな道路に埋まっている水道管の漏水の場合は、修繕工事の汚水を流出させないために、近隣の家やオフィスを断水させて壊れた箇所を直すほかない。そうなると漏水対応は、やはり水の使用量の少ない夜中の工事ばかりになってくる。工事自体は水道局の委託した業者が行うことが常だが、水道局の職員は現場に立ち会わなくてはならないので、自動的に若手の夜勤は多かった。
「相変わらず、あっちこっちで派手に漏水してくれるから忙しいね。やっぱり人間と一緒で、インフラってものは一気にガタがくるんだわ。都内の水道管は、みんなイイ歳だもん 」
息吹はため息混じりに、次のタバコに火をつけようとライターに手を伸ばした。
すると息吹が火を点けたと同時に、卓上の二箇所から不快なガタガタ音が響く。二人のスマホの振動音が、一斉に響いたのだ。
「どっちからのメールだった? 」
息吹は自分のスマホの振動を軽く抑えると、朱美にこう尋ねた。二人同時にスマホが鳴るなら、完徹同盟の他の仲間くらいしかない。
「桜ねぇからの連絡みたい。いま茜とばったり八重洲口で会って、これからこちらに向かうって…… 」
「そっか。じゃあ、直ぐに到着するのかな? 」
朱美からの情報を聞くと、息吹は散乱していた卓上の荷物を隅の方へと寄せ始めた。
「あっ、でも…… 茜のが既に出来上がってるって。桜ねぇからの追伸がある 」
朱美は少し曇った顔でそう言うと、息吹の顔色を窺った。
「それ、いつものことじゃん…… 」
息吹は途中のタバコを口に含むと、動じる様子もなく追加のレモンサワーを頼んだ。