番外編①11月11日 キッスの風景
東京都中央区某所 0時頃
神寺朱美(活動名 神宮寺アケミ)
作業場兼自宅にて
♪
「待ってましたよー、吉岡さぁーんー!!」
朱美は玄関のドアを開けるなり、吉岡の手にしたビニール袋に勢いよく飛び付いた。
吉岡はそんな朱美の様子を見て、思わず大きな溜め息をつく。自分のことを吉岡さんと呼び始めた朱美に対して、ロクな思い出がなかったからだ。終電に乗って無理やり帰路を引き返して飛んできたのだが、何だか拍子抜けだった。
「ったく、急に『ポッキー持って今すぐ来ないと、私もう引退する』って一体なんなんですか…… 病んでんのかと思って、一瞬心配しましたよ 」
「いやー、さっきちょっと思い付いたことがあってさぁーー。多少無理な言い方しないと吉岡来てくれないでしょ。サンキュー サンキュー 」
朱美は相変わらずのオーバーオール姿で、適当に結んだ少し長めの髪を揺らしながら、ルンルン調子で作業場に戻っていった。今日も化粧っけもないし色気もないし、一番の問題はノリが軽いことだった。
担当とはいえ一応他人が家に来るのだし、そもそも少しは整えたりしないものだろうか……
そんな朱美の姿をみて、吉岡は今日二回目の溜め息をついた。
朱美は昨日からネームの佳境に入っていた。締め切りも迫っているし、家から出られない状態なのはわからなくもない。
だか今週はプロットの段階で、ポッキーを食べたりする描写はあっただろうか……?
吉岡は少し首を捻りながらも、靴を脱いで部屋に上がった。もちろん玄関にスリッパは並んでいないから、セルフサービスでスタンドから取り出して履くスタイルだ。今日はいつもにも増して乱雑にスリッパが突っ込まれている気がするのは断じて気のせいではない。朝9時から会社で仕事をしているのに、朱美の担当になってからは何時間働いているのか数えたくなくなるくらい、しょっちゅうこのスリッパを自分で出して履いている気がする。間違いなく自宅滞在時間は日増しに短くなっていた。
吉岡は通常業務で疲れた体に鞭を打ち、作業場兼リビングに足を踏み入れた。すると部屋にはいつものインクの香りではなく、コーヒーの香りが漂っていた。
「珍しいですね、神宮寺先生がコーヒー淹れるなんて 」
「まぁね、チョコにはコーヒーかなぁー、と思って。でも、それは実はデカフェなんだなー。吉岡の口に合うかはわからないけど 」
朱美は真夜中にも関わらず堂々と吉岡にコーヒーを勧めると、さっそくいつもの定位置に鎮座してポッキーを袋から開け始めた。
吉岡はカフェインレスと聞いて、ちょっとだけ安心してコーヒーを口に運んだ。 最近のデカフェはなかなかのクオリティではないか、とちょっと感心してしまう芳醇な香りが鼻に抜けていく。
何せまだまだ一週間は長いから、今晩眠れなくなるのは困る。朱美は吉岡をこんな時間に呼び出して起きながらも、一応一般人は朝起きて夜は寝ることを理解はしているようだった。
「でさぁ、吉岡さーん。一個お願いがあるんだけどーー 」
やっぱりそうきたか……
吉岡は無言でカップから口を離すと、朱美をギロリと睨み付けた。
若干追い詰められているとはいえども、こんな深い時間に吉岡をわざわざ呼び出したのには理由があるハズなのだ。
「なんですか、お願いって? 」
吉岡は半ば呆れ顔で朱美をみた。
俺のお願いは、いつもいつも当たり前のように破るのに、自分のお願いはちゃっかりするんかい。吉岡は朱美にツッコミを入れたい気持ちでいっぱいになった。
「いやー、ちょっと頼みにくいお願いっちゃー、お願いなんだけどぉー 」
朱美は吉岡が買ってきたポッキーを弄びながら、少しだけ上目遣いを仕掛けた。
そんなことをされなくても、吉岡にはどちらにせよ拒否権はないのだが、一応こちらにも選択権はあるような内容なのだろうか……?
「それで?漫画の内容や売り上げに関わる話ですか? 」
吉岡はやや投げ槍に朱美に聞いてみた。
そして朱美は少しだけ考えて、
「うーん、まぁ、そうねーー。売り上げには…… 貢献できそうかなーー 」
と答えた。
ほら、もう俺に選択肢はないじゃないか。
吉岡は三回目の溜め息をつくと、ネクタイを緩めながらこう答えた。
「……交換条件で、僕のお願い聞いてくれるなら考えなくもありません 」
朱美は、よしきた、という表情を浮かべ少し薄ら笑いを浮かべた。
吉岡は若干嫌な予感がしたが、こちらとしてもこの願いが叶うなら千載一遇のビッグチャンスな気がしていた。
「吉岡のお願いって……ちなみに何? 」
「僕のお願いは、シンプルです…… 今後、一生、締切を守ることです 」
「一生…… 落とさない……かぁ…… 」
朱美は吉岡の真剣な言葉に、一瞬固まった……
漫画家として当たり前のことだろ……
と、すかさず吉岡は言ってやりたくなったがグッと堪えた。
だが次の瞬間、
「わかった……守るから…… 」
と朱美はこたえた。
吉岡は思わず少しだけ意外というような表情を浮かべた。
そして朱美は吉岡の返事も聞かず、続けて先制攻撃を仕掛けた。
「だからね、吉岡…… ポッキー咥えて、目瞑ってくれない? 」
吉岡は……
もはや本能で絶句した……
ーーーーーーー
時計は、とうに終電のない時刻を示していた。
ああ、俺は一体何をしてるんだろう……
編集者って、大変な職なんだな……
ここ一年で、ほんと痛感してる気がする……
吉岡はポッキーを咥えもんもんとする感情を殺しながら、ソファーで胡座をかいていた。
横目で朱美をチロリと見ると、彼女は真剣な表情でタブレットで直接デッサンを取っていた。相変わらず長い睫毛をキラリと輝かせて、真剣な表情を浮かべている。
「吉岡、ゴメンねーー。今日、ポッキーの日だからSNSにポッキーゲームの四コマあげようかなーと思ってさぁ…… 」
「……どうせそんなとこだろうと思ってましたよ。こんなことは、彼氏にでも頼んでください 」
すると朱美はすかさず、
「ヒッドーーい!私に恋人がいないの知ってて、そうゆうこと敢えて言う? 」
と声をあげた。
吉岡は、それを無視して仏頂面でまた前に向き直ると、新しいポッキーに交換しつつ目を閉じた。
このやり取りをしてたら、今日は永遠に家に辿り着かない気がした。
何でも朱美は急に今日のポッキーの日にあわせて、放置しているSNSにファンサービスにショート漫画を載せることを思い付いたんだそうだ。海蘊に関しては自分がポッキーを咥えて写メをして事なきを得たが、どうしても豊は構図が決まらなくて困ってたとのことだった。
「いやー、本当に助かった。吉岡、ありがと 」
「……くぁwせdrftgyふじこlp 」
吉岡は敢えてふて腐れたような表情と言葉を朱美に返した。
SNSはいいから本編描けよ、と声を大にして言いたいところだったが、朱美の粋なサプライズで読者が喜ぶ顔が浮かんで、嫌みを言う気分にならなかった。
「キスシーンとかは、ドラマとかアニメとかAVでいっぱい資料かあるんだけどさぁーー。なかなかポッキー咥えてる資料なんてなくてーー 」
「……!? 」
吉岡は反射的にビックリして、また朱美を振り返った。
いま、この人、さらっとAVとか言ったよね?
するとそんな吉岡の表情で真意に気づいたのか、朱美はアッケラカンと、
「観るよ…… AV。キスシーンの参考に 」
と、こたえた。
吉岡は思わず、暫く固まった……
この人には一生敵わない……
吉岡は何だかそう思った。
ーーーーーーー
吉岡は朱美持ちの帰りのタクシーで、さっそく彼女が数ヶ月放置しているSNSを開いた。
するとそこにはいつもお馴染みのキャラが、ポッキーゲームで大照れをするキュン漫画が載っていて、深夜にも関わらず物凄いリプライやらいいねをもらっていた。
どうやら漫画は豊の横顔以外は、既に作り上がっていたらしい。
それにしても豊の横顔は鼻が高い。何だかんだで俺の横顔、かなり忖度してるじゃないか、と朱美に一言言ってやりたいくらい美化されていた。
それによくよく考えたら、海蘊の横顔は朱美がモデルで、豊の方は自分がモデル……、しかも結末がポッキーキスってのは……
編集部には絶対バレたくない弱味を握られたな。
事実に気づいた吉岡は、思春期の中学生のように思わず赤面した。
タクシーが薄暗かったのは、せめてもの救いのような気がした。
それにしても、やっぱり彼女のことは未だによく掴めない。
朱美は普段の原稿アナログ派なのに、一体いつ時間を見つけて、デジタル技術身に付けてんだか……。
チャラチャラしてるようで、でもたまに情熱的で、なんだか不思議な人だよな……
数日もしないうちに、どうせまた締切攻防戦はやってくる。
吉岡はスマホを伏せると、首都高から見える眠らない街の夜景を、暫くの間いとおししそうに眺めていた。