正義の条件
■■■
「織原、ごめん…… さっきは迷惑かけちゃって…… 」
「あっ、いえ。僕は別に大丈夫なんで…… 」
桜はバックヤードに備品を取りにきたついでに、休憩中の織原に声をかけた。
……というのは建前で、本当はただスマホの通知を確認したくて、今日は無駄に裏に引っ込んでいる。完全に副店長の特権乱用だった。山積みの業務報告書が散乱した共有デスクには、剥き出しのままスマホを放り出している。店長がいたら一言注意を受けてしまうだろう、そう思えてしまう有り様だった。
桜は備品のストローの束をを抱えながら、スマホを確認した。
通知は一件。深夜だから誰かから連絡がある方がおかしな話なのだが、桜は食いぎみで宛先を確認をした。
そこにあったのは、いま一番距離を置きたい、人間からのメッセージだった。
桜は思わず深いため息をつくと、内容も確認せずに思わずスマホを伏せたが、慌てて織原の座る方を振り向いた。
織原はポツンと一人珍しく休憩中に持参したと思われるノートパソコンで何かの作業をしていて、一瞬桜に向かって顔を上げたが直ぐに目線を下に戻した。
空調だけが静かに響く空間で、織原がひたすらキーを打つ音がまるで旋律を紡ぐようにリズム良く鳴り続けた。
あれから朱美にも茜にも連絡はついてはいない。
LINEも既読にならないし、電話もメールも繋がらない。二度寝することも出来ず、かといって家で一人でいるのも落ち着かなかった。一体、自分でも何をどうしたいのかよくわからない。珍しく今も鼓動が体中に響いていた。
「……心配ですね 」
「へっ…… 」
織原は手の動きを止めると、真正面の画面を見ながら桜に声をかけた。 織原は珍しく眼鏡を装着していて、彼のレンズにはブルーライトが微かに反射している。眼鏡のせいでハッキリとは見えないが、顔色は冴えず何だかクマも酷く見えた。
「僕には事情はわかりませんし、首を突っ込むべきではないのは承知してるんですが…… すみません…… でも、やっぱ知ってるお客さんだから…… 」
「いや、もう既に織原のこと巻き込んでるから。こっちこそごめん 」
桜はスマホを握りしめると、ぎゅっと目を瞑った。桜は正直、この経験したことのない気持ちを、どう消化したらいいのかがわからなかった。若気の至りで、数多の修羅場は区切り抜けてきたし仲間の身だって案じてきたからら自分には耐性があると思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
「こうゆうとき何もしてあげられないのってむず痒いね 」
桜が無意識に発した言葉を聞いた織原は、ゆっくり顔を上げ難しい表情を浮かべた。
「連絡は…… まだ取れてない感じ……なんですね 」
「そうなんだよね。今日は確か合コンに誘われた日だったから…… うまく出掛けてて、回避出来てればベストなんだけどね 」
「合コン…… 」
織原は目を見開いて桜に見直った。
こんなときにどうかと思うが、織原は桜の口から出た意外なワードに少し驚いた素振りをみせた。
「私はそうゆうのは行かないし、仕事もあるから行けないけどね。けどこんなに不安になるなら、エントリーしとけば良かったね 」
桜は苦笑いを浮かべると、電子タバコを手にして火を点ける。その様子をみながら、織原は複雑な表情を浮かべて桜に何かを言いたそうにしたが、その言葉を飲み込み小さく首を横に振った。こんなときに別のことで動揺する自分の稚拙な発想には、心底自身を軽蔑せざるを得なかった。
「あの…… 」
「……?」
「遠藤さんにとって、神宮寺先生は大切な友達なんですね 」
「そうみたいだね。私は、それついさっき気づいた 」
煙をフッと吐きながら、桜はふと時計を見た。休憩時間でもないのに、煙草を嗜みながら油を売る訳にもいかない。
桜は再び備品を抱える。すると織原が突然こう切り出した。
「あの……、差し出がましいですけど…… 」
「何……? 」
桜は少し不思議そうな表情を浮かべて織原を見た。何だかいつもより彼が自ら声をかけてくれる。彼は目も合わさずに、相変わらずパソコンのディスプレイを見つめていた。
「冷蔵庫にさっき夜食に作ったミルク粥入ってますんで、良かったら後で食ってください。遠藤さん、あんま夜は食わないと思いますけど 」
桜は少しビックリして織原を見た。賄いを彼が作ってくることはよくあるが、自分の精神状況まで考えてくたメニューであることが意外だった。
そんな彼は相変わらず彼は背中を少し丸めながら、作業を続けていた。
「ありがと、織原 」
桜は少しだけ笑みを浮かべ織原に礼を言うと、またホールへと向かった。
自分がこれほど動向を気にしてしまう友達ができるなんて、数年前を考えると全く想像できなかったことだ。
朱美も息吹も茜も、過去の自分のことはよく知らない。そして詮索もせずに、今のありのままの自分と仲良くしてくれる。
そして見返りもないのに、心配をしてくれる同僚までいる。
朱美に何かったら、今の私も昔の血が疼くんだろうか……
桜はふとそんなことを考えた自分に対して、首を大きく横に振り、戒めるように気持ちを切り替えた。
■■■
ガチャリ……
翌朝、朱美が物音で目を覚ますと、吉岡の姿は既になかった。
遮光カーテンからはみ出した朝日が、容赦なく朱美の顔面を目掛けて突き刺してくる。壁時計の時間を見ると時刻は朝の7時前だった。いつも寝る時間に目を覚ますなんて何だか新鮮な気分だ。
いくら仕事場兼自宅とはいえ妙齢の男女が二人。
成り行きで一晩、仕事でもないのに一つ屋根の下で過ごしてしまった。自分も隙はみせなかったが、向こうは向こうでしっかりしていた。それに二人ともそれなりに疲れていたのか、ビール一本であっという間の大爆睡だった。
朱美は肌掛けを剥ぎながら、ロングファーにから這い上がった。いつも吉岡が座っている指定席の一人がけのソファーには、律儀にタオルケットが畳んで置かれていた。
そしてふと視線を下に下ろすと、テーブルには見慣れた文字で、裏紙に置き手紙が書かれていた。
※※※
神宮寺アケミ様
編集長から連絡ありました。
新訳公論のチームが、いろいろ圧力かけてくれて、少し事態は好転してくれそうです。
とゆうわけで、僕は一度社に戻ります。
電気はつけてもいいですが、念のため神宮寺先生は、部屋からでないで一日をお過ごしください。
追伸
今晩、原稿回収するので、コピー取って最終チェックよろしくお願いいたします。
吉岡
※※※
朱美は小さく吹き出した。
忘れていたが、私たちはそれ以上でもそれ以下でもない。
自分と吉岡の関係は漫画家と担当者編集者だ。
朱美は玄関に向かうと、新聞受けから鍵を拾った。鍵が落ちる音がするまで朱美は吉岡の気配に気づかなかった。
吉岡が朱美を起こさぬように、静かに過ごして部屋を後にしたのか、それとも自分が吉岡に心を許していて気づかなかったのか……。
朱美は鍵を胸の前でぎゅっと握りしめると、暫く裸足で玄関に立ち尽くしていた。
■■■
流石に連日の睡眠不足にこんなピーカンの日差しは、タフネスに自信のある吉岡でも堪えるものがある。
昨日は動いたり肝を冷やしたりでかなり汗をかいたハズなのに、シャワーも浴びずに、また新たな一日がスタートしてしまったのだから仕方もない。
吉岡は慣れた捌きでマンションの裏口から外に出ると、辺りをサラリと見渡した。
部屋を出る直前にベランダから確認した感じでは、マスコミはだいぶ減ってはいたがまだ油断は出来ない。
少なくとも自分だったら諦めないことが、手に取るようにわかるからだった。
吉岡は慎重にマンションの正面玄関側に歩を進めた。
玄関先の歩道にはまだ数人の関係者がいるようだが、長期戦特有の装備をした風でもない。
それに横目で見た感じ、男性記者ばかりだし知った顔もなさそうだ。
これなら自宅に帰って休憩してから、社に向かっても問題はなさそうだ。
吉岡がスイッチを切って、駅に向かいだそうと気持ちを切り替えた刹那、真後ろから聞き覚えのある声がした。
「吉岡くん…… 」
吉岡は耳を疑った。
この甘ったるい声、記者と思えぬ語り口調、吉岡はその声を振り返った。
「小暮……さん……? 」
「やっぱり、そうだ。吉岡くん、久しぶり…… 」
「どうしたの…… 朝からこんなところで 」
吉岡は平静を装いながら声の主を見た。 想定はしていたが本当に彼女がここにきているとは、どこか半信半疑だった。
小暮美和子は相変わらず張り込み中の記者と思えぬ出で立ちで、こちらを見ていた。朝から胸の谷間がちらりと光るペイズリー柄のワンピースに、ピッチリとしたジャケットを纏い、ややローではあるがピンヒールを身につけて、肩からは大きな鞄を提げている。
「それは、こっちの台詞よ。吉岡くん、ここに引っ越しでもしたの? 」
「あっ、いや…… 君こそ、でっかいカメラ引っ提げて、物々しいじゃん。なに、取材かなにか?」
「まーね。私、S出版辞めてからは、いまはM出版のフリーランスの記者やってんの。いまは貼り込み中ってとこ 」
「貼り込み?物騒だな…… なに?ここに犯罪者でもいるの?」
吉岡はいいつつ彼女の身なりを更に観察した。綺麗にしてはいるが、自慢のショートカットのボリュームがない辺りやコーヒーの香りがキツイ辺りを加味すると、昨日から近くのパーキングに止めた車を拠点かなにかにして、ずっと張り付いていた雰囲気だった。
そしてこちらのクスリも効いてくれない厄介な相手なことも、容易く理解できた。
「スパーキン須藤と御堂茜の不和の記事、知らない?いま、わりとタイムリーなんだけど 」
「あぁ…、確か週刊秋冬の中吊りに載ってたね 」
「その取材よ。泥酔の御堂アナを介抱した友人の女の部屋がここに住んでるから。ただ、まぁ、取材ストップかかっちゃいそうなんだけどね。なんか、介抱してた女、業界関係者みたいで圧力かかってさ 」
その圧力かけたの、俺だわ……
吉岡はスマホを取り出し、何かを検索する振りをすると美和子にこう話した。
「へぇー、小暮さんが書いた記事なんだね 」
「そーよ。私が記事にしたの。御堂茜なんて今は凄い下火だし、どうかなー、とは思ったんだけどね。スパーキンは、いろいろ曰く付きだし、御堂も元々は左遷同然でラジオに出向してるようなバカだしね。思ったよりは化けてくれて助かったわ 」
「そっか…… それは忙しそうだね…… まぁ、頑張って…… 」
吉岡は話を畳みにはいったが、小暮はそれを恐らく承知の上で無視をするとさらにこう続けた。
「で、吉岡くんは何でこんなとこにいるの? 引っ越した? 前は確か、神楽坂の下宿だったよね…… 」
「今も家は神楽坂。ここは…… 」
吉岡は少しだけ間を取ると、そのまま続けて、
「……ここは、姉貴んち。夏風邪でかなりの熱だしたらしいから、看病しにきてた。そのまま泊まってたから、これから、一旦自分ちに帰るとこ 」
と冷静を装い、切り返した。
吉岡には姉などいないのだが、うまく切り抜けるには咄嗟にいい言い訳が思い浮かばなかった。
「………そう。それは……大変だったね。お姉さん、お大事にね…… 」
小暮は少しだけ神妙な面持ちを浮かべるとそう言った。
相変わらずその代わり映えのしない表情からは、何を考えているのかわかりずらい女だった。
「あっ、うんまぁ、そうだね。あっ、じゃあ 」
吉岡は小暮に背を向け、再び歩きだした。
深追いはされなさそうだ。助かったと小さくため息をついた瞬間、再び小暮は吉岡に声をかけた。
「ねぇ、待って 」
小暮はゆっくりと吉岡が振り向くのを待つと、彼が返事をする前に一方的に話を続けた。
「吉岡くんってさぁ、まだ隔週キャンディーの編集部にいるの?」
「まぁ、そうだけど…… 」
「吉岡くんって、元々記者志望じゃない。せっかく一年目で週刊紙配属になったのに、ジョブローテで異動して、そのまんま少女雑誌に居着いちゃってさ。漫画家の担当とかやってて楽しみとかあるの? 」
想像以上に唐突な内容だった。
普通、朝からそんな話をするか?
吉岡は感情を殺しなるべく声に起伏がないように、小暮の目を見てこう返した。
「……まぁ、会社が僕の適正はここって言ってくれてるからね。だから自分の才能は生かせる場所って、本人よりも他人の方が客観的に見てくれてるのかな、とは思うし 」
「ふーん。なんか、話聞いてると勿体無いね。若いのに。もう守りに入っちゃってなるよね。しかも昔の吉岡くん、若いのに、なかなか良い 記事、探し当ててたじゃん。あのA市の不正献金事件とか、もはや伝説だよ? 」
「あれは…… 」
吉岡は言葉を失い口を閉ざした。
もう何もかも忘れて、逃げ出してしまいたい深いところに追いやった記憶を、いつも小暮は強引にこじ開ける。
あの記事を書いたことも、彼女に助けを求めた自分の弱さも、何もかもやり直したい苦い経験だった。
「…… 僕そろそろ。これから仕事だから 」
「あっ、ごめんね。引き留めちゃって 」
「いや、大丈夫…だよ。じゃあ…… 」
これ以上は、いろいろな意味でマズい。
吉岡が今度こそと、彼女の脇を通りすぎようとした瞬間、小暮はいきなり吉岡の肩に手をかけこう呟いた。
「ちょっと、待って…… 」
吉岡は、ギョット小暮の方を振り向く。
明らかにパーソナルスペースを越えた距離感だが、昔の関係性を考えると許容範囲なのかもしれなった。
「私が待ってる、このマンションの住人はね、神寺さんってゆう人よ 」
「いいのかよ。そんな個人情報を、俺なんかに話して…… 」
「もちろん駄目でしょうね。いまの私たちの立場は、ライバル出版社の従属通しだし 。でもまぁ…… 」
「……なんだよ 」
話を焦らす小暮に、吉岡は少し刺々しく応えた。
その吉岡の様子をみた小暮は悪い表情を浮かべた。
「まぁ、元親しい友人って観点で、情報提供したことにしておくわ……。それに…… 」
小暮は少し間を置いてから、思い切り吉岡の耳元に背伸びをすると、囁くようにこう続けた。「私の推理が正しければ、今日の吉岡くんのお姉さんは、神寺さんってことになるからね。だからお姉さんのことを、よく知っとく権利はあるのかな…、ってお節介 」
「……はぁ、お前……何いってんだよ……? 」
吉岡はハッと我に返ると、小暮を軽く振り払いしっかりと向き直った。
今回の件が偶然なのか、それとも彼女の壮絶なイタズラなのか、頭の中はいろいろな可能性が駆け巡っていた。
「私、いまM出版の記者だって言ったでしょ?吉岡くんって、そんなバカだったっ? 神寺さんのことは、あなたが一番よく知ってるじゃない? 」
「まさか…… 」
「まぁ、一応吉岡くんとは、とっても親しいドライな関係だったからね。あんなにパッタリ切られちゃったから、ちょっとモヤモヤはしてたんだよね……
私みたいな物書きなんて、ただの自信過剰な自己陶酔者で、おまけにザゾだからね。いくらドライな関係でも、相手から切られるのは許すわけにはいかないのよ…… 」
「はぁぁ?お前、何いって……? あれは…… 」
吉岡は言いかけた言葉を飲み込むと、ふっと息を吐いた。
歪んでいる。何を言ってもこのタイプの人間には、かつての自分がそうだったように、言葉は伝わらない。
「まぁ、いいわ。私にも今はちゃんとした彼氏いるし、ちゃんとあなたのことは、思い出の一部として捉えてる。それ以上でもそれ以下でもない 」
俺にとっては、完全な黒歴史だよ。
「もしかして、吉岡くん…… 」
「…… 」
「自分にそんなに思い入れてもらえるよう、価値があると思ってた? 」
吉岡は小暮の問いを静かに無視すると、駅に向かって歩き出した。
俺は違う。もう弱い頃の自分じゃない。
自分はあの頃、思い描いた正義の味方にはなれなかった。
きっと沢山の人を傷つけたし、自分もそれなりに深手は負った。
真実を振りかざすことの責任を、この先も自分には背負い続けていく自信はなかった。
けれども、ひとつだけわかったことがある。
自分は、人を追い詰めることを正義とは言いたくなくなかったのだと。