目には見えない境界線①
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「というわけで山辺さん、君しばらくの間、夜勤禁止ね 」
「えっ? 」
ここは都内某所にある水道局管轄の事務所の一室。
今日も夜勤の息吹は出勤するや否や、作業着に着替える猶予さえ与えられず 上長に呼び出しを食らっていた。
「あの、それじゃあ 深夜の漏水対応は…… 」
「それは暫くは佐藤くんにやってもらうよ。山辺さんは 昼間の管の入れ換え作業の立ち会いを メインでやってくれ 」
「あの、なんで、また急に 」
「理由に 心当たりがないと? 」
「はい。あの、私思い当たるようなミスをした記憶がないんですが 」
「当事者は無自覚か。これは思ったよりも重症だな 」
「……? 」
別に上司のことは苦手ではない。
だけど定時勤務を愛する上司が、夜勤の息吹が出勤するまで事務所にいるイレギュラーは、なんだか嫌な予感がしていた。
夜勤を長くしていると、上司に会うということは だんだんとイベントのような扱いになる。だから普通上司に呼び出されたら焦るとか構えるとかしそうなのに、息吹は至っていつも平常心だ。そもそもドキドキしようもない。こちらは清廉潔白で市民のために働いてるから、こそこそする必要がないのだ。
あまりにも堂々としている息吹を横目に、上司はハアとため息をつくと、頭を抱えてこう口を開いた。
「山辺さん、君さ働きすぎなんだよ 」
「はい? 」
「ちょっと、これを見てみろ 」
そう言いつつ、上司は息吹の前に一枚の紙を突きつけた。それは息吹の勤務表をプリントアウトしたものだった。
「山辺さん、今月も残業時間が三十五時間まできてるんだよ。暫くは君を不要不急に残業させるわけにはいかない。俺の目の届くところにいてもらう 」
「……はあ。じゃあ、私は要らないってことですか? 」
「誰もそんなことは言ってないだろ。こっちだって断腸の思いなんだ。地方公務員は協定こそ結んではいないけど、だからと言ってルールを逸脱していいわけじゃない。法律は守らなきゃいけないんだ。山辺さん、そもそもちゃんとサブロク協定を理解してる? 」
「それは…… 」
「そんなことだろうと思ったよ 」
上司はあからさまにゲンナリした表情を浮かべると「これを見て少し勉強しろ」と、一冊のホチキス留めのレジュメを差し出した。表紙には【だれでもわかるサブロク協定】と書かれていて、何だか以前にも貰ったような疑視感が沸いていた。
「現に君の技術力と仕事振りを買って、このザマだ。山辺さんは十分働いて貢献してくれてる。だけどそれは暫く日勤で発揮してくれ 」
「……でも 」
「でもじゃない。君が納得出来ないのはわかる。だけどな、一人欠けただけで成り立たないパーティーは組織とは言えない。一人にピンポイントで仕事が集中しているのが、そもそも駄目なんだ。君のチームには他にもメンバーがいるんだから。まあ、他の奴が仕事をしないとか、能力が足りてないっていうのは、我々のような立場のマネージメント力の問題でもあるけどな 」
「はあ 」
「この時期は管の交換作業も立て込んでる。なにも漏水対応だけが我々の仕事じゃない 」
上司が言っていることは正論だ。ここは食い下がっても結果は何も変わらない。
息吹は仕方なく「わかりました 」と言うと、上司に一礼する。今晩も現場回りは六件あるし忙しくなりそうだ。さっさと茶番は終わらせて、少なくとも今日の夜勤には集中しよう。
だけど……
今日に限っては、話はそれで纏まらなかった。
「だからね、山辺さん 」
「まだ、何か? 」
「来て早々で悪いけど、今日は帰れ 」
「はいっ? 」
「緊急の用件もないし、今晩の当直は佐藤くんと俺で回すから 」
「えっ 」
「山辺さんもプライベートは、大事にしていいんだからな。君はもう新人じゃない。もうがむしゃらに働く時期は終わったんだ。だからもっとライフワークバランスは大切にした方がいい 」
「……ちょっ 」
息吹は反撃の余地を与えられることもなく、突如として戦力外通告を受けることになった。
◆◆◆
よく公共工事はこんなことを言われる。
余った予算を消化しようと、役所が必死に案件を詰め込んで、年度末の冬になると工事が集中するのだと。
別に躍起になって、その主張を否定するつもりはない。だけど冷静になって考えてみると、そんなに簡単に分厚いアスファルトを切り開くことは出来やしないのは一目瞭然だ。
世の中で何か物事を動かそうとすると、大抵のことにはお金が必要になる。それが税金を使わなくてはならないことならば、特に慎重に吟味しなくてはならない。年度始めに割り振られた予算を工面して、老朽化した地域の管の交換も必要だし、新規に公道が開通する地域があれば そこにも水道を引かなくてはならない。そのためには調査、測量、設計の発注を経て、業者から設計等が納品される。そして工事入札が完了し、落札業者が工事の準備を整え工事開始するころにはすっかり秋の装いだ。
つまり冬から年度末の季節というのは、公共工事に携わる者としては、猫の手も借りたいくらいの忙しさがある。管理する行政の立場としては直接何かをするわけではないけれど、管轄地域で同時に行われる工事の数々を、昼夜問わず監督しなくてはならない。それに突発の漏水の対応も待ってはくれないのだ。
息吹は専門職で水道局に入都した。
そんな自負もあるし、求められる人材になるために、多少の犠牲を払って身を粉にして働いてきた。
この仕事については、何年も季節の巡りを体感して一通りのことは理解しているつもりだ。だからわかる。なんと言っても一年の中で、いまこの時期から年度末が正念場なのだ。
頭ではわかっている。
自分で蒔いた種だし、自分の管理不足と要領の悪さが起因したミスだ。
いちばん頑張りたいときに、戦線を離脱しなくてはならない。自業自得の四文字が、これほど悔しく感じるのは初めてだ。
だからこそ……
この采配は堪えるものがある。
週明けから、暫く日勤か……
乱れに乱れた体のサイクルは間違いなく安定するだろうし、野上とは会いやすくなる。完徹同盟のみんなとは時間帯が合わなくなるかもしれないけど、それは休日に早起きすればなんとかなる。だからそこは大した問題ではない。日勤になれば良いこともあるはずなのに、なんとも言えないモヤモヤした感情が自分の心に渦巻いている。
不安の二文字が頭から離れない。
自分が必要とされないのが怖い。
水道局を追い出されるようにして後にはしたが、息吹の足は自宅には向かなかった。
目当ての相手に会えるかはわからない。だけど他にこの微妙な仕事の悩みを聞いてくれる人が思い浮かばない。そもそも相手が出勤しているのかは定かではないけれど、そんなことを確認する気も回らなかった。
以前、ここには朱美に連れられて何回か来たことがある。
当時と外観は変わらない。ガラス張りの店内には疎らに客が数人いるだけ。だけど会いたい本命の姿は、ここからは捉えることが出来ない。
息吹が向かった先。
それは元総長の影の努力家、遠藤桜が副店長を勤める センタータオブトーキョーに鎮座するファミリーレストランだった。