切り抜かれた朱美
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「ふー、取りあえず、終わったーっ」
茜がバタバタと局の廊下を走り回っている頃、朱美は手についたインクを洗いながら洗面台の前で満面の笑みを浮かべていた。
最終的にコピーを取ってから多少の微調整はするだろうが、概ね原稿は完成といって問題ないだろう。朱美は装着していたインク避けのエプロンを外すと、勢いよく洗濯機へと突っ込んだ。たまに近所のスーパーに買い出しに出掛けたりはしていたが、数日ぶりにゆっくり外界に出られるのだ。いまの朱美にとっては、それだけでも普通に嬉しいことだった。
「締め切り守れなかったら、合コンはなかったことにしますっ…… 」と、吉岡に散々釘を刺され続けた二週間だった。
吉岡はネームが終わるまではと、ほぼ毎日のように押し掛けてくるし(とゆうか夕方に起こしに来る)、終電近くまでリビング作業兼監視をするから息抜きに桜の店にも行く訳にもいかず、とにかく息苦しい日々だった。
やっとの思いで作画に入ってからは吉岡は来なくなったが、物理的にペン入れは自宅でしか出来ないから、夜行性の朱美が逃げだせる場所などあるはずもなくひたすら作業をするしかなかった。
しかも朱美は一見いい加減そうだが、こだわり屋かつ若干の人見知りでもあるから、隔週連載にも関わらずアシスタントは画力かつ人間性でも信頼を置けるマリメロンと伊藤の二名しか雇っていない。しかも二人とも自分のweb連載の原稿や同人活動があるときは、そちらを優先してもいいとゆう条件で働いて貰っているので、モブや背景も朱美自ら描いているのが大半だった。
朱美は途中で挫けそうになることもあったが、結果としてそれで良かった。作画期間は睡眠時間は三時間以下ではあったが、それは毎回のことだし、締め切り一週間前にアシスタントに来てもらって仕上げ作業を残すのみなんて状況は、吉岡が担当に変わってからは初めてだったかも知れない。朱美は部屋一面に原稿を並べてインクを乾かす準備を完了させると、また再びルンルン気分で洗面台へ向かった。
朱美は慣れた手つきで髪の毛にワックスを少量つけると、手早くサイドに編み込みを作り髪の毛を纏めていく。本当ならば美容室に行って中途半端な長さのセミロングヘアや前髪を整えたかったのだが、流石に原稿に余裕がなくてそこまでのケアはできなかった。総菜屋時代の身だしなみマニュアルを守るために培ったテクニックが、意外なところで生かすことが出来て、朱美は少しニヤニヤしてしまう。
あとはお化粧をして、ネーム中に吉岡の目を盗んで、ネット通販で慌てて購入した合コン必勝コーデセットに身を通せば準備は完璧だ。夏を意識した水色系の花柄のトップスに、アンクル丈のガウチョパンツ、そこにラメが少し入ったストッキングと、踵の低めなサンダルを合わせる。アクセサリーはシンプルに、揺れるタイプのピアスだけにした。我ながら悪くない組み合わせだ。
時刻は十七時ちょっと前だった。ぶっちゃけ朱美は既に十数時間起きているが、そんなことはもはや些細なことだ。
待ち合わせは女子チームの軽い打ち合わせも含めて、取り敢えず十八時に新宿の紀伊国屋書店の前とゆうことになっていた。新宿三丁目駅から紀伊国屋まで歩く時間を考えると時間に余裕はない。息吹はともかく他の二人は最近は殆ど接点がない友達だから、遅刻する訳にもいかないし、いっそうのこと乗り換えなくて済むようにリッチに都営線の駅までタクシーを使おうか…… でもまだギリギリ最寄り駅からでも間に合う時間だしな……
朱美はそんなことを考えながら玄関のドアを閉めると、エレベーターに乗るために廊下を歩きだした。ローヒールではあったが辺りに響くヒール特有の足音が何とも言えず心地がいい。そして締め切りを守れた後の東京の空は、茜色の美しさが広がっている。
朱美はマンションの玄関の自動扉に写った自分のシルエットを最終確認すると、いつものように外へと出ようとマンションのエントランスのガラス扉に手をかけた。だが次の瞬間、朱美は咄嗟に扉をあけることを躊躇した。
玄関前に人だかりができていた……
『一体、何があったって言うの?』
朱美は不思議そうな顔をしながら、恐る恐るマンションの入り口のガラス扉を開けた。するとそこにはカメラを持った記者が数名、何か出待ちをしているような様子で佇んでいて、まさにワイドショーで見かけるあの光景が真下に広がっていた。脚立に座ってテレビカメラを構えている人もいれば、大きなストロボつきのカメラを抱えた人まで軽く十数人の人が集まっていた。
特に聞いたことはなかったが、うちのマンションって芸能人とか住んでいるのだろうか。もしくは何かの取材か逮捕間近の犯罪者でもいるのだろうか? 一応、ここは外れといっても中央区だし、確かに有名人の一人や二人住んでいても不思議ではない。
今日は夕方になっても、こんなに蒸し暑い梅雨の晴れ間だとゆうのに、土日も仕事なんてお疲れ様なもんだ……
朱美は心の中でマスコミ一同に同情すると、玄関の階段をゆっくりと降りた。取り敢えずまだ時間はあるから、やっぱり駅まで歩くとするか。 朱美はマスコミを他所に、彼らの横をスタスタと歩き始めた。朱美のマンションは大通り沿いだから、そのまま歩けば五分とせずに地下鉄の最寄り駅がある。
五メーターくらい歩いたときの頃だろうか。朱美は背後から猛烈に嫌な気配を感じた。なんだか後ろから「あの人じゃないか?似てる……」だの、「それにしては、服装が垢抜けてないか?」やらヒソヒソとした声が聞こえてきた。恐らくマスコミが張っている誰かが、マンションから出てきたのだろう。
野次馬はどうかと思ったが後ろ髪は惹かれる。もし芸能人が住んでいるのならば同じマンションの住人として、適切な距離感とゆうものは構築するべきであろう。朱美は自分自身によくわからない言い訳をすると、その場からマンションの玄関を振り返った。
だがそこには、朱美が予想だにしなかった光景が広がっていた……
ーーーーーー
ブーブーブー……
「……んっん? 」
耳障りなバイブレーションの音で、桜は浅い睡眠から目を覚ました。手探りで枕元のスマホに手を伸ばすと、開かない目を擦りながら液晶画面を確認する。部屋の遮光カーテンの隙間からは、夕焼けの光がうっすらと漏れている。薄暗い部屋の中で急にブルーライトいっぱいの画面を見ると、目が痛くて仕方ない。桜がゆっくりと目を開いて、液晶にピントを合わせる。すると画面には予想外の相手【織原】と表示が出ていて、桜の心中は寝起き早々一気に穏やかさがなくなった。
「もしもし……? 織原? 」
「もしもし…… すみません。寝てましたか? 」
織原の声の向こうからは、店で流れているBGMがうっすらと聞こえてくる。彼は今日は入り時間が早かったのだろうか…… それにしても何故電話をかけてきたのか、桜には見当がつかない。
「別に平気…… どっちにしろ、もう起きる時間だし…… で、どうかしたの?クレーム入った? 」
「いやー、えっと、その…… 店に、遠藤さん宛に変な電話が入りまして…… 」
「電話?わたしに? 」
桜は頭をかきながら手探りで照明のリモコンを探すと、部屋の電気を徐々に明るくした。土日の夕方、しかも自分宛の電話が店に入ることなど今までに経験がない。桜は半裸みたいな状態でベッドから起き上がると「で、用件は聞いた? 」と織原に尋ねた。
「はっ、はい。それが変な内容で…… ミドウさんって方からの言付けです 」
「ミドウ……? わかった。続けて 」
ミドウと言われれば、自分の知り合いには、あの御堂茜しかいない。なんでまた直接自分に連絡すればいいものを、回りくどく店なんかに電話したのだろうか?
「僕も慌ててメモ取ったんで、ちょっとうる覚えな箇所もあるかもしれないんですけど…… 読みますね。『遠藤さん、今すぐアケミさんに、家から出ないでと連絡してください。タクシーに携帯忘れて、アケミさんに連絡とれないから、伝言お願いします』だそうです 」
織原はメモ書きを無感情に読み上げると、以上ですと話を畳んだ。織原には全く意味のわからない内容の伝言だろうが、桜にも伝言の内容はわかっても意味までは理解できない。
「織原、仕事中なのに、わざわざありがと…… 正直、私にもによくわからないけど、朱美には私から連絡してみる。朱美って、あの深夜によく来る漫画家のことだからさ…… 」
「あぁ…… 神宮寺先生って下のお名前、朱美さんっておっしゃるんですか…… 」
「あっ……、織原は気にしないで。アイツにはすぐ電話するから。それに、ミドウにも、連絡してみる 」
「すみません。ミドウさんの連絡先を聞こうとしたんですが、直ぐに切れてしまって。リダイアルしようと思ってたんですが、非通知設定からかかってきてたみたいで、番号わからなくて…… 」
「うん……、まぁ、それは、それはそうだと思う…… 」
「……?」
「あっ、ごめん、こっちの話 」
茜の家には固定電話はないし、もし関東放送のデスクから連絡をしてきているのならば、テレビ局からの外部発信が非通知設定なことも納得がいく。茜はいま手元に携帯がないようだが、とにかく至急朱美に連絡したくて、已む無くネットでうちの店の番号を検索して連絡してきた、といった具合だろうか……
桜は受話器を持っていない反対側の手で、側にあったタバコを一本引き出して加えると、そのまま片手で火を点けた。取り敢えず織原との電話を切ったらすぐに朱美に電話をした方が良さそうなのは、もはやただの勘の領域だ。桜は煙をフーと吐き出すと、織原に再度礼を告げて電話を切った。
全く世話の焼ける友人ばかりだ。
桜はアケミの連絡先を検索すると、早速電話をかけ始めた。
ーーーーーー
「あの……、失礼ですが、何かご用でしょうか? 」
朱美の回りは完全にマスコミに囲まれていた。もう視界に入った全員が私を一心に見つめマイクを向け、フラッシュをバンバンたいてカメラでこちらを見てくる。
眩しい。何だかドラマのワンシーンに出くわしたような、何とも不思議な感覚だった。
「あの、私週刊芸能タイムズの佐藤とゆう者なんですけど…… 」
「えっ、あの……?」
朱美は驚いて、話しかけてきたインタビューアーを振り返った。まさかの展開だった。マスコミの目当ては、まさかの自分だったのだ……
「あの、失礼ですが、御堂アナのご友人ですよね? 」
「えっ、あの、その…… 」
茜は咄嗟に鞄を抱えると、反射的に顔を下に背けた。辺りは薄暗いからフラッシュは眩しいし、何より神寺朱美としても神宮寺アケミとしても写真を撮られたくなかった。
「御堂アナの泥酔は、スパーキン須藤との確執が原因ですか?」
「えっッ!?はいっ? 」
朱美の声は明らかに動揺して、声が裏返っていた。
一体、佐藤とかゆう記者が言っていることが何のことか、朱美にはさっぱりとわからなかった。自分がいまこうしてマスコミに囲まれている理由もわからないし、そもそもスパーキンのことだって名前と声くらいしか知らない。
しかし、それからは、あっという間だった。
一人に声を掛けられたと思ったら、すぐに自分の回りに人だかりができていた。一人二人とマイクやボイスレコーダーをこちらに向けながら、押しくらまんじゅう状態で、朱美は全く身動きが取れない状況に陥っていた。
「御堂アナの先日の早朝、泥酔されてたとき、介抱されてた方ですよね?」
「はっ、えっと、その…… 」
「御堂アナとのご関係は?芸能関係の方とかですか……?」
「いえ……、私は……、その…… 」
こうゆうときどう回答しておくのが一番スマートな対応なのだろうか。マスコミに囲まれたことなんかないから、そんなことは朱美にわかるはずもない。とにかく私が茜の知り合いで漫画家であることが知られたら、過去の経緯から自分が神宮寺アケミであることも自動的にバレてしまう。朱美は無意識に指にできたペンダコを他の指で隠すと、「すみません……、ちょっと……」と声をかけながら方向転換した。朱美は四方八方からくる怒号のような質問に、肯定も否定もせずに曖昧な答えを繰り返した。こうなったら、とにかくマスコミ軍団と目を会わせないよう最大限の注意を払うしかない。取り敢えず新宿は一度諦めて、ここは一度帰宅しないと彼らから逃れる方法はなさそうだ。
「御堂アナと、ゴルフの川崎選手との交際の噂は本当ですか?」
「あの、ちょっと…… 私にはわかりません 」
朱美は記者の間の僅かな隙間から抜け出し、慌てて自宅に向かってUターンダッシュした。だいたい確執はともかく、川崎選手が交際相手なら幸せオーラ出まくりで、あんなにベロンベロンに酔わないっしょ、常識で考えろと100回くらい言ってやりたかったが、この壮絶な突っ込みは取り敢えず心の中に留める他ない。大体、川崎なんて名前は茜から聞いたこともないし、少なくとも茜にはちゃんとした彼氏は二年はいない。何だか状況はさっぱりわからなかったが、朱美が何かを語るわけにもいかないので、とにかく言葉を濁して黙殺するしかない。
「あの、週刊秋冬に出てる、御堂アナの疑惑に関しても、お聞きしたいんですけど…… 」
「ちょっと…… そもそも、その記事見てないんで…… 」
朱美の後を、マスコミも挙って追いかけてくる。茜の疑惑なんて私が知ったこっちゃない。何だか揉みくちゃにされた拍子に、靴は踏まれるし、インしていたシャツも、いつの間にかダラリとパンツの外に出てしまっている。せっかくの戦闘服は、いつの間にかヨレヨレになっていて、朱美のテンションはそれだけでも急下降だったが、このまま新宿に向かえば、ずっと尾行されかねないのは目に見えているから。取り敢えずはこの場をやりきるしかない。
「あの、何か一言だけでも、教えていただけませんか? 」
「………… 」
朱美は声の方向を振り返ることなく、素早くマンションの入り口の階段を登り入り口のガラス扉を閉めると、素早く手探りで鞄の中からオートロックキーを探した。マスコミがマンションの外で張っていたことを考えると、マンションの敷地内に立ち入ることはできないのだろう。フラッシュが炊かれているから、この一部始終も撮られているのかもしれないが、絶対に振り向く訳にはいかない。朱美は早歩きで、自動扉の内側に入り込むと大きく息をついた。
まだ外ではガヤガヤとマスコミの声がする。朱美はエントランスのタイルに思わずしゃがみこむと、思わず深呼吸をした。
怖かったとゆう感覚が、今さらになって胸の奥から込み上げてきた。
込み上げてくるものを必死に手で拭うと、自分の手がブルブルと震えていて、とても冷たくなっていることに気がついた。
取り敢えず、部屋に戻ってから考えよう……
朱美は震えだした手と手を押さえ込むように握ると、自分の部屋へと急いだ。