バックハグから耳ふーして✕✕✕
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やっぱり、ちょっと大きいかも……
朱美は渡されたスエットに袖を通すと、腕を捲り上げてウエストを何回か折り返した。
朱美は吉岡の部屋に入るや否や、さっそく放置プレイを食らっていた。
ストーブは点けてくれたし、炬燵のスイッチも入れてはくれた。だけどすぐに部屋が暖まるわけではない。内装は普通のアパートと殆ど変わらないクオリティーだったが、部屋には時折木造建築独特のすきま風が吹いているような気がした。
朱美は少し手持ち無沙汰になって、壁一面に設置されている本に目をやった。そしておもむろに近づくと、その背表紙を眺める。
そこには小難しそうな政治や経済書を筆頭に、純文学から漫画まで、まるで本屋のように様々なカテゴリーが並んでいた。
あそこにあるカーボンナノチューブの応用未来って、一体何の本だろう? それにこっちの古典落語全集も気になるんだけど……
朱美はだんだんと前のめりになりながら、どんどん本棚に近づいていく。床が抜けてしまうのではないかと心配してしまうくらい、場所を余すところなく本は整然と並んでいた。本棚の真ん中の辺りには恋するリセエンヌも当たり前のように鎮座していて、少しむず痒い気持ちになった。
「うーっ、さっむっ! ただいま 」
「あっ…… 吉岡、おかえり 」
ドアが開いた気配がして、朱美はその方向を振り返る。吉岡は漫画で出てくるような金物のヤカンを持っていて、こちらを見ていた。吉岡はワイシャツ姿だったが、腕を捲ってネクタイをボタンの間に入れている。その何気ない吉岡のイレギュラーは、何だかいつもよりも彼を逞しく見せた。
「やっぱ俺の服じゃ、少しデカかったね 」
「うん…… でも捲れば平気だよ。外に出る訳じゃないし 」
「……やっぱ、彼シャツに変える? 」
「えっ? 」
「冗談だよ。でもそれじゃ動きづらいよね 」
吉岡はヤカンをテーブルに置くと、朱美の背後からゆっくりと近づく。何をされるかわからなくて朱美は思わず身構えたが、吉岡は「別に変なことはしないよ 」と言うと、朱美の手首に袖クルを施した。
「ひゃっッ、ちょっ、耳っッ……… そんなふうに息を吹き掛けないで。声が出ちゃうからっ…… 」
朱美はちょっとだけ身体をビクンと反応させて、顔を少しだけ後ろに向けた。自分でも無意識に変な声が出てしまい、とてつもなく恥ずかしくなる。
「それはそうでしょうね、そうなるようにしてるんだから 」
「えっ? 吉岡? いったい何を言って…… って、袖捲るのくらい自分で出来るから。それに後ろから触られると、凄くドキドキするっ 」
「まあ、お仕置きも兼ねてますから 」
「お仕置き? 」
「本棚、見てたでしょ? 」
「えっ? 」
「本棚見られるのって、恥ずかしいんだなって今日初めてそう思った。頭の中を覗かれてるみたいで 」
「それはっ、ごめんっ。ちょっと興味があって。暇だったし 」
「本棚のどの辺りを眺めてたんですか? 」
「えっ、あっ…… ちょっ…… くすぐったいから。んっッ…… 」
吉岡はそう言うと、後ろから朱美を抱き締める。そして耳元に軽く口づけをすると、そのまま耳たぶを甘噛みをした。
バレている。
私の弱点が吉岡に完全にバレているっ……
「恋リセが並んでると思って。他にもたくさんあっ、いろんな本が並んでて…… 」
「それだけ? 」
「うん、本当にそれだけだからっ…… はぁ…… はぁ…… 」
「……じゃあ、エロ本があったのは朱美は気付かなかったわけね 」
「えっ? エロ本? うっっ…… ちょっ、そんなの…… あったっけ? 」
「朱美、けっこうガッツリ見てるじゃん。エロ本なんか、堂々と置いとくわけないでしょ 」
「ひゃっ…… ちょっ…… うっっ…… ごめんなさ…… はぁ…… ちょっと、もう限界なんだけど…… 」
朱美の意味不明な弁解を聞いた吉岡は、さらに耳元への悪戯を強める。その勢いはだんだん増していって止めてくれそうな気配はない。
こんな壁の薄そうなところで、なんてことをしてくれるんだ。
本当に…… 腹が立つ……
朱美は目を瞑りギュッと吉岡の腕を掴むと、必死に声を圧し殺した。呼吸が乱れて、酸素が身体の隅々まで回っていない感覚がする。いろんなところに力が入らなくなってきた。
これはもう……
いろんな意味で、かなりピンチかもしれないっ……
「はぁ…… はぁ…… ちょっと…… 苦しい…… 」
朱美が降参と言わんばかりに、その腕をポンポンと叩く。その朱美の反応に吉岡はハッっとしたのか、最後に耳たぶに濃厚なキスを重ねると、ゆっくりとその顔を離した。
「さすがに ……ちょっと、やり過ぎましたね。それに僕の精神にも悪い 」
吉岡は唐突にそう呟くと、唐突に腕の拘束を緩めて朱美を覗き込む。
「はぁ……はぁ…… ちょっ、ちょっとなんかじゃないじゃん。絶対的にやりすぎじゃんっ! 」
「朱美は僕のものなんだから、別にこれ自体は問題ないでしょ 」
「はあっ? 」
「本は、ただ並べてるだけですよ。一応出版社の人間だから、ポーズですよポーズ 」
「なっ 」
「まあ、これで全部チャラですね。っていうか、いい加減お湯を入れないと 」
吉岡は明らかにニヤニヤした笑みを浮かべると、ヤカンの湯をカップ麺に注ぎ始めた。朱美はそんな吉岡の態度を見るなり眉間にシワを寄せると、直ぐさま炬燵の中に避難する。
呼吸は…… まだ乱れていた。
朱美は自分の耳を守るように両手を頭に持っていくと、ベーっと舌を出して、吉岡にささやかな反省を促した。
吉岡はたまに見え見えの嘘を付く。
見せかけなんて言葉は嘘だ。
本は高いし、最新のものを含めて殆どの背表紙に擦れたような跡がある。住居にお金をかけない人間が、ポーズで書籍を購入して後生大事にすることに整合性がない。
吉岡が影の努力を見せたがらない。少し頑な性格の持ち主であることは、最近知った一面かもしれない。そういう部分はお互いに見て見ぬ振りをするのが、これからも一緒にいるためには必要なことかもしれないと朱美は思った。
◆◆◆
お腹も満たされて、先ほどまでの変な空気感も薄れた頃、朱美と吉岡は炬燵で身を寄せ合っていた。今は吉岡も着替えを済ませていて、ラフなトレーナーにジャージを身に付けている。特に感慨がある訳でもなかったが、知り合ってから二年は経つのに、朱美が吉岡の部屋着姿をみるのは初めてのことだった。
二人は取り敢えず副賞やら景品で頂いたグッズを開封してはみたものの、一度開いてしまった箱の中身を現状復帰するのはなかなか難儀な作業だった。
「あのさ、吉岡は知ってたの? 」
「何を? 」
「今日、私が表彰されるの 」
「知ってた、って言ったら? 」
「用意周到だなー、と思って。美容室まで連れていかれた意味にも、納得は出来るけど 」
「そうですか 」
吉岡は片手間に返事をすると、目の前のコーヒーメーカーを発泡スチロールに詰め直す。
「で、吉岡。本当はどうなの? 」
「秘密です 」
「何それ? 」
「一応、守秘義務があるから 」
吉岡は殆ど答えをいったも同然な言い回しをすると、まだ渇ききっていない紙袋の中にコーヒーメーカーを片付ける。そしておもむろにベッドに腰かけると、軽くその場で背中を伸ばした。
「冷蔵庫にあるものは、適当に飲み食いしてもらって構わないんで。と言っても、ほぼ空だけど 」
「あっ、ううん。こっちこそ、急に押し掛けて何だか申し訳ないというか…… 」
「まあ、仕方ないでしょう。明日には雪は止むみたいだから、朝になったら帰りましょう。神楽坂からなら茅場町まで一本だし、朱美先生の家まではアクセスは悪くないです。もちろん路面には最大限気をつけなきゃですけど 」
「でも、荷物が 」
「荷物は僕が後から運びますよ。明日明後日は暇ですから。日中になれば、雪も少しは溶けるでしょうし。朱美先生の貴重な一日を引っ張り出した責任は俺にありますからね 」
「…… 」
朱美は静かに吉岡を見つめていた。
何だかんだでここに来てからは一時間くらいは経っていたけど、今晩吉岡のご自宅に泊まるという実感はまだ湧いてはこなかった。
でもいつまでも浮かれ気分でお喋りをしている訳にはいかない。こうなったら今晩はさっさと眠って鋭気を養うしかない。
朱美は自分の頭に手をやると、髪の毛を慎重にまさぐり始めた。
「あの、朱美先生? 」
「んっ? 」
「……何してるんですか? 」
「ヘアピンを外してるの。このままじゃ痛いし、髪にもダメージがあるから 」
朱美は手探りで髪の毛の間からヘアピンを探し当てると、一本づつこたつの上に並べていく。と言っても朱美は殆ど髪をアップにすることもないので、その手つきにはたどたどしさがあった。
「ああ、それってピンで留まってるんですね 」
「うん 」
「なんか…… 勿体ないな 」
「えっ? 何か言った? 」
「いいえ、別に何も。あの朱美先生、こっちに来られます? 」
「……うん? 」
吉岡は朱美を手招きすると、自分の前に座らせる。そして朱美の頭部を凝視すると、恐る恐るその手を朱美の柔らかな髪の毛へと伸ばした。
「痛かったら言ってください 」
「……取ってくれるの? 」
「ええ、まあ、多分めちゃくちゃ下手くそだけど 」
吉岡はそう言うと、まるで毛繕いをするように朱美の髪の毛からピンを抜き始めた。その眼差しは真剣そのもので、手つきはとても慎重だ。
「……ありがとう 」
「どういたしまして 」
「あのさぁ 」
「……何ですか? 」
「吉岡って、 たまに優しいよね? 」
「たまに? 」
「うん、たまに…… 」
吉岡はたまにという言葉に引っ掛かりを覚えたようだが、朱美は敢えて訂正をしなかった。
その優しい指が髪や肌に触れるたび、先日のあの夜のことを思い出してしまう。だから優しいのはたまに、ってことにしておかないと朱美が平常心でいられないのだ。
何で、こんなに好きになっちゃったんだろ。
自分が自分じゃないみたい。
朱美はゆっくり目を閉じると、その温もりの余韻に浸るのだった。