茜のプチ出世
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体のスペアが、 三つは欲しい。
本当にマジで……
自分もアラサーだし、体力は……正直だ。
茜は腰を伸ばし肩を鳴らしながら、迷路のような局内を歩いていた。台北から帰ってきて二日間の休みはあったが、疲れは全く取れていない。何せここ数年、平日は殆ど当直夜勤で、最近は追加で 週の後半に隔週で台湾に行く。しかも今回はピンチヒッターで十五時間以上働いてからの出張だったし、入りが遅れたことで巻き返しもあって かなりのハードスケジュールでのロケとなった。まだこの生活が始まって二ヶ月も経っていないが、こんな非人道的な生活を半永久的に続けていける自信は全くなかった。
結局バタバタスケジュールを同情されたのか、査定面談はリスケになったが、何故か今日は別件で迫田の呼び出しを受けている。
理由は……皆目 見当がつかない。
もしかしてこの前のモーニングコールで何かやってしまったんだろうか。そうだとしたらフォローで入っただけなのに、とんだとばっちりだ。
本当に本当に……
部長の呼び出しは、憂鬱以外の感情が沸かないものだ。
「あの、失礼します 」
「おう、御堂。来たか。早く出社させて悪かったな 」
「いえ。勤務初日なので問題ありません 」
茜は端的にそう答えると、迫田に勧められるがまま椅子に浅く腰かけた。
ミーティングルームにいるのは二人きり。
つまり逃げ場はないということだ。
「この前は悪かったな。夜勤明けにライブさせた挙げ句、台湾に行かせてしまって 」
ほらきた。
予定調和に等しい、社交辞令のような労いが。
「当直は……何かあったときのバックアップ要員なので。それは問題ありません。あの、それよりも 宜しければパイナップルケーキ買ってきたので、部長もお一つ宜しければ…… 」
「あっ、ああ。それは、ありがとう 」
茜は懐から取り出した菓子を 無理やり迫田に押し付けると、ニヤニヤと変な笑みを浮かべた。そんな茜の態度に迫田は一瞬圧倒されたようだが、その浅はかな作戦で簡単に陥落するほど キー局のアナウンス部長は甘っちょろくはない。
「御堂、これは何の作戦だ? 」
「作戦だなんて…… そんな訳ないじゃないですか。普通にお土産をお渡ししただけです 」
茜は迫田と目を合わせないようにしながらも、何とか取り繕う素振りを見せた。
とにかく今日だけは何も私に言わないでくれ。茜はそれだけを強く思っていた。
自分としては、出来うる限りの努力で頑張っているつもりだ。特に最近は愚直に仕事に邁進している。正直、今日もフィジカルもメンタルもギリギリの状態でここにいる。だからいま何か厳しいことを迫田に口にされた暁には、自分の気持ちが切れてしまうと思ったのだ。
「お前は、自分の仕事に自信がないのか? 」
「えっ? 」
茜は図星を突かれて、思わずその場で凍りつく。
その通り…… まさに迫田が言うその通りなのだが、ここでそれを認めるわけにもいかないのはアナウンサーの本能だった。
「話題を変えようとしてるだろ、しかも全力で 」
「そんなことは……ない……ですけど…… 」
「俺にはそうは思えないけどな。まあ、いい。それはそれほど今日は重要なことではないからな。御堂、君を呼び出した本題はこれだ 」
迫田はそう言いながらテーブルの隅に置かれていたクリアファイルから 一枚のペラ紙を取り出すと、茜の前に差し出した。
「大晦日のBSの年越し企画だそうだ。どうだ、悪くはないだろ? 」
「えっ? あの、これって? 」
「三十一日の二十一時から 御堂茜のラブ!台湾の総集編を流しまくって年越し。で、深夜一時の台北の新年に合わせて、生中継を挟むんだとよ。なかなか挑戦的な企画だよな。数字が好調だから、一発ブッ込むことにしたんだとよ。まあ、そのゆるーい何でも許されちゃうノリがBSの強さなんだろうけど 」
「はあ…… 」
茜はあまりの想定外の発表に、呆然と企画書を眺めていた。
突然の画面復帰から半年も経たないうちに、年越し企画への抜擢。しかも海外生中継まで交えるという豪華な体制だ。こんなの驚かないわけがないではないか。
「あの、迫田部長…… これって、どこから降ってきた話なんですが? 」
「さあ、俺も詳しいことは何も聞いてないからなぁ。ただこれは本当に最近決まったことらしいとは、小耳に挟んではいるがな。里岡くんも今頃驚いてるんじゃないか? っていうか、彼正月のスケジュール空いてるんかね? アイツも繁忙期だろうに 」
迫田はそう言うと 茜の土産のパイナップルケーキを一口二口で完食して、アハハと笑っている。
いや、当事者的には全く笑えませんけどね、と茜は言ってやりたかったが、それを実行する気力は持ち合わせてはいなかった。
「三日前まで台北にいましたけど、そのときは里岡さんも何も言ってなかったです。あの、そもそも年越し特番ってこんなにギリギリに決まるものなんですかね? 」
「さあな。俺はBSの方針は良くは知らないからな。サイマルで枠を売ってるところ以外は、どうにでもなるんだろ。とにかく正月は御堂は台北で年越しだ。商魂逞しい里岡のことだら、渡航費抑えるために そのまま取材もさせるんじゃないか。まあ、お前さんも正月は夜勤のシフティングされてただろから、それはなしになる分だけ結果オーライと思うしかないな 」
「ええ。はい、まあ…… 」
茜は歯切れの悪い返答をすると、再び企画書に目を通した。
自己防衛はしなくても良かったのかもしれない。だけどその代わりに天から舞い落ちた産物は、中々のファーストインパクトを茜の精神に捩じ込んでいた。
別の意味で…… 茜は体全部が身震いするような感覚に陥っていた。