隔週締め切り攻防戦
「神宮寺先生、神宮寺先生っッ……！
開けて下さいっッ。締め切りっッ！ 九時ですよッ！ わかってますっ！？ あと四時間ないですよぉっッー 」
若手編集者の吉岡はチャイムの連打をしながら、近所迷惑を考え声を潜めつつも、いまの時刻で繰り出せる最大限の声量で小一時間籠城をするドアの向こうに強烈なアピールをしていた。
梅雨時はこんな時刻でも既に朝日が昇っているから、幹線道路沿いのマンションで、この動きは若干恥ずかしいものがある。吉岡は一度深呼吸をして今一度ドアスコープを逆見したが、全く意味がないことに気付き頭を抱えた。
彼がこの家の前で毎月二回毎回こんなことをし始めて、もう直ぐ一年が経とうとしていた。
「ったく、お得意のシカトかよっ…… 」
吉岡は今すぐにでもドアを蹴り飛ばしたい衝動をぐっと堪え、ビジネスバッグから温くなったスポーツドリンクを取り出すと、まるで自棄酒するかのような出で立ちでグイッと飲み込んだ。そしてそのついでにネクタイに手をかけると、そのまま床に投げつける。
ったく、室外機はガンガン回ってるんだから、中はクーラーがキンキンに効いてるのだろう。そんな状況を想像しただけで、吉岡はさらに汗が吹き出そうだった。
「もう先生じゃなくても、伊藤さんでもマリメロンさんでもいいから、開けてくれよ。湿気半端ねーし雨強くなってるし、何か俺クセーし 」
臭い状態で家に上げろ、というのもおかしな話だが、吉岡はこの日既に3件目の取り立てにやって来ていて、尚且つ昨日の朝から起きている。梅雨特有の湿気で体力は奪われるし、しかも最難関がいつも以上に渋ってきたら、睡魔と相まって若干感覚が朦朧としてきても責められるものでもない。
「俺は負けないっッ。 チャイムがダメならノックします。両サイドのお宅から騒音の苦情がきたら、神宮寺先生、あんたのせいだっッ 」
吉岡は盛大に独り言を呟くと、そのままドアをノックし始めた。
「神宮寺先生っ。せめて中に入れてください。神宮寺先生っッ！ 」
吉岡は十回程開かずのドアをノックするが、天の岩戸は相変わらず開く気配がない。実は夜逃げされたんじゃないか、と感じてしまうくらい、部屋の中の様子は全くの窺いしれない。
「こいつらなんなんだよっッ 」
吉岡は言いながら、とうとう力尽きてドアの前にしゃがみ込んだ。無意識にカバンをしっかり抱え込んでいたのは、編集者としては合格スレスレのラインだろう。
「っっていうか、眠すぎる。っつーか、九時になったらチェーンソーでドア破壊してやる 」
吉岡はいま極限の睡魔に襲われているのが、自分自身で自覚出来ていた。なんなか【なんだか？】物が二重に見えてきたし、もうここまでくると目を開き続けることは困難だ。ついでに言うと、心の声も漏れだしているし、欠伸も止まらない。いわゆる寝落ちの一歩手前の瞬間とは、もう理性では坑がえない。いけないとわかっているのに、本当に心地よい感覚だ。
だが、その刹那…… 彼の頭にドスンという大きな音とともに、とてつもない衝撃がかかった。ショックで頭は痛いのだが、同時に中身がすっきりするような感覚とでも言おうか。そしてそれと同時に、自分の体が物理的に前に押し出されるな【の？】を自覚した。
「っっッ…… たー 」
気づいたときには、吉岡は既に強引な長座体前屈のような姿勢になっていた。足や背中の筋が数本悲鳴を上げて、ふわふわ感が睡魔と共に一気に飛ぶ。
そして恐る恐る、後ろを振り返った。
すると彼の会いたかった天照大神が、ぼーとした面でこちらを見下ろしていた。メガネで髪がボサボサで、ついでに言うとジャージ姿でマスク装着という不審者姿でこちらを見ていた。
「吉岡っ？ ごめん、来てたの？ 爆睡してて気づかなかった。ごめんね。神宮寺って本名じゃないから、反応出来なかったっていうか 」
「はっ。先生、まさか…… 」
吉岡は彼女を見上げながら、ゴクリと唾を飲む。神宮寺が本名じゃないとか、何また調子いい言い訳をしてんじゃい。
つーか、そんなことより…… 恐る恐る次の言葉を発した。
「もしや、寝てた……んですか……？ 」
すると憎らしい女神は、微笑を浮かべてこう答えた。
「うん。だってもう三十時間くらい寝てなかったし。なんかもう成り行きで、ちょっとね 」
「その、じゃあ、原稿は……？ 」
「うーんと、あと四、五ページってところかな？ でも、大丈夫。全体的にカットがでかいし 」
「へっ？ 四、五ページ？ 」
吉岡は憎たらしい女神が発した言葉を聞いたその瞬間、一日を二十四時間と定義したすべての先人を呪った。
それって、つまり間に合わなってことじゃないか？
アンタ、なんでこの状況で、何でニヤニヤしてるんだーーーっッッ！！
ーーーーー
「マリメロンさん、ベタ終わりましたけど。トーンはどうしますか？ 」
「吉岡さん、いつも、ありがとうございます。そしたらこっちのトーンお願いします。三百番でグラデつけるように、ここらへんから削るようにして 」
「わかりました 」
大体ここの女神はブッ飛んでいるが、アシスタントたちも十分イカレている。全員で締め切り前に仮眠なんて、プロとしてどうなんだろうか。しかもまた俺も原稿手伝う羽目になっているのは、気のせいだろうか。
吉岡は壁際のキャビネットから慣れた手付きでスクリーントーンをピックアップすると、さらに慣れた様子で原稿に張り付けて、これまた躊躇うことなく一気に削っていく。ついでに言うと彼は今この部屋に常設されている彼専用のインク汚れ防止エプロンとアームカバーを装着していてセミプロ級の装備だった。
「やっぱり原稿手伝ってくれる編集さんは、歴代吉岡だけだわ 」
朱美は目のハイライトを塗りながら、こう言うと椅子に立て膝をついて体勢を整えた。朱美の描くキャラクターは、いつも細い線で丹念に描き込まれていて作業にも時間がかかる。それに加えて致命傷なのがネームの遅さで、清書に取りかかるのも自動的に玉突き状態で遅くなり、いつも締め切り前は非正規労働の吉岡まで借りだされる始末だった。
「先生？ っていうか、俺好き好んで原稿やってる訳じゃないっすよ。俺、漫画描いたこととかないし。神宮寺先生が、俺を仕込んだんじゃないですか 」
「でも、ドンドンうまくなってるじゃん。ほら、ここのトーンの削り具合とかさぁ。今度ペン持ってみる？ 意外といけると思うケド 」
「いえ、丁重にお断りします。ちゃーんとアシスタントさん、雇って下さいっ 」
「そんなあ。いいアシスタントになれると思うんだけどなあ。うちは私の画風のせいか、アシさん募集しても、なかなか定着してくれなくて 」
「それ、本気でそう思ってるんすか？ 」
画風というより、人柄、いや人使いの荒さだろ、と吉岡は突っ込みたかった。締め切り三日前なんて、完全に軟禁状態に道連れだからね。この二人は一体いくらでここまで働いてくれてるんだか。
「うん。だから伊藤ちゃんとマリちゃんには、感謝してるよ。もちろん、吉岡にも 」
「ヘっ？ 俺っ？」
「うん。今日も吉岡が起こしてくれなかったらアウトだったし 」
「僕はあくまでも、仕事ですからっッ 」
朱美のサラリとした感謝の言葉に、吉岡は反射で彼女を振り返った。いい加減な女神でも、そうゆう気持ちがあることが……意外だった。
朱美は視線を原稿に下ろし相変わらずペンを入れていた。その横顔はすっぴんでも、睫毛が長いのがよく解る角度だった。相手の言葉を、何だか素直に喜べない自分が、ちょっと情けない。
吉岡は慎重に蓋付きコップに入った麦茶を口に運ぶ。半脱水状態だった体には、冷えた麦茶は仕事終わりのビールに匹敵する旨さだ。
「でもさー、吉岡…… 私、ちょっと気になったんだけど 」
「はい。何ですか？ 」
「あなた、どうやってオートロック越えてきたの？ 」
不意に朱美が話しかけてきて、吉岡の余韻は瞬時にブッたぎられた。
「へっ？ 僕に話してます？ 」
「他に誰がいるのよ 」
朱美は相変わらず椅子に立て膝をつきながら、手元は原稿に向かっている。
「他の住人の方が入ったすきに、便乗させてもらったんです。酔っ払ってたから、バレなさそうだったし 」
「げっッ。それってちょっと……倫理的にも犯罪係数的にも、ギリギリのラインじゃない？ 」
いや先生、あなたが言えたことじゃないですよ、と吉岡は言ってやりたかったが、ここはグッと堪えておく。確かに誰かから何か言われたら、自分が百パーセント悪いし勝てっこない。
「そこまでしても、俺は神宮寺先生の原稿ないと社に帰れないんですっっ！ あと、ペン入れは何枚ですか？ 」
吉岡は逆ギレ気味に話題を逸らすと、カッターを持ち直して再び原稿に向かった。トーンを削る作業と言えども一歩間違えればそのページの持つニュアンスが変わってしまう。助っ人と言えど一瞬たりとも気は抜けない。
「ペン入れは、このページ入れれば終わりかな。あとは効果残ってるのが三枚だけだし…… 本気出せば、二時間あれば何とかなるはずだし 」
「わかりました。先生、原稿を貸して下さい 」
「へっ？ いいけど、原稿なんか見て、どうするの？ 締め切りの腹いせに燃やすとか？ 」
朱美はニヤニヤしながら吉岡のデスクを振り向く。
「僕に燃やせる度胸あったら、とっくに担当替えを直談判してます。写植、原稿できてからでは間に合わないので。出来ているページだけでも社にファックスして、後輩に叩き台を作っといてもらいます 」
「吉岡！ もしかして、あんたってメッチャいい奴 」
朱美はゆっくりと席を立つと、部屋中に干されている原稿を順番に取り込み始めた。
「いま頃気づいても遅いです。今回ばかりは、マジでヤバいってことですからね。肝に銘じて下さい。あくまでも保険ですから 」
吉岡は受け取った原稿を手慣れた手付きで次々に倍率を直してコピーし、流れ作業のような鮮やかさでファックスにかけていく。きっと他にも数多くの漫画家をこうやって助けてきたのだろう。
「あっ、そうだ。先生、巻頭カラーも今日提出して下さいね 」
「えっ、カラー？ って、なんのこと？ 」
「なんのこと？って、こっちのセリフですよ。 カラーページですよ。ネームの打ち合わせのとき、今月つくって言ったら、先生めっちゃ喜んでたじゃないっすか 」
「あっッ、ヤバいー！！ 吉岡、私忘れてたっッ！！ 普通に白黒で描いちゃったよ 」
「先生、冗談ですよね？ 冗談ならいま正直に言えば許しますけど 」
吉岡は手元の動きを止めて、恐る恐る……しかし表情は険しい剣幕で、朱美を振り返った。
本来ならば原稿より先に来るカラーの締め切りを朱美が落としたから、印刷会社に頭下げて今日まで締め切りを伸ばしたのに、間違えてたって……どういうことかいっッ。
「イヤっ、これはマジだわ。ごめんっッ…… 」
朱美は顔の前で手を合わせてやや上目遣いで、吉岡を見つめた。
その表情を見た吉岡は、彼女が大事な看板娘でなかったら確実にぶっ飛ばしていただろう、多分……と思った。
