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Will・・・You be there

作者: あらぽん

 まったくと言っていいほど波のない穏やかな海。透明な水面は真上から照り付ける強い日差しさえ吸い込んでいる。それはまるでエメラルドグリーンのゼリーを敷き詰めているかのよう。

 一人の少年がその海にシーカヤックを走らせていた。船のわだちがなければどこが海に接しているのかわからない。遠目に見ると宙に浮いているかのように錯覚しそうだ。

 南海の孤島、三ヶ月島の少年。名前はウィル。通称”鯨撃ち”と呼ばれる漁師のおじさんと二人、島の村はずれにある小屋に住んでいる。通っている村の小さな学校の学年から歳は一二歳という事らしい。

 それがウィルの記憶のすべて。いつからこの島に住んでいるのか?自分が今までどんなことをして暮らしてきたのか? 一緒に生活している鯨撃ちのおじさんは自分の家族なのか? 全て記憶がないのだ。

 ないものはどうしようもない事。誰かに聞いたとしても実感もわくはずもない。特に生活には影響ない事だからと自分で思い出すまでは気にしない事にしている。

 この三ヶ月島は直径が十キロほどの細いリング状のいわゆる環礁と呼ばれる島で、島に囲まれた海を島の人たちは「蝕の海」と呼んでいる。蝕の海は外海とは完全には遮られているわけではない。島のちょうど東側、ベイリービーズと呼ばれる幅五十mほどの岩礁の海峡を通じて外海と繋がっている。ただし水深は大人のひざ下ほどしかなく、小さな小魚が行き来できる程度だ。三ヶ月島はその名の通りベイリービーズでわずかに切れた細長い三日月の形をした島だ。

 

 ウィルは前日の海が荒れた時ベイリービーズ近くで海底の岩に引っかけてしまった網を引き揚げるよう鯨撃ちに頼まれていた。

 ウィルたちの住む家は島の西、三日月の中央の平地にあり、ちょうどベイリービーズの対岸になる。ベイリービーズには陸を走るより海を横切った方が早い。というよりそもそもボートや船といった乗り物がこの島の主な交通手段なのだ。

 ベイリービーズに着いたウィルは教えられた目印の岩と西に見える島の山とを結ぶライン上にシーカヤックを止める。ウィルはシャツを脱ぎ捨てシュノーケル付きの水中眼鏡、足ひれを装備する。そしてシーカヤックにつないだ細いロープの先を持って背中から海に飛び込んだ。

 前日、この島では珍しい大嵐が来た。ベイリービーズにも高い波が押し寄せ、蝕の海もさすがに少し濁っている。それでも海底のサンゴに引っかかった網を見つけるのにさほど手間はかからなかった。ウィルは一度水面に上がり十分息を吸い込むと網めがけてまっすぐ潜っていく。水深約五メートル、いつもより濁っているとはいえ余裕で見渡せる透明度だ。ウィルは網を手繰り寄せてみると二・三か所ほど岩に引っかかっている手応えを感じた。ウィルは腰のポーチから折り畳みナイフを取り出す。引っかかっている近くをほどいたり切ったりしながら少しづつ網を岩からほどいていく。

『もう少し・・・』

 息が続くか外せるか微妙なところ。ウィルは面倒だ、と一度で済まそうとサンゴ礁に手を伸ばした。

 その時何かが光を遮った。ウィルは驚いて手を止め水面を見上げる。どこから現れたのかウィルのすぐ真上を何か大きな生き物が通り過ぎて行った。その影がおこした強い流れに巻き上げられた網がウィルに絡みつく。

「!」

 ウィルは体にまとわりつく細い網を慌てて振りほどこうとするが、焦れば焦るほど網は余計に絡みついてくる。ナイフは慌てて落としてしまったようだ。息が苦しくなってきたウィルは慌てて網ごと浮かび上がろうとするがまだ岩に引っかりがある。ウィルはたまらず大量の泡を吐いた。海水を飲みだんだん遠のく意識の中、ウィルは先ほどの黒い影と目が合った。

 ふと気が付くとウィルはベイリービーズの近くの浜の波打ちぎわに横たわっていた。体にはまだ網がからまったまま。

「今のは何だったんだ?」

 少し離れた砂浜にシーカヤックが流れ着いている。ウィルはシーカヤックの上に立ちあがり背伸びをしてあたりをぐるりと見回す。しかし海はいたって穏やかであの黒い何かが泳いでいる気配はなかった。

 ベイリービーズの方向から穏やかな風が吹いてくる。ウィルは外の海を見た。ベイリービーズの向こうは波も荒く深い黒に近い紺色の海が水平線まで広がる。鯨撃ちに絶対外の海に出てはいけない、と強く念を押されている。

 日が傾き始めた頃、家に帰ったウィルは網を軒先に広げた。破れた所を探し糸で丁寧に縫っていく。縫い方は体が覚えている。大きく破れてはいるがまだ直せば十分使えれる。

 ちょうど縫い終わった頃、鯨撃ちが帰ってきた。漁仲間の会合があると言っていた。

「お帰り。網は岩で切れていたけどちゃんと直しておいたよ。あと・・」

 ウィルは黒い影の事を言いかけてその言葉を飲み込んだ。

「あぁ、ありがとう」

 鯨撃ちはお礼を言いながらも、網を見ると元から細い目をさらに細めた。

          

 次の日ウィルは学校から帰ると再びシーカヤックでベイリービーズに向かった。今日は何も用事は頼まれていない。やはりあの黒い影の事が気になっていたのだ。

 もう三時は過ぎただろうか、とはいえ日差しはまだまだ強い。ベイリービーズに着く頃にはウィルのシャツは汗だくになっていた。下はどうせ水着だからいいや、とカヤックもそのままウィルは海に飛び込んだ。冷たい海水がオーバーヒートしそうだった体を一気に冷却した。

 一息ついてシーカヤックを浜に上げると水中眼鏡をかけ、足ビレを抱えてて海に入っていく。足ひれは波打ち際だと歩きにくいから水中で履いた方が楽なのだ。シュノーケルをくわえ「フッ」と筒内の水抜きをすると大きく息を吸い込み、頭から前回りに海へ潜る。ベイリービーズ近くは岩棚になっていて、水深がぐっと深くなる。一番深いところでは二十メートルほどにもなる。ここは蝕の海一番の魚のたまり場で、ウィルのお気に入りのダイビングスポットだ。

 青・赤・黄・緑、色とりどり。単色の魚もいれば縞模様な魚もいる。海底のサンゴを取り巻くここは熱帯魚の楽園。カラフルな熱帯魚が数えきれないくらいに群れて泳ぎ回っている。

 ウィルは熱帯魚に詳しいというわけでもない。でもそんな事は気にしない。ただただその流れに身を任せ一緒に泳ぐだけで気持ち良くてたまらないのだ。

 じっとしていれば警戒する様子もなく目の前を横切っていく魚たち。ウィルはポーチから水中カメラを取り出し静かにシャッターを切る。

 いい写真は島の土産物屋に飾ってもらっていて割と評判はいいらしい。魚を捕るのではなく撮る。ウィルの楽しみの一つだ。

 一昨日の嵐の濁りもすっかり消えていた。二十メートル近く下の海底の様子もくっきり見える。ウィルは息の続く限りに潜っていく。十メートルは潜っただろうか、ウィルは体を反転させ水面にあお向けになった。

 水面から差し込む光が波に屈折して、まるでたなびく光のカーテンのようだ。

 魚の群れは怖がる様子もなく正面からすぐ脇を通り抜けていく。結構な密度で群れているにもかかわらず一匹も体にぶつかることはない。光のカーテンに包まれシルエットになった魚の群れがまるでリングのように見える。ウィルは慎重にファインダーに収める。もう何枚も撮っているお気に入りの構図だ。

 ふと、魚たちの群れがあわただしく散っていく。そして一つの大きな群れがウィルの上を通り光のカーテンを遮った。いや、あれは群れではない。

 ウィルは足ひれを使い一気に水面に向かった浮上した。同じ水深に並ぶとその姿がはっきりと見えた。

『大きい・・・』

 それは体長5メートルはあろうかという鯨だった。蝕の海には鯨はいない。ウィルは鯨撃ちに話では聞いたことはあるが実際こうして眼前で見るのは初めてだ。思わずその大きさに息を呑んだ。

「君だったのか」

 ウィルとその鯨はそろって水面に顔を出す。

「この前は助けてくれてありがとう」

 ウィルは鯨の鼻先をなでる。鯨はどういたしまして、とでもいいたいかのように胸びれで数回水面をたたいた。ふとウィルはその左のひれに三日月形の白い模様があるのに気がついた。ふと先週英語の授業で月齢の呼び名の英単語を習ったのを思い出す。

「たしか三日月は英語でクレッセントだったよね。よし、君の名前はクレッセントだ」

 鯨はフッと潮を吹いて海に潜り一気にジャンプして背中から着水して盛大に水しぶきを上げた。その姿はまるで大喜びしてるかのように見える。よっぽど気に入ったのだろう、何度も何度もジャンプを繰り返した。ウィルはというと水しぶきどころではなかった。まるで洗濯機の中にいるかのように波にもみくちゃにされ溺れそうになっていた。

 ウィルはクレッセントの背中に乗って大の字に寝転がった。

「よろしくね、クレッセント」

 クレッセントは頭の上にある墳孔から水を控えめに噴出し返事をした。

          

 翌日、学校から帰ったウィルは疲れて眠っていた。小屋の近く砂浜から海へと腕を伸ばしたやしの木。波打ち際に吊られたハンモック。ウィルは顔に日よけの麦わら帽子を乗せ、そよ風に揺られ夢の中にいた。昨日はクレッセントと日暮れ近くまで泳いでいたからか、さすがに体がクタクタだった。

 突然、バケツをひっくり返したかのような大量の水がハンモック上のウィルに浴びせられた。

「ぶわっ!」

 びっくりして飛び起きたウィルはバランスを崩し海へ転げ落ちてしまった。

「クレッセント、もうビックリしたな~」

 ウィルは尻餅をついた腰をさすり、そのいたずらの犯人に水をかけた。

 当の本人はその巨体を浅瀬に乗り上げながら尾びれで水をかけ返す。ウィルも負けじと全力で水をかける。当然敵うはずもなく水しぶきに追われ砂浜まで退却した。

 ふと、どこから流れてきたのかゴムボールが転がっていた。

「よ~し、行くぞ~」

 ウィルはボールを思いっきり沖のほうに蹴り飛ばした。ほぼ同時にクレッセントが浜を離れその方向に潜っていく。ボールが水面に落ち間を開けずクレセントがボールの真下からジャンプして鼻先でボールを空高く跳ね上げた。ボールは弧を描きぴったりウィルの両手に収まった。

「うまいうまい!もう一回行くよ~」

 ウィルは沖にいるクレッセントに手を振り再びボールを蹴り飛ばす。透明なボールは青空に吸い込まれるように高く飛んでいった。

         

「そろそろおじさんが帰ってくる頃だから、見つからないように沖のほうに帰るんだよ」

 ウィルはクレッセントのことを鯨撃ちに話すか悩んでいた。

 鯨撃ち。本名は聞いても教えてくれない。顔中ひげもじゃもじゃだがまだ五十歳を過ぎたばかり。元捕鯨船の船員で鯨に銛を撃つ砲手だったという。しかし捕鯨に反対する団体から鯨の殺し屋と悪人に仕立て上げられ、嫌気が差して船を下りたという。巡り巡って着いたこの三日月島に小屋を立て、小さな漁船で蝕の海で魚を獲って静かに生活している。

当時のテレビを見た誰かがおじさんの事を『鯨撃ち』と呼んだのがいつの間にか広まっていた。本人も皮肉っぽく『そいつはちょうどいい』とあごの髭を指でクルクル巻き笑いながら言った。

 もう今は鯨は撃ってない。それはわかっている。でもなぜかおじさんにクレッセントを見せるのが不安なのだ。

 クレッセントはウィルの言葉が通じているのか、動作やしぐさで読み取っているのか、何度もジャンプしながらウィルに言われたとおり沖へと帰っていった。

 それからさほど経たず鯨撃ちが漁から帰ってきた。ウィルは濡れてしまった服をやしの木に干してハンモックに横になっていた。

 話すか話さないか悩みながら、うまい具合にクレッセントは鯨撃ちに出会うこともなく何日も過ぎた。ウィルも見つかったらその時に話そうとは思っていた。しかしなかなかその日が来ないまま二週間が過ぎていた。

 

 ある夜の事、ウィルはふと小屋の外で誰かが話をしている気配に目を覚ました。

『こんな夜遅く誰だろう?』

 ウィルはこっそりと勝手口の戸の陰にかくれ聞き耳を立てた。月明かりで人影は見えているが顔まではわからない。でも声で一人は鯨撃ちだとわかた。他の四人は多分漁仲間だと思う。魚市で話している声に聴き覚えがあったからだ。

「話はもうわかっていると思う」

 漁師の一人が言った。

「ああ、あの鯨の事だな」

 そう答えたのは鯨撃ちだった。隠れて聞いていたウィルはドキッとした。そしてその事実に何かいやな胸騒ぎがした。

「俺たちはもう何年もこの海で漁をしてきたがあんな大きな鯨が紛れ込んできた事は今まで一度もなかった。テレビで言ってた温暖化で海面が上昇してるって話、あれじゃねぇのか?やっぱり前に話があったベイリービーズに堤防を作るって話に乗った方が良かったんじゃ・・・」

「そんなことをしたら海が死んでしまう。その話のときにそう言ったはずだ。お前は何年も海で生きていながらまだそんなこともわからないのか?」

 若い漁師の言葉を遮って鯨撃ちは少し声を荒げそう言った。

「まぁ、今回は偶然満潮に嵐が来て偶然そこにいた子鯨がベイリービーズを乗り越えてしまった。そうそう起こることではない。堤防の話もまだ答えを出すべきではなかろう・・・」

「でも現に一頭蝕の海に入ってきている。あいつがこの海の魚を食い続けたら何週間で全部食い尽くしてしまうんだ?」

 年配の漁師がたしなめようとするがさらに若い漁師は言葉を遮ってそう言った。

 ウィルはその言葉にいつか見たクレッセントの食事風景を思い出した。クレッセントは海底深くから魚の群れ目がけ急浮上、大きな口を開いて魚群を丸ごと飲み込んでしまったのだ。その時は豪快だなぁ、と感心しただけだった。しかし若い漁師の言った事実にウィルは不安になり足がガクガクと震えだした。

「さぁな、どうなるかはわからないが、この海の生態系に影響を与えてしまうのは間違いなさそうだ」

「なんとか外に返してはやれんか?ウィルが仲良くなっているのは知ってるじゃろう」

「無理だな。あれだけ大きな鯨を運ぶ機材はこの島にはない。外から借りてくるような金もない」

 鯨撃ちは冷静に言った。

「ならあんたがやるしかないな」

 若い漁師は鯨撃ちのたくましい右腕をこぶしの横でポンとたたいた。

「あぁ・・・」 

「やめて!おじさん!」

 ウィルはドアを押し開け叫んだ。心臓は破れんばかりに鼓動し震えが止まらない。

「ウィル、聞いていたのか・・・」

「お願い、クレッセントを殺さないで!」

 目から大粒の涙がぼろぼろこぼれて止まらなかった。他に言葉は出てこない。漁師たちは何も答えることができずただ俯くばかり。

 鯨撃ちは黙ったままウィルの横を抜け家に入っていった。そして壁にかけられた銛を手に取る。ウィルは鯨撃ちの服の袖をつかみ泣きながら首を振る。鯨撃ちは片手で軽くウィルを肩に担ぎ上げた。

「お前も来るんだ」

 鯨撃ちは片手に銛、肩にウィルをかついだまま漁船の係留されている桟橋へと向かう。

「今から行く。だれか手を貸してくれ。ちょうど満月が真上に来ている。大潮だ」

 鯨撃ちは船先にウィルを乗せ、満月に照らされた夜の海に船を走らせた。

 ウィルは目的地のベイリービーズに着いてもまだうつむいたままだった。

 間もなく先ほどの漁師たちも合流した。

 鯨撃ちはベイリービーズの岩棚近くで鯨が寝ているのを知っていた。

 ほどなく、すぐ近くの水面から「プハッ」と潮が吹き上がった。

「いたぞ」

 漁師の一人が小声でささやいた。だが鯨撃ちは動かない。

 クレッセントはウィルに気がついたのか無防備に漁船に近付いてきた。

「来るな、きちゃだめだクレッセント!」

 ウィルは船先から身を乗り出して叫んだ。だがクレッセントはかまわず船に寄り添い無邪気に遊びを誘っている。

「だめだ、きちゃだめだってのに・・・」

 ウィルはクレッセントの鼻先をなでながらボロボロと涙を流した。たとえ今逃がした所でどうにもならないのはわかっている。それでもなんとか助けてあげたかった。

「さぁ、どくんだウィル・・・」

 鯨撃ちは銛を手にウィルの肩を引いた。

 ウィルはその手を振り払いクレッセントと鯨撃ちの間に遮るように立ち、鯨撃ちの目をじっと見つめた。

「わかているのか、ウィル?これはお前の遊びではすまない。わしら漁師の、いや、この海全体の死活にかかわる問題だ。今は良くてもクレッセントもこの先遅かれ早かれ魚がいなくなって飢えて死んでしまうんだぞ」

 鯨撃ちは銛を構え言った。

「わかてる・・・わかってるけど。殺さないで!僕が・・・僕がなんとかするから!」

 ウィルは力の限り叫んだ。

 長い沈黙の後、鯨撃ちは目を閉じ銛を海に投げた。銛は何もいない暗い海に突き刺さり、軽くしぶきを残し消えていった。

「この子を守れるのはお前だけだ。やってみろ。潮は満月が真上にある今が一番高い。ベイリービーズの真ん中の一番背の高い岩だ。その先に外の海へと続く深い切れ目がある」

 鯨撃ちはウィルに背を向けそう言った。

「ありがとうおじさん・・・行ってくる。絶対僕がクレッセントを外の海に帰すよ」

 ウィルは鯨撃ちの気持ちを受け、海へ飛び込んだ。

「ウィル、お前は・・・」

 ウィルが飛び込んだ直後、鯨撃ちは振り返り何かを伝えようと手を伸ばす。だがその手をグッと握り、その気持ちを押しとどめた。

 クレッセントは飛び込んだウィルにそのまま付いて行かず、一度海底へと潜り鯨撃ちの前に顔を出した。その口には先ほど海に沈んだ銛がくわえられていた。

「お前はいい子だな・・・さぁ行け」

 銛を受け取った鯨撃ちはクレッセントの鼻を優しくなで、早く行くよう促した。

 ウィルに追いついたクレッセントはまるで全てわかっているかのようにその後を付いて行った。

「あれだ、あの一番大きな岩!」

 ウィルは指差す。思ったよりも大きい。高さは三メートルはあるかもしれない。泳ぎ着いたウィルは岩をよじ登りながら不安になっていた。

「クレッセント、ここだよ!僕のいるところに全力で飛ぶんだ!」

 その不安を振り払うかのようにウィルは叫び、大きく手を振った。

 クレッセントはウィルが何をして欲しいと思っているのかはっきりと理解している。助走をつけるため岩から距離を開けた。

「キュイ」とひと鳴きすると月明かりに照らされた海へと頭から潜っていった。水面から打ち上げられた尻尾はまるでハートのような形に見えた。

 黒い影が流れるように近付くのが見えた。岩の二・三メートル手前、水面が盛り上がる。次の瞬間、クレッセントの巨体は宙を舞っていた。水しぶきが無数の星のようにきらめく。

「おいで、クレッセント」

 ウィルは手を差し出し、導くように背中から外の海へと落ちていく。クレッセントはその後を追って、岩を飛び越えていった。大きな水柱を立て、ウィルとクレッセントはベイリービーズの外の海へと消えていった。

 歓声を上げる漁師たちの中、鯨撃ちだけが黙って涙を流していた。

          

 気が付くとウィルは暗い海の中を漂っていた。少し気を失っていたようだ。クレッセントは寄り添うようにすぐ横にいる。

「クレッセント、よかった無事だったんだね」

 ウィルはその鼻先に顔を当てた。

 何も見えない。ここはどこだろう?どっちが上なのか下なのか? 沈んでいるのか浮かび上がっているのかそれすらもわからない。体に力が入らない。でも何故か不思議と苦しくはなかった。いつまでもこうしてクレッセントと泳いでいられるなら・・・

 光も届かない海深くウィルは流れに身を任せた。

 いつの間にか体の周りから水の感覚が消えていた。まだどっちが上なのか方向がはっきりわからない。

 真っ暗な世界に少しずつ光が戻ってきた。上下左右いたるところに光が瞬く。まるで星の海に囲まれているようだ。

 ウィルはその星の海の中に浮かぶあるものに気が付いた。

「三日月島・・・?」

 それはさっきまでウィルたちがいた三日月島だった。淡い空色の球体に包まれた島は星の海の遠くに浮かんでいた。

「帰らないと・・」

 ウィルは何か不安な気持ちになり三日月島の方に手を伸ばす。

『帰る?どこへ?』

 不意に背後から聞きなれた声が問いかけてきた。振り返ったウィルの前にいたのは鯨撃ちだった。

『お前の帰るべきところは三日月島ではない。あそこだ』

 鯨撃ちは三ヶ月島とは反対を指差す。その先にあるのは青い星。

「地球・・・」

 ウィルは今まで写真でしか見た事しかないその美しい青い星に見とれていた。

『今まですまなかた。わしの未練な心がお前たちを閉じ込めてしまっていた。ゆるしてくれ・・・』

 鯨撃ちはウィルの背中を地球に向け押した。

「待って。ありがとう・・・『父さん』」

 ウィルは最後に笑顔でそう言った。

『そばにいてやれなくてすまない。母さんとその子の事を頼む』

 手を振る鯨撃ちの姿は三日月島と一緒に遠くに見えなくなって行った。

「一緒に帰ろう」

 ウィルはクレッセントの胸ひれを握りしめた。

 地球に近付くにつれウィルとクレッセントの姿は泡のように姿形を留めなくなっていった。そしてその泡は地球に流れていく。

 

 地球のどこかの国、どこかの町、どこかの病院。

 ベッドに横たわっていた少年が目を覚ました。

「お帰りなさい凪・・・」

 傍らで付き添う母親は目に涙を浮かべる。少年の手は母親の手に添えられ、大きく膨らんだ母親のお腹に当てられていた。手のひらには小さな脈動を感じていた。

 後ろのドアが開くと白衣を着た医師や看護士があわただしく入ってきた。

「ただいま・・・母さん・・・」

 今は夜なのだろう、窓の外には白い満月が輝いていた

          

 ゆっくりと記憶が戻ってきた。

 僕の名前は水巻凪。

 捕鯨船の船乗りだった父さんが遠い南の海で行方不明になたのは僕が小学六年生の三学期の事だった。

 心の整理がつかないまま中学校に進学したものの、学校に馴染めず、校門近くまで来ては引き返す日が続くようになった。

 母さんはお腹に赤ちゃんを身ごもっていて六ヶ月を過ぎようとしていた。僕の事もあって、お腹の赤ちゃんも大事な時期だからと母方の実家に身を寄せる事になった。

『どのみち新しい学校にも馴染めないんだろうな・・・』

 身の回りでいろいろなことが重なり、僕の気持ちは付いて行けれなかった。

 島に渡る船は高い波に揺れていた。

 小雨の中、僕は濡れるのも気にせず船尾のデッキから海を眺めていた。

 ふと、海のほうから父さんの呼ぶ声が聞こえた。波とエンジンの音にまぎれかすかな呼ぶ声が聞こえてきた。

 気がついたら静かな暗い海の中に飛び込んでいた。何でこんな事をしたのだろう。でも、もういいや・・・

 僕は一ヶ月近く眠ったままだったらしい。偶然目撃者がいて通報が早かったおかげで一命を取り留めた。

 母さんは僕のことでのストレスがたまり、お腹の子もかなり危なかったという。

「ごめんね、母さん・・・」

 ベッドに寝たまま僕はボソッと言った。

「もういいのよ。あなたもおなかの赤ちゃんも無事だったんだから。二人ともいなくなっていたらわたしもあの人の所に行ってたかもしれない・・・」

 母さんはりんごの皮をむく手を止め、窓の外を見上げつぶやいた。その手は小刻みに震えていた。

『お前の帰るところはあの島ではない・・・母さんと子のこのことを頼む・・・』

 やっぱりあれは父さんだった。

「母さん」

 僕はベッドから起き上がり目線を合わせ言った。もう前みたいに見上げたりはしない。

「僕やっぱり転校しない。退院したら元の中学校に通うよ。あの学校には寮があるから一人でも大丈夫。自分で何ができるのか探してみるよ。母さんは実家に帰ってゆっくり赤ちゃんを産んで」

「ありがとう・・・凪」

 母さんは涙ぐみながらうれしそうに微笑んだ。

          

 退院した僕は元の学校に戻ると寮に入り、今度は校門から逃げることもなく学校に通うようになった。みんなから遅れた分を取り戻すため人の倍は勉強しないといけなくて大変だった。そして水泳部に入り毎日何キロも泳いでいる。以前の何倍もハードな毎日。だけど不思議とあまりつらいとは思わなかった。前向きにがんばっているうちに勉強を教えてくれる友達ができた。泳ぎのタイムや技術を競う仲間ができた。

 半年後、短い正月休みに僕は母さんのところに里帰りしていた。そして妹ができて、僕はお兄ちゃんになっていた。

「は~い美月ちゃん。お兄ちゃんですよ~」

 母さんは僕に赤ちゃんを抱かせた。十一月に生まれて一ヶ月。母さんが写真を送ってくれていたけど実際に会うのは初めてだった。見た目より重たい。それがただの物ではない、命の重さというものなのかもしれない。

 ふと美月の右手の甲に小さな三日月のほくろがあるのに気がついた。

「やっぱり君だったんだね・・・」

 僕は美月の頭をなでた。ふと透明な海に浮かぶクジラのの姿がダブって見えた。美月は無邪気に両手をパタパタと振って喜んでいる。


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