曲げられない意志
「家に帰りなさい」
玄関前で立ち尽くしているひなたに、恵はそう声を掛ける。なにを言われたのか、すぐに返事が出来なかった。
「どうして」
「どうしても、よ。今のあなたがここにいて、良いことなんて一つもないわ。それに、なんの理由もなく一くんがあんな態度を取らないって、あなたなら分かるでしょう?」
ひなたは首を横に振る。一が理由もなく、きまぐれの鬱憤晴らしに怒りを撒き散らすような人間ではないと恵は言う。
そうなのかもしれない。ひなたや恵を驚かせるような行動が多々あったとしても、それが彼らしいところだった。あんなに冷たい目を向ける場面は、今まで見たことがない。
「原因がわかるまで、ここには戻ってこないこと」
恵は、そう言ってひなたを突き放した。命令にも近い口調からひなたの反論は許されない。一月家の引き戸は、これが境界線といわんばかりにぴしゃりと閉められた。
家に帰るはずの足取りは、全く動かなかった。帰宅したところで、問題が解決するわけではない。家に閉じこもっている方が現状打破にはつながらないだろう。
一つ、ひなたには思いだしたことがあった。一に弁当を作っていると言っていた女子高生がひなたの言葉を聞いて瞳を見開いていたことだ。一目見て、彼女には男性が守ってあげたくなるような雰囲気を纏っているとひなたは感じた。ふっくらとした唇と、適度に長い睫は女の子らしい愛くるしさもある。
しかし、ひなたの言葉を受けた彼女からそれらの武器は消え失せていた。それは、不思議で仕方が無いといったような表情にも見てとれた。私と彼の事情に、どうして他人であるあなたが干渉するのか、と。
『どうして、そんなことをいうの』
彼女の声は、怯えていた。まるで、親に叱られた子どもが納得できず食いついているようだった。
「女の子って、難しいな」
性別の問題か、それともほかに理由があるのか。ひなたは丁寧に言葉を選んで言ったはずなのだが、彼女には響かなかった。認めたくないが、それが結果であり真実だ。
問題を指摘されたことが彼女を追い詰めてしまったのだろうか。ひなたの仮説は、間違っていないだろう。彼女は、一を想って正しいことをしているのだと驕っていた。だからこそ、第三者からの助言は寝耳に水だったとしたら。
「いやいや、まさか」
彼女は、一に好意を抱いている。彼のことを想っているのであれば、その情熱を以ってどんな言葉でも受け止めるべきではないのか、とひなたは思った。
どちらにせよ、問題は一にどういった言葉をかければいいのかということだ。こちらの発言に問題があったとはどうしても言いたくない。しかし、向こうが悪いのだとも言いにくい。
「後ろに下がれー! シロウの球はもっと飛ぶぞー!」
「おうおう、気持ちいいくらいかっ飛ばしてやるからな! それとお前ら、俺も志郎さんって呼べ!」
どれくらい歩いていたのか、ひなたは河原に行きついた。河原全体に砂利が敷き詰められているわけではなく、校庭のように一部整備されている。
そこにはユニフォームを着た少年たちが集まって、野球をしていた。ルールに詳しくないひなたでも、彼らがバットを構えている青年に勝とうとしているのは一目見てわかる。
バットを構えているシロウと呼ばれた青年は、志郎だった。その横顔は、対峙している少年たちよりも輝いている。部活でもそんな表情で臨んでいるのだろう。
正面に立つ少年が何度か頷き、投球のフォームに移る。持ちあがった腕が振り下ろされ、一投が放たれる。志郎はタイミングを合わせ、バットを思いきり振った。球の芯を捕らえきれず、打った球は鈍い音を立てて正面に飛ばなかった。
「上手くなったな、前は力押しで飛ばせてたんだけどな!」
「へへっ、一さんに教えてもらったんだ。シロウはどんな球でも一球目で振ってくるって!」
「あんにゃろぉ……もう一球だ!」
バットを一度、二度振りもう一度構える。一に対して毒づきながらも、志郎の目の輝きは曇らない。
二投目、放たれた球は甲高い音を奏でて青空に吸い込まれていった。白球は、気持ちいいほど真っ直ぐに飛んでいく。志郎は、バットを地面に落とし、一塁へ走る。二塁、三塁を蹴りホームに戻った彼と目が合ったような気がした。
「今日こそシロウを三振出来ると思ったのに!」
「はっはっはー、残念だったな。もっと鍛えてから挑戦したまえ、少年たちよ!」
土手をあがってきた志郎に見つからないように、ひなたはその場を離れようとした。しかし一歩早く踏み出した志郎に追いつかれ、目の前に立ちふさがる。
「よ。今日は、家政婦の仕事は休みか?」
「はい。恵から、言われまして」
「それなら、少しだけ俺に付き合ってくれねぇか。オフなら問題ないだろ」
志郎の後ろから少年たちも土手から駆けあがってきた。まるで子犬が親犬に向かって走ってきたようだ。そうして、ひなたと志郎の周りに集まってくる。
「わぁっ、シロウのカノジョだカノジョだ!」
「ばっ! ちげぇよ、この子はそんなんじゃ……」
少年たちが囃し立て、志郎は首を振って否定する。
「お姉ちゃんもお好み焼き食べに行くんでしょ? シロウの奢りなんだよ」
「お好み焼き、ですか?」
「お、おいおいお前ら、さっきから勝手に話を進めて、誰がいつ奢るって話をしたんだよ」
「そう言って、俺たちをいっつも連れてってくれるじゃん!」
投手の少年は、チームメイトに同意の声を求める。そうだそうだと合唱を始めると、志郎一人の声では止められない。さて、どうしたものか。
少年たちの合唱に混ざるか、志郎の独唱に加わるか。
「皆さんが話しているお好み焼き、食べてみたいです」
「ほら! カノジョさんからのお願いだよシロウ!」
「私は志郎さんの彼女ではなく、一月家の家政婦です。花森ひなたといいます」
「カセイフ? なあんだ、カノジョじゃないんだ」
少年たちの誤解の種を取り除き、少年たちの合唱に参加する。仕事ではないにしろ、依頼人の家族と二人でいるのはどうしても忍びない。志郎には悪いが、少年たち行きつけのお好み焼きを食べに行くことになった。
そのお好み焼きは、商店街の一角にある駄菓子屋のメニューだという。駄菓子を売っているのは勿論、お好み焼きやもんじゃ焼きも、その場で作って食べられるようにしているらしい。
「いいか、生地代は出すけど、トッピングの駄菓子は個人で買うこと!」
店内には、嵌めこみ式の鉄板がいくつか設けられている。壁には、お好み焼きやもんじゃ焼き、追加のあげたまや豚肉といった手書きのメニューが飾ってある。駄菓子屋と看板を掲げているように、棚にはお馴染みの駄菓子も置いてあった。
少年たちは思い思いの駄菓子を手に取り、丸椅子に座っていく。ひなたのようにあれこれとトッピングに悩む様子はない。
「ひなたお姉ちゃんって、お好み焼き食ったことないの?」
「こういう場所では、食べたことはないですね」
「それならね、らーめんおっちゃんがおすすめだよ。焼きそばが入ってるみたいな感じがして、お好み焼きっぽくなるんだ」
そう教えてくれたのは、投手の少年だった。これだよと、らーめんおっちゃんと書かれた小袋を渡される。ここでは彼らの方が専門家のようだ。
「良いチョイスだな。俺もその組み合わせ好きだぜ」
「ピッチャーの子が教えてくれたんです」
「ああ……あいつはハジが殊更可愛がってるピッチャーだよ。素直で良い子だ。どっかの気まぐれな裸族よりはな」
ひなたの向かい側に志郎が座る。手には具材の入ったボールを持ち、お好み焼きの生地を熱した鉄板に流し込む。生地の焼ける音に紛れて、少年たちの声があがる。
「こいつらは、俺の後輩なんだ。練習の合間にああやって相手して、帰りはいつもここで駄菓子をつまんで帰るんだよ」
「一さんも、ですよね」
「おう。っていっても、俺とハジはこのチームに入る前から知り合いでさ、あんな性格してるのに、スカッとしたいい球投げるんだよ」
生地に熱が伝わってきたところで、志郎が立ち上がる。ひなたが購入したらーめんおっちゃんを生地の上にまんべんなく振りかけ、すかさず小型のヘラで生地を裏返した。志郎がこの店の常連だというのは、手際を見ればわかる。
「小さいころから一緒に居たって、分からないことのほうが多くてさ。でも、ハジのことで一つや二つくらいなら自信を持って言えることがあるんだ」
焼きあがったお好み焼きにソースと鰹節、マヨネーズで彩った。ソースの焦げた香りと鉄板の熱に踊る鰹節の舞を目の前に、志郎の言葉に耳を傾ける。
「ハジの夢だよ。お前もそうだろってハジに言われたときは、すぐに返事できなかった。野球少年なら一度は夢見るって言ったって、そのほとんどは叶えたくても目が覚めちまう」
夢はいつか覚めるものなのだと志郎は話す。たった一球を追いかけていた彼の姿とは裏腹に、その瞳は遠くを見据えている。
夢心地半ばに目が覚めてしまう人も多いだろう。現実に引き戻され、夢と現実に苛まれるのは誰しもあることだ。追い求めていた理想は掴む前に露と消える。そうして、夢から目覚めてしまうのだ。
しかし、夢から覚めることなく現実に反映しようとする人も確かにいるのだとひなたは思った。なにより、彼女自身もそうであるのだから。
「なんの話してんだよ、シロウ」
「シロウが食わないなら食っていい?」
「お前らなぁ……俺は今から食うんだよ、今から」
志郎は、少年たちのヘラからお好み焼きを死守する。目の前の少年たちと笑いあう姿は、彼らに負けず劣らずだ。
お好み焼きを頬張りながら、志郎から聞いた情報を整理する。一にもひなたと同じように叶えたい夢があるのだということ。今も彼の夢は覚めることなく、追い続けているということ。
ひなたは明日の朝、練習試合を控える一に会うことを決意した。なにも恐れることはない。
恵に事情を説明し、ひなたは一足早く一月家の台所に立っていた。冷蔵庫に入っている焼き豚をスライスし、フライパンに火を入れる。
「謹慎明けで、随分張り切ってるみたいだなぁひなた」
「おはようございます、一さん」
戸の先には、ジャージにエナメルバッグを下げた一の姿があった。円卓の前に荒々しく腰を下ろす。ひなたは、一旦フライパンから視線を外し、頭を下げた。なにか言及されるのではないかと思っていたが、ひなたの杞憂だったようだ。
フライパンの中では、白米と溶き卵が程良く絡みあっていた。焼き豚の味を消してしまわないように、炒飯の味付けに留意して皿に盛りつける。
「シロの入れ知恵か。今日、俺が試合だって聞いて、それでわざわざこれを作った……ってところか」
「私が家政婦になりたいと思ったのは、恵が笑っていたからです」
「は?」
素っ頓狂な声をあげた一の前に、ひなたは炒飯とサラダを置く。そこに中華風の卵スープも添えて、朝食の準備は整った。
「小さいころ、こっそり恵の働いている姿を見に行ったことがあるんです。家では明るく笑っている恵がどんな姿で仕事をしているのか、気になったんです」
仕事をするのは大変だと、恵の口から聞いたことがある。いくら明るく振る舞っている恵でも、そんな言葉を漏らすほど大変な仕事をしているのかと幼心にひなたは感じていた。生きるために働くという言葉の重さを理解していなかったひなたは、恵の仕事場にこっそりついていった。
「恵は変わっていませんでした。笑って仕事をしていたんです。依頼された方と色んなお話をしていて、時に笑って、時に励ましている恵の姿に私は憧れています」
「それが、家政婦になりたいって理由か」
一は、炒飯を頬張った。食べながらでも話を聞いてくれているようだ。
「恵のような家政婦になりたいとは思っています。だからこそ、依頼人に関わる問題を見てみぬふりは出来ません」
蓮華と食器が激しくぶつかり合った。炒飯に向いていた一の視線は、ひなたをねめつける。ひなたは臆することなく、言葉を続けた。
「例え、相手を傷つけてしまうかもしれなくとも、言わなければならない。そんな時だってあります。なにより相手を大切に思うなら、より良いものにしたいなら余計なことだと言われても、私は、物言います。もっと大きな弁当箱に豪快におかずを詰めてください、と」
「自分勝手だな。お前みたいに打たれ強い人間なんざ、きっと少ないと思うぜ。相手が傷ついて、自分で修復する気がない人間の方が圧倒的に多い」
「その時は、わかってもらえるまで。私が責任もって最後まで寄り添います」
一は、卵スープを啜る。それきり二人の間に会話はなく、食器が擦れる音だけが空間を支配した。全力は尽くしたつもりだ。
もし、これで彼にも伝わっていないのであれば、謹慎二日目となる。それだけは避けたい。
食器が全て空になり、ようやく彼が口を開いた。
「お前がアドバイスした女は、そういう奴じゃなかった。勘違いして、一人で舞い上がっていただけだ」
「勘違い?」
「俺は弁当を作ってくれなんて頼んでない。たった一回差し入れで出した肉が美味かったって言ったら、小さな弁当箱にこまごまとおかずを詰めて持ってきたんだよ。さすがに参った」
「恵のお弁当を食べる暇はなかったんですか」
「昼休み、放課後と隙あらば隣に立つような女だ。面倒だから弁当もおにぎりもチームメイトに渡してた。それも昨日までの話だけどな」
一は、食器を重ねて流し台に置いた。落ち着いているその表情とは裏腹に、彼は語り続ける。
「勘違いするな、って言ったんだよ。向こうから付き合って下さいって言ってきたから、俺はOKって言った。ただそれだけで、YESなんて言ってないってな」
「はい?」
今度はひなたが素っ頓狂な声をあげる。OKとYESの違いがわからない。
「YESとOKってどう違いがあるのでしょうか」
「英語の時間サボってたのか? OKっていうのは、なんでも良いってことだ。勝手にやればいい」
「それなら、YESは」
「肯定だよ。相手の言葉を理解して、受け入れる。OKとは全く意味が違う」
一から説明を受けても、ひなたは同意出来なかった。子リスのような愛らしさがあった彼女は彼の言葉によほど傷ついただろう。当の本人は、今まで背負っていた重い荷物を下ろしたような涼しげな表情をしている。
「家政婦っていうのは、家事全般、決められた仕事をこなすものだと思ってた。そんな仕事に憧れる理由なんて理解できなかったが、どうやらお前は違うらしい」
「根本的なところは同じです。皆さんの衣食住を整えることが私の仕事です」
「依頼人が抱える問題を見てみぬふりをしない、そんな家政婦だろ。良い夢じゃねぇか」
「一さんも、素敵な夢をお持ちではないですか」
一は、深く息を吐いた。
「あの野球バカはそんなことも言ったのか。プライバシーもなにもないな」
自分のことをひなたに話した志郎に呆れているのだろう。しかし、再び顔を上げると、頬にえくぼを作っていた。笑うとえくぼができるのは、ふみや深月と同じだ。きっと織に似たのだろう。
一を見送るために、ひなたも玄関へ向かった。靴紐を結びなおして立ち上がった彼は、思い出したようにひなたの名前を呼んだ。
「今日も勝ってくるから、夕飯、焼き肉にしてくれって親父に言っといてくれるか」
「了解しました。お話だけは、しておきます」
「ああ、しっかり頼んだ」
眩しい陽光が戸の先から溢れだす。そこに立つ一の姿がひなたには眩しく映った。いつか、織が言っていた言葉を思い出す。
夢を持った人は、きらきらと輝いているものなのだ、と。詩のような表現だと思っていたが、決して間違いでもないのだろう。
「いってらっしゃいませ」
戸が閉まる寸前、ひなたは一の背中に頭を下げた。
余談になるが、一の宣言通り練習試合は勝ち試合であったため、その日の夕食は鉄板で豪快に焼肉を行った。食べ盛りの男子高校生六人による、熾烈な争奪戦が行われたのはまた別の話。