必要なものと不必要なもの
玄関先、自分の目の前に上半身裸の男性がいるなんて誰が信じるだろう。本人は、なんでもないように肩にタオルを掛けて廊下をぶらぶらと歩いている。彼の黒髪は、乾ききっていないのか濡れ羽色に染まっていた。髪が乾けば、織に似た色合いになるのだが、水を含んでいるこの色も目を引くものがある。
ひなたは、家を間違えたかと引き戸を閉め、表札を確認するが間違いなく一月と彫られていた。
「さっさと入れよ、ひなたぁ。なにつっ立ってんだ」
「さっさと服を着ていただけませんか、一さん」
「ここは俺の家なんだ。俺がどんな姿で居ようが、家政婦のお前には関係」
「ありまくりだ、この裸族!」
一の後頭部に志郎の一撃がしたたかに決まった。丸めた新聞紙とはいえ、志郎の一撃に彼はその場で蹲る。
「同情は無用ですよ、花森くん。こうでもしないと彼には響かないのですから」
「こればかりは俺もフォローできないよ、一」
「自業自得ってやつだね、はじ兄」
「これくらいでガタガタ騒ぐなよ」
舌打ちをしてすぐに立ち上がった一は、二階へと上がっていった。彼の背中を追おうとする志郎といつきだが、なにも言わず居間に入る。どうやら、今日がはじめてではないらしい。それならひなたが慣れた方が良いのだろう。恵もきっと慣れている。
「ねえ、今、裸族とかいう聞きたくない単語が聞こえたんだけど、気のせいよね?」
「うん。気付くのが少し遅かったかな、お母さん」
こうして、今日も家政婦としての長い一日が幕をあける。
先に帰った恵と入れ違いで一が帰ってきた。予定よりも一時間ほど早い。ひなたは恵から言われたとおり、取り込んだ洗濯物を和室で畳んでいた。仕事をこなしているひなたのもとに、彼はひょっこり顔を出す。
「腹減ってんだ、なんか作ってくれねぇか」
「軽食ですか?」
「いや、がっつり食えるやつが良い。ご飯もののな」
現在午後三時を過ぎたばかりだ。この時間帯に、ご飯ものを食べるということは、よほど空腹であるのは間違いない。
しかし、いくら食い盛りで練習を終えたあとといっても、なにかがおかしい。部活に入部している一や志郎には、弁当のほかにこぶし大のおにぎりを一緒に渡している。部活終わりに食べてもいいように作っているそれを食べたうえで、彼はまだ食べたりないというのか。食い盛りは恐ろしい。
「ひなた、おかわり」
「おかわりと言われましても、もうすぐ夕食の時間ですし我慢されてはいかがでしょう」
「夕飯は夕飯で食うから。それなら問題ないだろ? この焼き豚最高に美味い」
一は、米粒一つ残さず焼き豚乗せ炒飯を食べ終えていた。恵特製の焼き豚がよほど気に入ったらしい。
炒飯の材料は、ほとんど残りものから作ったものであって新たに準備すると夕食の時間になってしまう。流石に食い盛りという言葉だけで、彼の空腹を理由付けられない。
「恵は、お弁当だけではなく、おにぎりも作っています。もし足りないというのであれば、恵に量を増やすように伝えておきます。それと、炒飯の量は十分用意しました。それでも空腹なのは、おかしいです」
「そんなに、おかしいか? こう言っちゃあなんだが、俺はそういうことをいうお前の方がよっぽどおかしい」
「なにが」
気に食わないというのか。語調を和らげて発しようとしたひなたの言葉は、一の手によって掻き消された。ひなたの右耳の横を通り過ぎ、彼の手は彼女の髪を掬い上げるようにして頭を固定する。
そうして無理に上を向かされたひなたと、見下ろしてくる一の視線がいやでも混じり合う。身体の芯を焦がしてしまうほどの青い炎に息が詰まる。
「依頼人の要望を聞いて、それをこなせばいいんだよ。それが、お前の目指してる家政婦だろ? 余計な詮索はしないほうがいい」
一の手から力が抜ける。途端燻っていた青い炎はなりを潜めた。ひなたは円卓から離れ、彼から距離を置く。
「ご馳走様。夕飯、楽しみにしててやるよ」
空になった皿とひなたを残し、一は行ってしまった。空腹の理由を知られたくないというのは、ひなたが踏み込んではいけないなにかがあるからだろう。自分はなにも聞かなかったと、首に纏わりつく熱を振り払う。
居間に掛けられた時計は、鐘の音を五回打ち鳴らした。
聞かなければよかったことというのは、勝手に耳に入ってくるほうが多い。こちらが聞きたくないと思っていても、女性の声というのは響くものだ。
「あんたの彼氏は良いわよねぇ、なんにも言わずにお弁当食べてくれるんでしょ?」
「そうなの。前にね、味付けしたお肉が美味しいって言ってくれて、それからずうっとお弁当を作ってるの!」
「一月一くん、だっけ。野球部のエースでしょお? しかも顔も良いし、言うことなしって感じじゃないの」
ひなたが立ち寄ったスーパーで、そんな会話を聞いた。振り返れば、学生服を着た女子高生たちが肩を並べて精肉コーナーで味付け肉を見ている。彼女たちは同じチェック柄が入った短めのスカートを揺らしていた。その中で、一に弁当を作っているといった彼女は、同じ味付け肉のパックをいくつも籠の中に入れている。いくら肉料理が好きだといっても、同じものを弁当に詰められていたら栄養面でも偏るだろう。
どうしても話が繋がらない。彼女の弁当と恵が作った弁当、そして大きなおにぎりまで食べて、部活があるとはいえ空腹であるわけがない。これでは食べ過ぎだろう。
「あの」
余計な詮索をするなと一と恵の声が脳内に反復する。それでも黙っていられない。あくまで依頼人の体調を考慮して、その助言をしたいのだ。
ひなたは、たまらず女子高生たちに声を掛ける。知らない人間に声を掛けられた彼女たちは、よほど驚いたのだろう。目を丸くしていたが、すぐに明るさを取り戻す。
「あ、ごめんなさい。私たちばっかり、お肉コーナーの前にいて……」
「この子の惚気話聞いてたら夢中になっちゃってさぁ」
「ええっ、わたしのせい?」
「あの、彼氏さんに作るお弁当って、どんなものなのでしょうか」
会話が続いてしまう前に、ひなたはこの流れを断ち切った。顔を見合わせた女子高生たちは、同性だからか機嫌よく話してくれた。
「これくらいのお弁当に、このお肉でしょ。それに彩りの野菜と、フルーツを入れてるの」
聞いた話では弁当のバランスは悪くない。問題があるとすれば、これくらいと、親指と人差し指で作った楕円の大きさだろう。彼女の小さな身体には満腹になるだろうが、食べ盛りである一には小さすぎる。まだ情報が足りない。
「ほかに、彼氏さんはなにか食べていますか? 大きめなお弁当とか、げんこつみたいなおにぎりとか」
「ああ……そういえば、チームメイトの人たちに渡してたかも。一くんって、他の子からもらったお弁当とか、そうやってチームメイトに渡して、わたしが作ったお弁当だけ食べてくれるの」
記憶の糸を手繰り寄せ、ひなたは一本の糸へと紡いだ。一の胃袋を占めていたのは、彼女らしい弁当だ。弁当に込められた気持ちは満ちているだろうが、空腹を満たせない。そして、食べ盛りの男子高校生に向けて作った恵の弁当とおにぎりは、ほかの男子高校生の胃袋を満たしていた。これでなにが原因かは分かった。あとは、幸福に顔を綻ばせている彼女に一言声を掛ければいい。
一のことを想っているのなら、アドバイスだと思って聞いてくれるだろう。恋をしたことがないひなたには分からないが、彼のために弁当を作っているのなら、きっと耳を傾けてくれる。
その翌日に、ひなたの期待を裏切る出来事があるとは思いもしなかった。
いつもと変わらず、一月家へと出勤したひなたを待っていたのは一だった。上半身裸ではなく、ユニフォーム姿で待ち構えた彼の眉間には深い皺が刻まれている。
一は、低い声でゆっくりと言葉を発した。
「余計なことはするなって、言ったのを覚えてるか」
彼の視線から目を離してはならない。離すことができなかった。頭を固定され、見下ろされていたときとはまた違う。
ものを知らない人間を心の底から蔑むような視線だ。喉の奥が凍りついていくような感覚に、ひなたは声が出なかった。
「申し訳ありません」
一の声に気付いた恵がひなたの前に立ち、先に頭を下げた。それが、ひなたには滑稽に映る。恵は、なにもしていない。だというのに、彼に向かって深く頭を下げている。
「恵さんが謝る必要はねぇよ。俺は、こいつの言葉が聞きたい」
一の人差し指がひなたに向く。ほかの誰でもない、彼はひなたの言葉を求めている。一体自分がなにをしたというのか、理解する暇はなかった。
「もうしわけ、ありませんでした」
ひなたの冷えた喉からは、これが精いっぱいの言葉だった。二人からの謝罪を受け、一は無言のまま荒々しく家を出る。
恵よりも深く頭を下げるひなたの姿を、志郎は居間から黙って眺めていた。