仁義なき応援合戦
一月家の和室の戸棚には、細かなものがひしめきあっている。ペットボトルについてくる小さなフィギュアや、くじ引きで見かけるポケットティッシュといったものが積まれて小山となっている。その山頂が揺れた気がして崩れる前に一度、戸を引いた。
こういった場所は、平日の勤務時間ではなかなか片付けられないところだ。まとまった時間に、まとめて仕分けるのがポイントなのだと恵が教えてくれた。ひなたは覚悟を決め、一気に戸を引く。両手で小山を包みこみ、雪崩に巻き込まれないように押し留める。
「お取込み中かな」
ふいに掛けられた声に手を離してしまい、押さえ込んだ雪崩がひなたに襲い掛かる。衝撃に備え慌てて顔を伏せた。
雑貨が落ちる音はあるが、一向に衝撃は襲ってこない。床に落ちたものは押さえた両手から零れ落ちたものだろう。恐る恐る顔を上げると、大きな手がひなたの手を支えるように重なっている。ひなたの手を、あたたかい手がすっぽりと包みこんでいる。
「怪我はない?」
吐息が耳に掛かるほどの距離で、心配する言葉を掛けられた。誰なのかと慌てて声の主に視線を向ける。
声の主はふみだった。長い睫に縁取られた両目は、ずっと見ていると引き込まれそうになる。家政婦の仕事をどう思うかと問いかけられた、あの日の織の瞳に似ていた。このままふみの手の中に包まれているわけにもいかず、ひなたは包まれているうちの片方を引き抜いて、急いで戸を閉めた。重ねていた掌はまだ熱い。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そこの戸棚、一や志郎くんが買ってくる飲み物についてきたものをしまっているんだ。他にも置いてあるものがあるのにね」
「なにか探し物ですか?」
「うん、ちょっと、ね。裁縫箱を探してるんだ」
視界の端に布状のものがはためく。あの戸の先には、半分崩れたおまけの山が待っているだろう。
「良かったら、私のソーイングセットを使ってください」
恵からもらったソーイングセットをふみに渡す。中には白や黒の糸と針一式、針仕事に使う最低限のものが入っている。裁縫箱のように道具は全て揃っていないが、それでも助かるといって、ソーイングセットとはためいていた布を机に広げる。
それは、黒い長袢纏と金で縁どられ、赤い刺繍糸で繕われた千紅万紫の四文字だった。同じようなものをひなたも着たことがあった。
「お祭りがあるんですか?」
「ちょっと惜しいな。俺が参加するのは、焼きそばとか林檎飴とか売っていないお祭りなんだ」
「そのお祭りって、来週の土曜日にあるんですよね」
壁に掛けられたカレンダーを確認する。青い数字の下にはふみ・いつきの体育祭と織の達筆な字で書かれていた。
「そう。これは応援合戦で使う衣装。生徒会副会長が応援合戦の主将を務めるっていうのが学校の伝統で、その日のために練習してるんだよ。応援合戦も得点になるからね」
ふみは、まち針で四文字を留めると縫うための針に糸を通した。しかし、ふみの手つきに若干不安がある。布から出てくるまち針の近くに指が置いてあり、今にも刺してしまいそうだったのだ。
ふみに怪我をさせてしまうなら、自分が縫った方が良いのかもしれない。そう提案しようと口を開いてから、ひなたはすぐに噤んだ。たま結びを作って、布に針を刺そうとしているふみの顔は真剣そのものだ。声を掛けては、集中を途切らせてしまいそうだとはらはらしていると、洗濯機の軽快なメロディがひなたを呼ぶ。
「洗濯機が呼んでるよ。早く行ってあげないと」
「ですが、あの、ふみさん」
「大丈夫。時間は掛かっちゃうかもしれないけど、これくらい自分で出来るよ」
ふみは布の上に乗せた文字から針を通してみせた。その姿だけで不安は拭いきれないが、ここで留まって見ているわけにもいかず洗濯機の元へ駆け込んだ。
「どうしたの、そんなに慌てて」
廊下で鉢合わせたのは深月だった。ペットボトルのジュースを二本とスナック菓子の袋を抱えている。純の分も取りに来たのだろう。年が近いこともあって、二人は仲が良いらしい。
「急いで干さないと大変なことが起きそうなんです」
「なぁにそれ。虫の知らせってやつ?」
「ふみさんの家庭科の成績は良かったのでしょうか」
「成績ねえ……前に雑巾を縫ってもらおうと思ってお願いしたらね、使い古した雑巾みたいなのを渡されたんだ。新品のタオルを渡したんだけど、そうなっちゃうってことは、そういう事だよね?」
深月の話を聞いて、いよいよ嫌な予感では済まなくなりそうだ。籠を持ち上げ、和室を横切ると、仮止めしていたはずの文字が床にばら撒かれていた。ふみはそのことに気付かず、神妙な面持ちで千の文字に針を通す。
なにも問題がないように見えたのはそのときだけだった。細い銀色の針が刺さったのは、黒い長半纏の生地ではなくそのそばに置いていたふみの指だった。あっと気付いた時にはすでに遅く、彼の眉間に皺が寄る。ひなたは迷うことなく、手にしていた籠をその場に置いて和室に入った。
「ひなたちゃん?」
「手を見せてください。針が刺さったのではないですか」
「そ、そんなに深くは刺してないよ。血も出てない」
ほら、と差し出した手はところどころ赤く色付いている。出血はしていないが、誤って指に刺してしまったような跡がいくつか見受けられた。
エプロンのポケットから、なにかのときのためにと忍ばせていた絆創膏を取り出す。ふみが先程刺していた中指の腹にひなたは絆創膏を巻きつけた。
「失礼なことを言うようですが、私は、見習いでも家政婦です。針仕事も仕事の一つですから、なにか理由があったとしても、一言言っていただきたかったです」
手伝って欲しいとも、教えてほしいともふみから言われなかったなんて、免罪符にはならないだろう。ひなたが前もって言っていれば、怪我をすることもなかっただろう。傷一つなく整っていた指に、ピンクのうさぎがプリントされた絆創膏は似合わない。
「可愛い絆創膏だね。外すのが勿体無いくらい」
「め、恵の趣味です。決して私が買ったわけじゃないです」
ふみは巻かれた絆創膏を撫でて微笑んだ。困ったような、申し訳なさそうな微笑みを浮かべたまま、散らばっている文字をかき集める。
「俺たちの学校は、紅白に別れて体育祭をするんだ。俺は紅組で、応援合戦の主将を務める。そして相手側、白組の応援合戦の主将は、風紀委員会副委員長のいつきなんだよ」
「いつきさんが主将ですか」
「ひなたちゃんか恵さんに頼もうとも考えたんだ。だけど、自分で縫い付けた文字を背負って臨みたくてね。そう上手くはいかなかった」
家での様子を見ていれば、彼が徹底的に応援の演技を仕上げてくるのはひなたにもわかる。僅かな味噌の分量にも気付くような彼がたとえ学校行事だったとしても力を入れないわけがない。ふみもそれを知っている。
「いつきさんが手ごわい相手だというのは分かります。それでも、紅組の皆さんはふみさんを信頼して演技するのではないですか」
ひなたは残っていた絆創膏を全て机に出し、ふみがかき集めた文字をまち針でしっかり止める。ちょっとやそっとでは抜けてしまわないように、念入りに針を刺した。
ふみもいつきと同じように、多くの人間をまとめる力がある。ふみといつきがいることで、兄弟たちの均衡が取れているのだ。そうでなければ一月家の個性的な兄弟たちをまとめられない。
「これなら、外れにくいと思います。自信をもって、縫ってみてください」
「ありがとう、ひなたちゃん。絆創膏だらけにならないように頑張るよ」
「必要であれば呼んでください。お手伝いします」
ふみは机に並べた絆創膏を大事そうに手に納め、再び視線を布に戻す。手つきは未だたどたどしく、また針を刺してしまいかねない。
それでも、彼の自信に繋がるのならここは見守った方が良い。そう判断したひなたは、頭を一つ下げて籠の元へ急ぐ。
その時、ふみとひなたのやり取りを襖の陰から深月が見ていたとは、誰も気付くはずがなかった。
家政婦の勤務時間は午後五時までと契約している。二人は織に挨拶をして一月家をあとにする。
家々から魚の焼く香りや出汁のきいた煮物の香りが漂いはじめたころ、ひなたは恵とともにスーパーへ食材の買い出しに来た。来週行われる、ふみといつきの体育祭で作るお弁当の材料を品定めに来たのだ。
「唐揚げと卵焼きはいれるにしても、問題は主食よね」
「サンドイッチも良いけど、おにぎりや稲荷ずしの方が良いかもしれないね」
メモを取り出し、野菜コーナーからカートを押して食材を見ていく。サンドイッチの材料だけではなく、弁当箱の彩りを添えるためにも必要だ。
真っ赤なミニトマトが並ぶ棚を見て、ひなたは午前中の針仕事を思い出す。夕方になった今でも、ふみは布に向かって奮闘している。たどたどしい手つきはそのままだったが、ふみの両手にピンクのうさぎは一羽も増えていなかった。
「オレンジのゼリーを凍らせて保冷剤代わりにすれば、ってひなた、聞いてる?」
恵は、オレンジを手にひなたの顔を覗き込む。ミニトマトの赤から目を離し、首を縦に振る。そう、と手にしていたオレンジをカートに入れ、次の食材のもとへ向かう。その後ろをひなたはついて歩いた。
「体育祭か。そういえば仕事で行ってあげられなかったわね」
「あんまり、覚えてない」
食材を入れたカートを引いていると、買い物客のなかにジャージ姿の学生とその母親の姿が見受けられる。あれこれと会話を交えながら食材を見ている姿は、同じ目的での買い物なのかもしれない。
恵が家政婦として働いていた時期と重なっていたため、中学校の体育祭には父親が応援に駆け付けてくれていた。どんな種目をこなしたのか、そういった類の記憶は薄く、ひなたの記憶に鮮明に残っているのは、昼休憩だった。
二人分には多い弁当を広げると、食べ盛りの友人たちがやって来る。そうして、あれこれとおかずを配るとあっという間になくなった。美味しかったと話す級友たちの言葉は、ひなたにむず痒いような、そわそわと落ち着かない気持ちにさせた。
「今思うと、仕事だから学校行事に行けないっていうのは、大人の都合よね」
「そんなことないよ。仕事をしなきゃ、お弁当が作れないでしょ?」
「端的ねぇ。私が言いたいのはそういうことじゃないの」
「お母さんが詰めたお弁当があったから、私は寂しいって思わなかったよ」
会計を終えた食材をエコバックに詰める。二つあるうちの大きいエコバッグを恵が持ち、一回り小さいエコバッグをひなたが持った。
袋詰めから店を出るまで黙っていた恵が再び口を開く。
「仕事って難しいわね。土日祝日が休みで、給料が高い仕事なんていくらでもあるのに、よ」
「それでも、お母さんが家政婦を選んだってことは、この仕事がしたかったからだよね」
「ええ。あの人と一緒になってひなたが生まれても、私は家政婦をやめたくない、続けたいって言ったくらい、この仕事が好きなの」
暮れはじめた夕陽が恵の横顔を照らす。眩しい光の中にあっても、彼女の瞳はまっすぐ前を向いている。的の中心を射抜く弓矢のような眼差しだった。
体育祭まで、残り一週間。本日の夕食には体育祭で作る弁当のおかずが並んだ。
* * *
一週間前に二人で考えたおかずたちを四段重ねの重箱に詰め込む。一月家の人たちは既に家を出て、体育祭の会場である高校へと向かっていた。
施錠を済ませ、ひなたと恵が家を出た時には午前十時を回っていた。目安にと織から渡されたプログラムでいえば、一年生のリレーを終えたところだろうか。織に連絡を入れると、校門前で深月と純が待っていると返信がきた。
「あ、来た来た。ひーちゃん、めぐみさん、こっちこっち!」
「お待たせしました。お弁当です」
重箱を包んだ風呂敷を深月に渡そうとした時だった。深月に手首を取られ、力強く引っ張られた。風呂敷の結び目をしっかりと握っていたおかげで、なんとか弁当は落とさずに済んだ。
何事かと深月から聞く暇を与えられず、着いた先は保護者用観覧席だった。レジャーシートの間を縫うように、先に来ている織たちの場所にひなたたちは案内される。
「ああ、良かった。間に合ったみたいだね」
「なにが、どうなってるんですか」
ひなたの声は和太鼓の音によって掻き消される。グラウンドには、和太鼓の音に合わせて白い袢纏と同色の短いパンツを身につけた生徒たちが縦一列に並ぶ。
五つある列の中央に、いつきは立っていた。他の生徒たちと同じ出で立ちだが、彼の袢纏は長く、『青天白日』の四文字が縫いつけられている。一度、大きく打ち鳴らした打音を合図に、いつきは声を張り上げた。
「青天白日の文字を掲げ、今から舞うは我らが白組。この舞が、白組勝利の追い風となりますように!」
言葉を合図に、生徒全員が顔を伏せる。人気を博した海賊映画のテーマが流れ出すと、前列から順に顔を上げていく。海の白波をイメージした、しなやかな腕の振り付け。左右に跳躍する度に揺れる袢纏は、青空と相まった対比が美しい。
低く唸るような音を残し、白組の演技は終わる。観客席から拍手が沸き起こった。演技を終えたいつきの顔には、満足そうな表情とともにうっすらと汗が滲んでいる。
「応援合戦ですか」
「そう。この競技はちょっと特殊なんだ。紅組の演技が終わった後、観客の拍手による審査があるんだよ」
「なるほどね……だから私とひなたを連れてきたってことですか」
和太鼓の音色が流れ始めた。織と恵のやり取りを見ていたひなたは、グラウンドに視線を戻す。
黒い長袢纏と赤い鉢巻が風に揺れている。長袢纏に合わせるように、全員袴も着用している。
中央には、ふみの姿があった。左右に控えていた紅組の生徒たちは、ふみの合図で前に出る。和太鼓の旋律に合わせて左右に別れた生徒の列が腕を振り上げた。白組とは違い、和太鼓のみで演技をしようとしている。
一際大きく打ち鳴らした和太鼓を合図に左右の列は静止する。和太鼓の旋律は流れたまま、ふみは左右の列と同じく前に出た。
「紅を背負いし我らは紅組。千紅万紫の銘のもと、一人一人の彩りを胸に、紅組の勝利を誓う!」
ふみの声がグラウンドに響き渡る。左右の列はふみの声を合図に顔を上げた。細かく速い旋律に、黒い袢纏は激しく揺れ動く。その姿は、暗闇を照らす炎のようだった。かと思えば、大きく穏やかに流れる旋律では、生徒全員が指先一つに集中した演技を見せる。静と動を使い分けた演技に、白組同様、紅組も拍手が沸き起こる。
審査員は、紅白どちらにも甲乙つけがたいという判定を下した。応援合戦の勝敗は、観客からの審査に委ねられる。
「ひーちゃんは、どっちにするの?」
隣に座っている深月に話しかけられた。紅組にも白組にも拍手をしようと考えていたことを、どんぐりのようなくりくりした丸い目に見抜かれていたらしい。どっち、と強調して言われてしまった。
どちらか一つを、選ばなければならない。紅組か白組か、どちらの勝利を願うのか。
「それでは、審査をはじめます。白組の応援が素晴らしいと思った皆様、拍手をお願います」
会場から演技が終わった後と変わらない拍手が起きる。純と志郎は、既に拍手をしていた。ひなたの両手は動かず、代わりに恵が手を叩いた。白組への拍手は続き、再びアナウンスが流れる。
「ありがとうございます。続きまして、紅組の応援が素晴らしいと思った皆様、拍手をお願います」
一や深月に続いて、ひなたも手を叩く。その大きさは、僅かに白組より大きいように感じた。
どちらも素晴らしい演技であったのは確かだ。しかし勝負であるなら、どちらかが勝者になる。ふみ率いる紅組を選ぶか、いつき率いる白組を選ぶか、ひなたが最後に選んだのは紅組だった。
自信がないと不安を漏らした彼に、自分の手で作り上げた長袢纏を身につけて勝利してほしい。そう願っていたら、自然と紅組に拍手をしていた。
「結果発表を行います。今年度の応援合戦の勝者は」
アナウンスは勝利した組を発表した。勝利に沸き立つ会場の声がひなたを包む。勝利に喜び、青空の下で揺らめいたのは赤く燃えるような鉢巻たちだった。
昼休憩は、応援合戦が終わったあとに設けられていた。ひなたたちは、持ってきた風呂敷を解いて、ふみたちが戻ってきたらすぐに食べられるように準備を始める。
「あ、お帰り、ふみ兄! すっごくかっこよかったよ」
「ありがとう。ひなたちゃんたちも見てくれていたのかな?」
「そうだよ。ひーちゃんと恵さんと皆で応援してたんだ」
ジャージ姿に戻ったふみたちが保護者用観覧席にやって来た。ひなたは人数分のコップを取り出し、緑茶を注いでいく。五人目のコップに注いだところで、緑茶の残り少ないことに気付いた。一人一杯では足りないかもしれない。
「飲み物を買ってきます」
「ひーちゃん待って、俺も行くよ」
校門前に自動販売機が設置されていたことを思いだす。レジャーシートから立ち上がり、靴を履くと深月も一緒にやって来た。一人でも大丈夫だといっても、深月は話を聞かずに先へ先へと行ってしまう。
応援合戦の審査から、深月の様子に違和感があった。ひなたをじっと見つめた彼の丸い目の奥に、他のものが見えたような気がしたのだ。
先に自動販売機へ着いた深月が自動販売機に硬貨を入れ、緑茶のボタンを押す。
「ふみ兄ね、応援合戦で勝てたのはお守りのおかげだって言ってたよ」
「お守り?」
「今朝見たんだ。小指に、可愛い絆創膏付けてたんだよね。ピンクのうさぎがプリントされてるやつ」
ペットボトルが大きな音を立てて落ちてきた。ひなたがペットボトルを取るより前に、深月はペットボトルを片手に無邪気な笑顔を向ける。太陽のような、穏やかな表情をしているというのに、ひなたは深月が向けた笑顔にどこかうすら寒いものを感じた。