ある次男の考察
包丁の奏でる音で目が覚める。奏者は先日父が雇った二人の家政婦だろう。合間にひなた、と家政婦見習いの名前を呼ぶ。
階段を慎重に下り、戸を細く引いた。コンロの中を覗き込む女性と、傍らで味噌汁の味を見ている彼女。言葉少なに動き回る二人には、見えない繋がりを感じさせる。離れていても、切り離せない糸によって彼女たちは繋がっている。一月の名を持つ自分にそれはない。これからもきっと得られるものではないだろう。
さて、気になるのは彼女だ。花森ひなたと名乗った小さな彼女は、母親の背中を追って今、一月家で家政婦をしている。母親と同じ二重の目と、肩の上で揺れる髪、年齢まで聞かないが、純や深月と同じくらいだろう。ほんの二、三歳しか変わらない彼女が家政婦としての道を選ぶ理由がわからない。選べる理由が、わからなかった。
父の背中を追おうなんて、一度も考えたことはなかった。
「おはようございます、ふみさん」
気配に気付いて、こちらに振り向き頭を下げたのは彼女の方だった。勘が良いようだ。ふみは頭を振って、まるで今やって来たようにひなたへ挨拶を返す。
「おはようございます、ひなたちゃん。恵さん」
「他のご兄弟はまだお休み中ですか?」
「そろそろ起きてもらわなきゃ困るわよ。織さんにもそう言われてるし!」
「自分で起きるようには、言っているんですが……」
慌ただしく階段を下りてくる足音が聞こえる。だんだん大きくなる足音は、乱暴に戸を引く音で掻き消された。今日からまた朝練習が再開されると聞いていたが、それにしては足音が一人分足りない。
「魚の匂いがする!」
「おはようございます、志郎さん」
「おっす、家政婦見習い!」
目を輝かせて入ってきたのは志郎だった。起き掛けであちこちに跳ねている黒髪を撫でつけ、円卓に座る。服装は、学校指定の体育着ではなく、先日部内で作ったらしいオリジナルのシャツを着用していた。真ん中には『一球入魂』と大きくプリントアウトされている。彼にはとても似合っていた。
「おはよう、志郎くん。今日は朝練があるのかな」
「おう。最後の夏だからな、監督も気合が入っててよ。今年はハジに負けねぇからな」
炊き立ての白米と紅鮭が志郎の前に並ぶ。浅漬けの胡瓜も茶色の円卓の上を飾り、食欲を一層掻き立てた。箸を手にいただきます、と手を合わせ、一足早く朝食を食べ始める。
このまま他の兄弟たちを待ってから朝食をとろうかと考えていた時だった。階段を下りてくる複数の足音が聞こえた。
「ひなたちゃん、俺がご飯を盛るからお味噌汁を分けてもらってもいいかな?」
用意された朝食の前から立ち、ひなたより一足早く杓文字を手にする。なにか言いたそうな表情に笑顔を向けると、一つ頭を下げて味噌汁用の茶碗を鍋の近くに運んだ。
「誰が誰に負けねぇって?」
ジャージ姿で現れた一が早々に円卓につく。わざと志郎の視界に入らないように、斜め前の席につく。身支度を整えて下りてきたのは珍しい。最終学年になり、気持ちを改めたのだろうか。
「お腹すいたぁ、あ、恵さんにひーちゃん、おはよー」
「おはよう、ございます。深月さん」
一の背後からひょっこり顔を出したのは深月だった。パジャマ姿のまま現れ、目を擦りながら席につく。まだ入学して日が浅い新入生は、もうしばらく時間がかかりそうだ。
「前に着替えてから朝食をとるように言いませんでしたか、深月くん」
「堅いこと言いっこなしにしようよ、いつきさん。純だって制服着てないしさ。ふみ兄、手伝うよー」
「ふみさん、ご飯少なめにして……あんまりお腹空かない」
深月のあとからいつきと純がやって来た。いつきは制服で、純は深月と同じくパジャマ代わりのジャージ姿だ。朝が弱い織はまだ起きてこないだろう。手にしていた織の茶碗を食器棚に戻した。
「ごちそうさんでした!」
「ご馳走様」
いつきと純が円卓に着くのと入れ替わりで一と志郎が部屋を出ていく。なにかにつけて張り合っている二人だが決して仲が悪いわけではない。どちらも長男で、どちらも同じ野球部に所属している。近しいからこそ衝突してしまうのだろう。
ふみは食べ終えた食器を流し場に下げ、三人を残して立ち上がる。
「おはよう皆、朝早いねえ……」
織は、パジャマとして使っている浴衣姿で現れた。まだ眠そうに目を擦りながらすれ違った彼は、父と呼ぶにはどこか幼いように見える。
「眠そうだね、父さん」
「結構眠い。でも、今日も用事があるからね」
「あんまり珍しいことはしない方が良いんじゃねぇか、親父。雨降るぞ」
「うわ、一ったら酷いな」
「はよざっす、織さん! それといってきまっす!」
「はい、おはよう。今日も元気にいってらっしゃい、志郎くん」
先に学校へ向かう三人それぞれと言葉を交わし、見送りを終えた織は、他の兄弟たちが残る居間の奥へ消えた。
携帯電話にメールが届いたのは、昼休み前最後の休み時間だった。内容は、朝に渡し忘れた昼食を届けたいから、校門の前で待っていてほしいというものだ。同じものがいつきにも送信されている。
いつきとふみは同じ高校に通っている。公立でありながら進学率が高いと評判になり、この高校を目指す受験生は多い。勿論勉学だけではなく、学校行事にも積極的に取り組み生徒たち一人一人が文武両道を目指すようにと説いている。
「まさか、弁当を作ってるとは知りませんでしたよ」
「そうだね。でも、そっちの方が良いんじゃないかな。買って食べるより、食費がかからないって聞いたことがあるよ」
「確かに、レジで足止めされるのもあんまり好きじゃありませんがね」
約束の昼休みとなった。廊下は休み時間より沢山の生徒で行き交っている。駆け足で廊下を過ぎた生徒にいつきが鋭い眼差しを向けた。
「いつき」
「分かってます」
いつきは、安全ピンで留めた左腕の腕章に触れる。緑の布地に白抜きで並んだ風紀の二文字が彼の立場を表わしている。一年生の頃から委員会に所属し、学校の秩序維持のため臆することなく常に目を光らせている。本来であれば、生徒の背中に向かって叫んでいたところだろう。だが、今は昼休み。ここで事を大きくするのは得策ではない。
すれ違った生徒に目くじらを立てる彼を宥めてようやく校舎の外に出た。
「気になっていたんですが、その袋はなんです?」
「ああ、これ? お弁当を作ってくれていると思わなくて買った昼ごはんだよ」
「そっちのジャージは」
「これはまだ秘密」
校門が見えてきた。配達人は、校門前で用務員と仲睦まじく話し込んでいる。どうやら既に着いていたようだ。
「この小さなお弁当屋さんは、君たちの知り合いだったんだね」
「お届けに来ました、ふみさん、いつきさん」
配達人のひなたの手には紙袋が握られていた。中には二人分の弁当箱が並んで入っているのだろう。ここで彼女から紙袋を受け取れば昼食だが、今日は持ってきたものがある。
「ひなたちゃん、お昼はまだだよね」
「そう、ですね。家に戻ってからとります」
「良かった……偶然ここに、今日買った昼ごはんがあるんだけど、俺たちと一緒にどうかな?」
「なにを言ってるんです。彼女は生徒ではないんですよ」
いつきがすかさず異議を唱える。ここでふみの勝手な行動を許すようなことは出来ないだろう。なにも彼が風紀委員だからだけではない。
いつきの視線の先は、校章の隣に刺してある紅白のバッヂに向けられている。それは、特定の生徒にしか与えられない代物だ。
「生徒会の役員としての責任が問われますよ」
「だから、いつきが必要なんだよ」
「……珍しく、我儘ですか?」
「要望って言えば聞こえがいいかな」
用務員は、昼休憩をとるために校門前からいなくなっていた。狙うなら今しかない。紙袋を受け取り、代わりに買ってしまった昼食をひなたに渡す。呆れたように息を吐いたいつきは、なにも見ていないように目を逸らした。
「俺の我儘に付き合ってくれないかな、ひなたちゃん」
持ってきたジャージの上着をひなたの肩に乗せる。丈は太腿が隠れ、袖は腕をすっぽり覆ってしまうほどだった。これで、いい。彼女がなにか言いたそうにしているうちに、ジャージのジッパーを上まで引き上げた。
* * *
ふみといつきに弁当を届けるために家を出てきたというのに、おかしな話になった。一回りも大きなジャージを着せられ、着いた先は校舎から随分と離れた花壇の前だった。
黄色や紫のパンジーが植えられ、春風に揺れている。
「いただきます」
「ひなたちゃんも、遠慮せず食べて」
ふみといつきは弁当の包みを解いて、食べ始めていた。渡されたビニル袋の中を見ると、パンが二つほど入っている。そのうちの一つを手に取った。ラグビーボールのような形に、食欲をそそるきつね色。パン屋でよく見かけるカレーパンだが、売られているものより僅かに大きいように見える。
「ここの食堂で、個数限定で売られてるんだ。すぐに売り切れになるくらい人気なんだって」
「噂には聞いたことがありましたが……君が推しているとは知りませんでした」
「いつきはあんまり菓子パン食べなかったね。結構美味しいよ」
「僕はおにぎりの方が好きですから」
カレーパンを一口頬張る。ザクザクとした表面と反して、内側のパン生地はもちもちとしている。じゃがいもや玉ねぎが溶けた野菜特有の甘さと、ルウの絶妙なスパイス加減は家庭では表現できないだろう。もう一口、ひなたは大きく開いた口で頬張った。
「美味しい?」
首を何度も縦に振る。これは、確かに何度でも食べたくなる味だ。個数限定で売るには勿体無い、そう思わせるほど美味しい。
「壊れた玩具じゃあるまいし、そんなに首を振らなくても良いじゃないですか。大袈裟です」
「大袈裟じゃないよ、本当に美味しいんだって」
カレーパンが包まれていた紙を丁寧に折りたたみ、もう一つ入っていたパンを取り出す。渦を巻いたような丸い生地にシナモンがほのかに香る。シナモンロールだろう。
こちらも美味しくいただこうとした時だった。
「あら、珍しい」
花壇を通りかかった女性がこちらに近づいてきた。ロングスカートと、桜のような淡い色合いのカーディガンを身につけた女性は、文庫本とビニル袋を小脇に抱えている。首から下げているプラスチックのネームホルダーには、名前と担当教科が表記されていた。今は昼休み。生徒だけではなく、生徒を指導する教師も同じように休息をとる。
ひなたの姿を隠すようにふみが立つ。いつきは手の中に納めたペットボトルを握りしめていた。
「新入生ですよ、先生。校内を案内しながら、一緒に昼食を食べていたんです」
「そう、新入生……珍しいのね、二人で案内しているなんて」
「ええ。ふみ君が一人で案内するには自信がないと。それで、どうしてもというので僕もお手伝いしたんです」
ふみといつきの言葉を聞きながらも、女性教員の視線はひなたに向いていた。呑気にシナモンロールを食べる雰囲気ではない。ちらちらと様子を伺う視線になんとか耐えなければならない。
ひなたが目を合わせないよう俯いた視線の先には、文庫本と共にビニル袋が抱えられていた。あ、と間抜けな声を発し、女性教員の方へ顔を上げる。
「先生の昼食も、カレーパンですか?」
「え?」
「その袋、私と同じだと思いまして」
「カレーパンは、終業のチャイムと同時に掛け込まないと買えないのよ。それぐらい人気だって聞いていたから……私のお昼はウグイスパンとクリームパン。カレーパンに負けないくらい美味しいのよ?」
ひなたに降り注いでいた棘のような視線は抜け落ち、女性教員の表情が和らいだ。虚を突いた話題だったからか、いつきやふみの表情も少しだけ緩んだ。
「ウグイスパンに、クリームパンですね。どっちも美味しそうです」
「焼いてもなかなか買う子が少ないみたいで……よかったら、今度買ってみて」
ひなたは、うぐいす豆がふんだんに練り込まれて焼成されたウグイスパンと、クリームがたっぷり詰められた、ふかふかのクリームパンを想像した。いつか機会があれば、是非食べてみたい。ちらりとふみの方を見ると、音もなくあとでと口を動かした。
女性教員は授業の準備があるといって、足早に校舎の方へ行ってしまった。
「肝が冷えました」
「なかなか、スリリングだったね。ひなたちゃんって、お話上手だったんだ」
「なにを呑気なことを。こういう事態は充分あり得るものだったじゃないですか」
「でも、お陰で誰も寄ってこなかった。放課後も休み時間も人が集まってくるんだ、お昼休みくらいゆっくりしたって良いじゃないか」
ごめんね、と申し訳なさそうにふみが頭を下げる。生徒会に所属し、四六時中生徒や教員に囲まれて、心休まらなかったのだろう。
在学中、生徒会といった役職のある委員会には所属していなかったひなただが、生徒会に所属している友人たちが慌ただしく仕事をこなしていたのは何度か見たことがある。とにかく人に囲まれ、生徒の意見に耳を傾けては奮闘している姿が記憶に焼き付いているのだが、ふみもそうなのだろう。それに加えて、物腰柔らかな口調や、父である織の面影がある整った容姿は人を寄せ付ける。息をつく暇がないと嘆いても仕方のないことなのかもしれない。
同じような役割を持つ風紀委員のいつきも口にしないが、彼の横顔にも疲れが見え隠れしている。今回は、ふみの要望という名の我儘に付き合ったからかもしれないが。
ひなたは食べ終わった包み紙を畳んで、いいえと首を横に振る。
「私は、美味しいカレーパンを食べていただけです」
ふみは、鳳仙花の種が弾けるように笑い出した。ひとしきり笑ったあと、息を整えてから目尻の笑い涙を拭う。ふみが見せた笑顔に、一度だけ、心臓の音が高くなったような気がした。気のせいだと自分に言い聞かせるために、手首を握りしめる。
「長く引き留めてごめんね。恵さんには俺からちゃんと説明するよ。お土産は、ウグイスパンとクリームパンで良いかな」
「きっと、喜ぶと思います」
「それはあなたがじゃないんですか、花森くん」
「母も、甘いものは好きですから」
校舎裏の出入り口まで見送られ、着ていたジャージをふみに返す。離れた校舎から、予鈴が鳴りだした。会話はそこで途切れ、ひなたは二人の背中を見送りながら校舎に背を向けた。