02 : 聖女の定義
虎次郎、行くあてはあるのだろうか。
夜中の2時に叩き起こされ、意味不明な発言を繰り返され、姉の死というデリケートな部分に、文字通り土足で踏み込まれた私は、これ以上ないほど感情的になって彼を追い出してしまった。
しかし、寝付くことができずにベッドの中でうんうんと唸っている間にだいぶ落ち着いてきた。そうすると、彼は全く悪くないのでは?と身の内から冷静に突っ込みが入ったのだ。
「さすがにあの見た目で100歳は…ない、うん。ない…」
さっきはあまりにも混乱していたために考えが及ばなかったというか、状況整理ができていなかったが、彼が100年も生きたご老人には到底見えなかった。まぁ100年も前の人間を探しに違う世界に来るっていうやつの主張もどうかとは思うけど。
彼が当時の姉を守れる立場になかった…というか、産まれてすらいなかったとすれば、彼個人は決して悪くない。完全に八つ当たりをしてしまったという訳だ。しかも、彼の夢物語のような言葉を全面的に信じたならば、という『たられば八つ当たり』ですらある。さすがに、21にもなった女のすることではなかったかもしれない。
自責の念に駆られ、私はベッドから抜け出すとそっと玄関の戸を開けた。しかし、そこに先ほど追い出したはずの美貌の青年の姿はなく、安堵からか失望からか溜息が漏れ出た。その溜息は1月の寒さで白く形を作り、私の罪悪感を更に膨れ上がらせる。
部屋に戻り暖房のスイッチをつけると、手早く服を着替えてコートを羽織り鞄を手に持った。ポンチョとマフラーを一つずつ小脇に抱えて、小さな1DKの部屋を飛び出した。
この辺りは学生寮が多く、ほとんど自分と同じ大学に通う学生たちが住んでいる。そのため、夜でもそこそこに人通りはあるのだが、さすがに深夜…いやもう早朝が近い時間のため、人っ子一人見当たらない。
闇雲に探しているが、全く見つかる気配がない。立ち止まり、かじかんでいる両手をこすり合わせる。
あまりの寒さに、もう帰ろうかな等とつい考えてしまった。しかし、彼はコートも羽織らずにこの寒空の下にいるのだろうと思うと、どうしても見捨てておけなかった。はぁと深い溜息を吐き出す。ホッカイロの一個でも持ってくれば良かったと愚痴りながらも再び足を進めた。
しばらく足を進めていると、人の話し声のようなものが聞こえてきた。耳も見事に凍てついているため、よく聞こえない。しかしそこに見える姿が、あの奇天烈な宝塚の舞台衣装だということに気付くと、慌てて走り出した。
「無礼者、そこを退け。」
「君ねぇ…これ以上こちらの質問に答えてもらえないようなら、公務執行妨害罪で連行しないといけなくなるけど、いいの?」
そうは言いつつも、若い警察官はジャガー王子から放たれる気迫に戸惑っているように見える。虎王子はあろうことか、警察官に捕まっていたのだ。これが急がずにいられるだろうか。
この辺りは学生が夜遅くまではしゃぐことが多いので、近所の人に頼まれた警察官が夜間見回りに出てくれているのだ。そのおかげで善良な大学生である私も、毎日安心して眠っていられる。
「もうっしわけ、ありません!」
駆け寄り、私の頭よりも少しだけ高い位置にあるジャガー王子の頭を乱暴に引っ掴むと、そのまま勢いよく押さえつけた。呆気にとられたのだろうジャガー王子は、従順に私に従い頭を下げる。
いつもは市民の味方なおまわりさんを頼もしく思うが、今は真逆の気持であった。
「ちょっとお酒を飲んでたら悪ふざけが過ぎまして、彼にこんな衣装を着せたら拗ねちゃいまして…痴話喧嘩が理由だって言うのが恥ずかしかったんだと思います。加えて、映画の影響で変な日本語まで覚えてしまってて…本当にご迷惑をおかけしました!」
「そういうことなら、今回は大事にはしないけど…彼は?学生さん?」
警察官はようやく話が通じる人間が出てきたことに安心したのか、ほっとしたように私に体を向けた。訝しむような目は未だあるが、ここら辺の大学生の悪酔いを知っている警察官は穏便に済まそうと思ってくれているらしい。
「はい、留学生です」
「じゃあ身分証提示できる?」
「すみません、彼、着の身着のままで出てきちゃったので…私の免許証でよろしいですか?」
「うーん、まぁ今回はそうしましょう。また何かあったら、連絡させてもらうからね。」
財布の中から取り出した免許証を受け取った警察官は何かをメモすると、すぐに返してくれた。履歴書の資格欄を手っ取り早く埋めるためだけに取った免許だったが、面倒くさがりながらも春休みに取っておいてよかったと心底思った。そうでなければこれほどすんなりと終われなかっただろう。下手したら、彼の身分証明書を取りに帰れと言われたかもしれない。けれどきっと、彼は取りに帰る場所を持たないし、留学生が所持しているような身分証明書も持っていないのだ。そうしたら、ことは学生の悪ふざけでは済まなくなる。そこまで考えると、背筋にぞっと寒気が走った。
彼の言葉を、私は信じかけていた。だって、普通の大学生なら警察官にあんな態度取らない。それに、もし帰る場所があるのなら、こんな寒空の中1時間も2時間も凍えそうになりながらうろついていないで、帰ればよかったのだ。
「はい、今後気を付けます。大変ご迷惑をおかけしました。ほら!あんたも謝んなさい!」
「…すまない」
「すみませんでした、でしょ!」
「すみませんでした」
乱暴に頭を下げさせると、若い警察官は微笑ましそうに笑ってくれた。痴話喧嘩、と言ったのが功を奏したかもしれない。
私に『程々にしてあげてね』と失礼な言葉を残して、ちゃりんこに乗って立ち去って行った。
警察官の背中が見えなくなると、私はほっと息を吐き出した。
隣の男は、申し訳なさそうに体を縮こまらせている。元々の身長が私と同じほどなので、身を縮こまらせると更に小さく見えてしまう。
私がヒールを履いたら同じぐらいになるんじゃないの?と、何気ない気持ちで彼の足元を見て、絶句した。彼は、靴を履いていなかったのだ。
そうだ、靴は私が脱げって言ったんだった。私はさらに膨れ出していく罪悪感に押し潰されそうだった。例えどんなことがあったとしても、裸足で家を追い出すなんて、人間のすることじゃない。
鞄にハンカチが入っていたはずだ。気休めにしかならないだろうが、ほんの少しでも痛みと寒さが和らげばいい。
「座って。足出して。」
「姫君、何を」
「いいから!座る!」
狼狽える男を引っ張り尻餅をつかせると、乱暴に足を取ってハンカチを巻きつけた。もう片方には、今まで首に巻いていたマフラーを巻いてやる。
「いけません。汚れます。」
「ええいうるさい!つけておきなさい!」
ごめんなさい、とその一言を言うことができなくて、私はそっぽを向いて立ち上がった。それに倣い、ジャガー王子も困惑した表情で立ち上がる。
「ほら、これ着て。これ巻いて。」
脇に抱えていたポンチョを無愛想に差し出した。もちろんのことながら、我が家には男物のコート等無く、ポンチョなら体系に関わらず男性も着れるんじゃないかと思って持ってきたのだ。
「姫君の衣装ではないのですか?きっと私には―――」
「しょうがないでしょ!我慢して着なさい。ほらっ」
ポンチョを広げてやると、ジャガー王子は遠慮がちに袖を通した。顎をしゃくり屈ませると、首にマフラーを巻きつけようとする私に気付いたジャガー王子が慌てて身を離した。
「マフラーはご自身に」
「こんな冷えた体して!そんなこと言わない!ほら、もっとしゃがんで!」
有無を言わせない厳しい口調に、彼はほとほと困り果てたように整っている眉毛を下げた。
「―――先ほどは、大変失礼を致しました。助けていただいてありがとうございます。姫君に頭を下げさせてしまうなど…」
「翠。」
「はい?」
「名前。姫じゃなくて、翠。虎の名前は?さっき聞いたけど、ごめん忘れちゃった。」
恥ずかしさを誤魔化すように、時間をかけてマフラーを巻く。そんなに時間がかからないと分かっているだろうに、ジャガー王子はそれには突っ込まないでいてくれた。
「トラ、という呼び名で結構でございます。如何様にも呼びやすいようにお呼びくださいませ。」
「いいから。名前はちゃんと呼ぶ。教えて」
不貞腐れたような私の物言いに、ジャガー王子は身を屈めたままゆっくりと言葉を発した。
「アルフォンス・セルヴィード・ルド・マリウス・ティガール、でございます。」
「あ、あるふぉんす、せるー…てぃがー?」
「アルフォンス・ティガールで構いません。間の名前は、祖父や教皇の名前ですので。」
「あ、っそ。それぐらいなら覚えられそう。アルフォンス・ティガールね。アルフォンスがいい?ティガールがいい?」
「ティガールは我が国の名前となりますので、アルフォンスと。そう呼んでいただけたら光栄です。」
「アルフォンスね。」
アルフォンス、アルフォンスと口の中で何度も確かめるようにつぶやく私を、二対のエメラルド色の瞳が見下ろしていた。
「な、なによ。あっ、そういえば!うちの国家権力に盾突いたりしないでよね。」
「国家権力…騎士のようなものでしょうか」
「そうなんじゃない?ほら、帰るよ。こっち。」
うちに帰ってきていい、と言うのが気恥ずかしくて乱暴な物言いになってしまった。
「左様でしたら、翠様にとって危難となるのではございませんか?身分証の提示、というのは」
「あぁ…。ま、再犯しなきゃ大丈夫でしょ。」
平気平気、とうそぶいては見たものの、かじかんでいた手は、小刻みに震えていた。それは寒さのせいだけではないだろう。あんな風に、警察官相手に立ち回ったことなど一度もない。本当は、ほんの少し、ちょっと、けっこう…いや、だいぶ怖かったのだ。自分一人に声をかけられていたら、もしかしたら泣いていたかもしれない。わざと時間をかけてマフラーを巻いていたつもりだが、本当は震える手でうまくいかなかっただけだったかもしれない。
手の震えを悟られたくなくて、強引にアルフォンスの腕を引っ張った。
その手を、引っ張られる形で後ろからついてきているアルフォンスがじっと見ていることに、前だけを向いて歩いていた私は気付かなかった。
「―――恐怖に身を震わせてまで、姉の仇と罵った相手を助けたのか。」
「ん?なんか言った?」
背後からぼそりと何か呟かれた様な気がして振り返った。凍てついて痛みすら感じる耳は、風を切る音が邪魔をして彼の声を拾えなかったのだ。
アルフォンスは慈愛に満ちた目で私を見つめると、長い睫毛を伏せてふるふると首を横に振った。そしてまた、私には聞こえない声で何かを呟く。
なんと気高く、慈悲深い。
「は?だから、何?なんか言ってる?聞こえないから大きな声で言って!」
「先ほどは本当に助かりました。ありがとうございます。」
「ま、まぁ、いいけどさ…ほら行くよ。」
まさかもう一度もらえるとは思っていなかった感謝の言葉は、催促してしまったようでばつが悪かった。私は恥ずかしさから掴んでいた手に力を込めて、足早に暗い夜道を我が家に向かって進んだ。
***
部屋はほんのりと温かくなっていた。その温度に驚いたのか、アルフォンスはきょろきょろと部屋の中を見渡していた。
「女の一人暮らしの部屋をそんな物色しない」
「失礼いたし」
「堅い!」
「申し訳ありませんでした。…翠様は、女性なのにお一人で住まわれているのですか?」
「そーよ。はいタオル。これで足ふいて。」
「常世は現世とは生活の基盤すらも違うのですね…」
ポンチョとマフラーを脱がせ、肩と背中に着けていたよくわからないマント達も外させた。その布たちはあんなに軽々纏っていたのが不思議なほど、ずっしりと重かった。
座布団などないのでそのまま座らせると、布団の上にあった羽根布団を肩に掛けさせる。タオルの何が珍しいのか、しげしげと眺めているアルフォンスを横目に襖を開ける。目当てのものを手に取ると、彼の前にしゃがんで足を引っ掴んだ。
「女人が見るものでは―――!」
汚れをふき取った足を診ると、ところどころ擦り切れていた。皮膚の中に小さな小石も詰まっていて、その光景に悲鳴を上げてしまった。
「大丈夫です。大丈夫ですよ。差し支えなければ、それをお借りできますか?」
私が涙目になっていることに気付いたアルフォンスは、努めて優しい口調でそう言った。素直に手に持っている消毒液と包帯を手渡す。消毒液の蓋の開け方がわからないらしく手間取っていたので捻ってやると、驚いて何度もプラスチックの容器をパコパコしながら螺旋状の彫りを眺めていた。
手当自体は手慣れた様子だった。王子だというので下着の着替えすら人任せなのかと思っていたと笑うと、従軍経験があるのだと教えてくれた。
足の手当てを済ませると、部屋はそこそこ温まってきた。リビングに鎮座していた革のブーツを玄関に持っていくと、そのままコーヒーを淹れる。徹夜でレポートを仕上げるときぐらいしか飲まないが、他に出せるものと言えばミネラルウォーターか、一昨日シチューを作った際に残っていた牛乳ぐらいだ。
「はい、コーヒー。インスタントだけど許してね」
「ありがたく頂戴致します。」
恭しく両手で受け取るものだから、いや本当にインスタントなんだけど…と申し訳なくなる。私もアルフォンスの斜め前に座り、コーヒーを一口飲む。
コーヒーに視線を落としていた為気づかなかったが、アルフォンスも一口含んでいたらしい。私が一口飲んだ直後に、大きな音が聞こえた。何事かと思いアルフォンスを見ると、体を曲げて咳き込んでいるアルフォンスがいた。あまりにも突然のことに呆気にとられたが、大慌てで背中を強めに撫でてやる。
「ちょ、大丈夫??!」
「ごほっほっ…ごほっ…だいじょ、うぶ、で…ごほっ」
「どうしたの?変なとこ入った??むせたん??」
大丈夫かーと背中を叩いてやっていると落ち着いてきたのか、アルフォンスは涙目で顔を上げた。
「すみません…あまりの苦さに、毒かと…」
「はぁ?どくー?そんなもの一女学生の私が持ってるわけないでしょ」
ぺしんと頭をはたいてやると、力なく笑われた。
「翠様には恨まれても止むを得ない事情がございます」
「…あー、それは、うん。あんたどう見ても、100歳超えてるおじいちゃんじゃないのに、さっきは私が悪かったわね。うん。」
誰がどう聞いても、お世辞にも謝罪とは言えないような私の言葉にもアルフォンスは慌てた。
「貴方様のおっしゃられた事はご尤もです。我々の尽力が足りなかった。力及ばなかったばかりに姉君を不幸にし、そして貴方達家族にとっても辛い思いを強いてしまった…大変申し訳なく思っています。」
「それなんだけど、あんた達がお姉を殺したの?だから遺体だけが帰ってきたの?」
私の言葉に、アルフォンスは考えるように押し黙った。これは長くなるかな、と思った私は、彼が飲み残したコーヒーを下げて牛乳をレンジでチンする。そこに蜂蜜と砂糖、少しのブランデーを混ぜてやって彼の前に置く。出されたホットミルクにほんの一瞬戸惑った表情を浮かべたが、私を見上げて『ありがとうございます』と微笑んだ。
「―――私には、過去を見る力がないので語り継がれている通りにしかお話しすることができないのですが」
「それでかまわないし、言い訳もしていいから。全部謝られてたら、アルフォンスが悪い。ってまた逆切れしそうになるし。」
「承知しました。100年も昔に滅んだ国の出来事です。当時の出来事を見聞きした者はもう、既に誰もいません。記録も書記も、数多の脚色が加えられた偽物が出回り、今ではもう何が真実なのかわかる者はいません。ですが、この話は亡国の音であります。真実に途方もなく近い話だと思っていただきたい」
語り始めたアルフォンスの邪魔をしないように、頷いて話を促した。
アルフォンスは顎を引き、朗々とした声で暗唱しはじめた。
この世に暗雲が立ち込める時
一筋の光が天より差し込んだ
瞬く間に明るさを増した光が視界を真っ白に染め上げた時
光の波の中より一人の聖女が降臨する
『我は天より遣わされし者。勇気ある者達よ
立ち上がりなさい。祝福を授けましょう。』
聖女の言葉に誘われ、6人の若者が立ち上がった
武の者、智の者、信の者、魔の者、義の者、そして、勇の者
聖女の導きの元、彼らは凶悪な魔王を打ち払い
この世に永の平和と安寧をもたらした―――。
「これが、後世まで残っている“聖女伝説”です。彼らは後に勇者一行と呼ばれ、それぞれに爵位を賜り貴族となったのですが、今残っているのは勇者の末裔であるレーンクヴィスト辺境伯家と、神官として随行したヨルダン伯爵家の二家のみです。」
「…はぁ?」
つまり、簡単に言うと?と首を傾げながら言う私に、アルフォンスはおほんと一つ咳払いをして言った。
「つまり、聖女降臨については眉唾物の可能性が…」
「ひっじょーーーに高いんだよね。だって天から来ました~!祝福しちゃいますーって言っただけなんでしょ?それ、おとぎ話の領域じゃん!それともなに、あんたんとこはそんなこと現実に五万と起きちゃうわけ??そんな、夢みたいな話の為にこんなとこまで来ちゃったわけ??」
呆れたようにアルフォンスの言葉を引き継いだ私に、アルフォンスは首を振って否定する。
「聖女降臨は、この一度きりの奇跡でございます。如何に荒唐無稽な話でも、我々はそれに縋るしかなかったのです。」
「なんで!」
「現世は今、およそ100年前に天の力を借りてようやく打ち果たせた魔王が復活したという事実に、皆が怯えきっております。民は力です。その民に力を取り戻してもらうためにも、鼓舞が、奇跡の力が必要だった。」
「それ、誰かそれっぽい美女にお願いしたらよかったんじゃないの?」
「万が一にも、聖女様のご慈悲に縋ることが出来ますれば、魔王撃退の可能性が高くなると踏んだのです。」
「じゃあ、さっきのお話みたいに、聖女に来てもらえばよかったじゃん。わざわざ迎えに来たりするからややこしくなるんでしょ?呼んだりできなかったの?来てくださいーって。」
私の言葉に、眉間に深く皺を寄せたアルフォンスが神妙な面持ちで口を開いた。
「現世には、召喚魔法の一切が存在しないのです。」
「は?魔法?」
「え?」
「あ、いや、そうだよね、魔法…うん。なんでもない続けて。」
聖女だとか降臨だとかファンタジーな世界だなぁと思いながら聞いていたが、まさか魔法なんてものがあるとは思っていなかったため吃驚した。しかし、アルフォンスは鍵を締め切った家の中に突如として現れたのである。それが魔法と言わずなんと言おうか。自分の間抜けっぷりに少し恥ずかしくなった。
「あ、でも召喚魔法?がないなら、あんたはどうやってきたの?」
「私は、送還魔法でこちらへ来ました。送還魔法とは“もの”を送り届ける魔法です。召喚魔法とは逆に、“もの”を引き寄せる魔法です。」
「…なんか違うの?」
「魔力を動かす難易度的には、さほど変わらないでしょう。ですが、肝心の陣が無い。」
「じん?」
「大がかりな魔法を行使する際に使う補助的な仕掛けです。召喚魔法の陣はある時を境に世界中から姿を消したのです。」
「なにそれ、どういうこと?」
「世界中の、召喚魔法の陣を記載していた書物全てが、ある時忽然と姿を消したのだそうです。これについては各国が総力を挙げて大掛かりな捜査を行ったようですが、全く手掛かりすら掴めなかったようです…そして現世に、召喚魔法を使える魔法使いは誰一人としていなくなったのです。」
よくわかっていない私とは裏腹に、アルフォンスの表情は深刻だ。つまり、なんだかとてつもなくどうしようもないことなんだろうな、と勝手に納得しておく。
「わかったつまり、聖女を呼ぶ方法はないし、ぶっちゃけ聖女なんて本当にいるとは誰も思ってないってこと?」
「いえ、多くの者が聖女の存在を信じているでしょう。我が国教は女神信教です。聖女は、女神より遣われし天の御使い―――信じる、信じないという存在ではないのです。ですが…実際に会い見えることが可能な存在か、と言われると…」
言い辛そうに視線を逸らすアルフォンスに相槌を打つ。なるほど、日本に住む多宗教でいて無宗教な私でさえ、神様はいると何となく思ってるけど、実際に会えるとは全く思っていない。つまりはこういう感覚を言いたかったのだろうと納得した。
「そんな全体的にぼんやりした内容なのに、腕時計は聖女のだって言い張るんだ?」
アルフォンスの語った物語や、今聞いた背景像から、聖女とは随分と抽象的なイメージだ。実在した人物、というイメージが全くない。それなのに、この腕時計だけはこうして古臭く錆びついて手元にある。そのギャップがどうしても納得いかなかった。
「実際に聖女が残した数々の聖物が、亡国の宝庫に保管されていた記録は残っていたのです。先ほどお渡しした“うでどけい”については神殿が保管していたものですので信憑性には欠けますが、現世の技術ではかような細工を施せる技術者は存在しません。常世に住まう聖女のものと見て、間違いないでしょう。」
「もーーたった100年前のことなんでしょ?きちんと記録ぐらい残してなさいよねぇ」
「…大変申し訳ございません。」
「んで、ってことは、いるの?せいじょさま。」
「民は聖女を信じております。そして、聖物を残した聖女は確かに存在しておりました。ですが、降臨したのかは定かではない。」
「…つーまーりー?」
本日何度目になるかわからない催促にアルフォンスは答えた。
「つまり、聖女として聖物を残した存在は確かに実在した。ということです」
アルフォンスの言葉を何度も頭の中で反復させる。
「信仰的な意味合いでの聖女を騙った偽物がいた、ってこと?」
「偽物とは限りませんが、民の信じる聖女と、語り継がれてきた歌に残されている聖女、そして聖物を残した聖女が同一人物である必要はなく、そしてそうでない可能性もあります。」
「…つまり、あんたは宗教上の聖女を信じてるし、腕時計をウツシヨに持ち込んだ人物がいたことも信じてる。けど、その人が聖女かはわかんないし、物語の聖女降臨も本当にあったとは思ってない、ってことで、ファイナルアンサーね?」
「―――はい。」
言い辛そうに言葉を詰まらせるアルフォンスは、もう私の言いたいことを理解しているのだろう。アルフォンスが、何故自分に不利になるような話を誤魔化さずに正直に話したのかはわからない。先ほど私が姉のことでぶち切れてしまった為に、誠意を見せようとしているのだろうか。
そうは感じていても、私は聞く。容赦なく聞く。アルフォンスのエメラルド色の瞳を見つめながらしっかりと聞いた。
「ってことは、腕時計の持ち主はあんたたちの言うところの祝福を授ける聖女じゃない。ってちゃんとわかってるのね?」
私の言葉にアルフォンスは苦しそうに顔を歪め、言葉を吐き出した。
「…その可能性も、あるというだけです。姉君が、ひいては貴方様が、聖女ではないという証拠には成り得ません。」
「往生際悪っ!」
「見苦しくとも、足掻かねばならぬのです。どうか翠様、聖女様であらせられるのならば、我々の為に力をお貸しいただけないでしょうか!」
涙交じりな悲痛な声に、私の胸まで痛みだす。
「そうは言われても…私は本当に聖女じゃないし。何すればいいのか全然わかんないし。とりあえずあんたは、お姉については全く知らないってことでいいんだよね?あんたがお姉を殺した犯人じゃないんだよね?」
「現世に生きる王族として、全く責任が無いとは言えませんが―――私は、姉君にご拝謁賜ったことはございません。…聖女様を、弑し奉ったのは私ではございません。」
アルフォンスのその言葉に、私は全身の力が抜けて行くのを感じた。
「…なら、よかった。それじゃあ、私的にあんたは敵じゃない。よかった。お姉を殺した人となんて、話もしたくない。」
よかった、本当によかったと体を震わせる私に、アルフォンスが慌てふためく。私はとりあえずこんな見ず知らずの男の前で情けない姿を見せたくないと、佇まいを正した。
「とりあえず一旦、これを報告しに帰ったら?あんた一人じゃ手に負えないんでしょ?アルフォンスは魔法使えるんだったら、なんだっけその、ソーカンマホー?とかで、帰っちゃえば?」
その言葉に、アルフォンスは居心地悪そうに視線を逸らして俯いた。訳がわからず首を傾げれば、アルフォンスはぽつりと零した。
「―――今の私では世界を渡ることはできないのです」
「そうだよねぇ大掛かりそうな名前だもんね。送還魔法って、陣もいるとか言うし…って、ん…?」
いかにアルフォンスが男性にしては小柄なほうだとは言え、こんな狭い部屋で膝を突き合わせていれば、いつも狭い部屋がより狭く見えるのも仕方ないだろう。それを本人も感じ取っているのか、できるだけ見た目を小さくしようと肩を窄めながらお行儀よく正座している。日本語しかろくに話せない自分が、外国人と顔を突き合わせてこんなちんぷんかんぷんな話をしてるなんて、なんか変なの。と思った時に、あれ。と思い立った。
「じゃああんた。どうやって帰んの?」
召喚魔法はないと言っていた。つまり、向うから呼んでもらうことは出来ないのだ。アルフォンスが自力で帰るしか方法はないのだろう。
その言葉に、アルフォンスはしおしおと肩を窄めていく。あ、こいつ!これがあったからしおらしくしてたんだな!と頭を抱えた。
「無理よ!私は魔法使えないし、そもそも聖女じゃないし!」
「帰る方法はあるのです!その条件が整うまで、どうか、どうか御慈悲を!」
「無理!無理よ!私21歳なの!まだ未婚なの!部屋も狭いし!」
「21?!いえ、翠様、後生で、後生でございます!」
この後の言葉、なんとなく想像つくぞ…私は両手で頭を抱えたくなったが、その手を更に滑らせて耳に持っていく。両耳を強く塞いで、目をぎゅっと閉じた。そんな私に、アルフォンスがほとんど泣きそうな声で縋ってくる。
「どうぞ、どうぞ今しばらく、私をここに置いてもらえませんか!」
あーあ、そんなこったろうと、思ったよ。