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18/21

18 : 物語の、その後

 アルフォンスがいなくなった春休みは、とんでもなく暇だった。



 私は今まで休んでいた分のバイト代を取り戻すようにバリバリと働いていた。こうなってしまえば、皆が多忙でシフトに入りやすい今の環境は私にとって楽だった。忙しい方が、何も考えなくて済む。私は彼がいなくなったことを、それほど―――いと感じていた。


 春休みなんて、今年で3度目なのに。

 一人暮らしの春休みをどういう風に過ごしていたのか、私はもう思い出せなかった。




「しっかしセンパイ本当バカショージキっていうか、マジモンのゲーム初心者っていうかぁ。素直に初期メンバーそのまま使ってたんですかぁ?」

「だって一番長くいたから愛着あったしレベル高かったし…」

「それで最後、全員抜けられちゃったらホンマツテントーですよねぇ!」

「…面目ねぇ」

「センパイ、今からでも遅くありません!プレイ日記書いたらどうですかぁ?ゲーム製作者たち、涙流して手ぇ叩いて喜びますよ。こんなに自分たちの狙い通りに遊んでくれる人なんていませんもん昨今」

「書かないよ!それにあの時は感動して泣いちゃったけど、あれ演出だったのか!って、してやられた感がバリバリしてて、正直腸が煮えくり返ってる。」


 春麗らかなバイト終わりに、私はリカちゃんと香ばしい匂いが食欲をそそるお好み焼きをつついていた。

 バイト外に誘われることは皆無ではないが多くもない。その多くもない誘いをいつもすげなく断っていたのだが、『バイト終わりにゲームの話しませんかぁ?』というリカちゃんの誘いに乗ってしまったのは、一人で家に帰ることが嫌だったのと、彼らの話を誰かとしたかったからかもしれない。


「え、センパイ泣いたんですかぁ?めっちゃかわいい一緒にすればよかったぁ」

「本当に来てもらえばよかったわ…7時間よ、魔王城。正味7時間!」

「よくクリアできましたねぇ。その様子じゃラスボスの第二形態、震えあがったんじゃないですかぁ?」

「そうなのよ…あれ、本当、あとちょっとでゲーム機粉砕して勝つところだったわ。」

「それは負けっていうんですよぉ。ラスボス進化なんて昨今のゲーム業界じゃ当たり前すぎて誰も話題にも出さないようなことを、本当に一々…本当に一緒にやってたらよかったぁ。けど見てたら口出したかっただろうしぃセンパイはいい遊び方したと思いますよぅ」

「もう二度とああいうゲームはいいわ…心臓に悪い。大切にしてた仲間たちが死んじゃったりするし。」

「初期メンバーは大抵ゲームじゃ痴情の縺れで裏切るか、仲間を庇って死んじゃうんですよぅ」

「そんなぁ…」

「定説ですよぉ、て・い・せ・つ。JRPGのお家芸なんですぅ。元々王道ストーリーだったんでなんかあるとは思ってたんですよねぇ」

「そうなんだ…でも最後にオーディン助けに来てくれてめちゃくちゃ格好良かったから、まぁ、もう許してあげることにした。…あのコンラートまであんな頼りになる台詞言ってたし。」

「そうなんですよねぇ。ラストのそこ最低ですよねぇ。コンラートのキザ野郎。なぁに私のリュカからアル取ろうとしてるんだって感じですよね」

「…え、そうかな。私にはまっったくわかんなかったなー…」


 リカちゃんの再び理解不能な会話に私はお好み焼きを口に入れた。口の中に広がる美味しさに舌包みを打っていると、色合い的に淋しいことに気付いた。青海苔をかけ忘れていたことに気付いて、私はひんやりとした缶を手に取った。


 もう彼らは、単なるゲームの登場人物なのだ。

 そのことを思い出すたびに、理解するたびに、なにか重くてもったりとしたものを無理やり呑み込まなくてはいけないような不快感が襲ってくる。例える言葉が悪かったが、アレを飲めと強要された時とは少し違うので勘違いしないでほしい。


 毎日毎日私の隣にいたアルフォンスも、アルフォンスの可愛い人のカチュアちゃんも、私の大好きなオーディンも、皆にけちょんけちょんにされてるいなせなコンラートも、可愛い純朴少年フリクリも、クソ生意気なリュカも、ロイ大好きマジェリーンも、不思議人間ヴァレンティーンも。


 私のへんてこな同居人でも、同居人の知人でも、同居人の恋人でもない。

 もう、三次元にはいない二次元の存在だ。


 アルフォンスと一緒にあの部屋で生活していたことの方がおかしいのだ。最初はあれほど怒り、戸惑い、迷惑に思っていたのに。今はこれほどいなくなってしまったことが―――い。まだそれを、乗り越えれるほど時間は立っていない。多野さんは、5年かかった。アルフォンスは、どれほどかかるのだろう。


「アルリュカは正義なんですよぉ。わかります?」

「うんまぁ、魔王を倒した2人は確かに正義かな…?」

「もぉなにカマトトぶったこと言ってるんですかぁ!全くこれだからみどちゃんセンパイはぁ~!はーあぁ。早くファンディスクでもぉキャラソンでもぉ、もぉっ!なんでもいいから出ないかなぁ~とりあえずは完全攻略本ですよねぇ」

 リカちゃんがコーラの中についてきたマドラーを掻き回して、コロンという音を鳴らす。氷がグラスにぶつかったのだ。炭酸が抜けきったコーラが好きと言う特殊な趣味を持つリカちゃんはうっとりしてそう言った。

 そんなリカちゃんの目の前で、大量に青海苔をお好み焼きにぶっかけていた私の手が止まる。


「…こうりゃくぼん?」

「そうですよぉ…って、え?まさかセンパイ、攻略本も知らないんですか?」

「…説明書、じゃなくて?」

「あちゃー…それで苦戦しまくってたんですねぇ。うちも数冊入れてるじゃないですかぁ。」

「だって、あれ、ほら髭が生えてるジャンプするおっさんとか、ガチャポンの中に入るモンスターとか…有名なのばっかりだったし…。―――え…?もしかして、販売してる全部のゲームにあるの…?」

「ありますよぅ!最近はみんなネットで買うからほとんど入荷しませんけどぉ…ま、センパイが『聖女降臨』始めた時は最速攻略本しか発売してなかったんですけどねぇ」

「…さ、さいそく?…」

「今の世の中ちょちょいとググれば駒の進め方まで書いてるwikiもあるってのに、なーんでそんなに死にまくってるのか不思議だったんですよねぇ~」

「ちょ、ちょっとごめん。色々と異次元な会話過ぎてわかんない。つまり、簡単に言うと?」

「2章までの攻略本は発売してるし、ネットで検索すれば勝ち方も全章公開してますよぉ」


 私は手に持っていた青海苔缶を、今すぐ投げつけたくなった。相手はもちろん、このトコヨにはいない。そしてもちろん、八つ当たりだった。


「それこそ“預言書”じゃん…」

「ええ?まぁwikiには割かし何もかも載ってるので預言書と言えばそうかなぁ~?」

 そんなに簡単にあの使命を全うできる術があったのなら、是非とも教えてほしかった。頭を動かしたのは最初の数回だけのくせに、私は図々しくもそう零してしまっていた。




***




 用事が無い日は、とにかく大学に赴いた。

 講堂に行けば知っている顔がちらほらいるので、とりとめのない話に混ざりながら時間を潰している。講義もなく、レポートもなく、実習もなく、就活もなく、バイトもなく、預言書もない日は、とにかく家にいても何もすることが無かったのだ。家にいるだけ、そこかしこにアルフォンスがいた気配を感じて辛くなる。


 毎朝の姉への挨拶の際に、一つだけ日課が加わった。アルフォンス達の無事を彼の世界の女神様と聖女様に祈ることだ。

 私のようなパチモンじゃない、本物の聖女様たちなら、きっとアルフォンス達を守ってくれると信じていたのだ。いや、ちがう。そのはずだと、信じる事しかもう出来ない私は信じていたかったのだ。


 2月の終わりごろに消えて、1ヶ月。気が付けばもう4月に入ろうとしていた。

 あと数日で授業が開始する。そうなってしまえば、一時間毎に時計を見て時間が過ぎるのを心待ちにするこの生活も終わる。

 どれだけ時間が過ぎても、明日になっても、朝になっても。もう訪れることの無い日々を渇望しなくて済む。

 起きたら味噌汁の香りのする生活は、もう二度と来ないというのに。頭では理解していても、心が全く納得していなかった。


 気づけば、台所を見てしまう。

 テレビを見てても横目で台所が見えないように模様替えをした。


 気づけば、炬燵に座っている時に右斜めを見るようになってしまった。

 炬燵を仕舞った。


 気づけば、味噌汁を飲んだ時にアルフォンスの味と比べるようになった。

 味噌汁を飲まなくなった。


 気づけば、外出から帰る時に誰もいない部屋の明かりを確かめるようになっていた。

 下を向いて歩くようになった。


 気づけば、玄関を開けた時に人の気配を探ってしまう。

 ガンガンに音楽をかけたイヤホンをつけて帰宅するようになった。


 気づけば、気づけば、気づけば。


 アルフォンスの面影ばかりを探していた。




「でね、次の合コン奥村君が高校の時のサッカー部の人集めてくれるんだって」

「へーそうなんだぁ。奥村君イケメンだし、友達もイケメンかなぁ」

「ねぇねぇサオもおいでよ」

「そうだよ!彼氏作ってダブルデート行こうよぉあとお泊り会とかさー」

「こらー無理強いしないのっサオはこういうの興味ないって。」

 自分の名前が出ていたことに気付いてハッとした。そんな私の様子を見ていた友達が、大丈夫?と言う風に首を傾げる。いいな、かわいいな。女の子だな。こんな意地っ張りな私とは、違う。素直に思ったことを全然口に出来ないような、可愛くない私とは違う。


「…行こうかな」

 つい、ポツリと口にしてしまった。


「えっ?!本当?」

「うん。行きたいな。行ってもいい?」

「もちー!じゃあ翠参加で!予定開けといてね!」


 不確かな気持ちのまま呟いた言葉でも、行くと断言してしまえばなんだかその方が良いような気がして気持ちが楽になった。そうだ、いつまでもいない人間の面影を探していても、しょうがない。それにこれは、恋じゃない。ただ結構扱いやすかった都合のいい人間がいなくなって―――いと思うだけだ。それ以上の感情なわけがないし、それ以上の感情があるはずがない。


 そうだ、合コンに行こう。

 京都までの電車賃はないけど、合コンの会費ぐらいはある。


 私は皆と別れると、とてもいい決断をしたような気がして気分がよかった。今ならスキップでもしてもいいような気がする。そんな私の頭に、コツンと何かがぶつかった。


「いたっ」

「やぁ犯罪者。」


 振り向かなくてもわかった。久世飛鳥だ。

 私は叩かれた頭を押さえながら、じと目で後ろを振り返る。


「何の用よ」

「借りてたCD返すだけのつもりだったんだけど」

「あ、そ。」

 私の後頭部を小突いたものはCDの角だった。いつか仕返ししてやると睨みながらCDを受け取ろうとすると、ひょいと高く掲げられた。

「何のつもりなの」

「早乙女って、あの外国人君と別れたの?」

「はぁ?」

 何の話だろうと思いっきり顔を顰めれば、久世は涼しい顔で言った。

「合コン行くって言ってなかった?」

「行くよ。ってか、何度も言うけどあの子はそういう関係じゃないし。そもそも5つも年下ナンデスケド」

 アルフォンスの話を振られて不機嫌になりつつも、少しばかり嬉しかった。こんな失礼なやつにでも、アルフォンスを会わせていてよかったと思ってしまう。あの子が、ゲームの中のキャラクターではなく、現実に存在した人間なのだと実感できたからだ。この男の発言こそが、彼がここにいた証左になる。


「へぇ~…まるでゾッコンって感じだったのにね」

「な、相手は5つも年下だってば!好きになるわけないじゃんそんな子供」

 私の言葉に面食らったような顔をした久世は、次の瞬間笑い出した。大笑いだ。大学の、しかも人通りの多い門前でしてほしい行動ではない。


「ちょっ黙って!久世!」

「あっはっはっはっは!それ、本気で言ってる?」

「何言ってんのよ!ほら!行くよ!!」

「あー本当やばい待って笑いが止まらん」


 まなじりに涙を溜めながら笑うこの男の腰を、とりあえず思いっきり蹴っておいた。




***




「えー僕これから用事あるんだけど」

「うっさい!前は私が付き合ったんだから、今日はあんたが付き合いなさいよね!」

 春のうららかな陽気の中ではコートも必要な日が少なくなってきた。そこそこ厚手のカーディガンに薄いストールを巻くぐらいが、今の季節にちょうどいい。

 近所のコンビニで真昼間からアルコールやつまみを買っている女子大生なんて、私が幼い頃夢見ていた大人像の中には一片たりともいなかったはずだ。そんなおっさん女子と化した私は、久世を引っ張りながら家路を急ぐ。


「翠さーその本性、中々学校の子たちに見せないよね。何、やっぱり僕に惚れてるの?」

「次は急所蹴り上げるよ。なんでばれてるやつに猫被んなきゃいけないのよ」

「そういう特別扱いはあんまりよくないと思うなーフラグビンビンなんだよね」

「何それわけわかんない」

 ガサゴソとコンビニのビニール袋からビールの缶を取り出そうとしている私を久世が止めた。

「さすがにそれは、いけない。僕の美意識に反する。女の子が真昼間から歩きながらビール飲んでるのなんて、さすがに見たくないからね。」

「何言ってんの!花見でしょ!ほら久世も!」

 取り出した缶には、縁起のいい七福神の姿が描かれていた。私だっていつもいつもこんなことをしているわけではない。ただ、気分がささくれているのだ。あの淡い黄色の羽毛を見なくなってからずっと。八つ当たりする相手を探していたかのように、今私は容赦が出来ない。


 家に帰る道沿いには、ずらりと桜並木が続いていた。ちらほらと人々が足を止めているが、車道に面しているため花見を始めるような非常識な人間はいない。いや、ここにいるおっさん女子を除けば、だが。

 桜を一緒に見ようと誘った時の彼の顔を思い出す。


「よーしよしよし、家に帰るまで、ちょっと待とうね。」

「あんた私をなんだと思ってんのよ!!」

「うーん…ポチにしては気性が荒いから、ゴンザレスぐらい?」

「あんった…ねぇ…!」

 思いっきりつま先を踏んでやったが涼しい顔をしている久世が腹立たしくて勢いよく顔を背けた。こんな時でも、人前では名前を呼ばない私を褒めてもらいたいぐらいだ。


「桜花今ぞ盛りと人は言へど我は寂しも君としあらねば」

 久世は、この桜の空に溶けるほど透き通った声で唐突に和歌を諳んじた。


「…な、なにそれ…」

 怒りを削がれてしまうほどびっくりして久世を見れば、呆れたような目で見下ろされる。

「文系肌じゃなかったっけ?」

「理系が苦手だから、文系なの。」

「あっはっはっは!クソワロタ。」

「く、くそ!?」

「大伴池主だよ。意味は帰って調べてみたら?今の君にぴったりだと思うけど。」


 満開の桜を見上げながら、久世は静かにそう言った。桜色の隙間から見える光が眩しい。そういえば、オーディンがアルフォンスのことを光って言ってたっけ。そんなことを思い出してしまい、慌てて思考から遮断する。


 代わりに、先ほど聞いた和歌を口の中でもごもごと何度か繰り返した。口に馴染まない高尚な歌を、詰まる度に久世は危なげなく諳んじてくれた。こんなものまで覚えているなんて、なんていう変態だと久世の知識に呆れてしまう。決して妬みとかやっかみとか、そういうものではない。

 ゆうに両手の数を超えるほどの復唱の末、ようやく覚えてきた私は鋭い視線を感じてふとそちらを向いた。


 そこには、一人の美しい男がいた。


 一面の桜の中にポツンと立つその姿は、絵画のように幻想的で美しかった。

 その美しい男に圧倒されているかのように、その男の周りには誰一人いなかった。少しうねった黒髪は烏の濡れ羽色で、桜によく映える。その髪の美しさに負けないほど目を見張るような美しさを、その男は持っていた。そう、私が以前、美貌と評したその姿にとても似ていたのだ。


 私は今ようやく覚えた和歌が全て頭から転げ落ちていくのを感じた。あらん限りに目を見開いて、その男を見つめる。私の視線に気づいた久世が、同じように男を見つけた。隣で、素っ頓狂な声が上がる。


「あれ?あれって―――」


「翠様」


 真っ直ぐに貫くその視線に、騒音の中でも聞こえた凛としたその声に。私は間抜けな顔のまま動くことすら出来なくなってしまった。


 なんで、ここに。なんか、かおが。


 言いたい言葉が言葉にならずに、ぱくぱくと口を開いては閉じる。そんな私に気付いたのか、目の前の男はふんわりと微笑んだ。


「私よりも先にその無礼者と花見をされるとは、少々妬けますね」


 男の言葉に、更に思考が止まる。そんなことはありえない。わかっているのに、どうしても目の前の男を―――1ヶ月前に別れたアルフォンスにしか感じられなかった。


「なんか君見た目変わった?身長もえらく伸びてるような」

 思考どころか体の動きまで停止している私の代わりに、久世が男に問いかけた。

 一度しか会ったことの無い久世は、私のように毎日アルフォンスの顔を見てきたわけではないので、ぼんやりとしか印象を覚えていないのだろう。こんなにも別人のように見える男に、アルフォンスに話しかけるような気楽さで話しかけた。


「魔法使いですので。」

「へぇ」

「信じられませんか?」

「いいや。そういう摩訶不思議なこと、割と信じる性質たちなんだ。僕の友達にもいるしね、魔法使い。」

「それはぜひ紹介していただきたいものですね。」


 では、これで―――そう久世に言った目の前の男は、恭しく私に手を差し出してきた。

 私は目の前の手の平と男の顔を何度も見比べた。


 私の知ってるアルフォンスの手は、こんなに大きくなかった。身長だって、久世より低かったはずだ。顔ももっと幼くて、彫りが深くて、どう見ても外国人と言うような顔をしていた。

 それなのになぜ、目の前にいる男は美しさはそのままで、日本人のような顔立ちをしているのだろう。桜が映り、まるで本物の翡翠の様に輝いている翠色の瞳だけを、そのままにして。


「翠様」

 優しい声に促されて、私は呆けたままその手を取った。にっこりと微笑んだ男は、私の手を引いて家路を辿る。私はまだ口を半開きにしたまま、迷いの無い男の歩みにつんのめる足取りでついていく。


「みーどりー!あの和歌、もう用無しだね~」


 後ろから久世が、何かを叫んでいたが聞こえなかった。




***




 呆然としたままの私を引っ張っていた男が玄関の前で立ち止まった。ハッと気づいた私は鞄から鍵を取り出し、震える手で鍵穴に突き刺す。

 カチャリと鳴った音が死刑宣告のように聞こえて背筋が冷えた。そんな私の心情などお構いなしに男はドアを開けてエスコートしてくれる。


「おかえりなさい」

 まるであの日の続きのように、この一ヶ月が無かったかのように。男はいつものトーンでそう言ってきた。


 なんで、どうして、どうやって、なにがあったの。その言葉全てが言葉にならなくて、部屋に招き入れられた私は後ろ手に玄関のドアが閉まるのも気づかずに困惑した顔のまま男を見上げた。


「翠様、ご褒美を受け取りに参りました。」


 その声に、私はついにしゃがみこんだ。足の力が抜けてしまったかのように感じたのだ。しゃがみこみ、膝に顔を埋める私の頭に、声の主―――アルフォンスがそっと触れてきた。



「ご褒美、いただけませんか?」

「なんの、話よ」

 ようやく出せた声はひどく皺枯れていて、私の緊張をそのまま表していた。そんな私の声を慈しむように、記憶よりもずいぶんと大きい手のひらが優しく優しく私の頭を撫でる。


「お忘れになられたのですか?それだけを胸に太平の世を築いてきたというのに」

「あんた、魔王倒せたの?」

「はい。翠様のご助力の元、無事にあのちんくしゃを踏みつけて参りました。つきましては、ご褒美を。」

「だから、何の話」


 出会い頭に、ご褒美ご褒美とうるさい男にそう言った。

 こんなに図々しい男だっただろうか。しゃがみこんだまま、これ以上彼の顔を見る勇気も、本音を話す勇気もない私は、何時ものようにぶっきらぼうに返答した。


 まるで、顔を上げて彼を見てしまえば、その瞬間にこの夢が覚めてしまうのではないかと怯えているように感じて不快だった。そんなわけがない。私はそんなに弱くないし、そもそもこんな白昼夢を見るほど彼を求めていたわけじゃない。

 だからこれは、何かの間違いなのだ。そう思い込んでも、結局私は顔を上げられない。私は今にも飛び出しそうな心臓をしっかりと抱えたまま蹲っていた。


 しゃがみこみ、顔を埋めている私をアルフォンスが抱き寄せた。触れている手を、今初めてしっかりと認識した。その熱は本物で、夢ではなかった。これは現実?受け入れるのに時間がかかって、狼狽する。



「キスをくれるという約束です」


 アルフォンスのひどく切ない声に呼吸が止まる。

 耳にかかる吐息がとんでもなく色気を含んでいて、私は咄嗟に顔を上げた。


 16歳だった金髪のアルフォンスとは違う男の顔がそこにはあった。だけど、絶対にアルフォンスだと私はもう確信していた。こんな風に私の意地を受け入れてくれる人は、アルフォンス以外にいないと知っていたからだ。


 アルフォンスとの距離はほぼゼロに近かった。これほど密着している姿勢で顔を上げてしまえばどうなるかなど、考えなくてもわかりそうなものなのに。

 私は思いっきり至近距離で、アルフォンスを見つめてしまうことになった。私の名前の色の、瞳を持ったアルフォンスを。


 私は耐え切れず再び俯いた。そんな私にアルフォンスは何も言わずに、そっと髪を撫でてくれる。密着しているこの姿勢では、真っ赤になっているだろう耳を隠すために腕さえ動かせない。


「…あんた、本物?」

「勿論です。偽物が出没したのですか?」

「…おばけ、とか。」

「ご期待に添えれず申し訳ありません」

 羞恥から逸らす話題にも、さり気なく乗ってくれる。この優しさを、懐かしいと感じてしまう。


「…ま、また、こっちに追いやられてきたんじゃ、ない?」

「その節は、ご心配をおかけしました。国政も滞りなく行ってまいりましたので、ご安心を。」

「…あんた、身長伸びた?なんで髪の色、違うの?顔も、なんか、ちょっと違う。」

 ようやく紡げた質問に、アルフォンスが笑みを深めたのが顔を見なくてもわかった。


「はい、翠様。貴方を攫いにやってきました。」

「さ、さらいに?!」

 穏やかでない言葉に驚いて顔を上げそうになる。しかし先ほどの二の舞だと気付いた体は強張っただけに留まってくれる。そんな私に気付いたアルフォンスが、嬉しそうな声色で言った。


「ティガールに戻った私は仲間を集め、戦力を募り、1年という強行軍で魔王城まで行軍してまいりました。その後5年は寝る間も惜しんで死ぬ気で治世のため尽力し、一段落ついたころを見計らって王位継承権を放棄いたしました。全てが元に戻ったわけではありませんが、あとは時間薬です。国もよい方に向かうでしょう。」

「オーイケーショーケンを放棄…?!なんで?!王様に、なったんでしょ?」

「いいえ?王位には王太子であった長兄がついております。私は王位継承権を放棄したと同時に、旅に出ることにしたのです。」

「…なんで、だって。カチュアと結婚して、偉大な英雄王になったんじゃ?」

「何のお話でしょうか」

「だってゲー…預言書には、最後、そうやって」

「そうだったのですか。カチュアはフリッツと結婚しましたよ。」

「フ、フリクリ!?」

「あぁやはり、その名が一番しっくりくる。身分違いの二人の恋の背を押したのはリュカです」

「え…え?まじで?」

「はい。実は一事が万事、預言書の通りではありませんでした。私は、自らこの道を選びとったのです。」

「…なんで、王様、なりたかったでしょう?」

「いいえ、さっぱり。」

「な、なんで?!」


「何故とは―――翠様、王妃は嫌でしょう?」

「…―――は?」

 私は三度みたび顔を上げようとして、必死に体を押さえつけた。


「さすがに王に就いてしまっては、責任を捨てることが出来ません。貴方は、日本を離れることを絶対に望まないでしょうから。」

「は、ちょ、まって。何の話?」

 全然ついていけないんだけど…と私が呟くと、アルフォンスはようやく私に説明してくれた。


「貴方は姉君の事情から絶対に私の世界へは来て下さらないと、この部屋で生活させて頂いていた頃から確信しておりました。そして私も、ずっとティガールで培った全てを捨てる決心がつかなかった。ですが、貴方の最後の言葉を聞いてようやく私の生きる道がわかったような気がしたのです。魔王を廃し、世界を安寧に導く手伝いをやれる限りやって参りました。私の役目はそこで一区切りを打ち、旅に出ることに致しました。常世とこよの世へと。」


「…あんた、まさか」

 その思い切りのいい言葉と、目の前の男の晴れやかな様に、私は明らかに狼狽した。


「はい。治世に励む傍ら、魔法の研究も進めておりました。リュカとフリッツから恵んでもらった資料を基に、若返りと変態の魔法を完成させました。私は自らの身にその魔法をかけ、手元にあったシャーペンを媒体に送還魔法陣を潜りました。時間を巻き戻す仕掛けも施していた為、“シャーペンの持ち主の翠様”という目標は指定されないだろうと踏んでおりました。およそ予定通り、私はシャーペンの記憶にある最後の場所…このアパートに辿り着きました。このアパートはその当時まだ建っておらず、代わりに老夫婦が済む一軒家がありました。老夫婦は私を迷子だと思い、かつては敵として会い見えた警察に保護を求めました。そして当たり前ですが保護者の見つからなかった私は、孤児みなしごとして施設で生活することになりました。」


 撫でる手の大きさ、身長の高さ、顔立ちの違いに黒い髪。全てに納得がいった。だけど、その動機が分からなくて私は困惑する。


「なんで…そんな三文芝居…」

「アルフォンスとして日本にいた間に検索していたのです。私が来た時代がネット社会で本当によかった。もし20年前だったら、パソコンで簡単に検索なんて出来なかったでしょうから。―――こちらへの出現の巻き戻しは一応計算していたのですが…正直、どれほどの差が生まれるのか自信がありませんでした。ですが、どうやら今度は貴方よりも年上になってしまったようですね。貴方は年上がお好きでしたから、嬉しいです。」


 一ヶ月前とは明らかに違うアルフォンスの言葉に驚く。彼は、あまりにも平然とトコヨの世界の常識を語っていた。そしてもう、アルフォンスが何故かウツシヨ、トコヨと言わないことに気づいた。


「この地で生きるために必要なことは、日本で育った知識と証。そして育つために必要なものは、戸籍でした。私はその為に一計を講じたのです。ご存知のように、軍師でしたので。」

「難しくて、わかんない」

「つまりは、戸籍と、日常生活の知識や学歴社会で必要になる武器を得るために、若返りの魔法をかけて日本に紛れ込んだのです。しかし赤子のように何もできないほど幼くなってしまっては貴方の元に辿り着けない。迷子だと、親に捨てられたのだと自らが証言し、戸籍を得る必要性があった。貴方と共に生きたかったのです。」


 アルフォンスの言葉に、息が詰まる。

 私の聞き間違え出なければ、先ほど彼は『ティガールで培った全てを捨てる決心がつかなかった』と言った。けれど今、アルフォンスはここにいる。姿を変えて、魔法を捨てて、仲間と別れて、この世界にいる。その理由を私と一緒に生きたいのだと、そう告げるアルフォンスに、私は体の震えが抑えられない。


「そして18年前の常世とこよに辿り着いた私は、自由に動けるようになってから毎年あの桜を見に行きました。貴方に繋がる手がかりを、それしか思い浮かばなかったのです。年号を覚えていなかった私は、貴方と私がいつ出会い、別れるのかわからなかった。別れた後でなければ貴方は私を受け入れてくださるとは到底思えなかった。去年も一昨年も、私は貴方をこの桜の下で見つけました。だけど、貴方は私に何の反応も示してはくださらなかった。ですが、先日このアパートの下であの無礼者と言い争っている貴方を見かけた。私は、自由に動ける最後の年でもある今年こそはと思い、この桜並木に通い続けました。そして、貴方は私を見つけてくださった。」


 アルフォンスの言葉に、全身の血が沸騰するかと思うほど体中が熱くなった。どうしようもないほど息苦しくなって、顔を上げる。

 先ほどと寸分変わらぬ位置にあるアルフォンスの顔は慈愛に満ちていて、信じられないほど甘さを漂わせている。目尻に寄せている皺さえも私に想いを伝えているようで、見つめる瞳は熱く煌めいていた。まるで本物の魔法使いのように、瞳に魔法でもかけているのかもしれない。


 トコヨに来て魔法を使えなくなったなんて、嘘だったんだ。だって、私はアルフォンスがいなくなってからずっと魔法にかかっている。どうしようもなく気になってしまって、思い出しす度に、淋しいと。言えないほどに、切なくて。



「顔を変え、年を変えた私ですが、瞳の色だけは、絶対に変えれなかった。」


 私は再び息を飲んだ。飲んだ息さえ吸い込まれそうなほど、近くにアルフォンスの顔がある。

 いるはずの無い存在が目の前にいて、そして告げた言葉の意味が分からないほど、色恋沙汰に疎いわけではない。


 耳朶を舐め、首筋を噛んだことさえあった。あの頃に比べれば、こんな距離何ともないはずなのに。あの時は感じなかった視線が、視線が持つ意味が、これほどまでに私の鼓動を高鳴らせるとは、知らなかった。あぁやっぱり、魔法使いだ。アルフォンスは、本当に、魔法使いだったのだ。



「翠様、“理由”を無くして参りました。」


 両頬を成長したアルフォンスの大きな手で包まれて、俯くことが出来なくなった。混乱から潤んでしまった瞳でアルフォンスを見返すことが出来ずに、先ほどから慌ただしく右を向いたり左を向いたり、とにかく私は大混乱していた。

 そんな私に、アルフォンスがくすりと笑う。こんな風に、余裕な男ではなかったはずだ。私が押し倒したら、顔を真っ赤にして驚愕していたあのピィちゃんが。なのに、なんで、今は、こんなに。


 鳥籠の扉を、ズボラな私が閉め忘れていたのかもしれない。だからこんな風に、外を自由に飛び回ってきた鳥が、好き勝手に帰ってくるようになってしまったのだろうか。好き勝手飛んでいる間に、よほど躾の悪い飼い主と一緒だったに違いない。


 だって私の可愛いピィちゃんは、こんな熱い瞳で、私に愛を強要したりしなかった。


「翠様。魔王を倒し、国を平らにしてまいりました。18年この世界について学んだので、貴方に不足を与えないはずです。剣と魔法を筆に変え、今度は翠様を養える程の職に就けるよう励んでまいりました。愛しい貴方の心を攫う為なら、私はなんだって致します。お傍においていただけませんか?」


 目の前にいる目も眩みそうなほど美しい男が、私の瞳を見つめて懇願してくる。手の平は熱く、熱を持っていた。彼のほんの少し掠れた声が、真剣さを窺わせている。


 眩暈がするほど途方もない真実の言葉に、どう返していいのかわからない。どこの世界のどなたさんが私の為に生まれ育ち培ってきた全てを捨てて、私の為に18年も日本で過ごしてくれるだろうか。この愛が真剣でなければ、なんだというのだろうか。

 そしてその想いを、重いと思わなくなるような魔法を、私はいつの間にかけられていたんだろうか。


 あぁ、そうだ。ラスボスは、進化するのが定番だって、リカちゃんが言っていた。ピィちゃんだと思っていたのに、いつの間にかこんなに魔法が上手なラスボスになっていた。


「…あんたに、何ができんのよ」


 アルフォンスなんかよりよほど掠れて震えた私の声に、彼はくすりと笑っておでこをくっつけてきた。涙を堪え、必死に睨みつける私に、アルフォンスはとろけそうなほど甘い笑みを向ける。

 私はその笑顔で零れた涙に、ついに彼に勝てなくなったことを悟った。



「炊事、洗濯、掃除―――それと、翠様を笑顔にすることが。」








 終



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